2011-12-30

禰宜

神道における神職のひとつで、、、ねぎ と読む。
漢字に対しても読み書きできず、意味も伝わらない
現代における難読熟語のひとつといえる。

初詣で神社で祝詞を挙げている人が大概、
この職業の方なのだが、
多くの日本人は彼を意識せず
賽銭投げと祈願をするものだろう。

八百万の神の国、日本。
しかし、多く神が存在するゆえに
神の存在を認識しない数少ない国になっている。

日本にいるから気づいていないが
信仰する神がどうであれ多くの国家において、
神職は社会構成上重視される職である。

神事を軽視というか意識せずに生きていることが日本では当たり前だが、
多くの国家が神事を優先する文化を持ち、
他の国家の神事を不可侵と気を使っていることを
少し意識することが、国際感覚の萌芽だったりする。

古来表現である禰宜を意識することが
国際感覚という論理の飛躍と感じる人がいるだろうが、
所詮、人間のつながりは
歴史という立て関係
他地域という横のつながり
でしかなく、個別に考えずに、俯瞰的につながっているといえる。

年の瀬です。
もっと視野を広げる、考え方の枷をはずすことを考えて、
新年を迎え、初詣に行かれるのはどうですか?
祝詞を挙げているのは、禰宜さんということも忘れずにね。

2011-12-29

局地

仕事の現場というものは、局地化しやすい時代といえる。
極地という限られた空間認識だと、
・一般常識
・用語
・笑いのつぼ
がその閉鎖空間で固まる。

「郷に入れば郷に従え」
という諺も成り立つといえるが、
「井の中の蛙」
になり、自分たちの思いが世間の常識、
仕事において、もっとも効率のいいものと錯覚じみてしまう。

個人主義、個々の能力尊重が日本で芽生えていることと並行して
世界的に、ディスクロージャー、オープン化が強く求められている。
一見、両立するものと思っているらしいが、
マルチ処理が苦手な日本国民は
「自分の研ぎ澄まされた職人芸を、わからないバカに説明して意味があるのか」
「教えてくれないものを、評価できるか!」
という認識で両立どころじゃない。

わかる人だけの集まりでの仕事、、局地化が進み、
オープン化が阻害される結果
組織硬直、不正の継承が進むといえる。

僕の持論だが、
融和、チームワークというものは
局地を生み出す温床で、あまり重視すべきではない。
特定の行為のみでの結びつきを丁寧にすべきであり、
馴れ合いをになるまで付き合うべきではないと。

ビジネスは所詮、個々の評価でしかなく
今の局地的チームワークは
会社経営の抵抗勢力、足の引っ張り合いを孕んでいると
ドライに見る目が人の上に立つものには必要であると。

2011-12-28

口頭

直接、口で説明すること、
人間、日本人の善行において
「直接あって話すべきだ」
ということが挙げられるが、それは愚行になりつつある。

なぜそういえるか?

閉鎖的な個人間のこと、下手すると密会という悪行とみなされる。
証書が何も残らない
何も考えずに話し合っても正しい結論に導くことは皆無、奇跡でしかありえない

という厳しい現実を直視できていないではないか?

ドラマである話し合いのシーンは、、
脚本家が事前に練りこんだ台詞まわしにすぎない。
話し合って、結果が導けるわけがないといいたい。

話し合いすべてを否定するつもりはないが
話し合いに、気持ちだけ挑もうとする愚行は時間の無駄という事実を考え
自分の頭を整理して、話し合いに挑むべきといいたい。

口頭での話し合いは

はなしあい  話’仕合’ という認識であるべきといえる。

2011-12-27

通話

些細なことのようだが、
一般常識が崩れている、たぶん、今までの常識が逆に失礼になりつつある。

例えば、職場の固定電話に遅刻連絡を入れることだ。
今までの常識では
当たり前だ!って言うかもしれないが、
・プロジェクトワーク
・人手不足
・情報の機密化
により、固定電話で出る人がいないことが多いことが見受けられる。
それゆえ、遅刻連絡が滞るとかいうが、
そもそも遅刻連絡はすでに電話機能ではなくなっているといえる。

また、どこでも話せるというコンセプトだった移動体通信の携帯電話も
画面情報の多さというプラスの側面と
公共施設での通話禁止のマナー強制というマイナス側面
で、通話機能に重きを置かない運用を強いられている。

電話による、遠距離との双方向コミュニケーションは
すでに電話でなくてもいいというより、
電話である必要が薄れつつあるのが現代の都市生活の実情といえよう。

確かに遠隔地や地方においては
遠距離との双方向コミュニケーションとしての電話は有用であり、
その必要性を一概に無視することができないという反論があるだろうが、
ビジネスは下を見たら、発展どころか、破滅になるという
経営論理を考えれば、
電話の通話への姿勢は
選択と集中でいうところの非選択要因かな?

2011-12-26

首級

御をつけて、御首級 = みしるし と読む。

戦国時代の敵のクビをいくつ取ったかの表現であり、
近年ではあまり使わないといえるが、この表現も温故知新と感じている。
中国の戦争の論功行賞は、敵の耳を出して、行っていた。
その言葉や派生で、牛耳るという表現もあるのだが、
いかんせん、耳では誰の耳なのかはわかりづらい。

対して、敵のクビであれば、面識がある顔をという表現があるように
人間の識別方法の9割がたが顔であるあるから、わかりやすいといえる。
基本、首級であれば、耳もついているし、、

敵のクビをあげて論功行賞をすることは現代では皆無になってきている。
しかし、この首級という表現は重要である。
御首級  みしるし  見知るあかし
というだけに

誰でも
みればわかる
でないと評価されない。

独りよがり、特定の人物でないとわからないことは評価の対象にしづらいのである。
現代社会は専門性の優位で、多岐にわたり、マニアック。
多くの人が勘違いしているが、仕事が専門性であればあるほど、
偉いじゃなくて、よくわからない=大したことない
と認識されてしまうし、あなただって、興味ないものを評価しないだろう。
だから、自分が評価されないのではなく、
評価しづらいし、マニアックすぎてついていけない状態である。

御首級が本当に出てきたら、気持ち悪いが
その心づもり、誰がいても一目瞭然な証拠をもとに評価をもらうようにこころがけるべきだといいたい。

2011-12-22

牛蒡

ごぼう に出会うとある事件を連想してしまう。

太平洋戦争中に
アメリカ兵を捕虜にした日本軍。
その捕虜の身辺の世話を任された農家。

戦中なのに、ろくな食事ができていない農家、
捕虜いえども、人として扱おうという思いで
丁寧に灰汁抜きを施した
滋養効果のある牛蒡の煮付けを作って与えた。

戦後、その捕虜になったアメリカ兵はその農家を
戦犯者にして、処された。
理由は、根っ子を無理やり食わせたという理由で。

人の思い、食文化の相違は、必ずしも相手のためにならない。
まして、心をこめて行っても、逆効果で罰を受ける。

今では、アメリカのジャンクフードが健康の敵、
和食はヘルシーといわれ、そんなことはないと言い切れるが、
所詮、敗戦国は何をしても報われないと感じた。

この事例はアメリカ兵の話になっているが、
台湾、満州において、日本人は逆のことをした、されたと思われる。

歴史は美談を残すが、
この牛蒡の話は僕ような奇特な好奇心と関心を持たないと
後世に残らないものとつくづく感じている。

牛蒡を見かけると、勝つことが何よりも善と思ってならない。

2011-12-20

拍子

拍子を取る、
音楽・歌舞などの調子に合わせて、掛け声をかけたり手を打ったりすることであり、
実はこの行為が、集団において、重要なアクションである。

みんなで歌い、踊るということではない。
移動行動においては、
同時進行のアクションのタイミングあわせとして
拍子をとることで、効率的かつ達成感も見出せる。

またプレゼンテーションにおいても
プレゼンターだけがしているのではない、
その聴衆者もプレゼンテーションの集団のひとりだ。
あいづち
拍手
賛否の発声
がそのプレゼンテーションをより成功に導く。

プレゼンテーションにおいて、
とかく説明するプレゼンターに責任をかぶせるが
聴く側もその一翼、、というか
聞かせてほしいという姿勢で拍子を合わせることで
よりよい説明になっていくと思う。

それをサクラをいれたプレゼンテーションという風潮があるが、
聴こうという姿勢を見せないところへのプレゼンテーションを行うこと、こそ否定すべきものであり、
拍子を合わせること、、これが現代人にはとっても必要といえる。
っていうより、、拍子抜けの輩ばかりの現代では結果出てこないことに気付こうよ。

繰返

繰り返しという行為は結構矛盾をはらんでいる。

物事の修練には、繰り返し実施が重要といわれる。
ことをなすためには、繰り返しを行うことで
身につくとされる。

しかし、人間は単純作業だとミスをしやすいとも言われる。
つまり、繰り返し行うような行為は熟練どころか
ミスを生み出す温床とみなされる。

修練するものと単純作業は根本的に違うと言い張る人がいるが、
その境目、分水嶺が極めて曖昧なで、
高度技術化された現代において、単純作業の領域は広がっていると言い切れる。
つまり、人間の行うことが出来ることは単純作業であり、
繰り返しすることでミスする可能性を持っているといえる。

繰り返しは
精度を高める過程か、
それとも単純ゆえのミスを生むものか
は、その繰り返し行為に向上心があるかどうかだといえる。
向上心、、改善する気持ちを持ってあたれば
繰り返し作業のように周りに見えても
やっている本人には、いつもチャレンジであり、
何かを良くしようと思っていることで
作業そのものの質が変わる。

繰り返しを
同じことをまたすることと捉えるか
毎回チャレンジと思うか
それは行う側の意識の問題でその意識が
職人か悪い意味でのブルーカラーかの違いといえよう。

2011-12-19

愉快

嘲ることと同義と言えよう。

愉快という表現を使うとき、
多くの人は、他人を見下すようなときに使う。
そうでないときは、楽しいという表現を無意識に使う。

それゆえ、
不愉快という意味は他人から受ける視線への負の感情をさしている。

意識的に、愉快を導く職業は
道化師、ピエロがその象徴的な仕事で
ピエロの行動の愉快は、見ている側の見下した、自分じゃそんなことしないよ。
という思いから愉快さを導いているわけであり、
本質的には、非道徳的な感情と現代教育になるはずなのだが、
その事実を黙認ですか?って思える社会と言えよう。

愉快という言葉の本質は
自分ではない他の生物、多くは人間への蔑みであるということを
意識することも必要である。

あなたが愉快と思っていることは
誰かを傷つけている可能性が高いということから
目をそむけないようにしないと、笑ってはいられないはずだ。

2011-12-16

絶対

他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。
となるが、現代社会では絶対の否定が
前提であり、目指すところという矛盾を抱えているといえよう。

絶対などない、この理屈が成り立たないと市場や技術は進化しない。
絶対とされているものより、よりよいもの、それがほころぶことが
発展のチャンスだったりする。

対して、ビジネスモデルや知的発見は
先だって、自ら無比の存在と立証しなくてはない。
つまり、自分が絶対である立証がないと
その行為の恩恵が得られない社会システムになっている。

現代社会といわずに
人間というものは
絶対という概念を常に意識して、あこがれ続けていることは
歴史も証明している事実であり、
絶対という概念は人の究極の業なのかもしれない。

2011-12-15

定量

定性、定量という言葉がある。

最近、故Steven Paul Jobs のプレゼンテーションがうまい
理由に 、数値的なスペックではなく直感に訴えるところがよく、
仕様を数で表す日本メーカーを馬鹿にしている論調があった。

この理由は愚論である。
言葉を悪く言えば、ゆとり教育の失敗発想である。

偏差値社会からの脱却と掲げ、
偏差値の値でない評価を求めた結果、
評価できないではなく、評価に値しないレベル人間を多く生み出してことは
国際的な学力 ”指標” に色濃く現れてしまった。

数字つまり、定量は比較、評価に適している。
直感に訴えるという定性表現は相手へのインパクトとしては評価できるが
決定打にならない。

定性はタイトル、定量はその裏づけというバランスといえよう。

偏差値教育は、定量評価が強く、定性的なもの、目的意識が希薄だった。
高偏差値だったから、何が実現できる?という問いには対応できない課題があり
問題視されて事実はある。
対して、ゆとり教育は、どうなりたいという定性的な気持ち先行で
その裏づけがないゆえ、結局何もできないという結果を導いて、破綻したといえる。

Steven Paul Jobsのプレゼンに振り返れば、
定性表現は本人の論調に対して、
バックモニターには、比較すべき数字が多く出されている。
定性と定量のバランスがあるといえよう。

今の日本メーカーの製品とて、そうなっているし、
すぐに対応できているといえる。
裏づけとなる数字に表れる性能を有しているからである。

日本製品もそれ相当と思っている。
っというより、消費者側がだまされすぎではないかと思っている。

「すごいものが出来ました!」
「優秀です!」
「こんなことが出来ます」

なんて言葉を鵜呑みするほど、思考がないのかといいたい。

「どうすごいのか?」
「優秀の根拠は?」
「こんなことが出来る裏づけはなにか?」

そのポイントを、定量的なもので理解、説明できないままの買い物は
一昔前の、
おもちゃ屋の前でぐずる子供となんら変わらないレベルと
自覚がないのだろうか?

2011-12-14

助言

真の意味で助言をするときには、強制力がなくてはならない。
強制力のない助言は、相手を冷やかしている、チャチャをいれていると変わらない。

助言を受けるということは、ある意味、降伏宣言に近い。
自らの使命に対して、自らの能力で応えきれていないといえる。
その前提、助言を賜るということは、
無能か
極めて有能か
と二極化されるといえる。

無能であれば、
上記のように強制力のもとに相手の指示に従うことで
自分にはできないことを他人にゆだねるというカタチになり、
有能であれば、
自ら結果を出せるのに、
あえて助言を求めて、手柄を独り占めにしない作為があるといえる。

悲しいかな、
無能な人はこの助言の意味を理解できないし、
有能な人はこの助言の定義に、ハラを探られたくないと遠ざける。
実際にこの助言の意味を共感することは難しい社会になっているといえよう。

2011-12-13

幸福

幸福論は難しいこの現代で、
国民総幸福量
国民総幸福感
という概念がある。

定性的な感覚を、
ある尺度で定量的に表そうとする概念なのだが
それってどんな意味があるのだろうか?

幸福は人によっては異なるのだから、
それを尺度、、、恣意的に定めるのだから、、

「お前!幸福といえ!」
「はい、幸福です」

ということにほかならず、いったいどこが幸福なのだろうかと感じる。

まして、現代社会は競争と衆愚の塊。

「あいつが幸せなんて許せない!」
「どうして、あいつが儲かるんだよ!」

という言葉が日常茶飯事なのだから、
他人の不幸は蜜の味が大きな比率を占めているのが、
嘘のない国民感情だろう。

逆に考えれば、不幸という自覚こそ幸福への努力の糧と考えて
不幸であることをどうやったら解消できるかを考えている規模を
評価するほうが建設的と思ってならない。

幸福なんてものは、
嫌な思いである不幸を知るからこそ強く意識できるのだから。

2011-12-12

駆動

省エネ、ECOの流行で、
低燃費
超時間駆動
少ないエネルギーで多く活躍を求めれることが実に多い。

でもこれはこれで、自分たちの首を絞めている暗喩でもある。

「機械ならこんな少ないラーニングコストですむのに、、君らは、、」
「機械の稼働時間が伸びているのに、君らはなぜ仕事をしないの?」

人間の多くは機械を使う側の論理で、見てるだろうけど
その機械と同じ視点で、労働者、作業者を見てしまっているところもある。

自分たちが
・給料が少ない、
・対価に見合わない
と思っている視点もあれば
「機械の進化に、それに関わる人間のコストが高すぎる」
「機械より使えない人間はいらない」
と思われているフシもある。

モノの駆動の進化に伴い
人の稼働の価値が低下する
これは自明の理である。

人の稼働は、駆動と同じレベルではなく
発想、考察、熟練と
世に言う、アタマ、ウデを使うものに昇華できないと
機械に駆逐されて当然な社会になっている。

昭和初期の漫画にあった
「機械に支配された社会」、、
自覚の問題だが、この駆動状況からして
すでにそうなっている言い切れるくらいと言えないか?

2011-12-09

通魔

最近の治安と犯罪の概念がおかしく感じる。

地域治安、地域教育の復権を掲げている一方で
犯罪認識の肥大化がある。

上記の表現を簡単な表現で表せば

ある好々爺が、
信号無視をしてそれを回避して車が急ブレーキで大変なことになったので
その子供を
「こら、危ないから、いかんぞ!」
とげんこつで説教した。
そうしたら、その親が
「うちの子供が通り魔にあった!逮捕してください!」
と騒ぎ出した。

好々爺は、地域治安、安全意識、地域ぐるみの指導のつもりであっても、
親バカからすれば、見ず知らずの老人に子供が襲われたと認識して犯罪とみなしてしまう。

マスコミも
地域教育というポイントではなく
親の意見のほうが報道しやすいので
その論調で書き立てる。

子供のため、交通安全のために
叱れば、通り魔扱いになるのならば、
関わらないほうがいいと判断することも当然だろう。
それゆえ、近所付き合いが薄くなっていくことも必定といえる。

本当に地域の人付き合いを活性化させるのであれば
子供は宝という概念や犯罪に敏感にならない社会認識を
先に変えないとならないと強く感じる。

僕の持論だが、犯罪は人が認めて初めて犯罪になるのであり、
敏感になればなるほど、治安感は薄れるだけである。

ニュース報道、噂の通り魔、不審者って
本当にそうなのか?もしかしたら、それなりの正義感で行っているのでは?
と現代社会の情報操作に不信感を抱いてならない。

何が正しいのか、本当にわからない社会と考えれば考えるほどわからない。

2011-12-08

森林

「人工的に作られた竹林」

この表現が誤っていると気づいている日本人は多くないだろう。

林:人為的に作られた樹木の集合域
森:自然発生的に成り立っている群生

であり、竹林という言葉だけで上記の「人工的」の意味を含んでいる。

この事実は、
現代人の多くが林業から遠ざかっているという事実と
熟語成立の語源を学ばない事実と
2つの容認が重なっている結果である。

高度サービス事業に産業構造を遷移させたゆえに
自然とされる、生態系からの乖離
ITの発達による読み書きの自動処理による覚える理由付けの形骸化
を導いている。

この事実に対して、
僕個人としては、ものごとの移り変わりを理解するために語源は知っておきたいと強く意識しているが、
社会全体視をすれば、移り変わりに、「どうでもいいこと」という価値を与え
そして、知っていることが必ずしも評価されないことも。

しかし、教育やら学習やら騒いでいても、
結局、物事の本質、経緯を理解しない知識や発想は
現実社会では役に立たないし、
その末路が現代の付加価値と思い込んでいる蛇足なものの氾濫と思っている。

「木を見て森を見ず」
応用して
「木々も林も森も見分けられない」
ような眼力に本質ありきの付加価値の定義ができようか。

2011-12-07

炒飯

チャーハンと焼き飯
ある人は、同じだ
ある人は、全く別物
って言い始める。

はじめは地域差や風習の差と感じていた。

おむすび  おにぎり
おはぎ   ぼたん餅

と同じようなものを地域やそれを食する風習の違いから
言い方が変わるのではないかと感じた。

しかし、現代社会はもうその概念は通じないようだ。
基準はその個人に委ねられ始めている。

フライパンでつくるか、鉄板で焼くか
タマゴを入れるタイミング
と各位が好きな定義ならともかく、
ある輩は

「俺が認めたものが、チャーハンでそれ以外は、ただの焼き飯にすぎない」
「チャーハンなんて、焼き飯の偽者だろう」

という偏見を平気で言う時代になってきている。

各地方で乱立していた言語特性を
集団の共通認識、意思疎通の効率化から
標準語というものを定めてきた近代国家社会に対して
現代社会は、地方どころか各個人レベルまで乱立されている。
これでは、他人と意思疎通、、、共同目的意識は芽生えないことも自明といえる。
意思疎通しているつもりが、多くは独りよがりとみなせるだろう。

チャーハンひとつで国の実情がわかるといえよう。

2011-12-06

格差

格差問題と騒がれているが、
一昔前に、能力主義偏重した当然の結果と思っている。
能力主義はできるできないということで
差をつけるのだから、格差が起きなくてはならない。
それを格差社会というのは何ともおかしい論理と思っている。
まして、社会主義の思想より資本主義の思想が正しいと言わんばかりに
経済がなっている以上、格差の推奨を促しているとしか見えないのに、、

社会の潮流に対して、アンチテーゼのごとく新たな波が立つのは
歴史上当たり前だが、現状起きている格差において、弱者、負け組を助けるために
強者、勝ち組が生贄になるのは、社会主義国でおこった
「どうせ、がんばっても無駄、むしろ他人がやったものをもらうことのほうが賢い生き方」
という社会後退を招きかねない。

冷たいと思われようが、無駄に弱者を助ける論理は
将来のためにならないし、格差があるが、機会は平等という社会として
弱者制裁は抑止効果、上昇志向の礎としても重要だと言いたい。

将来、未来の子供たちのためというならば、
現代において、
格差ということを目の当たりにして
上昇志向を促すために結果的に
犠牲にならなくてはならない存在を必要悪として認めることが
大人ではないだろうか?

2011-12-05

分岐

人生と大きく考えなくても、生きるということは判断の分岐の連続である。
AorBという単純な分岐もあれば、
やる、やらない、作為、不作為もまた分岐である。
判断、分岐、には反省、後悔がつき物である。

自分の判断は正しかったのか
その分岐において、逆を選んだら、、
多くの人間はその点の思いに付きまとわれる。

とはいえ、分岐をそうとらえるのは贅沢な証拠。
分岐がある、選択できる自由をもっているということは
決められた、約束された道を歩まされることではない
個々としての尊厳が守られている証拠ともいえる。

2011-12-02

演出

基本的に演じるという行為は虚構行為であり、
現実レベルからかけ離れていることである。
弁護士の役を演じる俳優に、司法試験合格者のみということでは
芝居が成立しないだろう。

現実社会から逸脱すること、それを見て現実逃避ではないが、
悦に入ることで精神的な恩恵を得るべきである。

その虚構の流れを司る演出に対して、
近年の批評、報道がおかしすぎる。
「やりすぎ、」
「どが過ぎている」
と否定するくせに
その要望に応えると
「つまらない」
「わざわざ見る価値もない」
と言い始める。

演出という非現実世界に対して
他人、それも対価を十分に出していない者たちが
自己主張をするのはいかがなものか?

自分なり演出をして、
対価を払う観客の同意を得られなければ
自滅になるリスクを抱えているものに
安易に声を出すべきはないといえる。

命がけの演出と
安全な立ち位置からの批判
なにかおかしい。

創作活動である演出活動に僕は批判ではなく、
敬意を感じてやまないものだ。

2011-12-01

畦道

畦とは水田の中の泥土を盛って、水が外に漏れないようにしたもの
その盛り土の上は作業用の農道としても使うので畦道という。

そういう畦道だから格好の隠喩の対象になりやすい。
・物事の曖昧な境界線
・道ではない道
・わけ隔てるものであるのに、その存在が互いをつなげているもの
といろいろな意味で使われる。

とりわけ中庸を好む日本人は畦道のような存在を容認どころか憧れる。
しかし、農耕民族でなく、Yes or No が重視される多くの民族には
この発想なかなか通じない。
通じないから、今までの日本はそのような谷間ビジネスで活躍できたと思う。
ある意味、日本は畦道ビジネスモデルといえよう。

もっとも、現代人はその畦道の存在認識も暗喩の意味も薄れてしまっているので
中庸を理解できないのに、Yes or No を決められない
という状態、、、畦というより、泥山の存在になっていて、嘆かわしいのだが、、

2011-11-30

卸業

一昔前は中間リベートをとる悪の存在のように、

「中卸を通さず、その分の顧客還元!」

といわれていた。
人によっては、未だにそう思っている人も多いだろう。
しかし、そうではない。

メーカー5社と小売店舗10社では掛け算で、50本の輸送が発生する。
50台のトラック輸送コストがかかる。

でも間に2つの卸社をおく。
メーカー5社は2つの卸社に送るので、10本の輸送コスト。
2つの卸社から小売店舗10社に送るので、20本の輸送コスト。
合計、30台分のトラック輸送コストになる。

数字上においても 50 vs 30 になり、少なくなるし
実際の現場のオペレーションを考えれば、
梱包、積荷、入荷、検品が輸送一本ごとに発生することを考えれば
それ相当のコストに差がでることになる。

このブログで幾度も取り上げているが、
右肩上がりの経済論理はもはや通じない。
消費者がいつもあふれている、大量消費の時代ではない。
それゆえ、見えない需要を多く見積もって出せばその分、
返品、廃棄というものが必ずおきる時代である。

適正在庫ではないが、
ほしいとされている分だけ、
市場に流すべきであり、
そのマーケティング機能を持ち合わせないメーカーや在庫管理する力がない店舗は
卸社の存在、活用してビジネスを成り立たせるべきだといえる。

顧客還元、、、
本当に顧客がそれに感謝をしているかは疑問であり、
顧客というより、消費者はより安い方向に流れる傾向なのだから。

2011-11-29

白紙

白い紙という意味よりは、
今までの計画をなかったことにする抽象的な意味合いが強い。

現在社会の多くのことは白紙撤回が前提の企画が多いかもしれない。
それゆえ、今、目に見れている行われている企画も
実際問題、いくつもの企画が白紙撤回された中勝ち残った企画であり、
その企画実施のコストは、白紙撤回された分の検討コストもかかっていると言わざる負えない。

じっくり考えて行動する、検討においていくつか白紙にされるものもあるので
選ばれた企画のみの原価を評価することはいかがなものだろうかと思う。

外資にいたときに、
オプション提示する企画分の請求するというビジネスモデルがまかり通っていた時代まで
回帰することは難しいとしても、その検討過程を評価することは忘れてはならないと言える。
少なくても、弊社は検討過程のエビデンスをきちっと管理するビジネス、
逆に検討過程を含めての支払いを心がけている。

白紙は白紙であって、なかったわけではない、存在したものがたまたま白紙になっただけのこと。
その存在にも目を当ていることが温故知新の礎ともいえるのだから。

2011-11-28

引率

リーダーシップが求められる。

よく耳にするが、
歴史的にみて、
リーダーシップを発揮した、優秀な指導者、引率者は民衆から迫害される。
カルタゴのハンニバル、近代ではムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィー大佐)

引率者へ権力者という表現を使うが、
自分ら、方向性のない民衆に方向性を示すための引率権限、、権力を与えたのも民衆であり、
その引率に従うことを確約して初めて、引率者もその責務を全うできる。
ゆえに、引率する人に権限なくして、引率の本分が全うできるわけがない。
それなのに、引率者を貶める発言が多い現代の民主主義、、衆愚主義で
リーダーシップなど、発揮できるものだろうか?

民衆は
リーダーシップを責任転嫁だけに求め、
終わったらお払い箱にするのが常だ。

そう考えると、リーダーシップを発揮することはリスクであり
結論的に、現代社会の独断集権経営をしている企業成功もうなづける。

2011-11-25

回路

僕は不器用なので、ものづくりは苦手だ。
図工も技術の事業も得てしていい成果を出していない。
夏季休暇の腰変え椅子作りも父にアウトソーシングしたくらいだ。

ものづくりを不得意なのだが、
電化製品の配線、故障原因追及、修理は得意のようだ。
そして、生業のシステム構想もそう苦手というか
必然的にあるべきところが見えてくる。

僕はものづくりと回路成形は別物だと思っている。

役に立つものを自らの思いで造型して、作り上げるものづくりと
既成の有様、この流れは次にこうしないと全体が動かないという
動線把握については求められるスキルが違う。
ゆえに、造形技術に対しては労苦への敬意をこめて高い支払もいとまないが、
回路形成にそう評価していない。

いいものがあるのだから、それをうまく使いこなしてこそ
造形への謝意であり、その回路形成なぞ、
だれでもできると思う。

現代社会の多くはモノづくりと言いながら、
既存のものをつなぎ合わせているだけのことばかりだ。
まして、付加価値といって無駄な回路形成ををしているから
有様がおかしくなっている言わざる負えない。

モノづくりができないことを自覚したうえ
いいものの本質を見極めて回路形成に
もっと自分の考えを研ぎ澄ませと現代社会に言い続けたい。

2011-11-24

自主

社会全体として、主体的、自主性がなくなった反面、
批判する行為だけは蔓延している。

些細なことだが、
遊びや会の企画をする人は減っているのに、
その企画を批判する人が多いこと多いこと。

遊びや会に声をかけてもらうことに対して
「わざわざ来てやったんだ!」という
尊厳な態度だからだとこそ、平気で企画を批判できるようだが、
実際に企画する側に回ると、、、チープな発想で
批判されると逆切れを起こす始末。

そんな状態だから、自主的に行動することへのリスクが高い現状に
自主性の萎縮が蔓延しているのだと思う。

時に今は、個人主義、自己責任である以上
国外では、自主性がないものは淘汰される社会になりつつある。
いっそ、自主性のないものから搾取を
批判だけ代替案のないものには処罰を
という強制的手段で社会的変革をすべきで、
そうしないと淘汰の波に太刀打ちできない体質からは脱却できないだろう。

自主性を強制するということは論理矛盾なのだが
そもそも、日本人は子供のころから
「自分の将来のために、宿題をしないさい」
と言わる続けて、自主学習を強制されてきた人民なのだから
そこに矛盾を感じるほど、強い抵抗感はないだろうといえるだろう。

2011-11-22

似合

僕個人の見解としては
他人がその行為、ものに似合うとどうかを評することは愚行と思っている。
それを評した時点、その人のセンスそのものが最低に位置づけられるからだ。

似合うかどうかより、
その行為、ものを有することができるということがその人の能力といえよう。
それを手にする勇気、財力、価値観を有しているからだ。

対して、
「あいつにあれは似合わない」
と発する時点で、その人は負けである。
似合うとかいう前に、その人は有していない以上、
口にすべきではないといえる。

現代先進国の人は、新興国の人たちが稼いで高い買い物をした際に
「発展途上国のくせに、、」
と口にすることが多いが、
それは、新興国に負けている表れである。
彼らはその買い物に適する勇気と財を得たので、
それを有することが、似合うのである。

現代の先進国ではなく、
人昔前の日本が、欧州の国々に言われてたことと同じでその繰り返しを
今度は日本がアジアの各国にしているに過ぎないのである。

それだけ、
新興国が似合うものを身に着けるように
なってきたという事実をみとめ
自分らの立ち位置を正しく理解しなくてはならない。

でも、うちの愚弟もそうなんだが、
自らの財力もないくせに
「自分には、こういうものが似合うから、買わなくてはならない」
と言って、無駄に借金や必要性もない見栄のために行うこと自体
市場社会に生きることが似合わないという根本自覚がないことが不思議でならない。

2011-11-21

会得

教えてもらっていない、、、
最近の若者が多く口にする言葉だが、
実際問題、教えてもらうことは
身につかないか
ただの手の動きでしかない。

それは教えるというより、プログラミングされているだけであろう。
それが身につかないのは、性能が悪い素体である証拠であろう。

日本語でいう、会得という言葉は意味深だ。
技を会得するということは、
教えから、自らのやり方を確立したときに使えるものであって、
教えてもらうというより、技を盗んで自分の肢体、考え、癖に合わせて
改良することが必要である。

結果的に自己流になるといわれて
非効率なこととみなされるかもしれないが
効率化の最終型は言わずもがな、、、機械化、非人件費化であり、
人としての扱いから離れる。

人として扱われるためには
自らの有り方、やり方で
求められる結果を導けることであり、
それが、物事の会得という概念であろう。

「教えてもらっていない」=「プログラムを設定されていません」

というレベルであり、、、、
一度入力して故障するまで間違えない機械と
頻度よくポカミス、口答えする人間と
どっちが優秀かという基軸に多くの人間の評価はさらされ始めている次代だからこそ
自分なりのやり方を会得することが求められる。

2011-11-18

若気

若気の至り、、、

はっきり言えば、若さ=馬鹿さ といいたい。

若さを前面に出すという表現は、
「馬鹿ですけど、許してください」
という現れである。

若さを武器にする時代は高度成長期のチャレンジグな時代なら許されるが
原価の数値化、
効率化重視、
のこの時代に、若気の至りという表現は
その若者の馬鹿さだけでなく、
その若者を起用した人間の管理能力を問う結果しか導かない。

僕から言えば、若さ=馬鹿さは許されない。
無能である自分を自覚して、自分でできないことを悟って初めて
社会人として認める次第だ。

そうではない若さをアピールする愚者はチャンスより辛酸を与えることが
社会人、責任者の務めとも思っている。

2011-11-17

根性

物事をあくまでやりとおす、たくましい精神。気力。
というが、根性という表現がでるときは能力が低いといえる。

根性という言葉を現す前に、
計画
効率
分担
という表現が用いられるべきである。

根性を出さずに、結果を出すことが現代社会の評価であるべきであり、
そのための管理教育、情報管理があるわけである。

悪いが、スポーツを含めて、根性を口にするものは愚者であり、
根性の発想で仕事を進めているのは原始的、管理能力のなさの象徴である。

根性を胸を張って言う人間を
評価どころか、処罰するくらいの社会管理にならない
作業品質は向上しないと僕は確信している。

2011-11-16

公正

公平で偏っていないこと
というが、公正なことって現実問題ありえないし、
ありえてはいけないといえる。

公正取引委員会という組織が
独占禁止法を掲げて活動してきたことは既に過去のものといえる。
日本国内での独占による市場支配を
公正の名のもとに取り締まってきたが、
国際的に考えれば、日本国内では1社でも太刀打ちできない市場になり、
国内独占という公正基準は全く意味がない。

韓国やフランスは国をあげて、一社に市場独占をさせて
国際社会を戦おうとしているのだから、日本の公正は全く持って意味をなさない。

また、市場取引も公正ではない、
お得意様という日本語あるように
特定懇意の人に向けての特別仕様の扱いは当然である。
英語でいえば、Customizing という言葉があるように
一般顧客と分けている。

公の正しさというものは、
人間それぞれの正義が認められる現代社会では
存在しなくなっている。

公正を維持する努力を高らかにいうより、
自分の関わる人々を特別視することをみんながするようになれば
公正ではなくとも、精神的安寧が導けるといえる。
逆に正しさを掲げすぎると、相手への嫌悪を導き
社会的不和を導きかねない。
正しさも求めること、その行為こそ相手から悪意と捉えられるものかもしれない。

2011-11-15

貧富

あえて言いたい。

「金持ち優遇施策こそ、国家発展の礎」

であると。

貧富の差がある国ほど、経済成長が高い。
旧来の言葉の発展途上国しかり、
先進国のアメリカも、貧富の差があるからこそ
未だに発展しているといえる。
逆に貧富の差をなくして、高福祉社会にする
成長は鈍化、、、衰退するといえる。

今の日本も成長が止まっているし、
多くの若者に向上心がないのも
この貧富の差といいたい。

これは簡単なこと。
現代社会において、
お金を稼ぐことほど、身分、生まれ、育ち、より平等であり、
その稼いだお金は通貨として個人裁量で使えるのである。

稼いだものがそのお金を支払って特権的に得られる。
真の意味での能力主義といえる。

だから、多くの人がそうなりたいと思い、
稼げるように行動する。
その結果が、経済発展といえる。

お金持ちを目指そうという思いがあるからこそ、
前向きになるといえる。
古来でいえば、豊臣秀吉がその典型例である。

今のように、
何もせずとも、手当、保障を受けられる社会が幸せというのは
成長を捨てた概念でしかない。

お金がないから苦しいだから、
稼ごうという気持ちにいやおうなくさせる施策や仕打ちが
現代社会にはあまりに足りなさすぎると痛感している。

2011-11-14

身形

身形、みだしなみを注意とかいう。
しかし、本当にどいうものが正しいのだろうか?

現在社会において、
それは見た目の清潔感ではなく、
発言の強さそれだけではないだろうか?

例えば、無精髭、
一昔前であれば、
不潔の象徴であり、父の世代ではビジネスにおいては決して許されなかった。
しかし、イタリア系のファッションの台頭により
無精髭をおしゃれと言い切れることになる。

逆に保守的な正装をしている人に
ファッションセンスがないと言い切る人もいる。

価値観が変わったという人もいるが、そうではない。

例えば、高級な時計をしているがいれば、
社会的、組織的に強い人であれば
「おしゃれ」といわれるが
そうではない人がすると
「似合わない」といわれるだけだ。

身形、みだしなみ、は現代社会においては
清潔さ、かんじのよさではない。
「俺はコメントするな」という強さ、気高さを押し付けられるかどうかである。

根本的、歴史的には
任侠、マフィアの傾いた身形に憧れたことがファッションの根底であるから
現代社会は原点回帰になったというべきか。

2011-11-11

都心

都心に居をかけまえて、すごく思うのは
サービスの開始が一番先行していることだ、
例えば、通信網の充実などがあげられる。

新しいサービスを発表します。
まず東京23区から開始します。
その結果をもって、拡大します。

ということが多いなか、
自分の住んでいるところにいつサービスが行き届くのか?
と思うどころか、
実質問題、勤め人のは一日の半分以上はビジネスエリアで過ごしている。
それゆえ、ビジネスエリアのサービスを受けていても
居住区にそのサービスが始まっていないと
使いたいサービスを選んでいいのか、悩んでしまうのが現代日本人といえる。

僕の場合、仕事も私生活の区別をすること自体意味がない生活をしているからこそ
判断に拠点の差異を入れたくないと思っていたくらいだ。

都心に住まう。
それは自分のビジネス、ライフスタイルの統一という観点からも
有意義なことと言い切れる。

2011-11-10

政府

人間はなんだかんだいっても、攻撃性をもっている。
それを誰かに向けなくては気がすまないといえる。
それが直接的な対象者ではなくても、

昨今の天変地異
経済危機
に対して、僕の見解では、わかっているなら対応できた。
それはみんな同じことだろう、
それでもおきたのだから、と感じているが
多くの人々は、政府批判しかしない。

みんなの代表である政府が対応してくれない、対応が遅い。
と、政府批判をするけど、
多くの国家で政府の代表を選んだのは国民、
つまり自分たちの代理である。

他人ごとのように批判するけど、
代表である政府、この国民の対応の縮図であり、
自分らができること以上のことはまずできないし、
対応もその国のレベルを移すように見えてならない。

熟考するという決断の遅い国
やっていると嘯く国
ニュースで報道する前に手を打つ国

政府の対応は国民性って感じてならない。
期待しないで、自分で行える国民性が
結果として、政府も期待以上の対応してくれるものであり、
逆に
やってくれるの待ったり、批判をしている国民性なら
国民の自発性を待つ政府が生まれるのは必定といえる。

結局、政府なにも、、というけど、自己批判の範疇でしかないのである。

2011-11-09

自覚

sectionalism による分業の末路は無自覚だといえる。
もっと言えば、庶民レベルが専門、職人性を求めてしまうと
結果的に自分自身を自覚できなくなる。

現代人は他人に対して、少しでもできる人への依存心が高く
「そこまでできるなら、あれもできて当然だ!」
と平気で言う。
しかし、いざ自分になると
「自分はこれであり、それは全く違う」
といい切り分けてしまう。

旧来のマニュファクチャー、職人工芸の時代だと
専門性、分業ができていないために
結果的にすべての工程や依頼窓口がひとつで
自分がやるしかないという自覚があった。

分業による効率化、
専門性による自己の付加価値の追求、
はっきりいうと、この工程に入っている存在は
プロフェッショナルとしては失格といえる、、いやプロではなくマシーンである。

この工程において、決められた命令をこなすのであれば
機械のほうが安く、正確だ。

言われたことを自分の範囲内でしか処理できない存在が多い現代社会。
どっかの漫画、アニメではないが、
人間である必要がなく、機械に置き換えてしまっても
なんら問題なく、、、いやかえっていいかもと強く感じる。
自分の存在意義を自分自身で自覚できる存在になる努力が
今の社会ではとても重要。
この先にくる自然淘汰の波に立ち向かうためには、強く感じてほしい。

2011-11-08

確約

たぶん、21世紀は確約破綻の時代といえる。
いい意味で言えば、社会の大転換期
悪い意味で言えば、将来が極めて不安
といえる。

確約があるからこそ、信頼と目標が成り立つ。
確約を信頼して、次に進める
確約を目標に、進むべき道を見出せる。
それが、契約社会、資本主義の根幹といえる。
そして、これが地道、努力を支える根拠であり、
組織の方向性を担保までしていた。

しかし、確約は破綻してきた。
地球規模で始まっている天変地異
複雑化した経済問題
情報発信の容易化、情報精度の低下、伝言ゲーム現象
が、いろいろな条件で自分に降りかかり
これまで、確約していたことがさぞ当たり前のように消えていく。

その確約にすがろうとすればするほど、
他人から痛烈な批判を受ける事態になっている。

「努力は報われる」
と信念を持っていたとしても
その努力行為が努力どころか、
悪行とみなされてしまう時代である。

確約が確約ではない時代なので
社会、制度、人間関係もすべて時限的、刹那的に捉えるほうが
今を生きる精神として、
裏切り感、
絶望感
を最小限にできるのではないか思ってならない。

2011-11-07

相違

エコノミスト、、(この肩書きも胡散臭いが、)視聴者からの質問
「TPPとブロック経済の違いは?」
と聞かれたときに
「全然違う!理由は包括的、、」
と答えていた。

たぶん、これの発言で、視聴者の多くは、同じじゃねーか!って思ってしまうだろう。

相違について問われるということは
似ている認識を質問者側は感じていること、
似ている先入観や理解をし始めているのである。
そこに、回答者が自分の知識を前面に出して
完全否定と自らの知識の披露をしたところで、相手の理解を開眼させるには至らないだろう。

相違についての立証は
・似ていると思われたこと
・異なるポイントの具体例
をすること、理解のカテゴリの分別を促進することができる。

この視点はどうやら、
有識者には欠如して、自らを無知と自覚している人のほうが切実に説明できることが
僕の経験則で思ってならない。

専門性に偏ったために、自分視点が物事を俯瞰的に見えることを遮って
相違、、いや逆に他との重要な酷似要素を見落としていないかなって思うことがある。

2011-11-04

援助

たぶん、人間が身につけて社会で一番勘違いしている概念。
相互扶助の概念の社会主義が破綻している現代において
援助という概念は成り立たない。
援助ではなく、未来利益を担保支払いを投機行為でないと成り立たない。
仮に、心からの無償支援と思っていても
こういう場合、援助を受けている側は
「もっと援助しろ」
「我々を助けさせてやる」
という弱者の論理で、援助側の気持ちを踏みにじることが大概発生している。

ビスマルク宰相にまつわる逸話がある。

沼に嵌って溺れている友人から助けを求められたところ、銃を向け
「その沼は底なし沼なので助けようとすれば二人とも溺れ死んでしまう。
 せめてもの友情で、君が苦しまないよう一発でしとめてやる」
と言い放った。
驚いた友人は、懸命に泳ぎ自力で沼から這い上がってきたといわれる。

僕はこれこそ、これからの時代の最高の援助だと思う。
下手な支援ではなく、自ら助くるものを助く、その行為を促すことが重要といえる。

2011-11-02

権限

若かりしころ、零細企業の社員だったために
元請、下請け、孫請けの社員に馬鹿にされたことを鮮烈に覚えている。
それは、自分の才能ではなく、
会社のブランド力のせいと思っていた。
その屈辱をバネに
ヘッドハンティングなどで、外資、一部上場企業を経てきて今に至る。

若かりしころの思いは今もあるし、
そして、当時の自分の才能に欠如していたものも意味では見えてきている。

確かにブランド力や現場での肩書きは重要だ、
これらのものがあれば、馬鹿でも自分の好きにできる。
でもこれらの根本にあるのは、、権限の恐怖だ。
権能と違い、
権限は限りの力、抑止を前提にしている力だ。
ブランド力のある企業に逆らうと、この先仕事がもらえる権利を失う
肩書きのある人に逆らうと、自分の発言権などが否定されてしまう
この関係で成り立っている。

だから、権限をどんなカタチでもいいから握ればいいと悟っている。
権限ってものは本気でやれば、いろいろな形で手に入れられる。

みなさんも気づいているように、
権限を持っているのは、地位のある人とは限らない。
お金を握っているとも限らない。
権限はいろいろな要素のなかに転がっている。
それを使い、
相手を追い詰めることができるものが現代の勝者と言い切ってもかまわないだろう。

発想を変えれば、権限取得は誰にでもチャンスがあるということでもあるのだから。

2011-11-01

普請

なかなか使わなくなった言葉といえるが、
現代国際社会において、普請が今とても求められることといえる。
普請とは、社会インフラ公共施設整備活動である。

日本の建物行政はある種、税金の無駄遣いのような評価を受けているが
実際問題、道路の掘り返しや建物建設は
規模の大きな仕事の経験、実績を多くの民間企業にさせて
日本の建設技術を高めさせてきたと思ってならない。
震災後の早々の道路復旧活動は日本の技術の賜物と思わざる終えない。
逆に、建物行政が衰退したからこそ、
日本の失われた10年がきたのかもしれない。

僕の見解としては、福祉よりも普請活動を優先すべきだと思う。
社会として明確かつイメージしやすいものづくりが経済活動を活発化させて
それに携わるモチベーションや労働意欲が高齢化への起爆剤になるといえるし、
ただ生きている福祉よりも、何かを作り残すために生きる活動のほうが
よっぽど道徳的だといえる。

「働かざるもの食うべからず」
って子供を教育してきた老人たちが福祉、年金と騒ぐのは
本当に自己主義に感じて醜く感じる。

2011-10-31

手引

手引き=マニュアルが本当の意味での取扱説明書ではなくなってきている。
今は、責任、免責の根拠でしかない。

この実態には、技術の高度化があり、
一概に誰が悪いとは言えない社会問題ともいえる。

製品が高性能、多機能になればなるほど、
その使用方法を製造物責任法のもと
その説明を出さなくてはならない。
そうなると、説明資料が分厚く、説明をみたいものに行きつくまで
相当の労力を使用者に求めてしまう。

しかし、多機能になっているので
使用者、、、消費者は自分の使いたい機能さえわければいいし、
その機能がわかるのであれば、わざわざ分厚い本になっている手引きをみたりしない。
将来の使えるという可能性があれば、担保されていると錯覚してしまうレベルである。

いくら説明を作っても読んでもらえない手引きだが書かないと企業として損しかねない企業
自分が使いたい機能がない、不具合がある場合、手引きに書いてないことで文句を挙げたい消費者

その関係性が今の手引きになっているといえる。

製品をよりよく使いたい、使って幸せになりたいという気持ちは
高度技術社会では薄れてきていることは、
実感できる幸せも薄れてきているなあって感じてならない。

2011-10-28

混乱

ある情報番組で

前回は「衣類汚れ」
今回は「節電」

を放送していた。

観ていてあれって気づいた。

前回の「衣類汚れ」では
~汚れを早速洗いましょう、汚れ物は都度都度、洗濯機を回しましょう~

そして、次回である今回の「節電」では
~洗濯機を使うときは、まとめ洗いをすべきです、たまってから洗うことを心がけましょう~

といっていた。

情報のポイントが違うということがわかっても
情報番組が一貫した情報どころか、
毎回180度かわる情報を流しすぎるのは、
もはや情報というより風説、、混乱要素でしかない。

情報配信側として、責任、意思が希薄な時代と感じてならない。
もっとも、情報番組を見ている視聴者層も何とも感じないレベルだからいいのだ!
と割り切っているところがあれば、、、それほそれで、別の問題がでてくるのだが。

2011-10-27

濃縮

日本語では
濃く、縮める、と表記するが
英語だと、enrich つまり、より豊かにという字をあてる。

濃縮するという物理行為は確かに
絞る等の行為から、必要要素密度を高めるが
論理行為においては絞るという表現に近い濃縮は的を得ていない。

対して、enrich という表現は実に的を得ている。
対象としているものを強制的に集中させるというポイントは実に妙といえる。

当たり前の日本語ほど、案外漢字と意味が乖離していることが多く
英語との対比で本来の意味を再認識できる。

「濃縮された人生」とか論理概念的な会話では
enrichというほうが、それらしく感じるものだ。

その観点で外国語をとらえると
なんとなく、理解しやすくなったり、、、しないか!?

2011-10-26

故事

極めて嘘に近い話と思う。
というより、実際には故事成語の意味ありきで、
その故事を加工したといえる。

確かに、その故事に近いことはあったかもしれない。
しかし、本当にそのとおりだったとはいえないことが多いことが
歴史の事実でわかってくる。

”虎の威を借る狐”
こんな狐がいるなら見てみたい!

”洞ヶ峠を決め込む”
など、実際にはそうではなかった文献が登場!

故事の多くは口伝承なために、
伝言ゲームや面白おかしく話して場を盛り上げたい、
類似した話と混同が起きた結果として成り立っている。

つまり、真実ではない話なのだが、、、、
その故事成語が知識人の教養になっていることに
人間という動物のご都合主義に強く感じる点といえる。
そう、、嘘から出たマコト という言葉がそれのように。

2011-10-25

科目

専門性、膨大な情報量のせいか
教育の場で、選択科目という概念が成り立っているが
これが専門性どころか、無知の促進を促していると結論づけられるといえる。

国民全体として、一定水準のことを
知らないことや無知であることは恥ずべきこと、
だから、一定水準の教育と躾を先進国は推進してきた。
教育という前提条件、共有情報があるからこそ
高度なコミュニケーションが成り立っているし、
それに見合う知識をもって、足りなければそれを恥じて補う行動をとる機運があった。

しかし、この選択科目の登場により、
「自分はこっちをやっているから、それじゃないところは知らなくてもいい」
「自分はこっちさえやれば、知らなくて当然」
という高度コミュニケーションの断絶を促進する結果になってきている。
専門科目=高い理解、というのは理想幻想であり、
専門科目=それ以外の科目を学ばなくてもかまわない権利
となっているといえる。

選択の自由、高い専門性を求めるより
詰め込みといわれようが、
洗脳といわれようが、
統制、均一性のある教育科目の履修を徹底させないと、
社会全体として
最終的には他人と意思疎通を行い、
高付加価値創設活動ができなくなるといえるだろう。

2011-10-24

重畳

重畳、、意味がわかるだろうか、、
この上なく喜ばしいこと。

重畳、、チョウジョウと読むのだが
超上機嫌、、チョウジョウキゲンという意味。
くしくも、チョウジョウという音は重なっているが、漢字は全く異なる。

なかなか使わない語彙、漢字でかつ漢字のそれぞれの文字から意味も憶測できない。
この手の言葉は、たぶん消えて行ってしまうのだろうと感じる。

僕としては、古語として趣があるので、使っていきたい言葉だが、
相手に伝わらなく、奇妙に思われてしまうだろう。

????って考えると、、なぜ教育に古文の科目があるのだろうか?
現代人、現代社会において、古文を読むことなければ、その言葉もって教養どころか
奇異の目で見られる事実から考えると、、
僕のように古風を趣と感じない現代人に
半ば強制的点数を取らせる教育科目に入れる理由があるのか
ふと感じてしまう。

2011-10-21

品質

品質を口にしだす企業は、、、衰退に入った証拠といえる。
品質について、わざわざ口にすることは既存製品、サービスが
完成形か粗悪品である自覚とこの水準が自社である証となるからである。

多くの伸びている企業は
品質という表現より、新たな製品、サービスを打ち出してきて
その上で、既存製品、サービスを維持し続ける責務に負われる。

新製品ゆえの不具合や既存製品への改善要求は
品質と捉えずに、新開発商品というカタチで反映される。

品質という言葉になると、
瑕疵担保や原状回復義務を出されて
儲かるより、失うことへの対策が始まる。

経営において、
品質という言葉を使うことに気をつけようと思った。
品質という言葉が出てくる会社は先がないという
覚悟をもって挑まないとならないだから。

2011-10-20

師匠

男女雇用平等の影響で、
看護師、美容師 となってきているが、
これって日本人の日本語知らずの現われに感じて成らないし、
よりによって、師の字の扱いがこれではと思ってならない。

師匠とは
師:後進に道を示す技術に長けている者
匠:その道の活動が常人を逸脱している
本物のprofessinal に用いる字である。

身の回りにいると思うが、
とても教え方がうまく多くの若手の先生になる人もいれば
誰にも真似できない、教えてもらっても到底できない業を持っている人、
教える技術≠卓越した技術であるゆえに
師と匠とはわけて考えるくらいの存在である。

看護師、美容師、、、男女平等の意味を持たせるため使っているが
それ以前に、新人と熟練者をくくってしまう表記になっていて
<ものづくり大国 日本>
と言い張る、この国のレベルが伺える。

男女の差異なんかより、技巧を考えれば
おのずと性差などに気にならない事実に気づかないものか?

2011-10-19

矩形

くけい  って読むし、これが長方形のことは、、
案外知られていない。

現在のキーボード、入力ディバイスで一番困るのは
この漢字の読みは?ということだろう。
漢字の意味がわからなくても、
その漢字を入力すればその漢字の意味は検索できてしまう。

だから、その漢字が書けなくても大丈夫ともいえる。

問題はその漢字の読みがわからないと、入力できないという問題だ。
どこかに電子データがあれば、コピー&ペーストが成り立つが
紙等の筆跡などからたどるということに現在のITは弱いといえる。

「その漢字、認識できるのに、、読みも意味もつかめない」

という事実が多く発生する。

国語辞典はなくなりつつあるが、
漢和辞典はそのレベルで役に立つかもしれない。

もっとも、文字を紙に書き取るという行為を
これ以上蔑ろにするのはどうかと思ってならないが、

2011-10-18

迂闊

うっかりしていて心の行き届かないこと
実際の役に立たないこと
と二つの意味があるが、自動詞、他動詞の違いとなる。

自分への迂闊は上記で
他人からみての迂闊は、下記といったところか。

迂闊という表現に値する事象は現代社会ではなかなか出てこなくなった。
すべてを網羅するということが不可能なくらいの社会情勢、情報の氾濫があり、
自分自身の把握量が足りていないから引き起される問題より
知らなくても無理はないことが多くなってきている。

だからこそ、迂闊という表現ではなく、今、現時点で私が把握している事実での
想定、提案が生きてくると思う。

迂闊という言葉の前提としての当たり前がない以上、
自分は知りえている情報の中でできることという前提で提案活動をすることが
現代人の付加価値活動の起点だといえる。

2011-10-17

買替

最近の物の物理寿命は延びた。
・壊れない
・障害からのリカバリーが容易
になっている。

しかし思った。
昔より買い替え需要は高くなっているということに。

理由は、壊れる時が買替時期ではなく
現行機が社会的に求めに耐えられなくなっていることに、
本来の機能としては十分機能していても
・拡張互換
・燃料消費(省エネ)
・制御ロジック等が過去の技術
という社会の変動に取り残されるだけでなく
・リサイクル引き取り
・買替政策
という仕組みからして、その物を手放すような誘導を起こしている。

物を大切にする思想を声高に言うが、
現代社会は消費しないと経済が回らないゆえに
物を大切にすることを求めていない。

物を大切にすることをいっそ否定して、
物を買いかえることをもっと礼賛するくらいの社会であることを
認めないのはなぜだろうか?

2011-10-14

刀剣

日本と西洋では刃物の使い方の認識が違う。
日本の刃物の使い方は、引く
西洋は、割る
と言い切れる。

刃物の代表格は刀剣だが、
日本刀は刃を当てて引ききることで斬るが
西洋のswordは斬るのでは、割る使い方になる。
割るゆえに刃こぼれがしやすいから、
両刃=剣になったのであり、
刃こぼれを起こしにくく、引く際に自ら傷つけないように
片刃=刀と進化してきた。

だから、日本の剣(本来は刀)の達人は
引く器用さをもつ体型なのに対して、
西洋の剣の達人というと割る力ゆえに
コナンザグレートのような筋骨隆々な体型になる。

鋭利な接点で引き裂くという刃物の本質は同じでも
扱い方が大きく違うのだなあって感じる。

2011-10-13

仕合

言葉が変わっていくそのさなかの文字だろう。

シアイ

現在は<試合>になっているが

殺しあう、<死合>から始まり
仕事をなす、<仕合>になり
物騒な言葉、表現を取り去って、
互いを試算、研鑽する意味で、<試合>になっている。

人間が実力発揮でいるのは、、生命をかけた闘争心であり、
死合がもっとも能力を高めてきた。

その行為に準じて、現在の試合になっているのだが
所詮、試合は<ごっこ>でしかない。だから試合といわれるものがつまらなくなり、
死合、、少なくても仕合を人間は求めはじまる。

古代のコロシアム
現代社会のバーリートゥード
なんてものは、その現れである。
本物の生死をかけた仕合、、死合への追求である。

2000年以上前の古代ローマも現代社会も
口では、「平和」「安全」って唱えながら
心の中では「殺戮」を奏でている、
人間ってそんなものって感じてならない。

2011-10-12

画面

戦後の日本人が一番目にしているものといいきれる。
街頭TVに始まり、家庭のTVに普及して、お茶の間という言葉に表れるように
家族で観るものなり、
TVゲームやPCの個人使用、、、そして携帯電話、スマートフォンのように
個人専用、すべて画面 Graphical User Interface といえる。

表現技術
録画、配信技術の進化は止まらない。

僕が創業時に掲げた
「PCを意識しないITビジネス」
を具象する際に、キーボード、内蔵ストレージを否定できても
画面を否定できないのは事実だ。

この先、人間は画面を通して社会、人間関係を作る時代になると
予測しても間違いとは言い切れないだろう。
直接会って話しより、画面のほうが伝わることの多いといえる。

目は口ほどにものを言う、、
画面は目よりすべて見通す
といわれるかも?

2011-10-11

馬鈴

馬鈴薯と書くと、博学な読者は、ジャガイモのことか!ってわかるだろうが、
馬鈴薯の薯は簡略で書くと薯、、芋(イモ)の意味であり、馬鈴薯とは馬鈴のイモ、、馬鈴とは、、、
答えは、
中国のほうでつけられた字をそのまま持ってきたため、
マレーの当て字、、マレー半島から来たイモとか、
放牧馬につけた識別鈴に似てる形のイモ、といろいろと説がある。

漢字にある当て字論理、、、
これもまた、日本の国際化の足かせだろう。
なぜ、こういう意味なのかを説明できないどころか、
他国からの外来語であるのに、その漢字一文字にも意味があるから
到底語源の憶測が立たない。

日本独特の漢字文化も悪くはないが
こういう意味の言葉を正しく理解して、使い説明できる人間がいないのに
正しい日本語なんてものを議論すべきなのだろうか?って感じる。

2011-10-07

観察

観察とは長期的な視点が必要である。
その分、長い目でみた計画が必要になる。
小学校の植物の観察を理科の時間という
1年間の履修行為にあわせて行われてきた。

はっきり言えば、現代社会においては理科の授業ではなくなっている。
植物の生育などは、ネットで無料配信の早送り動画や他の植物のことは
容易に知りえてしまうのであり、1年間、観察し続けることの意味につながらない。

僕はこれは理科ではなく、洞察力の観点の訓練と捉えるべきといいたい。

長期的にものの移り変わりをみることは
なにが変わったのか
なぜそうなったのか
いつそうなるのか
を読み解くこと、、洞察力につながるといえる。

具体的には
・朝顔のツルが、手前の支柱に巻きつきはじめた
・これは手前のほうが日陰になりにくい
・伸びるタイミングは日の出から数時間のようだ
ということを読み取り考えることこそ、観察の真髄といえる。

ITの繁栄で知っていることは武器にならない。
なぜそうなるのかを
長期的な視点による観察という視点で
知っていることより、こうなるという予測、法則を導くことがこれからの
社会で生きていく武器といえる。

詰め込み教育より観察、洞察、考察の時代になってきたといえる。

2011-10-06

指標

市場経済では、類似したものが多く出回る。
消費者側はその類似したもののよしあしについて
明確な基準を求めたがる。
強いては、その基準、指標がないから商取引で損をするまで言い出す。

ではその声にこたえて、公の機関が、指標を出せばどうなるだろうか?
類似品メーカーサイドからすれば
自分の製品こそいいものと思っているのに
低い評価を受けると
製品を熟知していない公の機関による、虚偽、捏造と騒ぎ
営業妨害といい始める。

一般消費者は指標をもとめ、
メーカーサイドは自分こそと思う状況下において
第三者が介入するのはどうだろうか?
どんどん泥沼化するだけのような気がしてきた。

指標なんてものを求めたり
その指標への絶対評価というものに従うことは
結果的に不幸の連鎖になるだけだろう。

自分で判断するのであって、
市場にものがあふれている以上に
もっと情報収集、製品分析をこなすべきある。
そしてその情報はあまり他人に共有すべきではない。

指標軸を他人にみせることは、
盲信者と責任転嫁の無能者を育成する温床になるだけだから。

自分で自分の責任を取れる環境づくりのために
他人に思いをいうべきではない。

2011-10-05

歳時

歳時とは、一年のうち、その時々、つまり四季折々というほどの意味。
日本の四季を前提にした言葉であり、
歳時記というと俳句の季語をまとめたものである。

最近思うのだが、四季って現代成り立つのか?
猛暑、冷夏、暖冬、厳寒、という言葉が飛び交うこの状況において
四季折々という意味がもはやないと言い切りたい。

さらに、空調器具が発達したために
部屋内温度の一定化、対しての外気によるヒートアイランド現象という
自然的
人工的
にすでに歳時の概念は薄れていると思っている。

暦上の季節があっても、生きている今がその四季のそれに当てはまるのか
よくわからなくなっているのではないだろうか?

、、、、でも考えてみれば
季語自身も怪しく、

天の川       秋の季語
陽炎(かげろう)  春の季語

という風に、昔の四季も今のように狂っていたでは?
と感じとれるふうはあるのだが、、  

2011-10-04

台頭

ITの先端技術のひとつでもあるウィルスソフト。
ある技術者と話して、
僕の観点からすれば、結局、自然の摂理に近づくと感じた。

ウィルスソフトは
ライオンのボスが変わったときと同じ行動をとるように組み込まれている。
どういう意味かというと、
自分の領域内に前のボス、その遺伝子を有するものを排除することから始まる。
ウィルスソフトであれば、
そのコンピュータにインストールされたときに一番初めに
ウィルス認定のロジックを通過するのは
これまでインストールされていた他社のウィルスソフト、その派生ソフトであり、
そこ排除から処理が始まる。

ライオンであれば、
ボスの地位を新しく手に入れたオスは
前のボスを追い出す、、場合によっては殺すだけでなく
そのボスの血を引く仔ライオンをも殺すそうだ。
一般人の価値観からすれば、残酷かもしれないが
仔ライオンが新しいボスに殺されることで
母ライオンはすぐに排卵を促されるそうだ、
より強い遺伝子を残すための摂理のようだ。

新たな力の台頭にとって、
一番初めの敵は
自分の旧世代であること、
それは地球上すべてのもの(creature)にとっての運命と感じた。

2011-10-03

国旗

多くの国の国旗で三色を採用している。
それぞれの色に意味を持たせている。

人間 3 という数には思い入れがある。
数学的には、多角形の基礎である、三角形
政治学的には、三権分立
など、安定、バランスの象徴とされる。

また色は人の感情、思いの暗喩が隠れているので
1つに傾倒せず
2つに分裂しない
3つでバランスさせる意味という意味になるだろう。

国という存在を象徴する代表は国旗であり、
この国旗が国民の思いの象徴だといえる。

政治家が国旗に一礼したかどうか
教職が国旗掲揚を許さない
とか、問題になっているが、
その本質は
日本国民にいられること
日本国土に住んでいること
を国旗というという具象に敬意をもつことだと思うのだが、
本質的な思いをなんか、日本人は履き違えていないのか??って思ってならない。

国粋主義というより、
この土地に住まわせてもらっている先人、土地神への謝意の念は
日本古来からで誰にもあるべきだと思うのだが。

2011-09-30

書評

百歩譲って行為を認めても、この活動を生業にすることは僕は許せない
そんな活動だと思う。

自分の自己表現、作品として創作活動をしている作家の苦労に対して、
出てきたものに自分の意見を載せる。

「他人のふんどしで相撲をとる」だけでなく、
あたかも持論を正しい論調でまとめていくのは、
作家の作品への肯定、否定を問わず
価値に値するものではなく、価値がない以上は対価をもらうべきではないと思っている。

まして、文字で書いてあるもの、文字で評することなど、
作家の紡ぎだした言葉たちへの盗作活動以外何者でもないと思ってならない。

相手の作品に思いがあるのならば、
それは無償かつ自己責任で行うべきで
対価前提、ビジネス前提であるのはこれこそ
作家の行っている表現の自由への冒瀆と思える。

2011-09-29

鶏肉

食用家畜のなかで
鶏が一番、個体における食用肉の比率が高いそうだ。
それゆえ、養鶏活動が全世界的に推奨されている話もある。

一昔前、
ブロイラーという品種は
ありあまる食用需要に対応するために
大量生産プロセスにのせて養鶏していたために
「鶏肉は悪環境で育てられたので、健康に良くない」
という風説があった。

食料需要に対応するために
食用といえども、生命を一生懸命育てて
屠殺までして食卓に提供している活動をよくもまーいえたものだと思った。

健康に良くないものを食べないという思いが
健康ブームで騒がれているが
肉体的な健康である以前に
その発想が、社会生活的に
精神健康上狂っているという自覚はあるのだろうか?

食を提供してくれたそれに携わる人々、
そして、命を滅した食材のことを考えれば
健康ブーム自体ひどいものと思えてならない。

2011-09-28

人選

結局、人は人によって足を救われる。

社会である以上、一人では活動できない。
権力のあるものが、自分ではない人材を選び共同するのだが、
その選ぶ行為に、第三者は責任がない発言を繰り返す。

自分としては有能な人材という基準であれば
今までの経験、関係を重視することで選べば

「癒着、閉鎖的」

この批判を回避したり、新しい試みで
若手に、接点の少ない人選をすれば

「責任性、管理能力」

を言われる。

結局、人を選んで活動することは批判が付きまとうことになる。
この批判に耐えて、答えてということを人民は求めるが、
こたえるための人選では、本来行うべき活動への本末転倒になっていることが多い。

人の活動、活躍への人選行為に
表現の自由は結果的に社会停滞を導くので
規制すべきだとつくづく感じる。
基本的に発言するときには、
もう少し法的責任を持たせることはできないのだろうか?

人が人を選ぶことこそ、社会の基本である信頼の根本であり、
その信頼を批判することは社会そのものへの背徳だと感じてならない。

2011-09-27

未完

日光東照宮の陽明門はひとつの柱だけ、さかさまで未完である。
それゆえ、出来上がったものではない、ゆえに朽ちはてない。
その伝承ゆえか、未だに創建当時の姿に近いそうだ。

その言葉の派生だろうか、
画竜点睛の意味も人によって異なる。

意味由来は、
完成しかけた龍の目を描いたとたんに龍が具現化して天に昇ったというところなのだが、

ふつうは、
『画竜点睛を欠く』というかたちで使い、
ほとんど完成しているが、肝心(かんじん)なところが抜けているために、
全体がだめになっているという意味で使うとされているが、
今は、天に召されて、なかったことにしないためにあえて
未完の状態で保つという意味でも使われる。

未完であることは
未だ完成、完了に達していない、
これからもまだまだ伸びる、右肩上がりの表現なのかもしれない。

2011-09-26

流儀

古来では、特定の教義を継承する人々の指針だったが、、
現代社会では、、ただの我儘の自己主張にすぎない。

効率化、一般化において、万人ができるようにしてきた結果が
現代社会であり、そうではない行動は非効率、汎用性のない行動である。
それはある意味、その前提で自分を押し通そうとしているだけであり、
それを流儀という言葉で美化させているとしても
それは自分の非効率の正当性を相手に押し付けているだけだろう。

ストイックにそれを実行しているとしても
大きな客観的な視点に立てば、非効率、汎用性のない行動の無駄な主張といえる。

流儀を押し通せるのは
それを許してくれる周りの環境、、、いやそれを何らかの力で認めさせている強いエゴであり、
社会的な円満状態とはなかなか言えないかもしれない。

だいたい、流儀が出てくるときは必ずそのアンチテーゼを唱える勢力がいて
対峙することになるのだから。

2011-09-22

象牙

象牙には多くの思惑がある。

象の墓場
印鑑
遺伝の実験場

これらの話が日本の悪意で
つながっていることがわかるだろうか?

日本の印鑑において、象牙は大変人気があった。
そのため、大量に日本に送られてきた時代があった。
そのときの輸入業者の言い訳は

「象は死期が近づくと、ある場所に行って死を迎える。
 だから、その象の墓場に行くと、大量の象牙がある。
 大きなものは西洋人が持っていくので、日本人の小さな印鑑分など
 些細なものである。」

もしかしたら、この話を信じている日本人がまだいるかもしれない。
これは大きな嘘である。

象牙は密猟、西洋人が死んだ象の象牙を持っていくがないわけで
大きな象牙ほど、多くの印鑑が作られるので儲けが大きいだけである。
日本人の印鑑需要がメインであるのが事実であった。

そして、大きな象牙をもつ立派な象ほど密猟で狙われたおかげで
その系統の子孫が残らず、現在の象の牙は小振りになったわけである。

人間は確証があっても信じたがらない動物である。
未だに日本人の多くは象のこの事実を理解することは少ないし、
それを隠している感がある。

自分たちの自己証明の文化である印鑑、それゆえにいいものを!という思いは
時として他の動物へ悲しい思いをさせている事実につながるのである。

2011-09-21

集積

今年になって、久しくなったこの言葉。
一昔前までは

「効率的に考えれば、ひとつの場所に集めるべきだ」
「同じようなものが多すぎる、無駄をなくそう」

という言葉が常識だったのに、震災以降は

「ひとつの場所に集めるから惨事になった」
「なぜ、分散しなかったのだ」

と平気でいう。

ことをなすためには、集まることが重要。
社会という発想もそもそも、人間の集まりであり、
それなくして、今の生活はありえない。
人だけではなく、物流、機能というあらゆる概念が集積を前提にしている。

集まること、それは集中という言葉のように大きな力を生み出す。

その大きな力の恩恵を人々は受けている。
その事実、前提なくして、分散論を平気でいう人は、、、
まー、そういう人ほど、ひとりでは生きていけない他力本願であることは
集積がもたらしたある意味弊害の一つかな?

2011-09-20

神聖

もっとも邪悪なものかもしれない。

聖の字を使うと
・聖剣
・聖戦
・神聖ローマ帝国
と、自由、非暴力のはずの神の御前のはずが
その反対の意味でも許されてしまう。

現実世界において、聖剣が斬るのは人間以外ないのだし、
聖戦というもので、対峙殺しあうのは、相手もまた神を信じる熱心な信者であるのに、、

基本、聖の字がつくものは自分たち以外からすれば、邪なのである。
自分の正しさは必ずしも他人の正しさではなく、、
むしろ、自分の神聖さこそ、相手からは究極の邪念洗脳に見えてしまう。

聖なるものという考え方ほど、
他人を不快にさせるものはないというのが
この世の理なのだが、なかなか理解されそうにないなあ。

2011-09-16

行楽

日本人の感覚なのだが、

「好きな仕事をしたい」
というくせに
「好きなことを仕事にしてしまうと、楽しくなくなる」
ということが並立しているような気がする。

<報酬>と<やりがい>の両天秤に対して
多くの日本人は<やりがい>と答える。

守銭奴という表現や
自分の報酬額を隠すのもまた日本人独特のものだといえる。

pay <報酬>の高い仕事を選ぶべきだ、
それが<やりがい>という感覚にならないのがいつも不思議だ?

好きな仕事や<やりがい>を日本人は先入観で決めているが
やってこそ、やっていくうちに、そう変えていくという思想が欠落している。
それに、<報酬>が高いということはそれなりに
やりづらい、やり手がいないからこそであり、
そういうものに挑むことこそ、<やりがい>だと思う。

なんか、勘違いしているように感じる日本人感。
高い支払いをもらって、みんなできないことをすることが仕事の醍醐味であって
やりたいことって誰がすでに定義した旨みの枯れたことであり、そんなものに高い支払いをするわけがないだろうに、、

2011-09-15

叛旗

「叛旗を翻す」

いかにも体制側の発言だが、
翻した側は

「腐敗した体制を改善させるために立ち上がった」

となる。

勝てば官軍の言葉のように
最後に実権を握ったものが負けた側を
反乱、崩壊と呼称するだけであって、
どっちが正しいというのは難しいと感じている。

つまりは、勝算ないものが悪いのであり
結局は、自然淘汰、弱肉強食なんだろうな、
高度社会といわれていても
論理性、納得性が求められても
勝ってしまえば、、、それは真理のひとつなんだろうな。

2011-09-14

検討

答えはいくつもない。ひとつである。
検討はいくつもしてきた。

これが社会の根本であるが、
現代社会は形骸化、目的と手段の混同が甚だしい。

「答えはひとつではない」
「これまで行ってきた努力を評価してほしい」

この発言をそうだ!と思う人が多く、
この手の人に責任や権力は与えるべきではない。

答えはひとつであり、
検討系のいくつかの検討結果の確からしさは実績である。

この手の考えが横行したのも先人たちの愚かしさゆえでもある。
「なぜこうなったか!」
という要求側の発言が
「答えが1つだからです」
と答えたことから、
考える行為のボタンの掛け間違えが始まった。

要求側は
・検討した確からしさをもって成果、実績とみなしたい
・代替案の存否
を求めた。

しかし、被害者感情、庶民レベルでは
・答えがいくつも必要
・こう考えるまでの努力をみたい

と思い込んだ末路が現実のようだ。

検討行為を
手段とみなせるか、
それを目的とみなすか
要求者と実施者の思いは大きく異なることがよくわかる。

2011-09-13

歩幅

歩幅は処理能力単位と同義と感じている。

身体的特徴で人の歩幅は人それぞれ。
それゆえに、歩幅の数=長さとはならない。
また、歩幅が広い、狭いからといって
必ずしも、歩みの速度が早い、遅いとはならない。
歩幅の狭い、、狭いからこそ、早く取り回しができて
足の速い人もいるといえる。

これは、コンピュータのnビットアーキテクチャーと同義といえる。
歩幅と同じ概念たる、演算幅が8ビット、16ビット、32ビット、64ビットと幅広になってきた。
それにあいまって、ムーアの法則で、CPUのクロック数も高速化されてきた。

取り回しであるCPUのクロック数が近代では数社、寡占による
ディフェクトスタンダードに成っているゆえに
演算幅の広さがものをいう時代でもある。

歩幅をコンピュータのアーキテクチャーゆえに、
その先を皆さんに問いたい。

皆さんの頭の歩幅は
一度に多くのことを考えることができますか
それとも、高速に処理をできますか?
みずからの頭の高性能化は、
上記のように考えて、今の自分に足りないものはどっち
どう補うかを考えるという視点も一興かと。。

2011-09-12

憐令

生類憐みの令をどう感じるか?

「天下の悪法」という言葉があるが、
それが蔓延していること自体が後付、試験問題だなあって思う。

この令の経緯は
いろいろな時代劇で説明しているので割愛するが
法令の効能については、あまり表していない。

この法令のおかげで
無駄な殺生が激減したのである。
この法令発令前までは
戦国時代の余韻の残る時代感。
「切り捨てゴメン」
「刀の試し切りで町で辻斬り」
「武士の思い一つで、他人を殺しても罪の概念がない」
人がこれなので、犬なぞ生物としての価値が、、、
それを法令で禁じた、生物擁護の画期的な法案だった。

天下の悪法としているのは、、
歴史的に明治維新の徳川批判体制、同期の水戸光圀のヒーロー性にあやかった解釈に感じる。

現代社会なら当たり前やりすぎといえるかもしれないが
その行為を当時の社会で行うと奇異に見えることが多い。

そう考えると、、、歴史的な事実って本当に正しいのか??って感じる。

2011-09-09

翻訳

同じ意味で、他の言語に変換する。
どだい難しいことであり、
意味が同じと思っても、実際に伝わる内容が異なる場合が多い。
翻訳は逐語訳ではなく、
その言語風土によらなくてはならない。

例えば
アメリカンジョーク
慣用句
各国の故事に倣った表現
などは他の国には通じない。

簡単な表現で言えば

A piece of cake ! = 朝飯前!

ということは逐語訳では通じない。

その文意、会話の流れから汲み取るしかない。
ビジネス英語とかTOIECとかで一生懸命やっても
それが通じるとは限らなかった。
なぜなら、言葉は進化しているし
話す相手が、ビジネス英語やTOIECレベルと
関係ない世界に人間だったりするからだ。

同じことはこの日本でもいえることで、
絵文字メールを
日本語検定を受けてきた外国人が読めないことは至極当然といえる。

所詮、言葉を訳すのではなく
自分の思いをなんらかなカタチで示すしかない。
もっと言えば、人間共通なのは、痛みだからこそ
武力、暴力がコミュニケーションとしてなくならないのも
翻訳の結果だと僕は感じている。

2011-09-08

神童

悪人のたまご。
結果的に現代社会ではこれが現実だ。

神童といわれてしまった子供は
そのまま育ってえらくなると、
政治家やエリートビジネスマンになり
庶民から非難され、
途中、その道から外れると
「昔はいい子だったのに」
といわれる。

自分としての生き方をしていても
世間から悪くなったように見られてしまう。

また、何度も記述しているが
現在物語の多くの作品は
努力、優秀な存在は結果的に敗者として扱われ
その場しのぎ、無神経が人間がヒーローになる話が実に多い。
創作物だから現代社会とは異なると言い訳しても
作り手ではなく、視聴者のレベルがそう感じていない現代社会では
そのような人間を心から目指してしまう愚行も目立つ。

能力主義といいながら、
日本では能力を伸ばさせない風土と国民性があるといえる。
画一思考が劣等種を最小限にとどめてきた誇りもあるだろうが、
基本自然界は自然淘汰であり、優秀ではない個や他人と違うことで
生存競争を戦わない種は滅びる道理を正しく理解して
割り切りや自分自身の力で生きる道を個々が目指さないとだめといえる。

日本でおける神童といわれてちやほやされてきたみなさん。
どうせ、世間の評価なんてこんなものって感じておられますよね。

2011-09-07

理学

自然科学の基礎研究を行う諸分野の総称。
理にかなっているの’理’といえる。

この概念は迷信や伝承の裏づけや否定につながっている。
今まで自分たちが信じてきたことがどうしてそうなっているかを
解明する学問に近い。

そして、この理学こそ人間の叡智の積み上げに感じてならない。
人文学系は個人の説や思いが強いのでなかなか積み上げにならない。
解明される自然現象の前提で、次の事象を解明していく。
前提である解明は先人たちの活動の結果であり、
それを血統ではなく、学問を志すものが受け継いでより深めていく。

血筋、人種に関係ない、後継へ引き継がれるすばらしき
人の世界の伝承が理学と思ってならない。

2011-09-06

粗捜

近代社会は、粗捜しばかりで権威を貶めている。
少しでも、注目される人が出てくると
その人への賞賛より、粗捜しばかりが行われる。

・あの人、○○だってよ。
・あの人、昔、、こんな悪をしていた

ということだけでなく

・あの人の親類は、○○だ
・仲の悪い親類と絶縁状態だ

という、本人の一族について言及したあと、

・あの人の近所は
・あの人の住んでいる地域は

という、生態にまで及ぶ。

これらの情報、報道について
「知りたい人がいるから」
と正当に言い続ける現代社会だが、
注目された事項には、社会的要望があったから注目、期待しているわけであって
それとは直接関係ないことで注目していることへの障害、邪魔はあるべきではないと思う。

個人情報と知る自由の戦いではないが、
知る自由の根本は、個人の情報ではなく、統治機構への自由という法理を知らないので
知る自由と思い込んでいる粗捜しの愚行は、
知られたくない個人、知りたくなかった第三者の自由を奪っている事実を忘れていないか?

2011-09-05

地方

「中央は地方をバカにしている」
「地方を信頼していないではないか!」

という話を聞いたが、、、、そのとおりであるといいたい。

僕が地方で目にしたのは
「なんで残業するんだよ、定時なんだから帰ろうよ」
「1分でも残業したら、残業代を請求しないと」
「どうせ、いいんだよ、適当で」
という言葉ばかりだった。

現状では、仕事への責任感を感じられないことが多い。

これは鶏卵論かもしれない。
中央が地方を信じないから、地方はこういうふうになる。
こういう地方だから、中央は信頼は信頼できない。
どっちもどっちである。

今のままでは、全く改善されないだろう。
どっちが玉を持っているかといわれれば、
玉などない。玉は作ればいいわけである。
地方にビジネスチャンスをあたる中央の判断
地方独自のサービスを中央に持ちかける
いろいろとある。

そしてもっと言いたいのは、地方で仕事をしている人たちに

「がたがた言わずに、
 その仕事を辞めるか、中央に出て行けば?
 理由はどうであれ、地方のせいにしているのは甘えではないの?」

とね。
地方根性が地方としての意地でないプライドは認められないと僕は判断するがね。

2011-09-02

検査

自信あるものになってから、成果物を検査対象にあげる。
市場論理として、至極当然かもしれない。
その成果物を製品、商品として顧客に提供する観点からすればそうであろう。

しかし、全くできてない時点から検査を行う方法もある。
これでは製品、商品にはならない。
しかし、これにより、提供側、作り手側のスキルが見いだせる。
・モノづくりの傾向
・好きな工程の緩急
・どこのアセンブリから進めるか
など
製品、商品という最終アウトプットではないが
中長期的には、生産活動をよりよくするヒントが隠れているかもしれないことが見れる。

とかく、最終アウトプットばかりに目がいくかもしれないが
途中の過程での抜き打ち検査なんてものは
案外、見えてないことがみえるいい活動と思っている。

2011-09-01

助舟

打ち合わせをしている際に、
劣勢側を支援するつもりで議論に割ってはいる行為をさしたりするが、
多くの場合、いらぬおせっかいになりかねない。

助け舟は基本、助けたいという思いであり、
助けられた思いと一致するとは限らない。

最近では打ち合わせの手引き、how to の書籍が乱刷されているどころか
内容は他の本の反対を書くことで自分の内容の正当性、売り上げを意識しているせいで
打ち合わせの進め方の思いが乱立している。

あえて、劣勢ゆえに開き直るやり方を行うとしているときに
助け舟を出して、かえって自分の思惑通りにならないことになった場合、
相手は助けてやったつもりでも
こっちとしては、「なんてことをしてくれたんだ」
と相反する気持ちになってしまう。

助け舟のような、親切行為は現代社会においては反対に作用してしまうことが多く
あまり他人に干渉しないことのほうが、互いに安全と思うべきだ。
人によっては自分の都合で、助けてくれないって騒ぐが
助けてもらう状況に陥った自分の無力さを恥じて禊の代償を払うべきが
自然の摂理だと思うのだが、そうではない日本の変な思想が恐ろしくてたまらない。

2011-08-31

防犯

犯罪を起こさないように、おきないように互いに注意しあおう。

これって、当たり前になっているけど
実際問題、「他人を見たら泥棒と思え」を隠喩しているに過ぎない。

人を統べるものの論理からすると
防犯を実現させる方法はこんな曖昧なものではない。
大きく2つで

<当該行為を犯罪とみなさなければいい>
<当該行為をする概念を民衆から奪えばいい>

に尽きる。
極論すぎて、多くの人は理解に苦しむだろうが実際に
そうなっている。

犯罪とみなさなければいいということだが、
古来日本、現イスラムでは未婚の娘が肌を人前にさらすのは罪で罰せいられた。
しかし、今の日本人女性はそれを罪とは到底思わないだろう。
社会や国家がそれを罪とみなさなくなったからだ。

犯罪概念もそうだ。
サイバーテロ活動は一般購買できるPCレベルで容易にできる。
しかし、PCでそういう活動をしている人は少ない。
概念がないからだ。
犯罪を防ぐというから、多くの人が犯罪ということを理解してしまう。
知ることなくして行為なし。

根本的に犯罪なんて言うもの、人間の思い込み。
人間外の生物からすれば
人間ほど重犯罪なものはいないわけである。

犯罪を防ぐという発想自体がエゴである。
防犯ではなく、
自分の思い込みをどう他人に押し付ける
もしくはさせないようにさせるか
とても恐ろしい支配思想の自覚は庶民レベルにはないだろうけど。

2011-08-30

籠目

~かごめかごめ~
ほど、みんなが知っているが、実体はどんな意味なのかわからないものはない。
子供の遊戯囃子から始まり、歴史の暗号、淫らな悲哀、はたまた呪詛とまで
数多の解釈がある。

西洋と違い、日本の民話、昔話はかなり隠喩が見られる。
恥の文化、言わないことが美学という国民性が直接表現から隠喩を導いた。
口伝、伝承の過程で直接表現でないことから、
真意が風化して、現代の音の節しか確かな情報はなくなってしまっている。

そのおかげで今日では
真意を探る知的探究、妄想に近い歴史ミステリーが多くの人の気持ちを昂ぶらせている。
しかし、俯瞰的に見れば
この発想、つまり隠喩や腹の探りあいということを好むことが
直接表現を好まない文化が国際社会における自己主張できない日本人を導いている
といえる。

2011-08-29

品揃

品揃えがいいというのは、展示されている品物の数ではない。
ほしいと思うものが、いくつかあるかだと感じた。

地方の人が東京で買い物するときに
圧倒的に展示物が多いのに、
「この店は品揃えが少なすぎる」
と発言した。
その発言を聞いて、東京の人は
「田舎者は見る目がない」
といいだして口論になる。

この手の話は多くある。

これは実は、地方の人が価値を知らないという人の価値の問題だけではなく
社会構造ゆえの品揃えの問題である。

地方の人の発言の意味は
基本、地元で購買しているものが基準であり、
その購買物のアップグレードが東京にあると思い込んでしまう。
地方より都会というイメージで、
しかし、地方ゆえ、多くのものを需要できない、
地方独特の需要ゆえの品揃えで地方の売り手は勝負をしているのであって、
東京の売り手はその地方前提がなく品揃えを行っている。

地方にとってはあるべきものが東京にはないという地方からの人の思いと
東京では、地方の需要なんて知る由もない思いは
相容れないものである。

わざわざ東京に出て買い物をする必要は
その条件でないところ、オリジナリティー以外
もはやないのではと思ってならない。
現在の
地方企業の努力
ネットを筆頭にした通販
の努力は、店頭の品揃えの概念を大きく超越しているのだから。

2011-08-26

委譲

多くの社会人が経験してきていることとして、
「なぜ確認しないんだ」
「いちいち確認にくるな」
ということを上司から、論理矛盾にも似たことを言われきているだろう。

僕からすれば、根本的にするほう、されるほうの能力不足でしかない。

確認の前提に、上司から部下に依頼つまり、委譲行為がある。
その際に、確認のポイントを明確にしておかなくてはならないが
多くの場合、その確認ポイントの明確化を忘れる、、いや意識しない。

ここが大きな問題だ。

確認するということは
依頼、委譲の内容への品質管理であり
なくてはならないが、確認があいまいでは
品質以前に、そもそも依頼、委譲する意味が見出せない。

他社の力を使うという行為には
その行為への統制が必要でそれこそが、マネージメントといわれる概念であり、
マネージメントと確認行為は一体で捉えなくてはならない。

そこの認識、日本の管理職はもう少し、いや徹底して見つめなおすことが必要だといえる。

何も考えないで行うから
依頼する側、される側、互いにいやな思いをし続けているといえるので。

2011-08-25

力量

日本人は力量を間違えやすい。

例えば、

槍の扱いがとてもうまい人を戦上手というが、戦争は槍では戦略、戦術の世界
優秀な営業マンが必ず優秀な経営者とは限らない
どぶ板選挙活動で当選したからと言って、画期的な政治、改革はむしろできない

日本人の大きな間違いは
積み上げをすれば、キャリアできるという発想が正しいと思っていることだ。
今までの国としての成長経験が右肩上がりゆえに
なんでも経験して、一流になっていくステップアップ論理が成り立ってきたが、
これだけ専門的になってきた行動技術社会ではそれでは力量を図れない。

外国の経営者にたたき上げが少なく、他企業からくる者が多いのは
経営者というスキルあってのこと。
その会社の業務は業務であって経営ではないからだ。

皮肉なことを言えば
自由と平等な国、アメリカの娯楽映画のサクセスストーリーに
努力をする作品はひとつもないどころか、
努力をして見返そうとする人間はむしろ敵キャラ。
ディバイン、天性でそうなる定めのものが主人公であり、
誰でもなれるものではないという傾向である。

力量は努力ではなく、生まれ育ちできまるものであり、
努力は既存秩序への抵抗、批判なのが
悲しいかな、、、実質国際基準だったりするのである。

2011-08-24

緑化

緑化政策、緑化行為は善行とされる。
自然を回復させよう。

いかにも偽善、エゴに感じてならない。
木々をいくら植えても、真の自然には戻らない。
真の自然は苔生して、虫も、獣も、弱肉強食であってなくてはならない。
人間が思う、都合のいい植物だけをそろえたものを自然回復というのはどうだろうか?

緑が二酸化問題を回復させるというが、規模が違いすぎる。
そもそも二酸化炭素による気温上昇の科学的根拠が薄すぎる。
今まで地球に幾度も起きている氷河期、低温期の説明がつかない。

そもそも、緑は人間の高度社会には邪魔だから伐採等で減ったわけであって
その行為自身も自然淘汰の一環である。
それをまた理由をつけて緑化させるというのは、、
現在発展している先進国が更新国の発展を抑止する
既得権益の保守という、これも自然界の種の保全に見えてならない。

2011-08-23

正座

日本においては正しい座り方とされるが、
海外では、なんと子供の成長を抑圧する悪い座り方とされる。

周りをよく見てみれば
正座は
足の筋肉、血流を止めて
立ち上がる際にしびれて、転んだら逆にマナーになりかねない。
何とも変な行為だ。

自分たちの行動が当たり前と思うことほど
実は非効率、逆に悪化させていることもある。

そういうものを胸を張って辞めさせて効果的にさせることは
既得権益、既存価値の崩壊を導き
日本の悪徳にみなされる。

この思想こそこれからの日本の阻害要因と感じてならない。
正座の意味が分からないし、
ある意味、虐待と外人に言われたことは僕の価値観の変化であったがゆえ。

2011-08-22

皆様

口語でいえば、みんな にあたる言葉。

この言葉はあいまいかつ主観的なもので
日本人の社会認識の欠陥を導いている。

あなたの思うみんなと相手の思うみんなは
はっきり言えば、まったく異なるといえる。

相手の思うみんなは
あなたの思うみんなと比べれば
・部分的(あなたの思うみんなを含めてもっと多数)
・包括的(あなたの思うみんなの一部分)
・排他的(あなたの思うみんなと全く異なる集まり)

ここで文章にわざわざしなくても
幼少期~年老いてまでこの問題は社会である以上誰でも直面する。

~隣の○○ちゃんも、、、みんな持っているのに、自分だけ持っていないよお!
~みんなに笑われてしまうから、ちゃんとしなさい
~みんな、私なんかくたばってしまえばいいと思っている!

よく聞く言葉の数々だ、、、

これらの言葉を考えると、
みんなという表現の多くは
マイナス的な意味でつかわれることが多いことに気付く。
邑社会、他人の目を気にする日本人の性なのかもしれないが、
みんなというものは、自分を抑圧する擬人格かもしれないと思う。

2011-08-19

慙愧

自分の見苦しさ、過ちを反省、恥じること

慙愧の念をどう捉えるかはそれぞれだと思っていたが
最近の日本人には薄いようだ。
基本的に他人が悪いと発言するようであれば
慙愧の念は起きない。

しかし慙愧の念を持つことが人の成長の起点と感じるだけに
由々しき事態と感じるところもあり、
自分の嫌な部分を直視できないから
日本の失われた10年がおきたのではないかと思う。

オレサマタイプの僕であっても、案外、慙愧の念を毎日感じるし
その思いを次のアクションにしているつもりだが
その概念のない人は過去の過ちを繰り返してもなんとも思わないどころか
なぜうまくいかないんだと社会批判になる事実は、、見苦しいの一言なんだが、、

2011-08-18

猛禽

肉食性の高い攻撃型の鳥の総称。

猛禽の禽の字が鳥という意味は日本人でもわからないのだから、
外国人にはもっと通じないだろうと思った。

まして、鷲と鷹の違いを明確に言える人は日本人にいえるだろうか?
答えは、、大きいと思われるものが鷲、そうじゃないのが鷹である。
つまり、明確な基準はないのである。

日本の鳥に対する識別、認識はきわめて低い、、、ひどい。
鳥類とまとめるのに、猛禽という言葉のつながりがない分類をするし
トリニクを鶏肉、つまりニワトリニクをトリニクと略したり
強いては、キジは国鳥なのに狩猟対象という、国鳥を狩れる唯一の国なのだから。

そんな認識なのだが、
猛禽と日本人は古来より鷹狩を通して、接してきた。
鷹狩が西洋のハンティングと同様に権威ある活動だったので、
鷹を筆頭とした鳥に猛禽とつけて他の鳥と区別したことは容易に憶測がつく。

それだけに権威ある動物なのに今の社会では
危険視されるのは、日本古来への侮辱に感じてならない。
外来種のほうがよっぽど危険に感じるだけに、、

2011-08-17

殺虫

蚊取り線香は日本独自、、
外国は日本から輸入しているくらいだそうだ。
蚊が多いのに、除虫効果を研究していないそうだ。

そう考えると、
日本の殺虫剤技術はすごい。
戦後のDDTという外国の殺虫剤を筆頭に
限りなく、人間の健康被害も伴うものが多い。
他の生命の命を奪うのだから、当然、自らもという
命の尊さを表しているかどうかわからないが、
人間に害をなす虫から守るために
別の健康被害という論理は本末転倒くらいに感じる。

その点、
日本の多くの除虫剤は
人間への健康被害を最低限を目指して
その上で、殺虫効果を持たせるのだから
技術としてすごいことと思う。

命の尊さを謳う輩もいるだろうが
自然というものは命の奪い合い、
自己の種の保存、保全に他の種をいけにえにすることを
否定できないことを自覚すべきだ。

理想を唱えながら
食事をする人の神経がわからない。
光合成を持たない動物の食は他の生命のいけにえが前提なのだから。

今日も蚊取り線香の恩恵を享受しようっと。。

2011-08-16

用語

この間知ったのだが
サッカーのセンターリングという言葉はクロスに変わったらしい。
年のせいか、
サッカーに興味を失っているせいか
へえー、としか言いようがなかった。

時代とともに言葉は変わる。
また関わる人たちの思いで同義の言葉を変えてしまう。
それは言葉の性。
ただし、僕も感じで腹が立つのは同じ専門性の世界にいるのに
自分たちのローカル用語を公用語と思っている輩が多いということ。

コミュニケーションの統一のためには
概念の共有化が求められる。
そのためのテクニカルターム(専門用語)なのだが、
専門性の多岐が進みすぎて
同じ意味でも多くの言葉、用語が多すぎて困る。
僕の場合、事前準備を行いなるべく、共通化、公用化された言葉を選んでいるのだが、
ローカルルールが万国共通と思う輩が多すぎて会話にならないことが多い。

もっと自分が歩み寄れればと反省する気持ちよりも
そういうローカルルールの乱立が
今日の日本国内の規格統制の失敗、
ガラパゴス技術の温床になったと
確信して、そういう輩を叱り付けるほうが将来のためと強く感じてならない。

2011-08-15

一位

人間はランキング、順番付でNO.1を好む。
どうせなら、一番の物がいいからという発想である。
だから市場において、一番を目指して企業努力を行うことが
良しとされている。

これは本当にいいことだろうか?
僕はこの基準にNOといいたい。
一位になるために努力をすることは全く意味がない。
もっと言えば、自分が一位になるものを提供してそこに鎮座すればいいのである。
「はーー??、何を言っているの?」
と思った方は、日本人として一生消費者、労働者基準で生きていくべきだといえる。

毎日のように新しい言葉や国際基準が出てくる世界情勢。
その中で、意図して日本人が自分がその頂点だという人間はいないが
国際的、、いや日本以外では、そんなことはざらで、
自分が一番といい続ける社会なのである。
その自分が一位であるがために、相手を蹴落とすためにランキングを使うのであって
ランキングの一位は結果ではなく、手段なのである。

こんなこと当たり前で
ランキング一位を目指すのは企業の目的ではなく
企業として収益をあげるという論理を最優先である。
お金、お金になりたくないとい日本人の気質が
案外、国際的に地位を下げているかもしれない。

2011-08-12

甘味

基本的に現代は子供に甘すぎる。
僕が子供のころのベビーブーム時代は
電車内で騒いでいたら、大人に怒鳴られたのに
最近では怒鳴った側が秩序を守る良識の大人が大人気ないとされる時代。

甘やかして育てる、恐ろしさを理解しなさすぎないか?

生命の危険のない環境下では、ろくな成体が出てこないという自然の摂理もある。
昆虫は魚類などは多くの卵を産み、その何万分の1しか大人になれない。
自然淘汰を生き抜く、生存競争に勝ち抜いたから大人になれるわけであり、
手厚く、生存競争も知らないものを成体にしてしまうと
結果的に種の破滅を導くという事実をあるので、ある意味死活問題なのだが、、

そうそう
極限まで肥料や水をあげない環境で育つ植物の実は限りなく甘いそうだ。

肥沃な環境で甘やかした植物は甘くなく
劣悪な環境で徹底した植物は甘い

とは、甘いという言葉に皮肉な結果だ。

2011-08-11

喧噪

物音や人声のうるさく騒がしいこと。
都会の喧騒というが、
喧噪を五月蠅がる人ほど、その喧騒が静寂になるとかえって不安に思う人だったりする。
基本、人間という存在である以上、社会を構成するし、
その社会は会話で互いを理解して
物理的充実でその価値を実感する以上、
喧噪を伴うものである。

喧噪から離れるということは
社会とのつながりを切るという意味になるのだが、
その意義を理解できる人はなかなかいないだろう。

喧噪あっての人のつながり、
そしてつながりが生活をさせている事実は僕とて否定できないものだからね。

2011-08-10

短気

間違いなく、短気なのだが、それが悪いこととは思っていたことがなんかもったいなく思う。
短気で怒ってしまう。。
当然のことではないだろうか?
社会に僕を怒らせる要因があるということ
怒るという感情を持つこと
に何か問題でもあるのだろうか?

この社会、怒らない受け入れていると結果、搾取されるどころか
それに限度を感じて抵抗すると
「今までよかったのに、なぜ怒るんだ!」
って言われる。

法律も、占有権や不断の努力というものを認めている以上
自分に降りかかるものを即座に反応することを認めているのであるのだから
短気、すぐに反応して問題はないといえる。

日本人のいう寛容が現代では通じないといるのだから
過敏に反応することはもはや必須スキルといえよう。

世知辛い、住みにくい社会と感じているとしたら、
その人は社会の実情を俯瞰的、長期的に見ているのだろうか?
面白いことに、
長期的、計画的な人ほど、短気であり
刹那的、無計画な人ほど、気長と思える。
僕からすれば、気長=考えていない、考えるスピードがないといいたいのだが、、

2011-08-09

顛末

事の最初から最後までの事情

森羅万象
論理性

の理解は、物事の顛末を順序立てて理解することだと思っている。
どうして始まり
どんな経緯をたどり
最終的にどうなったか
はじめから既に終わりが見えているものはまずはない。
その途中や終わりに至るまで
何かしらの影響を受けて、結果が導かれたのである。

それゆえ
物事を学ぶ、解き明かすときには、その顛末をたどることがかなり重要なことになる。
しかし、勘違いしてしまうのは
評価は結果でだけでいい。
なぜなら、どんな理由があれ、現時点において要件を満たせているかは
顛末であると結果だけで構わないのだから。

2011-08-08

格付

自由と平等の国、アメリカ に
国家、法人を差をつける格付け会社がある。

確かに、投資家に対して、信用の安全性を提供するという名目
相対的、客観的な評価の定量表現
という目的、正当性から格付け会社の意味は重要かもしれない。

しかし、一企業が下した国債の格付けに対して
各国政府がその評価に対して声明や抗議を出すということ自体
国家の存在意義は民間企業と同等にまで落ちている。

自由と平等と謳っているアメリカにある企業に
評価されている国家、企業に、自由平等で行動できるのだろうか?

市場という言葉の保護に格付けが許され認められている
そして、その市場で強い力を持っている国の民間企業にて行われる実態から
格付けを使った恣意的な国家扇動も容易な状況だと思う。

たとえその格付けがどれだけ公正であるといっても、
だって、担任の先生の子供の評価が絶対公正であると言い切れる人間がいないと同様に
人間が行う以上無理なこと。

2011-08-05

読解

学生時代

「読解力がない」

と教師に怒られたが、、
実際問題、社会人になると、
学校で学んだ読解力のかけらもない輩ばかりであることに気づく。
そして、まーー、開き直りの輩が多いことに気づく。

学生時代から真摯に受け止めて
5W1Hを意識して
説明を組み立てることを習慣づけるようにしてきて
現在に至るが、、、多くの社会人は思い込みで
「聞いてない」
「解るように説明しろ」
と自分中心に話しを進めることばかりだ。

もし、社会のほうが正しいなら
学校教育も
読解力や説明力より自分が正しいと言い切れる実学教育をすべきなのだが、
社会不適合な教師どもの集団である学校では
実学は学べないのは自明だろう。

まー、真実を見抜くことに切磋琢磨している僕からすれば
人から学ぶことはもはやなく
人が自然の摂理でどうなるかを観察する観点、、、
それこそ、真の読解と悟っているのだが、、、

2011-08-04

酷評

匿名で、自由に表現が許されるネット社会において
酷評を受けることはある意味健全ではないかと思う。

賛否両論というように
酷評もあれば、高評価、酷評に対する反論が
成り立つのはある意味で健全な市場世界だと思う。

みんな揃って、最高っていうことは
どんな裏取引、政治的圧力がかかっているんだろうと勘繰ってしまう。

できれば、
酷評の中に、今の改善のチャンスとなる表現があれば
それこそ、今後のためになるものだが、
いかんせん、酷評する人のほどが知れるのか
自分の感情論ばかりでなかなか前向きではないことばかりだ。

口は出す以上、
それ以上のことを示すべきだと思うが
口を出すこともできない文句と
せっかくの改善ヒントも理解できない無関心さや感情の高ぶり
ばかりで、酷評が酷評としての価値を有していないさびしい市場になっている感はあるが。

2011-08-03

功績

太原雪斎
保科正之
上杉鷹山

という人を知っていようか?
知っていれば、かなりの歴史通であろう。
彼らは近年、功績が評価されているが、
それまでの間、評価どころか存在を忘れ去られていた感があるのである。

そもそも、彼らの共通の行いとして
人命尊重を優先した知略の功績
自らの功績である自分の記録を没する際に放棄させたり、
直系が厚遇されない、させないことが
現在社会に伝承されていない事実である。

って考えると、、、教科書の歴史なんてものは
恣意的、下手をすると権力者の創造物ではないかって思う。
結局、勝ったもの、生き残ったものにより、
いいように書き残され、
本来、あったこと、功績があったことは
なかったのごとく闇に葬られてきた。

考えてみれば、
教科書に出てくる為政者の多くは
genocider(大量殺戮者)の筆頭だが、
それを成功者のように教えて
道徳の時間で
「人を傷つけてはいけません」
って教育する矛盾はどうだろうか?

功績は教科書では学べない。
つまり、教育では人は救う術を得られないのだが、
それは、日本では理解できないだろう。
覚えることがいいことである限り。
覚えると言うことはサルマネにすぎないという自覚がないのだから。

2011-08-02

能力

能力主義と言う言葉を多くの人は履き違えている。

「出来る人間が高い評価を受ける」

ではなく、

「出来ない人間が搾取される」

が正解である。

優秀だからといって、取り分が容易に増えるほど
この社会はインフレ気味ではない。
ある程度、決まった分量であり、それを適分配することが求められる。
決まっているのだから、多くするということは増減が出る。
多くなるプラス志向に人間は目移りがちだが
実際問題、減らされることも多々ある。

それを不平等だの正当に評価されていないだの騒ぐのであれば
能力主義ではなく、社会主義、、、いや労奴になるべきである。

僕の観点から言えば、
能力主義という概念は日本では無理。
悪いが、相手を蹴落とす、社会的差別、区別が当然の社会でないと、成り立たない。
弱肉強食
自然淘汰
を笑って容認できる社会構造でなけんれば、
能力での評価を求めることは無理。

だって、今の日本において
能力主義といっても、
低い評価をつけた上司はその上司の顔色をうかがってつけざる負えない社会であり、
結局は評価は、管理者の恣意的にならざる負えない。
数字で示すとしても、原価配賦をいじればいくらでも、
当人の手柄から切りかなすことは容易なのだから。

2011-08-01

物作

モノづくり日本の復権とかいうが、、、

現代社会において、~作りは両立できない。これは真理と確信している。
価値の多様化を認めた以上、
多くの人々は、自分の思う方向に進みたくなる。

そうなると、、人間の力量では多くのものを行えない。
一つが限界であるといえる。

だから、社会現象に表れているように

・仕事と家庭の両立が難しい
・自分の作業ばかりして、管理仕事ができない
・子供ばかり作って、仕事ができない

すべて共通しているといえる。

・モノづくりと家庭づくり
・モノづくりと組織つくり
・モノづくりと子づくり

どれかを成り立たせると、他がおろそかになるのは
現代人の必定だといえる。

メディアに出てくる人間とて
おおくの~づくりを両立、鼎立させているようで
それは実際にできていないのに、
メディア側の映像作りでごまかされているだけであったりする。
映像作りはモラル作りを冒してでも行うものであるから。

多くの人はもう、多くの~づくりはできず、
日本人の仕事の代名詞である
モノづくり自体も選ばれる選択肢の一つにすぎなくなっているのである。

多くの人の幻想である
モノづくり日本の復権のためには
昔の価値観、
非能力主義、年功序列の復活や個人主義撤廃、団体行動強制などの今までの国家づくりの崩壊
賃金を見直して、安い単価でのブランド市場づくりの破棄
などを選択をしないと成り立たないといいたい。
ゆえに、、、無理である。

だから、モノづくりという概念から新しい概念での作りを目指さないとならなく、
今はその黎明期、既存概念にとらわれない思想づくりが
今の僕の役割と思い行動しているところもある。

2011-07-29

天賦

頭のいい人間は多くのことを考えることができる。
考えることができることは、恐怖、不安を知るということになる。
それゆえ、消極的、後ろ向きになりかねない。

逆に何も知らないからこそ、
恐れなく、全力投球できるという事実もあり
成功と知識が反比例するのではないかと思うこともしばしばである。

そう思うといつも頭をよぎる方がいた。
以前のクライアントの一人で、めちゃくちゃ頭が切れる。
僕がいうくらいなんだからと思ってほしい。
そして、めちゃくちゃ明るい。

そのキャラクターゆえに、上の人間に疎まれて、飛ばされることが多かったそうだ。
飛ばされたら、反省という後ろ向きな気持ち、行動になると思うが

「飛ばされてきてもすることがなかったので
 机にこの業務の法務規定があったんだ。
 読んでみたら、いろいろとそうなんだって思うことが多くてねえ。
 まさか、機械学科あがりの自分が法律の理解が面白いなんてねえ、
 それでだいたいそこの業務の全体がすぐに分かってしまい、、、
 今回の業務統括担当で来たってわけだよ。」

って言われたら、すごいの一言しかない。

「知っていること、みなさんに楽しく説明するのが楽しくてしょうがない」
「おいおい、むちゃくちゃっていうより、楽しくない進め方じゃ無理だろう」

っていつも口にしているし、いつ勉強しているのかわからないくらい調べているし、、
本当にすごいと思った。

憧れるだけではよくないのに
今、当時の彼と同い年くらいになったので
そう振る舞うように努めているが、、、、
知ってしまう不安を隠すこと
明るく振る舞うけど、バカじゃないと思わせること
は本当に難しいと感じてならない。

それこそ、、天賦なのかと思ってならない。

2011-07-28

霹靂

へきれき、雷のこと、

雷という言葉は実に面白い。
日本語だけでも

霹靂

稲妻

とどう見ても同じ意味に感じられない言葉を当てられたり、

thunder
lightning
eclair

と英語でもいろいろな多様な読み方をもち

ゼウス
インドラ(帝釈天)
トール

と雷を司る神が多く存在する。

確かに
青天の霹靂
の言葉通り、雷は日常茶飯事な自然現象ではない。


そして、この自然現象は瞬間的に物事を奮い立たせる。
・光
・音
・破壊活動
が恐怖の要素を持っている。

それゆえ、神の仕事、各地でいろいろな表現で描写されるものとなったのであろう。

現代では科学的な立証である程度は解明されているが
それでも、未だ人間が自由に扱えるものではないし
自然現象の中で予測出来ないもののひとつである。

かなうなら、雷を制して、有効利用したいものだ。
兵器
エネルギー
建設器具
と、可能性があるのだから、、

でも、今のままでは、、、、雷親父になれるくらい、、すでに、、、か、、、、

2011-07-27

孤独

現在社会において、孤独であることは自己責任だと僕は考える。
自治体やNGO等が孤独にならないようにいろいろと策を練っているに
それに参加しないには、自己責任だといえる。
僕の場合、だからこそ、自立できるところは行い、できるだけ孤独を愉しむようにしている。

現在の無自覚な孤独を苦しむ人は、愚かとしか言いようがない。
高齢、
社会の和に飛び込めない、
人が信じられない
ことは、個人の問題であり、それに対して社会が支援を差し延べること自体、無駄遣いである。

高齢であっても、活発に動く人や多くの友人を持つ人
飛び込む勇気で自分の壁を打ち破る
猜疑心を解いてこそ新たな人間関係

であり、それを強制させることは当人も変わらないし
それに関わる人の多くが不快な思いをするだけである。

孤独であることに、社会が関与することは
たとえその人の生命に関わるとしてもそれは介入すべきではないと言いたい。
孤独は行き方、病と同じで自ら変えようとしないものへ働きかけるべきではないし
その働きかけが、相手に伝わらない以上、
無理に社会に入れるべきではない。
それが現代社会の自然淘汰であり、全体幸福である条件である自覚を持とう。

2011-07-26

模型

木片やプラスティック板からフルスクラッチで、
造形する工程はすごいと思う。

伯父が趣味で、鉄道をそう行っていることを
幼少期にみていたからこそ、その工程を行う人を
尊敬の念で見てしまう。

そして、また思った。
プラモデルの型を考えた人、それを量産してしまう技術もすごいなあ。

フルスクラッチで作る工程は頭の中のイデア、、理想を現実化させる能力だが、
プラモデルの型は理想を生み出すだけでなく、
その造形を部品化、合成樹脂等の最適化を狙い、組みあがったものを再分解して
いくつかのプラスチック板にしてしまうのだから。

組み合わせの接合
造形物の可動性
などを考慮してことであり、
その発想には脱帽である。

だから、僕も思う。
あるべき姿をビジネスに持っていくことは、スクラッチで重要だが
そのあるべき姿を備品に再分解して、誰でも組み立てられるような仕組みを
作ることが顧客の満足度にもつながるのではないかと。

模型は作ることへの愉しみがあるというのだから
ビジネスも組み立てる愉しみがあるべきと感じてならない。
何も出来上がったものを出し続けることだけが、
ビジネスではないということを、プラモデルで痛感した。

2011-07-25

店舗

今、実店舗の売り上げはどんどん低迷している。
愚かなアナリストが、
社会的購買意欲の低下って言っていたが、
何をアナリスト?と、検討の’穴’を’リスト’化しているだけじゃんって思うくらいだ。

購買意欲はどんどん上がっている、
人間の欲はつきることはない、
その購買欲に、実店舗が対応できなくなってきているのだ。

ネット等、通信販売が実店舗購買を上回ってきているだけである。

この事象は、何も今に始まったことではない。
購買意欲を満たす品数と在庫が潤沢にあるところに流れるのは市場の理。

小売店よりほしいものが比較できる専門店
専門店より、いろいろなものをコーディネイトできる、百貨店
百貨店より、敷居が低く選べる、スーパー
スーパーよりも、いつでも手早く変えるコンビニエンス群
そして、、、いろいろなものが自宅で変えて届く、、、通信販売
と購買チャネルが進化しているだけであり、

店舗という概念も、物理チャネルという切り口では今までのすべての販売チャネルを包括する表現だが
チャネルの総称に過ぎない。

今は実店舗に固執する時代でもないだろう。
実際のものを触ってみないという人もいるだろうが
そういう人に限って
実際に買ったものと触ったものが違うからと騒ぎ
触っても触らなくても結果同じに感じる時代である。

制度におけるクーリングオフ、pptなどで
もう時代は実物より仮想からの実現化でこと足りる。
この先、もっと進み、実物さえも、、、これ以上空想になるから控えるが、
購買のカタチや現代の進化を憂うより
前を向いて、新しい展開に目を向けるべきと常に思う。

だから、低迷、衰退って言葉を聞くと
代替は何が登場したか、それはこの先どうなるかを
意識するこそ、今の僕のビジネスアイになっている。

2011-07-22

均衡

均衡を保つということは、、、実は後ろ向きなことといえる。
「万物は流転する」
「時代はめぐる」
「風化する」
という言葉があるように、世の中は不変なことはない。

「だから、均衡を保つということは不断の努力の結果である!」

と力説をする人もいるが、努力をしているものだろうか?
ルーティン的な要素を欠かさず行うことを努力というのだろうが、
僕からすれば、条件反射行動を繰り返すだけであり、
それを努力というのは、寝坊しないように努力しているという
当然できることを自慢している低レベルな話に感じてしまう。
そして、新たな試みをするゆとりがなく、世の中の進みに
取り残されてしまう感が否めない。

均衡を保つ行動は今を維持するというより
世の中の流れに合わせた新しい基軸を常に求め、
そちらに変えていくことで、本当の意味での均衡に’見える’といえる。
実際にその均衡に携わる人たちの視点では
とても、現状維持とは言えない新規活動の繰り返しであり
ルーティン的な努力ではなく、
アイデア的な企画が出せるかどうかの次元になっているのである。

2011-07-21

合同

合同作業とかいうものは得てして結果を出さない、、出せない。
それは、日本ではなく人間である以上無理な話である。
人は個々である。
同じではない。
身長体重、腕力、俊敏性
それぞれ差が出る。

だから、同じことはできないのである。
みんなでも同じことを求めると
有利なものが、不利に合わせると、期待値に満たないし
不利なものが、有利なものと同基準で動くと、故障、欠員を招く。

協働はあっても合同という概念をありえないと悟るべきだ。

合同では必要ないが
役割定義や連動判定をすることが求められる協働には
管理、監督が必要であり、そのために
管理職、監督業、マネージャーが求められる。

だから、
合同作業の管理職と
協働活動の定義、判断をしない管理監督者は
存在意義、そもそも価値はないと言えるのだが
合同作業も管理監督者も無駄に発生する世の中だこと、、、

2011-07-20

株式

手短に、、
株式会社とは、
株主への利益配当を目指すために
自社の価値および自社製品、サービスを
社会に多く購買してもらうことを追及する存在といえる。

表現の差異はあれ、この趣旨は世界共通であること
それが現在の株式市場の存在意義といえる。

だから思う。
自社サービスの使用抑止や制限を公然といういう企業は
株式会社であるべきだろうか?

根本的な考えて
株式会社の定義をこの国は見直すべきではないだろうか?
社員のため
社会貢献を第一とした
という言葉を掲げる会社が株式を発行すべきではないことを。

2011-07-19

紛物

まがいものは世間的にさげすまれることが多い。
便乗
2匹めのどじょう
廉価品
などと。

しかし、まがいものこそ、進化発展の入り口ではないかと思う。

何もない中に、いきなり登場するものは
進化、発展ではなく、創造、発生である。

すでにあるものを前提として、
それを展開していくことが
進化、発展かもしれない。

日本製品の大半が
まがいものと言われても仕方がない。
日本人は想像より、
進化、発展活動に優れるからだ。

そして、進化発展は必ずしも正当でなくてもいいし、
本物を凌駕していく。

日本の自動車、家電しかり、
視点を変えれば、がんもどき
そして、ラーメンもそうだろう。


紛い物精神はさげすむより誇るべきではないかと思う。
ただし、、、どっかの国みたいに
紛い物としての自覚がないのは愚なのだが、、

2011-07-15

注文

主に依頼を受けて物事を調査する際に控えもしくは明細などの
副進文書として作成されるもの
から、
特定の物品の調達を依頼する
(結果として依頼した相手によって依頼に関する注文を作成される)ことに
現代、商業社会では変わってきた。

この言葉で忘れてはならないのは’文’の字である。
文という、、文章、書が伴うことがなくてはならない。
注文するときには、その書面がなくてはならない。

日本人はとりわけ契約を口頭、不文律の商慣習に重きを置くが
それは国際的にも通じない。

時間がかかっても、その証書たるもので
注文行為を成り立たせなくてはならない。

昨今の商業不祥事の多くは
商慣習ゆえの齟齬、甘えだと思ってなない。
めんどくさい。
他人行儀
という人が多いが、所詮他人度同士なのだから
その時の取り交わしを持って、
ことに当たるべきといえる。

文章は人の言葉、心情と違い、
時間が経っても心変わり、表記変貌をしないのだから、
定点として定めることができるのだから。

2011-07-14

自習

直接の指導を受けずに、自分の力で学習すること
・・・・ありえないといえる。

学ぶということは、先人の行為を倣い、それを自ら実施、実践することであり、
他人の力を借りることは必定な社会である。
そんな現代社会において直接指導、間接指導の区別はできるだろうか?

テレビ電話で確認する行為は直接指導そしたら、
ネットのチャットで質問することも直接指導のカテゴリに入るべきだろうし
時間的な感覚でとらえれば、
誰かが答えてくれている回答を時間をあけて閲覧するのも
直接指導といえよう。

そうなると、、本を読むことすら、、作者の意図解説の
直接指導とみなせるものとなる。

自習という概念はすでに崩壊している。
逆にいえば、学ぶこと=自習であるべきで、
物理的に接触するかどうかにこだわる発想が
すでに自習行為の弊害ではないだろうか?

現在の登校等の行為
教育勅語以来変わっていないが
家にいても、家事手伝いを強要されなくなった社会においては
学ぶという行為においては、いらないといえるのでは?

2011-07-13

参加

日本の悪い習慣なのだが、
多くの人を一つに集め、出席させる。
参加することが必ず意味があるとは思わない。

組織人の連帯意識の向上というが
集めている側の優越感でしかないと思わない。

その会に参加、発言することがなければわざわざ出席せずとも
後で集約した情報を収集すればいいのでは?と思う。

現実問題、テレビ会議が外国で流行るのは
その思想があってのこと、
参加するという行為に価値はないとみなしていることが多い。
物事を決めるときに多くの人がいるということは
誰も責任を取らないと言う意味でもあることに
日本人は未だに理解できないのは、、国民性なのか?

2011-07-12

予約

僕は特定のほしいものは店舗での購買はしないようにしている。
基本、ネットによる事前予約で自宅搬送を心がけている。

「心がけている」というように、
店舗での購買をできるだけ避けている。
店舗で購買するものは
量産品、生鮮品、だけに努めている。
年寄りたちは、
「触ってみなくては解らない」
というが、原価コストの厳しい現代市場において、
多くの人が触るサンプル品をそう多く用意はしない。
まして、
「触っても買わない」
「誰かが触ったかもしれない」
と言う理由で廃棄になる商品をよしとする経営者は少ない。
できるだけ、店頭に並べるものは、モックアップ(代替品)になりつつある。
また、在庫を残したくないから、
店舗も贔屓客に向けての現定数受注をするから
在庫が見えているのに、それを買えない自体が多くなっているし
老人と販売員が
「それを売りなさいよ」
「売約済みです」
「今買うって言っているのに、なにさまよ!!」
という会話を本当に多く見て
見苦しく、見たくないという気持ちもある。

そんな、欲しくても買えない可能性を孕んだ商取引より
確実な購買と搬送が見込めるネットでの予約購買を選ぶのは
当然の帰着だといえる。
そして、社会は対面販売は限定されていくだろう。
人間はすでに、他人を許さない
出来れば会いたくないという精神状態になってきていると確信している。
人よりも安定した受注システムを信頼したくなる時代において
予約購買がこれからの通常購買に変わっていくだろう。
なんせ、対面販売には伝家の宝刀、コストの代名詞、人件費がかかるからだ。
人件費をコストと言えてしまう社会において、
人権、労働権利なんて形骸化しているに等しいのだから。

2011-07-11

醤油

日本の調味料なのだが、、
油という言葉あるのに、油分は皆無。
また、作り方も同じ成分である、味噌と違いは少ない。
でも、味噌と同じようにこの調味料が日本の味といえる。

特徴として
・液体
・大豆からのアミノ酸
・塩分
が共通していたとしても
その他の部分に、家庭、地域、食生活で変わるアレンジがある。

日本らしさは、そのアレンジであるといえる。
・細長い地形
・藩という極めて狭い世界で長く閉じこもってきた
・四季による気温差
により、差が出ている。

手前味噌という言葉があるように自分の味を持つといえる。

醤油はもっと差が出ていたのだが、
ブランド、生産性で
味噌以上に集約されてきているので、
ある程度の味の統制はできてているが、
それでも、、、地域性はあるようだ。

僕はこの味噌と醤油に
ダーウィンの進化論、ガラパゴス進化を感じる。。
携帯電話機能のガラパゴスっていうけど、、、

中国の醤(大豆発酵調味料)を
それぞれの味の味噌
そして、醤油への変えてしまうことから
日本のガラパゴス精神は今に始まったことではないとうかがえる。

2011-07-08

九九

九九は数学というより、暗記である。
数式を解き明かすという概念とは全く異なるかもしれないが、
世界的な学力の象徴といえる。

国際的な世界共通のコミュニケーション概念は言語ではなく
10進法だといえる。
言葉が違っても、
数え方が違っても   、、フランス語では「90」は「(4×20)+10」で,「quatre(4)-vingt(20)-dix(10)(キャトル・ヴァン・ディス)」
も計算上は10進法が中心である。

数えられるということ、
それも四則演算で高速に行えることは
ビジネスにおいて強みだ。
基本、お金は数えるものだから。

計算が早いということは、頭の回転というより
テンプレートを応用できることである。
九九がそのテンプレートの基礎であり、
日本においては、テンプレートの勉強方法、公文式が国民学力を高めたといえ、
バブルまでの日本経済を誘引した結論付けてもいいくらいだ。

それゆえ、
インドでは20の段までの九九、、十九十九ができると聞いて
脅威だなあって、感じてならない。

2011-07-07

命令

命令口調だったことで、大臣が辞任に追い込まれた。。。

全くもって、この国は統治機能が機能しなくなっていると言い切れる。
昔、子供に
「すえは博士か大臣か」
という言葉があったくらい、大臣という地位は偉い象徴であった。

偉いこと、
人を導く存在が命令してはいけないのだろうか?!

命令を出すからこそ、責任も生まれる。
お願いばかりの社会に責任や実行が伴うだろうか?

僕は真に思う。
命令出来ない組織は混沌、無秩序と等しい。
多少、人格がおかしくても
命令に責任をもって、それに追随することのほうが
目標達成に繋がると思う。

今のあげ足とりの国民性では
達成感なき復興、
気づかぬうちに国際的衰退
を導くだろう。

命令をだして、その責任をとる。
そんな組織こそ、達成感と充実感を持つと確信している。
そして、、統制(ガバナンス)があると国際的に説明できると言えよう。

2011-07-06

謙譲

相対的に相手や話中の人に対して敬意を表すためのへりくだった言葉。
最近の現代人は謙譲行為、尊敬行為の違いだけではなく、
謙譲してくえていることを
当たり前、当然と額面通り受け取っている愚かしさに気づく。

僕はうわべだけの尊敬、敬語表現ならしないほうがいいと思っている。
それは、真の敬意の気持ちが相対的低下することはよくないという
計算しつくしての思いがあるからだ。

だから、無駄な敬語表現はよくないと思っているのだが、
社会はどうやら逆というか、レベルが低いというか、、、、

相手が謙譲行為を示していると平気で額面通りに受け取って
結果相手を怒らせているのに、
「なぜ怒るの?」
っていうことを多く垣間見る。

尊敬、謙譲表現が国際的ではないかもしれないが、、、
日本人なら気づけよって言いたいものだ。
もっとも、尊敬、謙譲の歴史は御恩と奉公の封建関係があってのことで
現代社会ではそのかけらもなくなってきているので
体で覚えることができなくなってきているのも事実かもしれないけど。

2011-07-05

農耕

日本における秩序であり、この崩壊が日本的な美徳の陰りが来たと言える。

村八分
我田引水

などの言葉が示すように、集団行動をしないことが悪徳とされる。
それは、田植えや稲刈りという行為が集団行動であり、
他人の労働力があてにしないと成り立たない社会構造で会ったからだ。
それゆえ、近所から信頼を失うことが本当に収穫量に影響してまさに致命的な問題になりかねないのであった。
だから、近所付き合いが重要であり、その秩序があった。

現代は、狩猟民族のような生活が多くなり、
能力主義=個人の優位性が何よりも尊ばれる。
近所の人たちはあてにする労働力どころか、権利掠奪者になりかねない訴訟相手になる場合もある。

それゆえに、農耕時代の秩序は難しいものとなっていた。

しかし、ある意味、農耕は所有、占有しない、共有前提であり、
みんなで使い、みんなで享受するという概念であり、
今のクラウド、フリー、シェアと似ている。
温故知新、もしかしたら、この先、この農耕的秩序が復権するのではないか?
いや、させるべきだろうと思うのは僕だけだろうか?

2011-07-04

楽器

楽器という和訳を当てた人は
ある意味、センスがある雅な人だと思う。

演奏行為は必ずしも、楽しい者とは限らない。
レクイエムや行進曲のようなものもあり、
そして、オーケストラ、オペラは、興じるものであり、楽しむものではないといえる。

しかし、すべてをひっくるめて
楽しいとして、楽曲、楽器と総称している。
楽曲、楽器とまとめて表現するもの日本独特の言い回しでもある。

僕自身楽器を奏でる素養は薄いが、
本当に楽しんで、触れることはしている。
日本語でいえば、芸ではなく、趣味、お遊び程度にね。
そもそも、楽しむものだという気持ちをもって、楽器に触れられるのはある意味、幸せかも。
とかく、お稽古ごとになった時点、
楽器は苦器だった人も多い時代の育ちゆえ。

2011-07-01

指針

僕は
物事を導くことは得意だと自負できる。
その分、既存維持運営は苦手なのかもしれない。

導くという行動に重要なのは、指針である。
どうしたいのか、
何のために行うのか、
それを明言出来れば、対外の人間は理解はできる。

そして、大きく現代の管理職が見失っているのは
人間は
どうなりたい、どこを目指す と言う思いより
今、何をやりたい、どうしたい という方が目先にたつということだ。

出来上がってしまった社会人をみればわかると思うが
社内査定において、将来、目標設定したところで
多くの人は、自分の得意分野、今までやってきたことに固執し続けるものなのだから。

自信のなさ、不安、などでそうさせてしまうことへ管理職は配慮が足りない。

だからこそ、人を導く人は
起こってほしい行動が例え、不得意、未経験でも
この先何があり、それがあるべき、なかった時の方が不安である説明という指針を求められているのである。

人によっては、
「上から言われたから、自分はそんなに先のことは見えていないから無理」
と恥じらいなくこたえるが、
それは、人の上に立つべきではない。
その人、その属する組織の弱さをであり、
ある意味、そこに属する多くのメンバは可哀そうであることを憐れみたくなる。

もっとも、そう言う環境が、ある意味反面教師になって、
指針を力説できる存在が生まれたりするものだが、、、、、そう僕のようにね。

2011-06-30

泰斗

その道を究めている人という意味。

自分としてはこの表現かなり気に入っているのだが、
世間的は使わなくなった。

プロとか、名手とかいう表現のほうがわかりやすい。
でも、その道を究めている人へわかりやすい敬称は
なんか失礼だと思うし、気安く評すべきではないとも思う。

泰斗という表現は当人に対して使うべきではない言葉で

陰ながらでの尊敬の念で使うことに味を感じる。
陰口を悪口ばかりに捉えず、
畏怖の念
畏敬の念
をもって、評することもある意味
相手への敬意だと思うのだがね。

2011-06-29

聖人

人間は他人に聖人君子を求める。
でも実際に、そのような表現を他人に用いるときは
その当人を見下しているというのが現代社会だといえる。

利害、人間関係が複雑になっている日本において、
聖人君子の振る舞いは
頭が悪い証拠に近いレベルとなってしまう。

言われた通りに行動、
理想どおりの行動
は、社会的にコストと見合わない。
もし見合っていたら、それはコストカットの努力をしていないとみなされるのが
現代社会である。

善良な市民を求める癖に
できるだけせこく切り詰めて利益を出せという資本市場社会。

聖人君子思想が古いのか?
現代社会が狂っているのか?
という二択の論理であることを気づかない事態、、現代社会は病んでいると感じてならない。
頭がいい、学歴が高いのはわかったが、
本質的な問題を検討する力は本当に現代人はないなあって感じてならない。
もっとも自分自身を現代人と同視することは辞めているので
深刻に悩まないこととしているけどね。

2011-06-28

火力

火によって得られる力のことだが、日本人におけるpowerの概念そのものと思ってならない。

火力という言葉、
炎の出方という意味から派生して、
真剣度の具合
攻勢の程
などに用いられて一概に炎を前提にしていないことも挙げられる。

人間は火を制した動物といえる。
ゆえに、莫大なエネルギーをえることができた。
火とは、エネルギーそのものとも言える。

火の力が人間の発展の原動力でもあり、
それが今の日本人の火力の言葉に表れていよう。

火力のある生き方、、、人生に燃えていて、本人はとても前向き。
でも、炎と同じで、周りにいると、ちょっと熱くるしいかもね。

2011-06-27

利便

都合がいいこと、、
使う側、使われる側ともに言えるのだが、
利便性の追求は矛盾を抱えている事実を多くの人は見失っている。

利便性、、つまり便利になればという思いは
面倒だから、自動化、シームレス化を念頭に考える。
それを実現させたのが、現代社会だが、
その利便が、人の自由、責任を奪っている。

例えば、
便利を求めて、包括委任をすることが多い、
業務のアウトソーシングなんて大きな話だけではなく、
家電も一社に統一化させたりすることは多くの家庭でも見受けられる。
そうすることで、機能の連携、問い合わせ窓口の一元化、が実現できる。

しかし、それはうまくいっているときであり、
利便性の背理は、障害連鎖、独占による選択の不自由があげられる。

独占のための言い値に耐えきれず、
異なる選択肢を選ぼうとすると、連携を理由にその選択を選ばせないどころか、
連携の一つが障害を起こすと、つながっているすべてのことが機能しなくなる。

利便性を前提に生活活動を考えている現代社会では
出来なかった場合の対応には頭が回らなく、生活に支障をきたすのが常である。

利便性とは、ある意味、自分の生活を人質に取られた代価かもしれない。

まるで、おとぎ話や漫画に出てくる
契約者に心臓を渡したおかげで、
契約者が生きている間は、不死身になっているがごとく設定だ。

2011-06-24

安眠

そろそろ寝苦しくなってきている昨今。

安眠とは、
やすらかにぐっすり眠ることとされるが、

眠っているときの感覚で
安らかにって?
ぐっすりって?

て説明できる人なんていない。
だって説明出来たら安眠していないということだろうからね。

真の意味で安眠している姿を見たのは
絞め技で落ちた
失神
している状態だと思う。
本当に意識がなく、ただ寝ているのだから。

健康のために安眠っていうけど、
そこまで考えて行動すること自体、
意識しすぎて、疑似安眠でしかないといえる。

あんまり、眠りにこだわらず、
やれることや心配していることををしていれば
眠ることすれできなくなるはず。

それを続けていれば、どんな状況下でも
機能停止のような睡魔と眠りを味わえるよ。
それが本当に安眠だと思うけどね。

2011-06-23

一畳

とかく日本は土地面積への単位が多い。



ha
と日本語、英語入り混じっていて、大きさが解らん。

読者は
十畳はどのくらい?かわかるだろうか?

㎡ならば、16.562㎡
坪ならば、五坪
haならば、0.06ha

となり、10進法に慣れてきている現在人には計算とイメージがわきにくい話になっている。
そう、現代人にはわかりにくい表記になりつつある日本固有の表現である。

国際単位系を受け入れているのだから、それに統一すべきではないかと思う。
日本人の悪いところで、
国際化といいながら、自国の文化も推奨する。
それが今の日本らしさと高度成長を支えたとされるが、
その反動が、
日本語の煩雑さゆえの国際標準語になりえず、言語能力の低い国民性の原因を導いたり
独特すぎた発展による、ガラパゴス技術の台頭
を導いて、国際社会との乖離を起こしていると言わざる負えない。

国際基準を受け入れると言うことは
自国の文化を捨てるということと同義であることがなぜ解らないんだろうなあ?

2011-06-22

感謝

あえて言おう。

「感謝されるものであって、するものであってはいけない」

この認識こそ、重要である。

なんて偉そうな言い分と思うかもしれないが
これが真の本質であるべきだと確信している。

現代社会において、
感謝するという行為は必ず相手への負荷が伴う。

その負荷をかけるということが感謝を導くのであれば
自らがその負荷を受ける存在になること、
感謝されるようになることが思いやりにつながる。

感謝の念をもつだけでは、この実益社会においては意味がない。
「感謝してますよ♪」
という発想は相手へ不快感を導くことしかない。

感謝する行為自身を恥じるくらい気概をもって生きることこそ
これからの道徳観だといえる。

古い儒教的な発想をうわべだけで理解せずに
その背理にある真実を探求することが
これからの時代は求められるているのであるから。

2011-06-21

交換

「スペアパーツで交換できる、長く使える製品です。」

この幻想と社会停滞の温床、日本人はいい加減気づかないのかなあ?
交換できるということは、新しい技術革新を導かないということであり、
科学技術的な進化を促さないどころか
消費需要を抑止してしまうことである。

だいたい、交換できるものは
エコだの
経済的だの
いうが、後ろ向きすぎないか?

もっと、新しいこと、過去にこだわらないことへ刷新することが
将来に向けて投資であり、進化だといえる。

交換できることより、
市場活性化のために新しいものへ出資することに消費を向けないと
結局は、自分たちの財布は膨れないと思う。

2011-06-20

玉子

玉子ではない、卵が正解だ!っていう人は、生兵法レベルだ。
玉子と表記するときは、料理で使う前提での食用の意味を込めている列記として
正しい表記である。

玉子は初代ファーストフードの苦汁をなめてきたと思ってならない。

お手軽で高い栄養価の食材はその認知の過程において、いらぬ風評を受ける。
「食べ過ぎると病気になる」
「高カロリーだから、健康を害する」
というのは、はっきり言えば、どんな食材にも当てはまるものであり、
限度を超えた摂取、、、というより、その食材を見ていない人たちの嫌がらせと断言できよう。

今現在、玉子が健康を害するという言葉は聴かない。
それも、僕の生まれる前のあたりから、その言葉失われてきた。
そして、ハンバーガーについて、健康を害すると声高に言う人も減ってきた。
僕の幼少期は、その風評ばかりだったのにだ。
簡単なこと。
その時食べることを止められた世代が、親の世代になり、食べることに違和感がなくなっているからだ。

玉子を食べられなかった、食べる機会を失った
ハンバーガーを食べられなかった、いまさら食べたいと言いづらい
そんな大人の事情こそ、ファーストフード批判の根源であり、
大人の思想なんて、醜く、そして浅はかさを論理化していることがよくわかる。
しかし、こういう思想は根強く、また新しい食材にこの活動はおきるんだろうなあ。

2011-06-17

湿度

夏になると、除湿器
冬になると、加湿器
日本は湿度に対してせわしない。
いや、逆に定置に順応し続ける表れなのだろうか?

欧州では、バカンス、避暑地の概念があるように
温度変化に伴い、違う場所に退避する傾向がある。
それは、広大な土地、植民地を手に入れ、
自分の住みやすいところを目指した表れだろう。

また、中央大陸の遊牧民も、家畜が食む牧草が季節に合わせて
かわるので、結果として住みやすいところへ移り住む。

日本人は比較的高温多湿で四季があるゆえ
住みやすいところに移動すべきなのだが、
定住思想と何よりの島国。

狭い日本、そんなに急いで、、どこへ、、
ゆえに、一つの場所でも快適にと、技術革新がすすんだ。
暑さ寒さに直接アクションするのではなく、
そのもととなる、湿度を調整して体感を変えるという発想は
たぶん日本人ならではの発想および、進化と思い
湿度を操る概念を進化させた技術者の技術視点は賞賛すべきだと思う。

2011-06-15

人道

人の人たる道、生き方。。。
って何?

みんなに好かれる人?
そんな人は絶対いないという論理が成り立つ。

部下に好かれる上司は、上司の上司や顧客から反感を買うことは必定。
この必定が、敵の敵は味方の論理で好かれることことにつながる。

みんなに好かれるということは決して無理。
好みがある以上は、嫌いもあるわけだ。
人道的ということは、ある意味、好戦的なはずなのだが、
なんか日本の認識はおかしい。

仮にもし、誰からも好かれる人がいたとしよう。
「この人は人道的な人で、みんなから好かれている」
と紹介されたら、僕自身は胡散臭いって嫌うだろう。
ほら、これで誰からも好かれるということは否定される。
結論的に、人道的なことはありえないといえる。

もっとも、僕自身を’みんな’の定義に入れないという
閉鎖的な考え方で、人道的を定義することもできなくもなく、
僕は人外扱いされれば別だが、、

健全

なんともあいまいかつ卑怯な言葉ではないか?

健全の定義は
考え方や行動が偏らず、調和が取れていること
となっているが、こんなことが成り立つだろうか?

学生時代に
健全な肉体に健全な精神が宿る
とか言っていたりしていたが、
健全な肉体ってなんだ?
健全な精神って今の成人、社会人はどうなんだ?

まして、顧客志向やカスタマイズ展開っていうことは
個人主義に偏っている証拠であり、
健全の定義と大きく異なるが、それが現在の有りようである。

身近な社会事象を挙げれば
学校教育で、健全な男女交際とか騒ぎ、PTAが無駄に活躍しまくった結果が
現在のソリタリー、晩婚化、少子化の一因になっているという自覚はあるのだろうか?

健全という大義名分のような言葉が今の社会を苦しめているのだが、
その事実とつけは、引き起こした者たちに自覚がないときているから、
日本の因果律の論証は困ったものだ。。。
これこそ責任が健全ではないといいたい。

2011-06-14

正直

真の意味で、正直とは結構迷惑な存在のことのはずだ。
正直者はいい人という暗黙の了解があるが、
正直とは、正しく嘘いつわりのないことであり、
現代社会で嘘偽りがないということは、
自分の思ったことを口にできる、社会調和を乱す存在になることが多い。

現在社会において、嘘偽りなく生きているという人がいるとしたら
「俺、今まで嘘ついたことないんだぜ!」という嘘ツキ小僧と同等のレベルであり
決してあり得ない。

正直ではなく嘘をつくことは、
私利私欲の嘘もあれば、相手を労わっての嘘もあり、
嘘つくと言う行為自身は否定できない。

ゆえに、正直であることは本当に美徳なのだろうか?

これもまた、古来からのインプリンティングではないだろうか?
統治者からすれば正直であれば、あるほど統治が容易になるからであり、
支配される側に押し付けられた統治者論理の美徳であることに気づいてもいい時期ではないだろうか?

まーー、小さい単位の統治は家庭であり、
子供が素直で正直だと、親は育てやすいということもあるが、
そういうことを願う親に限って、自分自身が正直ではなかった事実が往々にしてあり、
なかなか正直な子供に育たない。そんな子供ほど、親になってまた正直ではない子供が、、、

案外、正直とはありそうでないし、あってもまじめな存在には損なものと感じてならない。

2011-06-13

投薬

「あまり薬を飲まずに治したい」

という言葉が
健康ブームや自然治癒の流れかもしれないが
多く言われるようになっている昨今、
医療の最前線にいる妹からは

「じゃあ、死んでよ」

とあるまじき言葉を受けたが
それもそうだと思うことがある。

薬がその患者を楽にさせるために、開発させたものである。
薬によって、看病コストや悪化予防に貢献している。
人間の英知の結晶である。

その薬の投薬を拒否するということは
その恩恵どころか、看病、診療という他人に迷惑をかけることを当然という
図々しい表れそのものである。

まして、治したいということから、
既に病や怪我に冒されている状態であり
健康体を維持できなかった、生活管理能力の者の自覚がないとしか言いようがない。

投薬に対して、がたがた言う前に
自らを薬と関係ない生活に自分を持っていくことこそ考えずに
自らのわがままの発想で、他人様の思いを踏みにじるな

とのこと。
この発言に
本当に健康医療への思いを感じてならない。

自分さえよければとなっている健康ブームの現代社会。
そこまで健康になって社会の役の何の役に立つのか?
果たしたいこと、実現させたいことを持つ者は
自らの健康なんかより、刹那の小康への劇薬への投薬を辞さない過去の事例をみると
現在人の無駄な行為に首をかしげる。

2011-06-10

排気

この夏は、節電で冷房器具はなかなか使えない。
そんな話をしているなか、自分しか解らない暑さ、熱さがある。

みなさんのPCはノートパソコンだろうか?
最近はノートブック型が多くなってきている。
小さくまとめて、部品配置を効率よくしている
それにより、高性能、長時間稼働、コンパクトを実現している。

そんなPCは日々進化している。
しかし、進化しすぎて、僕は困ることがある。
多くの人は気づかない、いや気づくこともないこの問題。

条件は、
それは、高性能ノートPCなのにマウスを使いそして左利き
ゆえに起こること。

最近のPCは高性能を維持するために、小型で強力なファンで
CPUを空冷する。
その排熱を一番効率の良い場所、、PCの左側に送りだす。
日本製のPCならず、多くのPCが左側に排熱口を持っている。
マウスは必然的に、PCサイド、利き手側であり、右手が多い。
だから、排熱口はそちらではなく、左になっている。

その状況下で
左側にマウスを置いて使うと、、、、火傷になる。
本当に熱い。まして、この夏の空調では、、、、
僕の左手はいつも熱を持っている状態だ。

god finger かよって感じに、、

左利きゆえの悲しさか、、、

2011-06-09

旨味

うまみのあること、
うまいって言葉は実に多くの意味がある。

上手い
旨い
巧い
美味い
甘い

と漢字を使っただけでもこれだけあり、
味覚、臭覚だけでなく、
人間の五感すべてにうまいという表現が用いられることになっている。
いや、感覚だけでなく、社会、人間関係でもうまいという表現を使えるから
どこでも使える言葉になっていると言えよう。

適当に、相手に、「うまいねえ」って言っているだけで、
円満になる可能性すらある。

とりわけ味覚における旨味成分について言えば
実際問題、西洋人は気づかなかったものを
1913年に小玉新太郎が発見しなければ気づかなかったものである。
初めは一笑されていたが、実際に発見されて初めてうまいとわかった。
(余談だが、西洋人の多くは未だに旨味を認めるどころか、、、、味音痴なアジアとみなしているそうだ。)

っで、僕は思った。
うまいの真意は
当たり前、もしくは存在を気づいていない些細なことに
うまいは隠れているのではないかって。

旨味を求めるのではなく、
みのまわりにそのうまみをどう気付くかではないか。
案外、自分の身の周りにはうまいがあるかもね。

2011-06-08

信用

信用とは、虎の威をかる、、、と言い切れる。
自分自身の信用と言う表現も考え方によっては
過去の実績を持っている自分と言う人格の威を借りているのであって、
今の自分の能力ではないことが多い。

そう。信用という表現が出てきている時点で
当事者間において、責任能力、、力が認められていない状況になっているのである。
信用という言葉にこそ、信用がない事実に多くの人は気づいてないようだが、、

相手の信用を勝ち取るこということを
実のところ、いろいろな意味で妄想、騙しのレベルになっている。
相手への信用は、第三者評価からするとえてして、
なぜだろう?どうだましたら?って言われることばかりである。

でも、だからこそ、
信用と言うモノは他人との間では重要である。
互いが共有できる、言ってみれば当事者間の’世界(world))'を構成できるのだから、
互いが互いを認めあう、その塊が社会であって、互いが互いへの妄想が社会の結びつきといえる。

山に独りで住む、きこりの爺さん。
信用も社会もないが、
その分、現実と自然を色眼鏡なく素直に向き合っている。
どっちがうらやましいか??悩むところであるねえ。

2011-06-07

特別

日本人は特別という言葉を自分に有利な特権的に捉えることが見受けられる。
「あの人は特別だから、、、」
「特別扱いをしておかないと、、、」
という表現から、特別がつけれる者を有利にさせることが暗黙の了解になっている。

が、しかしそれは日本という地域のローカルルールにすぎない。
特別は、いい方ではなく悪い方に使われることが多い。
ラテン系言語だと特別とは例外処理と同じであり、
通常ではない蔑みの意味が見え隠れする。
「特別な存在だから、なにをされても構わない」
「権力者から特別な扱いを受けているから、殺されてもいたしかたない」
と言う表現が多々見受けられる。

だから、英語が出来ない日本人は英語の言語だけではなく文化の理解が弱い自覚がないままで
海外に招待されて
「自分は特別な存在だから、、、」
って表現してしまったために、殺されても仕方がない結果になる可能性もある。

この表現をレアケースと思っている日本人が多いと思うが、これは身内におきた事実である。
そんな甘い認識でグローバル展開を口にする日本人こそある意味、’特別’だと思ってならない。

2011-06-06

仲良

教育の現場と市場社会とのギャップの一つといえる。
仲良しであることはいいこととされるが、
決してそうではない。
武者小路実篤の言葉と真っ向からぶつかるが真実は僕にあると言い切れる。

「仲良きことは、、、疑わしきかな」

ビジネスにおいて、仲が良いとされると
癒着や違法性の温床になりかねない。
また、そのような疑いをもたれ、ブランド性に影響を与えることにもなる。

互いを切磋琢磨できる関係こそ、って思うだろうが
真剣にビジネスを行えば、そう簡単に仲良くなんかできないだろう。
互いの存在が大きくなればなるほど、紐づくものの利害関係も大きくなるのだから。

仲良くなろうという幻想より
今の自分において、相手と自分の最大公約数たる利益を常に考えられること
ビジネスライクで示されるように、自分の役割を満たしていくようにしていくべきこと
これがある意味、能力主義、市場主義と確信している。

2011-06-03

製品

自分の組織の責任で製造した物が製品であり、
外から仕入れて売るものは商品である。

おかげさまで、弊社として社会にアプリを公開できた。
製品として自負できるが、必ずしも金銭対価だけが製品の評価ではないので
無料での提供とさせてもらった。

目的意識、使用による費用対効果がないものに価値が見いだせないうちは
使ってもらってこそと思い、製品を提供させてもらった。

対価をもらうには、それ相当に目的達成があってこそ、
製品としての本分は弊社とともに価値を見出してくれる人たちの手元にあってこそ
今後もこの気持ちで多くのモノをリリース出来たらなあって思っている。

2011-06-02

扇動

現在の民主主義、、国家レベルではなく小さな組織レベルでも
多くの場合はメディア扇動が意思決定になりつつある。

自分がやりたいという意思ではなく、
「周りに押されたから」、
「責任のない声が高まってきたのでやらざる負えない」
ということがみえる。

多くの庶民レベルはメディア扇動と民意を混同しているが
独裁を悪だという思想よりメディア扇動を民意と思いこむ民衆心理のほうが
治安悪化を導くのではないかっと思ってならない。

メディアは責任のない発言で煽っているだけだから。
その言葉を鵜呑みにする民意もまたしかりであり、
結局、誰がどういう意思で、思いの力を無にする。
これは、夢を実現させるや努力の結果という今までの人間の目標意識を阻害するといえる。

既存の価値観をいつまでも維持することは
僕の本意ではないが、
責任なく、他人の思いを踏みにじることを第三者に扇動する発言については、、、
僕の統括する組織においては決して許さない。

2011-06-01

手当

本来は応急処置の意味だったが、
今では追加報酬分の意味合いが強くなっている。
それどころか、もらって当然にという計上の仕方になっているところもある。

このもらって当然は大きな問題だと思っている。
手当の特別に手を当てたことへの報酬であり、
当然という意味であっては手当を出す意義がない。

現在では手当の上にまた手当のように、
特別の特別が積み重なる。

基本人間はシンプルに考えたいというが、
実際問題、特別に特別という相手への敬意行為が
世の中を複雑かつ悪くしているのが実情といえる。

弊社は手当の概念がないから、賞与の基軸がぶれないで助かる。

2011-05-31

笑顔

多くの人は笑顔が好きっていうが、
実際問題、多くの経営者は笑顔を必ずしもいいものと思っていないことが
タブーになっている。

実際には
社員が笑顔であるときは仕事で楽をしている、真剣に取り組んでいない証拠ともなる。
また、顧客が笑顔であるときは、困っていない → ビジネスチャンスが発生しづらい状況
であるともいえる。

この表現について、多くの人は言訳をすることは明白だが
人間の心理において否定はできない真実といえよう。

極端な発言を緩和させるとしたら、

 他人を笑顔に持っていくことが、人間の使命であるが、
 人間が笑顔であり続けることは、人間の欲求としてありえない。

笑顔に隠された事実に多くの人は本当を見出さない社会と感じてならない。

2011-05-30

優秀

市場社会において、
<優秀である>と<できる>とは異なる。

それは、
思っている側
思われている側
互いにそこのギャップでつらい目にあったりする。

優秀であるといわれる根拠の多くは過去である。
資格、実績、評価は現時点から見て過去の結果である。
過去であるということは今ではない。

できるというポイントは、今の心情が大きい。
現状において、有益である存在には、できるという認識をもってくる。

現在と過去は時系列としてつながっていても
人の思いはつながるとは限らないということかもしれない。

優秀≠できる ではないという事実を多くの人が悟っているのだが
逆に、できる人と証明する方法、探すという方法が
過去のからの優秀の評価提出しかないのも、現代社会のジレンマと思う。

2011-05-27

庶民

僕の記述において、’庶民’と見下している表現が多いことの指摘を受けたが
あえてそうしているのである。

僕はわざわざ言葉で表しているだけの違いで
多くの人間の本質は上記と同じあると言い切れる。

「上昇志向」
「今より高い次元にすすみたい」
「もっと上流の仕事」

と表現すると、前向きに受取っている人が多いが、
この表現は背理は

「今のままでは満足できない」
「この環境にいたら、自分はダメになる」
「現在の下流に耐えられない」

となり、現状の仕事、生活、価値を持っている人への見下しを内在しているのである。

日本人は表現が間接的かつ曖昧だが本音はえげつないと思っている。

上昇志向というオブラートに隠す表現ににげているだけで、
僕と同じように、他人、、つまり一般の庶民より抜きんでたいことを隠しているだけである。

僕はあえて、自分の上昇志向を隠さず、表現している。
他人より違ったところへの渇望を文章にしているだけである。

庶民的な発想を擁護する人の多くは
自分の目指すところと現状が違うという思いを論証する能力なくして
高みを目指すことはあまりにも虫がよく、根拠のない発想と逆に思うのだがね。

2011-05-26

休日

計画停電、電力削減義務のおかげで
休日の分散化が進んでいる。

僕としては
これはある意味あるべき市場開放と思っている。
24時間営業が解禁された時点で休日と言う概念はなくすべきだと思っているし、
そう経営している。

そもそも市場原理から考えれば
需要と供給の一致が成り立てば取引成立であり、
そのタイミングを休日というルールで抑止すべきではない。

欲しいときに適切な価格で手に入れられることが市場である。
休日料金という発想自身、自由取引になっていない。

家計の購買は大概、非稼働時間である。
非稼働時間の塊が休日と考えれば
購買する機会が分散化される傾向であり、
その購買機会に供給がマッチすればより市場活性化されるといえる。

みんなが休むという概念から
自分が購買する機会の到来という考え方に立つように
休日の概念を変えることがあるべきだろう。
みんなが働いているのに自分が休んでいいのかではなく、
その働きに報いようと思うように。

2011-05-25

鈍感

現代人の多くは僕からすれば、鈍感の極みである。
鈍感力という言葉があると言うことから、逆に
sensitive になっているともいわれるが、
感覚がマヒっているので、そのレベルではない。

鈍感たるゆえんは、そもそも、
敏感であれば条件反射のごとくアクションに移すものだが
シュミレーションや疑似経験の知識から
そのことの顛末が自分なりに解決できると思ってロクに行動していないことがいえる。

しかし、現実社会は実際に動いているものが
新興勢力のように市場や社会的地位を奪取しているのであり、
その動かなかったことを、権利の名のもとに騒ぎたてるだけでと言わざる負えない。

物事を知っているかのごとくにより鈍感になるより
無知のごとく、すべてのことに敏感に感じ動くことが極めて重要である。

これは、巨大化しすぎていろいろな意味で鈍感になった
恐竜の末路が物語っているともいえる歴史的事実といえる。

2011-05-24

卑怯

他人に対して、謗るときに用いる言葉だが
結論からいえば、負け犬の遠吠えだと思う。

正攻法ではないアクションで結論を得たものに
正攻法を重んじた人間が口にする言葉だが
正攻法が善なんだろうか?

知恵を使い、新たな価値を見出したものを卑下することこそ
愚者の発想ではないだろうか?

卑怯といわれるシュチュエーションからして
相手に勝ちたいという争いの場である以上何が何でも勝ちたがるものだろう。

歴史的にみて
そもそも、拳の殴り合いに誰かが木の棒を見出し、それで武器を持ち立ちだして卑怯と言われ
でもみんながその武器を使いだすと、石を遠くから投げて卑怯と言われ
今度は飛び道具が普通になると、火薬が、、、、
と卑怯と言わるものが普通になるのが人間の歴史言わざる負えない。

卑怯っていう人間より、卑怯って言われるが後の勝者と思えてならない。
今の謗り、後の栄華、を長期的に見えるかどうかがその人の人生観かもしれないが、、

2011-05-23

秘訣

メディアで配信されて、興味を引く言葉のひとつ。
他人が知らないとされるものを知りたいという知的好奇心をもつ人間の性だといえる。
他の動物なら、他の同種が行っていない行動をとりたがらないのが
本能的に備わっているからだ。

しかし、近年の秘訣という言葉。
大したことがない。。。。いや思うに当たり前のことをが多い。
そして、永続的な結果であることが多い。

秘訣という言葉に騙されているが
実際は、同じことを長く繰り返した結果が今になって実を結ぶわけであり
毎回、新しいことに飛びついている近代人に秘訣の真意はわからないと思う。

僕とて、このブログを毎営業日に欠かさず更新していることに
「毎日更新する、ネタと休まず継続する秘訣は?」
と問われたことがあったが、、、結論からすれば、

僕の才能と意地

としか答えられず、それを他人がまねできるものとは感じない。
その人なりのやり方、
もしくはその人の限界があるだろうから。

2011-05-20

勉強

実に面白い言葉だ。
勉強とは何をすることをいうのか?

勉強と学習の違いは?
熟語だけに、漢字を分解すれば
勉とは、イメージとしては、集中して、一心不乱
強とは、強く、たくましく
であり、、、
必ずしも、学問である必要は感じないのだが、
漢字発祥の中国では、科挙を受ける人に向けて使ったことから由来して
学問に当てていると言える。

しかし、、、近代国家においては
学問の専門化
実学という概念の登場
学問=仕事の成功 とは言えなくなってきている。

勉強するという概念を現代として定義調整をすべきであり、
座学ではなく
インターンやOJTのように
生き抜くために人間社会での生存力を高める活動に使うことに
当てるべきではないかと思う。

2011-05-19

我儘

我儘(わがまま)とは悪いことだろうか?
いや、わがままこそ、社会の方向性だと言い切れる。

他人への譲り合いをしていても
相手側が譲ってもらったと思わない社会であり、
その譲り合いが結果的に責任転嫁の論理をも導いているといえる。

俺が俺がということを日本は嫌がってきたが
国際的にそうは言ってられない、国民の多くが日本の美徳感を失っている以上
我儘であるこそが、個性かつ自己生存に繋がると結論づけられよう。

基本、我儘であってもなくても、他人から人は批判されるものであり、
どうせされるならという思いを持つべきである。

戦後の日本がお手本にしているUSAなんて
俺が、俺が、の国家であり、
その論理に現代社会は迎合している以上、
我儘を批判することこそ、価値がないと思えてならない。

2011-05-18

御前

ごぜん
おんまえ
おまえ

といろいろな読み方、その読み方で用途が変わる表現といえる。

‘ごぜん‘と読めば、高貴な女性に
‘おんまえ‘と読めば、偉い人への尊敬に
’おまえ’と読めば、侮蔑の意味を感じずにはいられない呼称に

日本語の難しさと感じてならないことだが、
日本語、、日本の由来のルーツを考えれば

 高貴な人が使う最先端な表現を、下々が真似る。
 しかし、下々の間でも、そう高貴でもないものが使うぎこちない表現を
 批判して侮蔑の意味を内包させてしまう。

が導けるので、御前もその流れの言葉と言える。

綺麗な日本語を求める声があるが
基本、日本語は汚れていく、汚れた言葉である自覚をもって丁寧に使う方べきだと思う。

そもそも論で考えれば、
敬語表現、その語法があると言うことは
根本的に公用語が汚れているという考え方に立つ視点を持つべきと思う。
日頃から使っている言葉が汚い自覚の現れ以外、何物でもないということを。

2011-05-17

図示

毎日、こんなつたなき文章を書いているからこそ
説明資料において、図示を描画することにありがたみを感じている。
はっきり言えば、文章量に比例して、図示のありがたみが感じると言い切れるだろう。
文章を書くということは、自分でない他人に何かしらを伝えたいと思うあらわれであり、
その際に、言語を使うことが一番便利である反面、
一文字一文字で説明することはくどくなってしまうものである。

それに対して、図示することは、
全体像を一見で伝えてしまう強さを持つ。
その分、詳細なところは伝えられないけど、、

映像化、描写技術の進化で、自分のイメージ通りの図示が簡単に作れることで
表現することは楽になったといえる。
しかし、その分、対して文章を論理的に構成していない輩の表現誤解、誤認が多くなり
反面的、相手へ伝達がおかしくなっているともいえる時代である。

ちゃんと文章を書き、ちゃんと文章を読む。
そのうえで、図示を交えて表現することでより鮮明化させる。
そう思い実践をすすめることで、他人と接するべきと思う。

2011-05-16

石鹸

石鹸、、シャボンは、脂で作られる。
そして、石鹸を使うときは、
体の油脂を落とすことに使われる。

以前、消毒について記述内容に酷使している。
人間は身をきれいにするときに
それと同じ成分、由来のものをぶつけて相殺することが多い気がする。

これは、日本のことわざにもある
「毒をもって毒を制す」
はあながち、諺というより科学的立証に基づいた行為ではないかと思ってならない。

2011-05-13

判決

司法という概念が揺らいでると言える。
司法判断がされるということが
ある意味、物事の最終決着であることが
近代法治国家の有るべき姿であり、その判断に国家構成員は従うことが前提である。

とはいえ、
価値、概念の創設が加速度的な現代において
法律がその統制に間に合っていなく、
判決をすべき裁判官たちも、自らの専門性にのみ特化して
社会事情に疎いことが往々にしてある。
この状況下で、納得のいく判決は難しいと言わざる負えない。
そして、メディアの自由化により、
その判決を容易に批判や社会的圧力で
裁判行為自身を否定する活動も無視できなくなってきている。

近代以前は村長、長老等のコミュニティー内の一切を経験してきた者がその判決を司り
そして、そのコミュニティーの経験からの判決だから、それに従うことも納得のレベルであっただけに、
現代社会の人口爆発、仮想空間、伝播速度の超加速化は
もはや判決を言い渡すだけの統制力を持てないと思うべきである。

判決を使用するな!というより
判決を求めること自体、
価値の時間的変異、
拘束による停滞時間が
結果的に不利益をもたらすことが想定されるだけに、
判決の万能性に期待しない、そうではない選択肢を持つことを意識したい。

そもそも、判決とて裁判官の一価値観にすぎないのだから
他人の意見に従うこと、現代人には納得のいくものではなくなってきているといえる。

2011-05-12

崇拝

信教の自由であることは、近代国家における基本的人権とされている。
しかし、どうだろうか?
新興宗教やちょっとした儀式をもつ宗派は
カルト教団というレッテルはられて、自由どころか迫害を受けることになる。
結局、最大多数の宗教、、自由ではなく数の論理で崇拝は成り立っていると感じる。

信じる力はすごいと言うのは、信じるというより陶酔、無心により
それぞれ個人に架せられている枷(常識、通念、痛み)からの解放が
潜在能力を引き出すということだろう。

あるものを信じて、崇め、拝む行為により
自分の行動にかけられた枷を外すことへのためらいをなくす
それがすごい力と言えて、実際にはもともと人は力をもっているのだろうって感じる。

その枷をとるために、それぞれの思いえがく崇拝対象であってもいいのだが、
それがあまりに少数意見だったりすると、
大きな宗派や社会からの弾圧、迫害が当人への枷になるという現代社会。

なんか、自由を保障することが形骸化しているなら、
いっそ、信仰の自由って明文化する意味があるのだろうか?

2011-05-11

学力

巷で言われる
「日本の子供の学力が国際的に低下している」
という言葉で危機感を煽り、教育費の支出を促しているが、、
本当に学力が下がっているのだろうか?

僕は学力という概念では低くなっているとは思わない。
それが受験戦争時代に比べてのゆとり教育であっても。
教育における科学的技術進化や教育方法の改訂が学力向上には役立てていることは事実だ。
たぶん、今の子供と同年代だった親の知識レベルは圧倒的に
現代の子供のほうが多いといえるだろう。

しかし、僕からすれば、学力なんてものはどうでもいい。
勉強が出来だけの秀才や世間知らずの学者は僕にとって社会悪とみなしているからであり、
僕にとって、重要なことは学力に裏にある向上心、好奇心が重要である。

できるようになりたいという向上心が当人の革新をもたらし
知りたいと思う好奇心が当人の集中力、爆発力を導く。
それを引き出す手段が、学力向上活動であるべきである。
学力は目的ではなく手段であり、
学ぶという気持ち姿勢がその当人の可能性を引き出すと思っている。

嫌々ながら詰め込み教育で大学まですすんだ
学習意欲のない人間の結果を学力があるということは
結果としての数値的指標として正しいだろう。
その情報をもとに、次のアクションをどうするかできない人に開示していることに気づかない
愚かしさを除けばだが、、

2011-05-10

根本

現代社会、とりわけ日本社会において
根本的な問題ではなく、その取り巻きにばかり攻撃、責任を求める傾向が強い。

・問題を起こした生徒ではなく、それを起こさせた学校教師陣に
・殺人犯を事前に捕まえられなかった警察機構
・サイバーテロで攻撃を受けて、情報を流出しさせてしまった企業
・行政指導に基づいていたのに防災していたのに、災害を出した半官半民企業

僕としては問題のは

・問題児の生徒
・殺人犯
・サイバーテロリスト
・天変地異(誰にも非はないとしか言いようがない)

であり、ある意味攻撃、責任を求められている側はある意味被害者だと思う。

仮に事前に活動すれば

・生徒の自由を奪う教育
個人の人権を無視した越権逮捕
・技術革新を阻害する訴訟企業活動
・ありもしない災害へ無駄な税金を使う防災対策

と批判されていただろう。

はっきり言うと、現代社会の発想卑怯である。
根本的な問題にメスを入れることを嫌がり、
無責任な社会的生贄を作り出す思想だから。

言ってもわからない存在にいうより、
その周りに、「言ってもわからない奴を野放しするな!」
って騒いでいるだけだから。

基本の現代人とみなされないように
自己啓発、社員教育、社会人活動の啓蒙をすることが
本当の社会的な根本対策だと確信している。

2011-05-09

現場

よく日本人は
「現場、現場」
って口にする。

でも、それは大きく間違っていると思ってならない。
確かに現場は事実だろう。
しかし、事実であって、そこに未来はない。
「今をよくしたい」という要求は、
新たな見解、価値の創設の足かせになりかねない。

時代は変わってきている。
改善という言葉、既存価値の延長である以上、
それは変わらないので、現場という概念を捨てることを視野に入れたい。

自分の細胞もそうである。
「お肌をきれいにしたい」
ということは、今ある細胞を代謝で入れ替えることでしかきれいにならない。
そこは現場の肌細胞の改善ではなく、入れ替えでしか見いだせないのだから。

2011-05-06

電池

昨今の節電傾向から、蓄電池需要が高まっている。
知人が
「仕事も蓄電池できたらなあ、、」
っとぼやいたが、それは蓄電池の意味を理解していないし、
君には無理だよって返してあげた。

蓄電池はピーク時の負荷を下げるために有益な手段とされるが、
そのためには、ピークではない時に、貯める行為が事前にされなくてはならない。
今忙しいことを事前に行っておく、準備と予測とその時間見積りが重要である。
悪いが、僕はその概念で動いているので、それなりの負荷分散はできているし
だからこそ、他者の無自覚な介入に大きくいらだちを出すのはその自己管理ゆえである。

蓄電池できたらなあって発想すること自体
貯めるという行為を理解していない証拠と思ってならない。

考えてみれば、節電、節電いわずも
いつも電気代を意識してれば、日々節電になっているし
蓄電池なくて大丈夫な生活リズムになっているはずだと思ってならない。
電気代の明細には、先月、昨年比をわざわざ明記しているのは
今に始まったことではないではないかと。

2011-05-02

空缶

缶コーヒーをものすごく飲む僕としてはちょっと気になってしまう。
缶コーヒーの缶の原価っていくらなんだろうって。

缶コーヒーを買う時に、
間接的には、その容器である缶も買っているわけである。
つまり、缶はコーヒー代以下である。
そして、飲みたいコーヒー飲料自体より価値は低いわけであるが
原価としては、、もしかしたら、缶のほうが高いのでは?って思ってしまう。
もし缶に代わる製品が出てきたら、缶コーヒーは安くなるのか?

そして、みみっちい僕はもう一つ思う。
液体物は容器に入れないと運搬できない。
でも容器に入れれば、入れるだけその容器に少なからず付着してしまう。
入れた時に、出す時では減っているので。
この減り分を限りなく0にできるそんな容器になれば
飲んでるコーヒーをすべて飲むことができたと感じるのだが、、、

たった一服にここまで思ってしまう、自分が嫌になる。

2011-04-28

思念

常に心に深く思っていることとされる。
残留思念とか、オカルトな発言もある。
かなり曖昧な表現かもしれない。

思いを念じるという漢字をあてていることから、
ある人物が強く思いを持っていることといえる。

自分の存在を強く示す考え、思いを言うわけだが
思念を持つということはそこまで、
現代社会では極端な扱いを受ける。

あるときは
思いをもって事にあたっていると好感されるが
あるときは
一つのことに固執していると蔑まれる。

現代社会が個人自由主義にしたために
思いをもって行動にあたれる反面
心ない者から批判されることもありうる。

思いを持ってあたること
それは自己満足とみなされることも自覚して
しかし、自分は自分と確立してあたろう。

2011-04-27

姫若

姫のように、なよなよした若君
おもに、四国の雄、長曾我部信親公に当てられる。

しかし、歴史的にみて
姫若とされるモノは成長すると雄、、いや非道な存在になることが多い。

同戦国時代でいえば
織田信長しかり
北条氏康しかり、

もっと古い時代は
源九郎判官義経もそれにあたる。

なぜだろうか?

その思いについて、僕は北条氏康から読み取れた。

姫若というほど眉目秀麗ではないが
なよなよした幼少期で
鉄砲の音で驚いて、失禁してしまった北条氏康。
でもその後、氏康傷という言葉まで作ってしまうほど武者になった。

理由は簡単だ。
あるべき価値観にそぐわないと揶揄された者の反骨精神と
既成概念に従わない機転の利いた行動ができるからだ。

あるべき男像を強要、揶揄されて溜まったフラストレーション
そのフラストレーションを与えた存在に対してへの自己打破を込めた躊躇ない仕打ち
が彼らを今に至らしめた。

氏康傷なんてものは
そのくらいじゃ命や後世に支障がないと判断で受けられる
氏康公の計算が読み取れる。

「武士として、、」
「男として、、、」
という既成概念を立てに相手を責めると
後の世では、旧時代の象徴、淘汰対象として処理されかねない。

既成概念のおごりは
その後に、下手をすると後世まで
蔑んだ者の引き立て役にされかねないということが歴史から学べる。

2011-04-26

頭痛

具体的、抽象的に使用される言葉。

本当に頭の内部で起きている痛みもあれば、
自分の周りで起きている多くの不利益な状況にも使用される。

頭が痛い、
という表現は機械的に言えば、
自分にかけられたオーバーロードな状態であり、
平常心で処理ができないということである。
そして、この事象は他人からすればファントムペイン(幻肢痛)を導くことになる。

ただ思うのだが、
頭痛なき行動ってことは、
リスクもなければ、喜びもないということに感じる。
何かをして、何かをえるためにはそれ相当のものがあるべきで、
その代償が、悩みからの頭痛で済むのであれば
それもまた受け入れるべきものではないかと思う。

本当の頭痛(クモ膜下~等)の事象は本当に命に関わる。
それこそ、頭痛という言葉でいいと思うし、
その言葉を聞いて即時対応が求めれる。
対して、悩みレベルに頭痛という表現を使うのは
現在の日本語、読解力のレベルからすると使うべきではないかと感じてならない。

2011-04-25

文学

言語表現による芸術作品。

英語では literature なんだが、日本語では学ぶという字が入る。
そして、文学を学ぶことは、文芸学とされる。

それでは大学の文学部とは本来、文芸学部というべきなのだが、
多くの日本の大学は、文学部といことが一般的になっている。

言葉を研究する学問のカテゴリの日本語が間違って使われているという事実はどういうこと??

それゆえ、多くのことで思うのだが
日本人って文章、言葉への理解がものすごく曖昧であり、
かつ相手に憶測を与える表現が多い。
それゆえ、奥ゆかしさと自己表現力の低さという一長一短を導いてしまっているのだが
その事実は、、、文学部、、いや文芸学や教養学を専攻している人間は気づいて学んでいるのか?
って思ってならない。

本当の意味で、日本人は
文を学ぶということを真摯に取り組まないとならないと思う。

2011-04-21

鍛造

金属を叩き、形にしていく。
鍛造という行為は、限りなく破壊的な様子で進められることになるが、
その行為の先には、とても研ぎ澄まされ、堅固な形状が生まれる。
鍛造する行為は物事の本質といる。
破壊的行為により形状が研ぎ澄まされていくことで価値が高まる。
いろいろな角度から打ち叩かれて、、、
物によっては、砕けてしまい
あるものは、ふたつに割れてしまったり、、、
そこで鍛造に耐えた金属が職人のもとから市場に出て行く。

砕けたもの、二つに割れたものは再度溶解されて
チャンスをえることになる。

鍛造行為に耐えたものが有価値である。
途中で挫折したものは、
原型をとどめることなく、溶かされて一から出直しになる。

現代社会の温情主義が
途中で挫折したものにチャンスを与えることが多いが
そのチャンスは出直しであるべきだと思う。
砕けたものをいくら叩いても、強度が低下する一方である。
割れたものを強引にくっつけても、そこからまた割れ出すことは明確である。
今までの努力をたたえることはより
融解して、一から再構成して真の価値を得ることが重要と思う。

破壊的に叩く鍛造行為は、
結果として、壊れない造形物を作り上げるという
起因と結果が矛盾にも似た帰着を示すのはとても面白い。

保証

保証って案外いらないものかも?

僕のSONYのVAIOは3年間保証に入っていたので
キーボードのキーが1つ外れたことから
修理に出したら、

契約約款の第7条のどれにも当てはまらないので

保証外だといわれ
部品代+工賃を請求された。

現在訴状を司法書士に相談しながら、
頭にきて、消費者相談センターに電話したら、
「そのメーカーは行政指導が通じません、彼らは国際企業であり
 アメリカの商取引約款に準拠していると言い張ります」

って言われた。、、、それでいいのか、、、消費者庁。

これで憤っていたら

その顧問司法書士の先生も
買ったPCが全く動かないので
販売店に販売店はメーカーに連絡したら
免責だといわれ、司法書士だけに訴状をあげたら
なんと、PCの製造会社が外資だから
日本の訴状は通じないっていわれたそうだ。

なんとも、、、このやろう!!!って思うが、、、、

購買するときのメーカー保証は
製造物責任法があるけど、
案外、役に立たないということがわかった。
顧客志向と謳う企業はそれでいいのか!って思ったが
現在の怒りも失せてきている。
メーカーからすれば、
大切に扱っていないクレーマーは顧客ではないという思いになるなあ。

一概に僕や司法書士の先生も
買った以上その所有権を得た時点で
保証というものは忘れたほうがよかったのかなあって思う。
マクロ経済的は、その費用で経済が回ると思うことにすれば
それもそれでいいかなあって感じる。

安い、タダだと騒ぐことを否定していることも多い僕なのだから
保証というおまじないにこだわることより、
経済をまわそうって思うほうが前向きかな??

2011-04-20

引責

責任を取るという行為はどういうことだろうか?
「俺が責任を取る」
「引責辞任をする」
という言葉ある。

責任を取るためには多く場合が
責任者の個人所有物の対価代償になる。

それは金銭ではなく
時間
地位
労力
物質
ということになる。

その前提で引責を考えるならば
問題が起きたから引責するのではなく
その問題への対処の筋道をつけてからだと思うのだが
最近の日本では、その筋道をつけることも許さないという傾向が高い。

しかし、多くの引責を見ていると
筋道をつけずに所謂放棄した引責は次の引責をすぐに呼ぶような気がする。
毎年、引責辞任を繰り返しているような気がする企業が多く、
その引責者への退職金ばかりで逆に弱体化していることも気になる。

引責する以上は
ある意味その規模間への引責を示してから
身を引きたいものである。

もっとも僕は、引責より勇退を狙うがね。

2011-04-19

貸借

会計経理の貸借のほうにビジネスでは話が進みやすいが
もの、、、いや恩の貸借について言及したい。

僕が思うに恩、行為の貸借はかなり崩れてきている。
恩を恩と感じない、逆にさせてやっているという思いの登場がある。
これは、社会の人々が悪人になってきている、、、だけではない。
社会の貢献活動の多様化、細分化が導いていることが挙げられる。

具体的なキーワードをもとに話そう。

サービスの無料化は、
今までは使うことへ対価を支払うものであったが
その使用を無料化、、強いては無料で使ってもらうことで得られる情報が収益になることから
無料で提供する側が「使ってください」という姿勢になっている。
それゆえ、「使わせてください」から「使ってあげよう」に使用者が思うようになる。

ボランティア活動は
近所の助け合いが、広域化、余暇活動、社会貢献性という色合いが強まって
近所の助け合いのころにあった
「昨日、お隣に迷惑かけたんで、今日はその恩返しで」
という思いは否定され
「対価を求めない無償行為」
となり、受ける側の感謝の行為対象を同じ人格に返信できなくしている。

いろいろと社会は進化しているが、なればなるほど

<灯台下暗し>

に感じてならない。

今自分の貸借はどうなっているか、その貸借は実際には
誰への、
誰からのものか、
を考えることをして、
少なくてもその返しかたを意識したいものだ。
無償サービスの目的が情報収集ならその目的に応えた真摯な
回答、入力は出来るといるのだから。

2011-04-18

取材

ある報道の御大の言葉がある。

「取材っていうのは、方法が三つあるの。盗むか、だますか、買収するかなんですよ」

すごく感銘を受けた。
取材という情報収集の本質は、こういうことだなあって。

一般的な庶民感覚だと、ひどいことって思うかもしれないが
そうやって仕入れた取材情報を平気な顔で享受している庶民は共犯の自覚がないのではないか?

例えば、
悪い噂のある政治家の家に盗聴器を仕掛けて
その悪事の会話を仕入れて報道すれば、
悪いのは政治家であり、その盗聴器を仕掛けた取材行為は問責外になりやすい。
その問責外にするのは、報道を観ている側が民意誘導されるからだ。
盗聴という悪しき行為を幇助しているのは聴衆ということになる。
その奥にあるより大きい悪意があればこそである。

知りたい悪意とは、、、創世記の禁断の果実といえる。

取材行為自身の多くは社会で言うところの悪意ばかりである。
しかし、それで得られる果実を欲するのが社会、民衆であり、
自分以外の悪がそれをすれば自分はその人のから受けただけであると言いたがる。
より悪い果実を手にしている存在がいるからこそ許されると勘違いする。

取材で得られる情報とは禁断の果実であり、
それをもらったからかじっているイブそのものが社会、民衆であり、
人は悪意からは昔も今も逃げられないと思ってやまない。

2011-04-15

痛覚

痛覚は身の危険を知らせるためにある生存機能である。
痛覚なくして、人間は進化しないものである。
痛みからの解放に向けて、人間は智恵を身につけてきた。

ある実験では痛覚をとってしまった動物は
行動や感情が鈍ると導いた。
苦しんでいる人がいるとしても
人間の感覚から痛覚を抜いてはならない。

そして、痛覚を感じさせる行為も社会からなくてはならない。

今の人間は
相手から暴力を受けたら、
暴力をふるった方が悪いという前提で横暴を繰り返している。

しかし、その横暴ゆえに暴力を振るわれる行為を導いているという自覚に鈍感過ぎる。
痛みを知って、その行為をしないようにするために
もう少し、折檻行為に寛容にしないと社会性の悪い動物になり果ててしまう。

飼い犬が人間より自分の地位を上に思ってしまう事象も
躾のできていない人間ゆえに本能的に犬は優位を感じてしまう結果と思えてならない。
犬の縄張り争いは互いを咬み合う痛みの中に成り立つのだから、
甘やかされた人間社会にいるのだから、犬自身の存在を上に思えてしまうのも当然の結果といえる。