2011-02-28

規制

規制とは
特定の目的実現のために、
許認可・介入・手続き・禁止などのルールを設け、
物事を制限させることと辞書的に定義がある。

しかし規制とは
飯の種、ビジネスチャンスにほかならない。

法令で規制が決まれば
必ずそれにあわせたビジネスが立ち上がる。
それで稼ぐことができるのである。
例えば、
J-SOX法が施行され始まれれば
内部統制プロセス支援サービスが立ち上がる。

規制は制限ではなく、解禁であると捕らえるべきである。
制限される人があれば、
その制限を緩和、代替を提供するビジネスが立ち上がるのである。

僕は現時点では為政者ではないから法令に言及はしないが、
支配下に対して、あえて規制、制限を加えることが
新たな付加価値を生み出す温床になると思っている。

規制緩和を求める???
僕からすれば、もっと規制を増やしたほうが
ビジネスが多く立ち上がると思うがね。
規制されているからこそ、仕方なく人は財布を開くものだから。

2011-02-25

彩雲

彩雲とは
太陽光線の強い箇所を通りかかった雲がプリズム光で彩られること。
雲が虹色にみえることといえるだろう。

東洋において雲は神秘的に捉えている。
いつ発生して、
いつ消えるのか、
どこに向かっているのか、
なぜそのようなカタチをしているのか、
雨をもたらす恵みなのか、
太陽を遮る忌みべくものなのか、
存在そのものが定義できない。
まして、彩雲のように白い塊、黒い塊でもなく
輝きを放つこともあるのだから。

雲という存在は
僕としてはとても意識しているし、
隠居してから号するときに使いたい漢字である。

雲を自由の象徴と捉える人もいるが
僕としては、
雲とは人の気持ちを表す鏡ではないかって感じる。
雲を見たときに感じた思いが
その人の今の心情であり、その具現ではないかと。

彩雲を見れたとき
そのときの人の気持ちは
たぶん、開闢の至りではないかと。

2011-02-24

聞分

日本だけでなく、全世界的に問題になっていることがある。
民主主義、法治国家において
聞き分けがないものへの処罰は罪かどうか?

庶民レベルで口にする
「武力暴力はよくない、口で説明して解決するべきだ」
ということがあるが、ある意味これが悪の温床になっている。

武力暴力がないからこそ、いくら言われても気にしない。
だって、自分がいいと思っているんだから。
という、非暴力の悪意が蔓延している。

いくら口で言っても通じない、
だから、暴力ではなく公権力を使おうとも
その公権力は個人の自由への干渉はできないし
対応が極めて遅いという発動が全く合理的ではないといえる。

そこで自己保全のために
行動に出ると結果、行動を起こした者が処罰される。
つまり、自らが侵害されている事実への対抗行為が罪になるのである。

日本の犯罪の怨恨性をたどればここになるし
近年では、UK、ラトビア、ロシアで起きている事件にもこれが挙げられる。

暴力を否定しても、
聞き分けのない人間が多い社会では意味がないんではないか?
昭和初期、
近所のおじさん、おばちゃんに
悪いことをした子供たちがポカポカ殴られていた時代のほうが
子供たちに聞きわけがあり、
地域社会的な治安があったのではないかと思うことが多い。

僕自身、人間として破綻しているかもしれないが
家庭の事情もあったが、
昭和初期の匂いの有る近所のおじさん、おばさんに育てられたこともあり
それゆえ、聞きわけの最大意義である公共の福祉等の概念は
必然的に身についたと思っているゆえに強く思う。

2011-02-23

倫理

巷で騒がれている、倫理委員会。

倫理とは社会慣習として成立している行為規範のことであるが、
法律と倫理とでどっちが上か?という概念にぶつかる。
自然法という見解ならば、倫理だろうが
今の価値観が多様化している社会に慣習や自然法が成り立つのだろうか?

統治政治学を修めた僕としては
現代の倫理とは倫理ではなく、流行ではないか思う。
あいつは悪い人って言われているからという噂が
倫理観とみなされてしまっているような状態。
無実と法手続き的に証明されても、
怪しいという固定概念につくられた倫理観で社会が動いてるならば
法律もあったものではない。

まして、法律と違い定義がされていない倫理観では
「あいつは自分の倫理観と異なるからダメ」
って言い始めて、
「そう言っているあいつこそ、自分の倫理観にあわないからこそ駄目だ」
倫理観というもので、猜疑心のスパイラルを起こす。

人として正しいと生き方を求めるはずの倫理観が
結局、他人を悪とみなす術になっている現代社会、、、
ある意味、、滑稽で社会秩序のゆがみがあらわになってきていると思ってならない。

2011-02-22

酷似

極めてよく似ている状態。
個性やオリジナリティーを尊重するこの時代。
似ているということはマイナス的な要因を含んでいることになっている。
場合によっては、似ているということでトラブルがおきる、そんな時代である。

似る、似せるということは必ずしも悪いことではない。
もっと言えば、似せることこそ進化、文化である。

大量生産とは、
オリジナルとされるものと寸分たがわない酷似品を
生み出せる技術の結果である。

仏像等の芸術品の多くは
あるモチーフをもとに可能な限りそれに似せて
創作することである。

多くの技術伝承は
親方の仕草を酷似させた上でこそ成り立つ。

個性やオリジナルという言葉を
自らの保身のために使い始めるとその人格は破綻する。
真似されてこその一流の証拠。
酷似されることはオマージュや伝承の表れ。

人は
酷似を受け入れ、そのことを横展開させて伝播させる道
誰にも真似できない、技術的に酷似することができない孤高の高み
を目指すべきであり、酷似されることへの怒りや保身は何も生み出さないと思うべきだ。

2011-02-21

略語

例えば、
「そこのキーボードとマウスを使っていいから、メール出しておいて」
この言葉を1960年代にしたら、、
鍵盤と鼠を使って手紙を出す?

外来語だけではない。
「快速に乗るために急いだら、携帯と折りたたみを忘れた」
という文章を補うと
「快速電車へ駅で乗車するために急いで家を出たら
 携帯電話と折りたたみ傘を忘れた」
となる。

時代とともに言葉が進化するということはわかるが
実際のところは進化というより
本来の意味が変わって、なおかつ略されることで
別の意味になって流行ることではないかと感じる。

それは近代の言葉の傾向というより
日本人の傾向だろう。

ありがとう
という言葉。

感謝の意味で使われるが、
本来は、有り難し、
めったにありえない貴重なこと
という状況表現。

それが自分という卑下すべき存在に行ってもらうという
喜びの表現に転化されて、有り難しがありがとうになっている。

日本語は進化しているのではなく
省略と流行で成り立っているといえよう。

2011-02-18

引出

机等になる格納スペースにことでもあるが、
人間のキャパシティーに使われることがある。
それも、日ごろ使わない、気づかれないスキルを指されることが多い。

人間関係を改善させる、もしくはその人と親睦を深めるのは
その他人の引き出しを引いてあげることではないかと思う。

その人の評価に自分が新たな付加価値をつけることができる
引き出しを引いてあげること。

他人と長く付き合う方法は
いつも引き出しを見つけ会うことではないだろうか?

2011-02-17

善行

一日一善。
日に一回はいいことをしよう。
道徳的な心がけだと思う。
しかし、それが必ず善だろうか?

例えば、
ごみを拾うこと。
それは僕の中では美観的に重要なことだと思い善だと思う。
しかし、
先ごろ、それは不浄なものを触ることで悪と指摘された。
ごみはごみを扱う者に拾わせせればいいという現代日本人がいる。

善行は人それぞれだと思う。
何が正しいのか、
何が悪かは個人に帰属するものだと思う。

だからよく言えば
「君の心の声に従え、それが正しさだ!」
つまりは<良心に従う>

そして、
逆の論理で言えば
「他人はすべて悪だ、お前以外はすべて悪と思え」
転じて<人を見たら泥棒と思え>

表現、諺からわかるように
昔から善行=自分だけ だということだ。

だから、近年のように道徳道徳と自分の善行観で他人に話すのは
営業で自分の好きな野球チームの話をすることと変わりはないなあ。
相手は引いてしまう可能性があるだけということ。

2011-02-16

美徳

日本人の思う美徳、、、というよりも
あなたの思う美徳が
必ずしも他人の美徳と一致するとは限らないどころか
相手にとっては侮蔑すべき点に感じられることもある。

古来の日本的なところで
「言わなくてもわかることをわざわざ口にせずとも」
なんてものがあるが、日本以外の語族、民族では
全く理解できない概念といえる。
そこを日本らしさとすれば、美徳のような映え
そこを島国根性とすれば、侮蔑される点になる。

これは日本人という大きな枠組みの問題ではなく
個々人の価値観もそれにあたる。
自分としてはそれが美学、ポリシーとして行為であっても
相手にとっては、無礼、侮辱されている感をしきりに感じてならないこともある。

多くの人に賛同される行為が美学から美徳に昇華するとみなされるが
価値の多様化、あげ足取りの民意反映に成り下がっている現代において
古来の美徳、新しき美徳を定義することは
勝手な流行を作り出すものとあまり変わらないと思う。

地球に優しいエコブームを美徳のようにいうが、
70年代の省エネブームはバブル到来で貧乏根性って揶揄されたことを
多くの人々は忘れすぎではないか??

2011-02-15

飽物

飽食をひとつ超えた、飽物な時代といえる。

身の回りの人たちと話すと
「欲しいと思う商品がない」
と口にする人が多い。

老若男女、仕事、趣味人、全カテゴリにおいてだ。
実はこれは、各位がやりたいことをやっている現れである。

ほしいものとやりたいことをやっているということが
リンクするという発想はすぐには理解できないかもしれないでの
言及すると、

欲しいと思うことは
ある製品が自分にとって有益と感じるものであり、
欲しいと思うときに、その製品が存在していなければ
発生しない感覚である。
世の中の製品は前提として
市場が求めているものを市場の求めるカタチで提供して
需要供給の一致でその価値を計ることになる。

上記のことはある意味鶏卵論であり、
欲しいものがあるから買うのか
買いたいと思うから提供するのか
というところがある。
今までの高度成長期の日本であれば
無い前提だからこそ、
多く物を提供してその中で支持を得られたものを
より改善、低価格化を目指した。
それゆえ、ものがないこともなく、欲しい感じるものが多く提供されていた。
しかし、それが飽物の現代になると、
それが逆効果になっている。

何を出しても支持されない、、どころか批判されることが多い。
何がいいかわからない以上、自分たちのやりたいようにしてみようという供給側、
市場に自分の好きなものが出回っていない以上、
飽物である現在わざわざ購入するまでもないと思う消費者側。
どんどん市場は冷めていくことになっている。

顧客志向と訴えても
顧客が欲する気持ちがない以上
一番の顧客志向は何もしないことといえてしまう。

相手の欲しいと思う気持ちと
自分がやりたいことが一致するマッチングは
今の飽物である以上難しいかもしれない。

2011-02-14

刃物

ちょっとしたことでも違いがある。

ある外国人から鋏をとってもらったときに
刃のほうを向けられ渡された。
日本人の多くは、

「相手に柄のほうを向けて渡すことが常識で、こんなの当たり前だ!」
「相手に失礼ではないか!」

っていうだろう。
しかし、これは日本人に常識、偏見だといえる。

刃物は武器である。
武器は自分を守るものである。
その武器を相手に渡して、自分の命を危険にさらすものではない。
自殺的行動は宗教上報われないとされる宗派も多い。
ゆえに、自分に刃物をむけて相手にさし出すことは愚行である。

という発想がある。
僕に鋏を渡した外国人も悪意がある訳ではなく
もしこれで彼に失礼と罵ったら、彼も当然のように日本人はおかしいって思うだろう。

日本人の当たり前のようなことほど
文化の違いで、逆に相手を怒らせることに繋がることになる。
いくら論理的である理由であったとしても
その論理も日本人であるところから始まっていることも忘れてはならない。

刃物という使用方法が単純なものほど、その意味合いが違う。
歴史的に自刃が美徳が不徳かが大きく違うのだから。

2011-02-10

不運

世の中では数値化できないことだとわかっているから
僕は自信をもって言える。

自分は相対的、絶対的に不運である。

だから不幸なんて結論付けることはない。

不運であるからこそ、
今自分が生き延びているのは、
ひとえに、自分の能力だと自負できる。

運が絡む要素で得られる結果がないと解っているからこそ、
運に頼らないように一切を把握するようにしてきた。
・気候変動
・洞察
・描写
・経験
を身の回り、社会、人物の動静に目を光らせてきている。

それにより、
今の自分があるし、
今の自分がここまでというのも自分の責任といえる。

この目の光らせかたを
刹那で見れば、才能であり、
長期で見れば、努力と他人に評されるが
それは呼称の問題すぎない。

だから、
「運が良かったんじゃない」
という軽い言葉を発するのは
人の見える目がないと判断できる。

運と言うものがないこそ、僕の能力の源泉であり、
今の結果といえる。

2011-02-09

懲悪

悪を懲らしめる。
なんとも、すがすがしい言葉に感じるだろうが、
僕からすれば、社会的暴力の前兆にしか見えない。

そもそも、
懲悪行為を、悪がいるから懲らしめると考えているかもしれないが、
懲らしめるべき存在は本当に悪なのだろうか?
懲らしめることが出来る存在がいるからこそ、
悪とみなすべき存在を作り出さなくてはならないということを
考えたことはあるだろうか?
人間は自ら悪になるのではなく、
他人に悪にさせられるということを
わかっているだろうか?

吉良上野介は地元では治水、新田開拓を推し進めた名君であり、
石田三成は関が原の農民を全戸に退避勧告と保養地を用意して戦に挑んだ。
世間で言われる悪人の実像はこうである。

力を持つものは
その力の正当性を維持するために
懲悪行為を創設する。

懲悪とは善なる行為ではなく、
権力の確固たる物とするための軍事的、暴力的威嚇扇動行為であると思うべきである。

聖戦、
正義のための闘争、
、、、暴力反対って思いを胸に、
殺傷兵器を振ることに
陶酔し易いのは人間という動物の性だといえる。

2011-02-08

旗艦

フラグシップ。
その一覧の集まりを代表する存在を示す。

旗艦の特徴として
・その集まりの一員であることを示しながら、他のものと差別化を行う
・その旗艦の退廃がその集まりの退廃につながる因子を持っている
ということがあげられる。

軍事用語だったが、
フラグシップモデル
旗艦店
のように気づかぬうちに日常用語になってきている言葉だが
その語源と意義については多くの一般人は曖昧なところだろう。
だが軍事並み、いやそれ以上に
販売戦略、マーケティングの観点ではこの発想が重要。
旗艦要素の分析により、
その販売戦略の成否、今後活動方針を決めると言って過言ではないから。

旗艦に代表される軍事用語は
ビジネスの世界で広く流用されていることは
このブログで多く述べてきている。

軍事用語が平和で廃れて、一般生活に降りてきたわけではない。
最先端は軍事であり、
その発想がビジネスに伝播されて
ビジネスマンがその用語を私生活に用いているのだ。

日本人初のビジネス用語、ビジネスルールの発祥が少ないのは
軍事活動、軍事産業が公に認められていないからという視点も
成り立っているといえる。

2011-02-07

抗議

無駄な行為といえる。

世の中では
「相手国に抗議声明をだした」
「今回の件について抗議をあげる」
「抗議の声が上がっています」
という報道がされるが、その抗議が直接的に影響を与えることは
100%ないと言い切れる。

日本のように抗議によって謝罪することがあるが
それはなんだろうか?
意味があるのかわからない。

抗議に意味を持たせるには
威嚇、威圧、強迫観念を誘引させる必要があるし、
現実、歴史的にも抗議をしたという表の話と
それを裏付ける’力’の暗躍はおのずとわかる。

抗議する気持ちはわかるが
力なき抗議は、
負け犬の遠吠え
であることを、日本人は強く理解すべきだ。
欧米では、理解されず
アジアでは、逆に反感を誘引させるだけ
である。

抗議をする、、、ではなく
抗議することを他に起こさせない力
抗議をしているふりをして、暗躍する力
が現代国際社会の力であることを自覚しよう。

2011-02-04

親子

自分の親を自覚するとき、みんなはどう感じるだろう。
・見た目
・声質
・好み
といろいろとあると思う。

でも一番の尊属、血族を感じるのは
行動、仕草
と思ってならない。

確かに見た目等の造形的な遺伝は
科学的に立証されているからこそそうだと思うし、
そこで遺伝子レベルはあるだろう。

しかし、親子、家族であるということは
僕としては、遺伝子ではないと言い切れる。
逆に遺伝子レベルの一致であっても親子、家族だと思わない。
それは、今日の生殖医療があるからだ。

親子であることは
同じ時間、空間、寝食、することで成り立ち、
同じような条件反射が身についていく過程で
親子しての相互自覚で成り立つといえる。
それゆえ、些細な行動、仕草が
その親子の証明に自他共に感じることといえる。

だいたい、みんなだって
自分が親、子に似ているって言われたときに
「そうです、そっくりです」っていうことはまず出来ないだろう。
毎日見ている存在に自分が似ているといわれても自覚がないだから。
だけど、ふとした行動、仕草が自分と同じ場合に
自分はその一親等なんだと強く自覚することもある。
他人に言われるより強く感じる因子ともいえる。

いくら生殖医療が成長しても
親子、家族概念を全否定はできないだろうし、
その概念を持たないだろう。
親子であることは生物として成長するためにはあるべき関係だろう。

もし、時間があるなら
自分の一親等をじっくり見てみよう、
案外、同じだ!って思うことが多くあるかも?

2011-02-03

殺人

物騒なタイトルだけど、真意を伝えたいのであえて。

ノーベル文学者が

「殺人が悪いことなんて、あたりまえではないか!なぜわからないんだ!」

と憤慨した投稿を目にした。

文学者であっても、哲学者、研究者の視点はないんだなあって思った。
当たり前である理由がないものは当たり前であるわけがない。
その理由も考えずに、憤慨する感情論は僕は卑下したい。

殺人が悪いということを本当に考えて説明できる日本人が少なすぎる。
それは殺人行為が自分にとって悪いことになる実感が沸かないからではないだろうか?

人間以外の動物は自己生存のために
縄張り、自己および子孫繁栄のために
同種を殺すことをいとわない。

人間とて、古来より、戦争において、
殺人を目的として、生き延びるための行為をしてきた。
そこで、殺人を卑下している人は命をたたれかねない。

近代社会を構成する社会集団にり、殺人を行うと
・そのステークホルダーから感情的に憎まれ、コミュニケーションが疎遠になる
・社会全体としての1人分の生産性を失う
・次は自分が狙われるのではないかという不安から十分な社会的パフォーマンスが損なわれる
という負の連鎖が行われ、人間社会全体としてのマイナス要素が多いと判断され
コミュニケーションという社会性を維持している人間社会においては禁忌とされるし
行為の抑止をするようなルール作りが行われてきた。

殺人が悪いというは意味を正しく理解するのであれば
殺人という行為により、
自分および自分のステークホルダーの生命維持が危ぶまれる因子が多いから
やるべきではないというべきであろう。

ここでは極端な話である殺人という行為に言及したが
物事には、それなりの理(ことわり)があり、
それを実現させるために、ルールや禁忌があるのである。

「禁忌だ(当たり前)、ルール(法律)があるからやめよう」
という発想、教育そのものが社会性を損なっていると感じられてならない。

現代人の鵜呑み発想の偽善的洗脳行為
あまりにも、
イワンのバカを連想してしまい僕はちょっと、、、と感じてならない。

2011-02-02

届出

公官庁への申請において、届出、許認可とがある。
その届出の仕組みは現在において有用といえるだろうか?
何も公官庁に限らずとも、
届出行為そのものに言及すべきであり、
届出という行為からして、
届出を事前に行えばいいというのは
説明責任
内部統制
という最近の組織管理の観点からして
行動に意味を成さないものと捉えるべきだろう。
「申請を届けているから」
という問題では済まされないことがある。
届出という行為は組織として体制としての許認可をすべきである。

民間企業組織に統制しながら、
取り締まる公官庁側がそれでいいのかという思いがめぐる。

基本、社会は自分のことは棚上げだということだろうと
感じてならない。

2011-02-01

名刺

英語で言えば、visiting card.
会社、組織に入れば、
多くの場合、自分の名前の分を数十枚以上の単位で渡される。

既存の会社に入社すれば
当たり前のようなものでも、
いざ創業となるとかなり手間取ったものだ。

訪問する際に自己証明のために名刺は必要。
でもその中身に、連絡先がなくてはならない。
その連絡先である、
事務所
電話番号回線
メールアドレス
を設定する際の挨拶訪問の際に
どうすればいいのか?

だから、僕は計4回名刺を新設した。

・ドメイン、メールアドレス取得時
・事務所開設時
・電話回線は敷いたとき
・会社ロゴができたとき

普通の会社員では経験しなくていいことかもしれないが
法人を立ち上げるにあたっては
いろいろとphaseごとに無駄なことをしていかなくてはならない。

一見すると無駄なのだが、
その時点においてはそれは必要であり
そのIdentifyなくてしては、Businessが進まなかったこともあるので、
今となっては、無駄だったなあって思うより
出世魚、脱皮のようなものと捉えるようにしている。