2011-04-28

思念

常に心に深く思っていることとされる。
残留思念とか、オカルトな発言もある。
かなり曖昧な表現かもしれない。

思いを念じるという漢字をあてていることから、
ある人物が強く思いを持っていることといえる。

自分の存在を強く示す考え、思いを言うわけだが
思念を持つということはそこまで、
現代社会では極端な扱いを受ける。

あるときは
思いをもって事にあたっていると好感されるが
あるときは
一つのことに固執していると蔑まれる。

現代社会が個人自由主義にしたために
思いをもって行動にあたれる反面
心ない者から批判されることもありうる。

思いを持ってあたること
それは自己満足とみなされることも自覚して
しかし、自分は自分と確立してあたろう。

2011-04-27

姫若

姫のように、なよなよした若君
おもに、四国の雄、長曾我部信親公に当てられる。

しかし、歴史的にみて
姫若とされるモノは成長すると雄、、いや非道な存在になることが多い。

同戦国時代でいえば
織田信長しかり
北条氏康しかり、

もっと古い時代は
源九郎判官義経もそれにあたる。

なぜだろうか?

その思いについて、僕は北条氏康から読み取れた。

姫若というほど眉目秀麗ではないが
なよなよした幼少期で
鉄砲の音で驚いて、失禁してしまった北条氏康。
でもその後、氏康傷という言葉まで作ってしまうほど武者になった。

理由は簡単だ。
あるべき価値観にそぐわないと揶揄された者の反骨精神と
既成概念に従わない機転の利いた行動ができるからだ。

あるべき男像を強要、揶揄されて溜まったフラストレーション
そのフラストレーションを与えた存在に対してへの自己打破を込めた躊躇ない仕打ち
が彼らを今に至らしめた。

氏康傷なんてものは
そのくらいじゃ命や後世に支障がないと判断で受けられる
氏康公の計算が読み取れる。

「武士として、、」
「男として、、、」
という既成概念を立てに相手を責めると
後の世では、旧時代の象徴、淘汰対象として処理されかねない。

既成概念のおごりは
その後に、下手をすると後世まで
蔑んだ者の引き立て役にされかねないということが歴史から学べる。

2011-04-26

頭痛

具体的、抽象的に使用される言葉。

本当に頭の内部で起きている痛みもあれば、
自分の周りで起きている多くの不利益な状況にも使用される。

頭が痛い、
という表現は機械的に言えば、
自分にかけられたオーバーロードな状態であり、
平常心で処理ができないということである。
そして、この事象は他人からすればファントムペイン(幻肢痛)を導くことになる。

ただ思うのだが、
頭痛なき行動ってことは、
リスクもなければ、喜びもないということに感じる。
何かをして、何かをえるためにはそれ相当のものがあるべきで、
その代償が、悩みからの頭痛で済むのであれば
それもまた受け入れるべきものではないかと思う。

本当の頭痛(クモ膜下~等)の事象は本当に命に関わる。
それこそ、頭痛という言葉でいいと思うし、
その言葉を聞いて即時対応が求めれる。
対して、悩みレベルに頭痛という表現を使うのは
現在の日本語、読解力のレベルからすると使うべきではないかと感じてならない。

2011-04-25

文学

言語表現による芸術作品。

英語では literature なんだが、日本語では学ぶという字が入る。
そして、文学を学ぶことは、文芸学とされる。

それでは大学の文学部とは本来、文芸学部というべきなのだが、
多くの日本の大学は、文学部といことが一般的になっている。

言葉を研究する学問のカテゴリの日本語が間違って使われているという事実はどういうこと??

それゆえ、多くのことで思うのだが
日本人って文章、言葉への理解がものすごく曖昧であり、
かつ相手に憶測を与える表現が多い。
それゆえ、奥ゆかしさと自己表現力の低さという一長一短を導いてしまっているのだが
その事実は、、、文学部、、いや文芸学や教養学を専攻している人間は気づいて学んでいるのか?
って思ってならない。

本当の意味で、日本人は
文を学ぶということを真摯に取り組まないとならないと思う。

2011-04-21

鍛造

金属を叩き、形にしていく。
鍛造という行為は、限りなく破壊的な様子で進められることになるが、
その行為の先には、とても研ぎ澄まされ、堅固な形状が生まれる。
鍛造する行為は物事の本質といる。
破壊的行為により形状が研ぎ澄まされていくことで価値が高まる。
いろいろな角度から打ち叩かれて、、、
物によっては、砕けてしまい
あるものは、ふたつに割れてしまったり、、、
そこで鍛造に耐えた金属が職人のもとから市場に出て行く。

砕けたもの、二つに割れたものは再度溶解されて
チャンスをえることになる。

鍛造行為に耐えたものが有価値である。
途中で挫折したものは、
原型をとどめることなく、溶かされて一から出直しになる。

現代社会の温情主義が
途中で挫折したものにチャンスを与えることが多いが
そのチャンスは出直しであるべきだと思う。
砕けたものをいくら叩いても、強度が低下する一方である。
割れたものを強引にくっつけても、そこからまた割れ出すことは明確である。
今までの努力をたたえることはより
融解して、一から再構成して真の価値を得ることが重要と思う。

破壊的に叩く鍛造行為は、
結果として、壊れない造形物を作り上げるという
起因と結果が矛盾にも似た帰着を示すのはとても面白い。

保証

保証って案外いらないものかも?

僕のSONYのVAIOは3年間保証に入っていたので
キーボードのキーが1つ外れたことから
修理に出したら、

契約約款の第7条のどれにも当てはまらないので

保証外だといわれ
部品代+工賃を請求された。

現在訴状を司法書士に相談しながら、
頭にきて、消費者相談センターに電話したら、
「そのメーカーは行政指導が通じません、彼らは国際企業であり
 アメリカの商取引約款に準拠していると言い張ります」

って言われた。、、、それでいいのか、、、消費者庁。

これで憤っていたら

その顧問司法書士の先生も
買ったPCが全く動かないので
販売店に販売店はメーカーに連絡したら
免責だといわれ、司法書士だけに訴状をあげたら
なんと、PCの製造会社が外資だから
日本の訴状は通じないっていわれたそうだ。

なんとも、、、このやろう!!!って思うが、、、、

購買するときのメーカー保証は
製造物責任法があるけど、
案外、役に立たないということがわかった。
顧客志向と謳う企業はそれでいいのか!って思ったが
現在の怒りも失せてきている。
メーカーからすれば、
大切に扱っていないクレーマーは顧客ではないという思いになるなあ。

一概に僕や司法書士の先生も
買った以上その所有権を得た時点で
保証というものは忘れたほうがよかったのかなあって思う。
マクロ経済的は、その費用で経済が回ると思うことにすれば
それもそれでいいかなあって感じる。

安い、タダだと騒ぐことを否定していることも多い僕なのだから
保証というおまじないにこだわることより、
経済をまわそうって思うほうが前向きかな??

2011-04-20

引責

責任を取るという行為はどういうことだろうか?
「俺が責任を取る」
「引責辞任をする」
という言葉ある。

責任を取るためには多く場合が
責任者の個人所有物の対価代償になる。

それは金銭ではなく
時間
地位
労力
物質
ということになる。

その前提で引責を考えるならば
問題が起きたから引責するのではなく
その問題への対処の筋道をつけてからだと思うのだが
最近の日本では、その筋道をつけることも許さないという傾向が高い。

しかし、多くの引責を見ていると
筋道をつけずに所謂放棄した引責は次の引責をすぐに呼ぶような気がする。
毎年、引責辞任を繰り返しているような気がする企業が多く、
その引責者への退職金ばかりで逆に弱体化していることも気になる。

引責する以上は
ある意味その規模間への引責を示してから
身を引きたいものである。

もっとも僕は、引責より勇退を狙うがね。

2011-04-19

貸借

会計経理の貸借のほうにビジネスでは話が進みやすいが
もの、、、いや恩の貸借について言及したい。

僕が思うに恩、行為の貸借はかなり崩れてきている。
恩を恩と感じない、逆にさせてやっているという思いの登場がある。
これは、社会の人々が悪人になってきている、、、だけではない。
社会の貢献活動の多様化、細分化が導いていることが挙げられる。

具体的なキーワードをもとに話そう。

サービスの無料化は、
今までは使うことへ対価を支払うものであったが
その使用を無料化、、強いては無料で使ってもらうことで得られる情報が収益になることから
無料で提供する側が「使ってください」という姿勢になっている。
それゆえ、「使わせてください」から「使ってあげよう」に使用者が思うようになる。

ボランティア活動は
近所の助け合いが、広域化、余暇活動、社会貢献性という色合いが強まって
近所の助け合いのころにあった
「昨日、お隣に迷惑かけたんで、今日はその恩返しで」
という思いは否定され
「対価を求めない無償行為」
となり、受ける側の感謝の行為対象を同じ人格に返信できなくしている。

いろいろと社会は進化しているが、なればなるほど

<灯台下暗し>

に感じてならない。

今自分の貸借はどうなっているか、その貸借は実際には
誰への、
誰からのものか、
を考えることをして、
少なくてもその返しかたを意識したいものだ。
無償サービスの目的が情報収集ならその目的に応えた真摯な
回答、入力は出来るといるのだから。

2011-04-18

取材

ある報道の御大の言葉がある。

「取材っていうのは、方法が三つあるの。盗むか、だますか、買収するかなんですよ」

すごく感銘を受けた。
取材という情報収集の本質は、こういうことだなあって。

一般的な庶民感覚だと、ひどいことって思うかもしれないが
そうやって仕入れた取材情報を平気な顔で享受している庶民は共犯の自覚がないのではないか?

例えば、
悪い噂のある政治家の家に盗聴器を仕掛けて
その悪事の会話を仕入れて報道すれば、
悪いのは政治家であり、その盗聴器を仕掛けた取材行為は問責外になりやすい。
その問責外にするのは、報道を観ている側が民意誘導されるからだ。
盗聴という悪しき行為を幇助しているのは聴衆ということになる。
その奥にあるより大きい悪意があればこそである。

知りたい悪意とは、、、創世記の禁断の果実といえる。

取材行為自身の多くは社会で言うところの悪意ばかりである。
しかし、それで得られる果実を欲するのが社会、民衆であり、
自分以外の悪がそれをすれば自分はその人のから受けただけであると言いたがる。
より悪い果実を手にしている存在がいるからこそ許されると勘違いする。

取材で得られる情報とは禁断の果実であり、
それをもらったからかじっているイブそのものが社会、民衆であり、
人は悪意からは昔も今も逃げられないと思ってやまない。

2011-04-15

痛覚

痛覚は身の危険を知らせるためにある生存機能である。
痛覚なくして、人間は進化しないものである。
痛みからの解放に向けて、人間は智恵を身につけてきた。

ある実験では痛覚をとってしまった動物は
行動や感情が鈍ると導いた。
苦しんでいる人がいるとしても
人間の感覚から痛覚を抜いてはならない。

そして、痛覚を感じさせる行為も社会からなくてはならない。

今の人間は
相手から暴力を受けたら、
暴力をふるった方が悪いという前提で横暴を繰り返している。

しかし、その横暴ゆえに暴力を振るわれる行為を導いているという自覚に鈍感過ぎる。
痛みを知って、その行為をしないようにするために
もう少し、折檻行為に寛容にしないと社会性の悪い動物になり果ててしまう。

飼い犬が人間より自分の地位を上に思ってしまう事象も
躾のできていない人間ゆえに本能的に犬は優位を感じてしまう結果と思えてならない。
犬の縄張り争いは互いを咬み合う痛みの中に成り立つのだから、
甘やかされた人間社会にいるのだから、犬自身の存在を上に思えてしまうのも当然の結果といえる。

2011-04-14

日米

日本とアメリカのことと言うのは日本人の常識になっているが、
日本語を習う外国人からすれば、奇特なことである。

日本は、にほん、にっぽん、和の国、ジャパン
アメリカは、米国、US、合衆国
っていろいろなメディアでいろいろな表現をされる。

アメリカ、英語圏では、Japan、、 USA と
有る程度の略語になっても、全く別の表現をすることはまずないのである。

まして、米=アメリカ、、、rise ではないのである。
これはある意味、複雑な発想、、、暗号に近い、
英、仏、独、
をそれぞれの国とみなし続けて
英語、仏語、独語
としているのは、、、それゆえに日本人の語学力の弱さを感じてならない。

外国を理解するのに
入口が、日本独特の表現から始まる学習体系では、、、と思ってしまう。

慣習になっている日米という表現から直すくらいの勢いがない以上は
この国が国として真の国際化はできないと思う。

2011-04-13

奇謀

人が予測しない奇抜な謀とされる。
しかし、僕の場合、多くのことが奇策に類になる。

人が予測しないというより、
人の常識がなぜ常識が解らないゆえかもしれない。
人間は常識、日常を肯定して
一種の固定観念にとらわれていると思う。

それゆえ、その固定観念があるからこそ
奇策ということが生まれるといえる。
固定観念からはずれても
受け入れる行為は奇策であり
受け入れられないものは卑怯といわれることになる。

固定観念を肯定する前提が
実は人間の発想力、切り口を閉ざしている’だけ’であり、
奇策というものは気づきがあるかないかとしか思えないのが
僕の思考なのだが、この思考自身も奇策の域なのか??

2011-04-12

帳票

日本のディスクワークの起点でもあり、終点でもあるのは帳票といえる。
仕事の成果、結果が数値化、規準化に基づいて表されて
その内容をもとに人は考えたり、発表することになる。

だからこそ、帳票は重要?
うーーん、僕の中では帳票はデータソースでしかなく、
それを中心に考えるのは旧経営思考と位置付けている。
そして、一番見定めなくてはならないのは
帳票に現れるのは、過去の結果であり
その結果をもとに新たなことを考えるのならば意味があるが
その数字どおりにことを起こしてはならない。
帳票が経営、判断をするのはなく
それをもとに人が付加価値を入れなくては
市場経済の拡大再生産を導けないからだ。

帳票とにらめっこ。
そのにらめっこ、その結果を嘲笑うくらい人こそ勝者だと思っている。

2011-04-11

感動

感動する気持ちについて、日本人は島国根性すぎる感がある。
つまり、ここのみんな感動するだろう!って思っていているみんなの前提が日本人であるということだ。

とある日本でヒットしたアクション映画が満を持してアメリカで上映された。
窮地において、愛する人に電話で元気に別れを告げるシーンがあるのだが、
日本人はグッとくるそうだが、
アメリカの試写会では爆笑の渦になったそうだ。
「主人公は最後に壊れたんだねえ、死にそうなのにわらったよ!」
とコメントされて、監督がかなり怒っていたというドキュメンタリーが記憶に残る。

感動は個人に帰属するものであり、
必ずしも共感されることはない、この前提を常に忘れてはならない。
だからこそ、他人の感動を卑下したり、自らの感動を他人に強要することは
争いの始まりにつながるリスクがあるといいたい。

感動するときに気持ちが昂ぶっている。
そう昂ぶっているということは冷静ではない。
その冷静でない思いを他人にぶつけるとギャップにより、いざこざになる。

感動するということはいいことといわれるが
フーディガンの前兆である事実を改めて自覚すべきだということを忘れずに。

2011-04-08

宝物

あなたにとって宝物はなんですか?

実際のところ
自分の宝物とされるものは
他人にとっては価値がないものといえる。

物語に登場する宝物=財宝は
誰にとっての宝物なのだろうか?
ある意味、宝物というより他人の貯蔵庫への略奪に他ならないことであり
宝物を手に入れるという概念ではないと言い切れる。

宝物。
それの多くは、物+自分の思い であり、
物だけでは宝物足りえない。
それを
・手に入れるための経験
・手に入れたことによる幸運
それらの逸話と相まって、宝物足りうる。

だからもう一度同じような質問をする。

あなたの思い入れのエピソードのあるものは?

それが宝物だといえる。

2011-04-07

推敲

文章を何度も練り直すことである。

秒針月歩の世の中での情報の送受信のスピードが求められ
オンライン配信により訂正がかなり容易になってきている
現在の表現環境。

推敲する時間がなかなか認めれなくなっている。
僕とて、この文章を認めるにあたり十分な推敲をしているかと問われれば
十分の程度にもよるがまだまだといえる。

でも思う。
推敲は故事成語。
何度も練り直すことより、
何度もなりなおす行為で失態をした賈島と
それを詩論で問責外にした韓愈との出会いのほうが重要ではないだろうか?

何度も練り直すという行為より
何度も練り直すくらいの気持ちでいれば、思わぬ好機に恵まれる。
物事を真剣に悩んでいれば、結果思わぬ形で新しい道が開く
そう言う意味で推敲を用いればいいと思うが昨今。

言葉の意味なんて、時代と主に変わる、、変えられる。
推敲するという言葉が軽視されているならば
新たな意味を持たせ、伝えたいと思ってやまない。。いい表現が少ない現代社会ゆえに。

2011-04-06

一興

「おもしろい仕事がしたい」
若者、、いや社会人の多くがそう願っていることではないだろうか?

どうせしなくてはならない仕事なんだから
おもしろく行いたい。
そう感じるのは、だれでもそうだと思う。

問題は面白いかどうかはどう判断、どう実践するかだと思う。
僕が社会を俯瞰して思うことは
自分の責任を棚上げしてこの思いを出していないか?
と思う。

どんな仕事にも意味があるし、その仕事から
・仕事の前後関係からの社会貢献度
・その仕事をすることで得られるスキル
・やり遂げたときの自慢話
・そこの失敗からの話のネタ
と面白くなる要素はいくらでもあると思う。

つまらない仕事と思うことは簡単だ。
しかし、その仕事をすることこそ
おもしろさのスタートと思うことで触れるのも一興ではないだろうか?

ちょうど新年度にあたる人も多い。
これから行う仕事は
「やらされる」
「仕方ない」
と思わず
「なんかある」
「失敗したら、飲み会のいいネタになる」
という思いであたることこそ、一興の始まりと思ってみては??

2011-04-05

耳障

耳触りのいい未来像ほど結果的に将来の苦しみを生む。
いわば、苦痛の先送りであるのだが、、、
現在の多数決論理ではその事実をわからない存在が多数のために
この事実に気付かない。

嘆かわしいというより、
庶民を一線を引かないと
本当に英断出来ないと思う。

耳触り発言で信頼を得ることは
結果論的は詐欺なのだが、その詐欺に気づかないほうも罪であるのだが、
平気でだまされたというこの社会では本当にバカとバカのだまし合いと感じる。

辛い判断を下すもの
その判断に得られる結果を甘んじて受けるもの
そんな存在しか救われない社会にしないと
因果応報、論理的思考で考えることの意味がない。

2011-04-04

理屈

論理の通俗な表現。
対して、より卑下した表現に、「屁理屈」という言葉がある。
論理
理屈
屁理屈
の使い分けはどうすればいいのだろうか?

答えは簡単。
そして、自分以外には通じないことである。

自分の言い分は、論理
自分にとって許していい言い分、理屈
自分が受け入れがたい言い分、屁理屈

だから、自分と他人の定義は異なることになる。

これでは、他人とコミュニケーションをとれないではないか?
って思うかもしれないが、コミュニケーション活動の根本は
自分の論理を他人の理屈に合わせてもらうようにする活動そのものということを理解しなくては。

他人とコミュニケーションが取れないということは
自分の論理が他人には屁理屈に感じているということに他ならない。

基本、自分の論理は相手に当てはまらないかもしれないという前提で相手と接すること
それがコミュニケーション活動の始まりであり、
通じない相手に通じるようにアクションすることもコミュニケーション活動の一端である。

所詮、自分の論理であるのだからなかなか理屈として伝わらないだろう。
「コミュニケーションよくやっていこう」
というより
「俺の定義に従え」
ということのほうが、理屈としての理解はあると思う。
納得するかどうか、、あまり重要ではないと現代社会は言い切れるし。

2011-04-01

危機

悪い結果が予想される状況。
多くの人間は危機に備えて、危機管理を講じている。
しかし実際問題、
想定される以上、それは危機ではなく予想の範囲内であり、
本当に危機管理なんてものは出来ないといえる。

例えば
子供たちに将来に向けて
自らに生命保険をかけている人がいるが
その将来ある子供が不慮の事故で亡くなった場合
当人は生きがい、将来、に絶望して自らの命を絶つこともある。
今回の想定も
地震対策や地震保険を企業としてかけていたとしても
計画停電による業務遂行不可による
損害賠償への保険なんて概念すらないことは
もう多くの人が気づいていることである。

危機を予測することは
科学が進んだ今でも無理、、、
いやいろいろなものが進化、変化しているからこそ
何が危機になるかはもはや予想ができないといえる。