2011-05-12

崇拝

信教の自由であることは、近代国家における基本的人権とされている。
しかし、どうだろうか?
新興宗教やちょっとした儀式をもつ宗派は
カルト教団というレッテルはられて、自由どころか迫害を受けることになる。
結局、最大多数の宗教、、自由ではなく数の論理で崇拝は成り立っていると感じる。

信じる力はすごいと言うのは、信じるというより陶酔、無心により
それぞれ個人に架せられている枷(常識、通念、痛み)からの解放が
潜在能力を引き出すということだろう。

あるものを信じて、崇め、拝む行為により
自分の行動にかけられた枷を外すことへのためらいをなくす
それがすごい力と言えて、実際にはもともと人は力をもっているのだろうって感じる。

その枷をとるために、それぞれの思いえがく崇拝対象であってもいいのだが、
それがあまりに少数意見だったりすると、
大きな宗派や社会からの弾圧、迫害が当人への枷になるという現代社会。

なんか、自由を保障することが形骸化しているなら、
いっそ、信仰の自由って明文化する意味があるのだろうか?

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