2018-06-18

謳歌

声をそろえてほめたたえること。
転じて、自分の恵まれた境遇などを、他人にはばからず言動に表すこと。
「うたう」という行為は幸福の象徴かもしれない。
歌うことができるだけの余裕や歌うことで不幸を忘れさせてくれる。
歌の力というべきか、、
でも、僕は思う。
上記のように歌うことは「他人にはばからず」という表現があるように
基本自分中心の行為でしかない。つまり、歌っている、謳歌している人間に対して
他人は幸福を感じることは少ない。歌っている人間と親近感がなければないほど、
その行為に対して、不快さを感じるのが人間の本性だと言える。
そこにより、他人は不快さから相手の幸福を妬む、嫉むことになり、
幸福な状態から不幸に落とされるような行為を受けかねない。
歌い、謳歌する行動は自分の内に秘めるだけであまり表に出すべきではないと思うが、現代人は感情をそのまま表し、他人の妬み、嫉みを真っ向から向き合い、、結果コミュニケーション障害を生み出していることになんと自覚のないことか、、、

2018-06-15

干天

久しく降雨がなく日照りが続くこと。
現代、異常気象という発言が目立つ。
しかし、それは誤りだと言えないか?
干天という言葉や飢饉という事象が過去にあった。
それで多くの人間の命が失われた。
日照りの害は昔からあった。それも大量な命が奪われるくらいの。

現代では熱中症で倒れる人が毎年いる。
それを異常気象というのは?
過去の気象データがないだけであって、もともと日本の気象は
今とあまり変わっていないのでは?むしろ昔のほうがひどかったのでは?

科学技術を信じて、科学が捉えていることのみで発言、判断するのは
現代人の悪いところと言わざる負えないね。

2018-06-14

世代

次の世代の子を作るまでの周期または期間、同時期に存在する同系統の機械の型。
世代という言葉を使う理由は周りから見たら同じものに対して仕切り、区別をすることで
アイデンティティを示そうとしている意思、意図を感じる。
そもそも、世代という概念があると言うことは同種のものがあふれて、没個性、コモディティー化されている状態と言える。それゆえ、価値が見いだせないからこそ、自発的、内発的に世代という表現で自己の優位性を示そうとしている。

でもね。それってスペック表記でしかない。
だから、バカなものが
「新しいスマホとの違いについて性能、スペックを細かい文字で書いても自分ら世代には伝わらない、もっとどんなことができるか示すべきだ」
というお前らの世代ってなんだよ。作っている側の人間どどう違うかわからない、、もっとも発言レベルからして、世代という次元が違うかもしれないがね。

2018-06-13

山菜

山野に自生し、食用にする植物の総称。
経済、市場の観点から見れば、山菜は野菜に対して負け組でしかない。
野菜にカテゴリされず、栽培方法、品種改良もされないままだから。
ただし、それゆえの貴重性、そして汎化されない味ゆえに
高単価で取引されるのであれば、山菜の存在理由もあるだろう。

市場経済って、右肩上がりの成長だと数論理で薄利多売になるものが市場を支配するが
成熟そして衰退がはじまると質の論理で希少で高単価のほうが市場のゲームメーカーになる。
現在の市場においてこの製品は?って思うことがあるが、ふと思う。
食べられる野菜や山菜からすればどうでもいいこと。
食べられるのはいいけど、種が滅びない広がりがあるのであれば、、なんだろうなっと。

2018-06-12

焼売

豚の挽肉を小麦粉の皮で包み蒸し調理した中華料理の点心。
日本において、点心は得てしておかずになりやすく、
ワンタンや餃子などの一種ととらえられ、戦後の日本の食卓を飾ってきた。
ただ、餃子の市場規模に対して、焼売はちょっと寂しいのは事実。
でもそれって、、点心から日本食の焼き炒めるに進化できなかったからだと思う。
点心ではありえない、焼き餃子が日本では主流になっている。
対して、焼き焼売ってない。それが日本のコンロ調理には向かなかったのでは?

悲しいかな、文字的には焼き売りと書いて焼売。
実際には蒸すので焼かないために、日本の家庭料理に浸透できなかったかな?

2018-06-11

予防

悪い事態を生じないように気をつけ、前もって防ぐこと。
事前に対応しておくことが被害を最小限にするという発想だが、
僕は現代社会、いや現代人には予防をする必要はないと判断している。
確かに、予防で被害は最小限にできる。でも最小限であり、0ではない。
問題はここで、0ではないことに対して、予防を行っている側、支援者に
被害者は牙をむける。
~もっとできたはず
~わかっているなら自分がこうなる前からうやるべきだ
と最小限にした分、現代人という庶民はもっとという要求を言い出す。
そもそも、原因は自らの行為にあることを棚に上げて。

予防を受けた時点で予防側の免責がないのでは話にならない。
予防でコストを抑えるより、そのまま惨事を起こして巨額のリカバリを行ったほうが
感謝と支払いを受けられる事実を鑑みれば、現代社会において
他人に予防を施す意味がないと言わざる負えない。

もっとも、自分自身においては、、僕は予防以上に天眼があるので
最小限にしているがそれでも、0でないのでつらいのは事実だがね。

2018-06-08

本文

書物の本体となる部分。
日常生活、日々の業務で使われるとしたら
言いたいこと、伝えたいこととして用いられる。

本文をうまく説明できない、何が言いたいか、わからないとか言われる社会。
でも、これって難しいというか、何を本文かは相手の理解に関わる。

例えば
本文は
「ゴマちゃん買って」
と言いたい幼児。
でも親は
~ゴマちゃんって何?
~なんで買ってほしいの?
となる。
だから、幼児は
「ゴマちゃんはアザラシの赤ちゃん、アシベというテレビ番組にでてくる。
 アシベはNHKの夕方の、、、、」
「ママと『次のお出かけまでおねしょしなかったらおもちゃ買ってあげる』を守った、今日はお出かけの日だと思っている」
と説明しなくてはならなくなる。
この説明をしてしまうと
「何を言いたいの?」
と親に言われかねない。

幼児の説明も理解できない親が多いこの時代。
複雑なIT技術/ビジネスプロセスを本文だけで理解できない輩のために
その前提説明をしても、何を言いたいかわからないって騒ぐのだから
もはや、言いたいこと、伝えたいことなど、容易に理解できないと思うべきだろうな。

2018-06-07

豊穣

五穀がゆたかにみのること。
人間の営みにおいて、幸せの源泉だったといえる。
とりわけ、農耕民族においては、、狩猟民族とて、豊穣状態は獲物が肥え増えるのだから謝肉祭の呼び水として幸せに感じるだろう。
現代社会、農耕、狩猟を一次産業とひとまとめ軽視し、多くの人は知的産業にシフトしている。それにより、豊穣な状態は収穫期ではなく、日々生産できるような科学的な施策を求められるし、それが当然になりつつある。
それを否定する気はないが、人間のもつ歳時感覚。
秋の収穫が豊穣になるように向こう一年の行動を考えてきた。
その感覚がただの時間的節目になっている状況は、果たして人間は自然的、地球的に問題ないのかなあってまた哲学的に考えてしまった。

2018-06-06

先見

進路・趨勢(すうせい)の赴く先を見抜くこと。
ある物事について、それがはっきり現れないうちに、前もって見通すこと。
多くの場合は、結果が見えてから過去の行為を先見とみなすのがこの言葉の現代の用法だといえる。
現代社会は大量な情報と高度な分析から計画された行動を求めるので、すでに見えている結果になることに対しては先見とはまず言わない。
しかし悲しいもので、その計画どおりに進まないことばかり。計画より求められる結果を導くために遂行できる人材を揃えていることに対して、先見の明とか言い出す。

計画どおりできないことを見通しての対応を先見って、なら計画どおりにさせることや計画通りにならないことを見通しての行動には、、、まー組織や人間関係からわかっていてもできないのも現代社会か、、、

2018-06-05

中間

物と物、点と点、思想・政治などの間。
始点、終点は特定できるが、中間という場所の定義は感覚的、意図的に変えられる。
逆に言えば、始点でも終点でもないその間すべてが中間といえる。
だから、中間という発想は都合がよくて、そして、混乱を招く。
限りなく始点、終点に近くても中間だったり、どっちでもないものも中間である。
コンピュータは、0,1で動く。それゆえ、いろいろと計算や処理が速い。
だから、中間という概念はなく、計算上1/2はわかるだけである。
中間という概念が人間らしく、そして判断を鈍らせているのではないのかなあ?

2018-06-04

習合

幾つかの教義などを取り合わせ折衷(せっちゅう)すること。
有名なのは神仏習合となる。
この発想は日本の好きな曖昧さの表れ。
Aでもあり、Bでもある。
この発想だと正解も間違いもないので、ある意味考えの平等が成り立つ。
しかしだ、定義や教えの重要なポイントは
何が違うか、何が正解かを明確にすること。
それをしないでいることが今の日本の決められない、結論がよくわからない
ということになり、物事が進まない、誰の責任、どう改善させるかがわからない。
誰も傷つかない平等では、物事は進まない。
それゆえ、日本はグローバルという言葉でその慣習を払拭させていることが見て取れる。
習合を支えてきた日本人の2000年近い歴史は気づかずになくなりつつあるのか?

2018-06-01

一式

それについての全部。ひとそろい。
しかし、この表現には大きな問題がある。
それぞれの思っている一式に含まれるものが違うことが多い。
だから、当人からすれば十分でも他人からすれば、
まだまだ不十分とされることがある。

不十分と思っている側からすれば、中途半端な集め方と思うし
十分と思っている側からすれば、必要ないものも用意させる蛇足な見解と思う。
得てして、不十分と思っているものから十分と思っている側へのクレームになる。
現代社会、大いに越したことはないが
それを集めることで失う労力、時間もバカにできない。
不十分と思う側は、労力、時間は自分ではなく相手がすることだから
どうでもいいのだが、いざ自分になると、逆のことを言い出す。

一式という概念があるようでないと考えないと人間関係を壊しかねない。
すべてのアイテムを事前に確認することが求められることになるのだが、
根本的に事前に確認することができない関係だからこそ、一式という言葉を
容易に使ってしまうのではないかって現代の意思疎通のおかしさを感じてしまう。