2010-08-31

傀儡

操り人形のように扱われるということ。
好ましくない表現で使用される言葉だし、
傀儡になっている存在に同情、哀れみを感じさせる。

しかし、それはどうかと思う。
傀儡になるべくしてなってしまったのではないだろうか!
傀儡になるということは
その当人の持つべきものが能力とマッチしていない状況ではないだろうか?
・先祖からの血統
・引き継いだ財産
・あまりにも大きな決定権限
はっきり言えば、その当人が持つべきではないものだったのである。

本来であれば、その当人に資質がないのだから
取り上げて最適化させるのが、社会システムなのだが、
その当人への配慮から、無資格だが能力のある人間が代行してあげる。
それによって得た結果を当人に帰属させてあげているのである。
それは代行行為なのだが、無自覚、無能である当人や関係者が
その行為に自覚がなく、騒ぐから傀儡と認識されてしまうのが世の常である。

実際問題、歴史上、傀儡にさせられた当人が仮に親政、当人実行をしていたら
結果無残な結末になっていただろう。
傀儡でかわいそうって思われるか、
馬鹿なやつのためになんで俺たちが苦労しなくてはならないのか、
は本当に紙一重でしかないのである。

2010-08-30

両立

バランスよくこなすこととされるが、
考え方として、あるべきなのは、どのタイミングで何を捨てるのか。
これに尽きる。

人間の時間というより集中力は1つと考えるべきだ。
集中力が同時期に複数出せるという話は
それ自体で論理矛盾だ。集中しきっていないではないかといえる。

その集中力は持続時間も発生タイミング、発生条件は
個人差があるとしても、おおよそその人で決まってしまっているだろう。
それゆえ、その集中力をどう使う、どう引き出すかを
得たものが両立を実現できると感じる。

僕からすれば
その両立ができること自体にあまり価値を感じていない。
1つに集中して大成させるほうが価値が高いことのほうが大きいからだ。
しかし、現代社会において1つだけに集中して大成させるのは
かなりリスクがあるので、いくつかの小さな成功を成り立たせることが無難といえる。
大きく大成せずとも、成功という結果があることに価値を感じるからこそ、
両立させることに対して、その結果的な評価を見出しているところはあるのだが、

2010-08-27

単純

実は結構難しく、そして結局は戻ってくること。

単純であるということは
簡単
簡素
味気ない
それだけ
という状態といえる。

素の状態であり、
その存在が現れたままの姿である。
その単純な状態があるからこそ、
人間はそれに付加価値をつけて
単純さとの差別化を図る。
付加価値がその単純さへの自己主張のように、、

しかし、それは付加価値でもあり汚れでもある。
その付加価値の累積が
そもそもの単純なことを見えなくしてしまい、
本来なんだのかをわからせなくしてしまう。

そうして、本来の姿ならもっと簡単なのに
付加価値という汚れがこびりついて
その付加価値前提で複雑なことをしなくてはならない
それが現代社会ではないかと思う。

本来の姿を単純と見抜く力、
単純に落とし込める能力、
が現代社会ではとても重要である。

だってそうでしょ。
部屋を自分好みにすることは=汚れに等しく
それをもとの部屋に戻すのは結構大変な清掃力、整頓感覚が
求められるのだから。

2010-08-26

間引

自然界では当たり前だが、人間には非道徳とされる行為。
優良種の育成のために、劣勢種を廃絶して優良種の発育を促進させること。

多産動物の育成方法として自然界では当然のように行われている行為であり、
自然界の生存競争のひとつの象徴である。

人間は高度生物だから、間引きなんてことはしないと思うが
それは大きな間違いである。
植物に対して、
剪定
選蕾
を行い、より強い樹木、大きな果実を得るために間引きを行う。
間引かれるのは、枝、葉、蕾である。
僕の視点からすれば、自然界の当然のことであり、
植物と人間は違うという発想がおかしく感じる。
そもそも、こけしという玩具の発祥も間引きであり、
人間も昔から間引きをすることを理解している。

間引きをすることへ非道徳の感情を持つ人がいるが、
間引きをせずに劣勢種をも救おうとして共倒れになってしまったとき
間引きをせずに助けたつもりの劣勢種が自分の意にそぐわないことをされたとき
その非道徳感を持っていた感情はより一層の憎悪になることは
多くの人間像でみてきた。

見た目の非道徳、倫理観の尊重がその後の苦しみになるのであれば
早めに処理することにためらいを持たないほうがいいと感じている。

2010-08-25

重要

逆転の発想で考えよう。
何を重要ではないかを理解して、それを捨てるということを実践することだ。

学生時代、
教科書の重要なポイントにラインマーカーを引くとすると、
教科書のセンテンスがすべて、ラインマーカーになってしまう。
そんな光景を見てきた。
今のとなって思えば、教科書自体が、重要な内容に要約された書籍であって、
重要ではないことは極めて少ない内容に構成されているのだから
それなるのは必定だったといえる。

重要という言葉は極めて
相対的、主観的な言葉であり、
話し手からすれば、自分の言葉はすべて重要と思ってしまう。
重要だからわざわざ伝えているという思いでもあるのだが、
聞き手においては、そうでもないかったりする。

それでは困ると思うかもしれないが、
いざ自分の胸に手を置いてみれば、
自分もそんなもので相手の話をすべて重要とは思っていないはずだし、
もし思っていたら、自分の意思がないと言い切れてしまうのである。

だからこそ、ポイントして話し手の言っていることで
今すべき、これだけは押えておかなくてはならないことを
見抜き後は捨ててしまい、自分の意思や他の話し手の意見を汲み取ることを
身に着けるべきである。

「相手の言っていることをすべて理解して答えてあげよう!」
なんて標語をいうが、そういう標語を掲げる人ほど
「言われないとできないのか!」
って言うのだから、重要なんてものは要領よくこなさないと
重要なことばかり行って自分の首が絞まってしまったということになるのだから。

2010-08-24

用紙

人間、いや日本人の行動規範の具象と思う。
お役所に限らず、どんな組織でも相手から出してもらう情報は
用紙に従ってもらうことが極めて多い。
読み手が効率的、画一的に処理を行うためには
用紙に従った記述情報が的確とされていたからだ。
そのため、出生届~解答用紙~死亡届と
日本人としての経緯は用紙をたどれば
その人の生き様がわかってしまうほどだ。

そのためというか、
読み手本位の用紙の概念が
書き手側には当たり前になってしまい、
フリーフォーマット
自由記述
といわれるとテンでダメで、
人によってはサンプルを要求したり、
挙句の果てには、
フリーフォーマットのサンプルおよびそれに従った書き方を示す
読み手が当たり前に現れ、自由な表現の意味をとり間違えてしまわれている。

逆にビジネスチャンスとして捉えれば
用紙を作ること=統治(ガバナンス)
であり、その用紙作成支援は運営、経営支援だと感じて行動することが
サービスのひとつのやり方といえよう。

2010-08-23

退屈

最近気づいた。
退屈とは、努力していないことと言える。
楽しい、有意義なことはもらうのではなく
自ら行うことで手に入れなくてはならないと思う。

確かに欲するものを与えてくれれば
それは楽なのだが、
実際にはそれでは退屈という真理を招いてしまう。
人間はわがままであり、
ある一定のことが満たされると
それ以上を求めたくなる。

皆もそうだと思うが、
満たされた生活だと退屈と感じてしまうし、
満たされていなく、
何かを求めているときほど、
精神的に満たされているのである。

そのように満たされたときに次の活動を起こすということこそ
ある意味、人間の努力と成長、向上心の現れだと僕は思う。

2010-08-20

逸話

年配者、先輩方の失態、武勇伝の逸話を面白おかしくきくことが
社会人生活、とりわけアフター5に聴くことがある。
いろいろな経験をしてきた人は
すごいなあって思うし、よくそんな面白い経験してきたなあ
って思う、、思っていた。

しかし、
いざ自分が聴く立場から聞かせる立場になると、
案外自分は持っているなあって思う。
振り返ってみれば、そうである。
嫌な苦労した経験は、笑い話等のネタにしなければ
やってられない思いに繋がる。

あの時、
あの時代、
について、今客観的に思えばなんて馬鹿なことをしていたんだろう。
って感じたり、
他人に説明するときに当時の緊迫感ではいえなかったことも
面白く話せてしまう今の自分に成長と余裕を感じてもいる。

そう考えると
今の苦労も少し時間があけば
ネタになるのかなあって思える。

苦労や苦痛は
未来のネタの仕込みって自分に言い聞かせるもの一興かと。

2010-08-19

事務

仕事=事務=頭がいい

わけではない。つくづく感じることだ。
事務がうまい人、
効率よく仕事をこなす人が
頭がいいと思われがちだが
必ずしも、いや得てしてそうではない。

事務の多くはルーティンワークである。
決められた時間、範囲、行動をすることが求められる。
その条件下でいかに成果をあげるかが醍醐味といえば醍醐味かもしれない。
しかし、それではそれまである。
決められた枠組みの中でしかない。

頭がいい要素のひとつである創造的なな発想にはなかなか結びつかない。
創造的な活動の前提として、
既存否定が現代では求められる。
なぜなら、物のあふれているこの時代、
何かを否定することがないと、新しいことを始められない状態になっているからだ。

決められた枠組みの中で最高のパフォーマンスを出すことを評価するより
新しい概念を創設する気概や発想こそ
今後の付加価値を生み出す頭のいい活動だといえる。

多くの場合、
新しい概念は理解されず
事務のような当たり前の概念を評してしまうところに
日本人の発想力の弱さを感じてならない。

当たり前を当たり前ってなんかおかしくないか?と言い切れる
気概はないものかと。

2010-08-18

信義

嘘の許される範囲と解すべきだろう。
いかにも、信義という言葉を正当なきれいな言葉と思っていても、
信義という表現が使われている以上、
現実社会に存在が確認できていなく、
それの事実をいかに存在しているかのように見せる嘘を突き通せるかが
信義の大きさだといえる。

信義という現時点における嘘を
・今までの実績
・今回の存在させるまでの実現可能性
等の担保行為によって、ありえない価値を見出して信用してあげるのである。

「嘘をつくことは悪いことです。」
「相手からの信用を得ましょう。」
市場社会では無理と思うべきである。

現時点であり得ない虚構をいかに実現させるか
そのために、見えないものを見えるようにすることは
ある意味、だましているという認識をもつべきであり、
そのだましているという自覚、自戒の念をもって接することが
これからの実現させるための原動力、そしてサービス品質の根拠になるのではと感じる。

市場は性悪説。
だからこそ、自らが悪、そして他人も悪であると思えば
信用の意味が互いが互いを存続させるための必要悪と感じてくると思う。

2010-08-17

回顧

人生における転機は
だいたい、回顧して初めてその時が転機だった感じるものだ。
そして、自分が転機だと思って行った行為の多くは
転機というよりも、その時の思いの延長上の方向でしかなく、
転機と言うものではないこととも回顧するものだ。

自分は決してうまく行っていると思ったことはないし
かなり損をしていると思っている。
性格上、社会情勢上、の要因でかなり不幸と感じることもある。

しかし、それは他人から見れば
そんな大変な経験をしている
普通の人ではそこで動くことはできない
という話を受ける。

そう回顧して思うと
嫌な思い出 = 貴重な経験談
小さな結果 = 投げ出さずに小さいながら結果をだした
成功     = 不幸への入り口
成約     = 足枷の始まり
と自分の思いと反対の評価してもらえることもある。

自分の思いを回顧してみる。
それを第三者に評価してもらう。
それで新しい見解が見いだせることもあるのではないかと。

2010-08-16

人材

人間は人を集めるときに、優秀な人材を求める。
でもこれは本当にそうだろうか?

少し俯瞰してみよう。

業務の標準化、プロセス化で人的ミスを廃絶するということは
個々人のクリエイティブな優秀さではなく、オペレーションの忠実性を求めている。

新しい企画、運用を立案しても
既存価値への固執、および成功体験から新しいことを行おうとする者を否定する。

あまりにも対外的に有名になってしまうと
既存の者の評価が相対的に下がるために疎ましく思う。

結果として優秀とされる人材が組織に入っても
能力を十分に発揮できなく、
正当に評価されないという思いを持ってしまう。

本来、あるべき能力主義は
所有と経営の分離で
「好きにやってくれていい、その代わり結果を残せ」
という前提、経営たる業務に口出しをしないことが求められる。

採用する側の都合のいい人材
(思うがまま、言われた通り、出しゃばらない)
を個人能力主義の市場から手に入れようと思うことは
論理的に破たんしていると僕は感じている。

2010-08-13

謙遜

あまりすべきではないかもしれない行動かも?
日本以外では謙遜という行為、概念がない。
賞賛に対して、ゆるい否定をするような好意より
賞賛に対して、ありがとうといったほうが喜ばれるといえる。

そもそも、
敬語表現がままならない現代において
より使用方法が難しい謙遜を使いこなしているようには感じられない。
へりくだるという表現を理解しているのだろうか?

へりくだることは自己否定ではない。
それを理解せずに謙遜をしたつもりの例をあげるなら、

「君に任せてよかったよ。感謝させてもらうよ!」

という言葉に対して

「自分なんか感謝されるに値しません」

は謙遜ではなく、むしろ任せた人への選定ミスのようなイメージを与え
かえって印象が悪くなってしまう。
本来あるべき表現としては、

「今まで能力を発揮できずにいた自分にチャンスをくれたことに感謝します」

だと言える。

はっきり言おう。
謙遜をウィットのセンスと同じだ。
相手の言葉をうまく気の利いた言葉でカウンターが打てるかどうか。
キャラ、センス、経験がないのならば
下手に謙遜せずに、素直に答えよう。
そのほうが相手にとっても素直な気持ちでいれるのだから。

2010-08-12

累積

思考の原点は知の累積とその活用である。
蓄積ではなく、あえて累積としよう。
ただ蓄えるのではなく、重ねるように積むことが重要である。

知っているということでは意味がない。
まして、知っていたという、過去形つまりリアルタイムの知を
使えないのでは、知識をもっているだけでいざ使えないのでは
全くもって意味のない状態といえよう。

考えるということは
・問題意識を持ち
・今まで持っている知識を検索し
・解答に導くために自発的な行動をとる
と定義すべきといえよう。

知的好奇心で
多くの人間は知を手に入れたが
実際にはそれを考えるという行為に昇華させてはいない。
知っているということで満足というべきだろうか。

知った上で、
その知識を問題点にぶつけて
解答たる新しい付加価値へ高める行為がなくてはならない。
論理的に考えれば、その新しい付加価値もまた知識であるのだから、
考えなければ、知識は全体として枯渇する。

ただ知るのではなく
累積を機能させるようにして
’考え’をめぐらせることにもっと注力すべきと今の時代に思う。

「頭がいい」って知っているということとは違うでしょっと。

2010-08-11

秘伝

情報開示を求める世の中は
実は品質低下に繋がっている。
多くの技術において、
秘伝とされるものを開示させていこうとしているが、
それは秘伝ゆえに保たれた品質低下を招いている。

多くの人の目に晒されて、多角的な視点で悪いところが改善されるから
いいことだと世間はいうが、それは大きな間違いである。

悪いところは本当に悪いのだろうか、
感覚も経験もそして責任感のない人の意見に晒されて
必ずしも正しい判断がされるとは限らない。
むしろ、思いつきや偏った思想を強いられることになる。

具体的に言えば、
おいしいとされた料理店の他店舗化は
秘伝のオープン化であり、それが必ずしもうまくいかず
同じように仕事をしたとしても
「味が変わった」
「本店の味と違いすぎる」
なんていわれリスクになる。

また、付加価値ってものはその秘伝に他ならない。
情報開示をしても、付加価値にあたるものを
開示すべきではない。それを真似られて、自分たちの存在意義が危ぶまれても
世間の言い方は
「情報開示したのは自分たちだし、真似されるくらいの技術だったのだろう」
て評されるだけである。

個人情報保護 VS 情報開示義務(ディスクロージャー)
と情報に対しては、多くの矛盾にも似た論争が尽きない。

秘伝という神秘性に魅せられて世論からの開示要求がくるかもしれないが
秘伝とは知的財産であり、それを開示するのは窃盗要求にも近いとみなし、
抗弁したりしたりしないと守れない。
秘伝はそうやって、責任を持って守り続けられた結果なのだから。

2010-08-10

無駄

よく政府、企業のような大型組織に対して、
「徹底したコスト削減を図ります」
っていうが、それは本当に無駄なのだろうか?

例えば、箱物行政は無駄というが、
それは僕の中では大きな勘違いむしろ矛先が間違っていないと感じてならない。
なぜなら、箱物と呼ばれる建造物を作るには
多くの建設に関わる企業に支払いが行われる。
その企業がまた設備投資や消費を行うと市場が活性化される。
それにより、間接税収も増えるのである。
政府の言う利益の再分配が成り立っているのである。

逆にコスト削減を行うと、市場が逆に冷え込むと思う。

問題は箱物行政ではなく、
それに関わる過程での市場活性化要因の欠落ではないかと感じる。
・使いどころを間違えて、起こしてしまった財政赤字
・未来への不安による貯蓄
・市場訴求力のない商品の多さ
・使わないことを美徳とする世論

まがいなりにも組織の長として思うのは
社員に対して
ケインズやフリードマンの経済学を諭せずとも
「金は天下の回りもの、
 自分の欲しいものを買いなさい、
 その買うために貯金しなさい
 貯金できるように仕事の質を高めなさい」
これに尽きる。

金を使うことは、無駄ではない。
むしろ、市場活性化に繋がると強く言いたい。
ただし、無用な返済が困難な借金をしてまでの購買は
自分の力量を見定めていない浪費だけどね。
その浪費が自己破産に繋がれば、かえって市場活性化を阻害するのでね。

2010-08-09

見切

なんとなく、相手を言い当ててしまう。
特に
本人がかたくなに否定しているが事実なことほど言い当ててしまう。

動物は元来、身を隠すことを本能としている。
外敵から捕食されないように
獲物に気付かれないように
そして人間は、本心を見透かされないようにと。
その上で隠しきれず身を晒した場合は、、まな板の鯉状態になる。

人間なんてものは、えてして
自らが思っている自分と社会から見られている自分に大きな差異がある。
その事実を知らずも、知っていてもなお
自分の思っている自分像を肯定しようとする。
これはアイデンティティーの尊厳、、人間ゆえの自己防衛ともいえる。
自分が自分自身を知らないということはありえてはいけないから。

多くの場合はかたくなに社会からの自分を否定し続けるが
事実立証だけでなく、その事実に基づく行動予測が当たってしまうと
隠し切れずに、開き直りのまな板の鯉状態になる。

僕からすれば、
相手のアイデンティティーの尊厳なんてどうでもいい。
相手のアイデンティティーとは、社会への防御壁でしかなく、
相手を見切り、
相手の本来の気質、特性、そして、その自覚を目覚めさせたほうが、
アイデンティティーが防御壁ではなく、閉じこもっていた殻であり、
気付かなかった可能性を手に入れると思う。

見切られることへの不満をもたれることに対して
見切ってもらったことへの感謝もあるではないかって思うのだが
多くの人間はただ、不満に感じ、可能性を広げない。

2010-08-06

給水

給水と聞くと
人間の常識とか健康の意識が曖昧と感じる事象が脳裏に浮かぶ。

子供のころ、
運動時や暑い日に対して、
「水分を取りすぎると余計疲れるから、飲むのは止めなさい」
といわれてきた。
しかし、現代では
「水分補給をしっかりしないとならないので、必ず飲みなさい」
といわれる。

科学の進化で概念が全く違うことがわかることはいいことかもしれないが、
僕が気になるのは、下記の2点だ。

ひとつは
給水を止めなさい、飲みなさいという人が
同人格でかつ違和感なく発していることである。
多くの人間がそうなのだが、
メディア、オーソリティーがそういったから
平気で意見を正反対に変えることに違和感がないことに
健康へのポリシーはないのか?
継続した行動こそが健康だと思うが、言われるたびに変えられる体質は
健康といえるのだろうか?

もうひとつは
この科学の進歩だ。

今回は給水行為が正反対になったが、
一昔前は、ココアにおいて
・高カロリー過ぎるから、飲むないように
・ポリフェノールがあるので、飲むべきだ
・成分同士の相互作用で、あまり健康的ではない
と1年のうちに何度もいい悪いが繰り返されてきた。
このココアのように給水行為がまた、反対にならないかと憶測が成り立ってしまう。

思うに、科学といえども人間の研究の賜物。
自分の研究が無駄ではないとしないと、研究費がもらえない社会。
だから、毎度毎度、いろいろなものを発見、実験して
いい悪いを言い続けるのではないかと感じてしまう。

いくら気をつけていても、
いや気をつけていない
他人からの情報ではなく、自分自身の体調管理を感覚で行っている
人のほうがかなり安全な時代なのかもしれない。

2010-08-05

美学

性癖といえる。

自分からすれば、生き方や考え方のポリシーとして貫く観点かもしれないが、
他人からすれば、どうでもいいことにこだわっているに映る。

美学=価値観=個性 と考えることもできるが
昨今における社会問題から、個性を出すということは意味がないし、
かえって社会利益に繋がらないと感じる。

僕が思うに個人の美学やセンスを尊重する組織、国ほど、
凋落、貧富の差が著しいのではないかと。

社会としての全体最適により社会的利益で裾野が豊かになり、
底上げに繋がるのだが、その分ある程度の個人の尊重が犠牲になる。
その犠牲を、
「みんなのため」
と思ってきた高度成長期の日本は
それで大きく成長できたが、現在の社会では
「なんで?自分の美学に反する」
というとすそ上げにはならないし、
その美学により個人の刹那的快楽と社会的機会の喪失になる。

美学という個人の思い込みが
全体としての向上の阻害になっている事実が
気付かぬうちに身の回りに進行しているのだが、
実に見える刹那的快楽により見えなくなっている。

よく言われる
失われた10年
それは個々人の美学に踊った機会損失だったといえよう。
その期間、多くの日本人は個人、個性を口にしていたのだから。

2010-08-04

議論

日本人は議論が苦手である。
日本人は議論とクレームを同視する傾向が読み取れる。

議論の本質について多くの説明が、

「互いの意見をぶつけて、よりよい結果を導くもの」

等の表現をしている。

思うに嘘である。
これは日本人の発想であり、
欧米、大陸における議論はそうではない。
日本以外の議論の本質は

「自分の意見の正当性を押し通し、相手の反論に対して本質を曲げずに相手を歩み寄らせるか」

といえる。

・互い
・ぶつける
・よりよい

という発想は根本からしてなく、
自分が正しいともう結果にどれだけ誘導させるかである。
日本におけるわがまま、自己主張とされる禁忌が
かえって外国では生存権に繋がる行為なのである。

その認識の差異があるので、
日本における議論はあまりは活発にならない。
まして、日本においては
「任せた、どっちでもいい」
という風潮がある以上、自己主張する気概がないともいえる。

議論なく効率的に物事が進むことを日本の美徳とするか
それゆえに、日本の進め方がよくないという国際批判とみなし
改善しようとするかは、各位の属する組織体での各位の行動になるだろう。

僕の見解からすれば、
文頭に書いたように、
自己主張が根拠なくただのクレームになるのであれば、
議論という行為に手を出すことは控えたほうがいい。
発言の責任性、論理性を身に着けてこそ、
国際的な議論の席に立てると思っている。

2010-08-03

求道

書家の大家の文字が読めるか?
印象派の絵に共感できるか?
ロックの大御所の歌詞がちゃんと聞こえるか?

道を求めると庶民に理解できなくなるといえる。
もっと言ってしまえば、それが
文字
絵画
音楽
で評価すべきものなのか?むしろ下手ではないか!
って思ってしまうものもある。

はっきり言えば、
下手と思っていいのではないか。
求道は、はだかの王様である。
自分たちの世界でそれを言いと思い込んだ結果の内容であり
それが一般受け、市場価値に繋がるかは別問題である。
好きな人が好きであればいいのであって、
それを無理にわかろうとせず、
それを下手と思う感性も重要である。

それに上記の内容もそもそもそこから来ている。

きれいに書くという感性にとらわれて、自分の文字を書いているのか?
サロンで評価される絵画だけが絵なのか?
クラシックだけが評価される音楽ではないだろう!

既成概念に対しての挑戦がその求道を導いている。
決して評価されることはない世界だったのはずなのなのだが、、

それを賛同する評論家、それで一儲けする市場経済が
求道を大衆に、一般化を求めてくる。
多くの大衆に指示されたほうが、
発言権の確立、市場の拡大に繋がるから、、、
本来の求道者と評価者の価値観はづれている。

大衆に下手と思われても求道者はあえていいと思われていいと思っているだが、
それがうまいという評価者にゆがめられてきているといえよう。

市場社会の評価価値なんてものは
思い込ませるだけだと確信してならない。

2010-08-02

身分

物語にしやすい構成だと
・貴族に虐げられる平民
・金持ちにやられてしまう貧乏人
の視点で書かれ、共感を求めることが多い。

しかし、現実社会では逆ではないか!
・いい家のボンボンのくせに
・金持ちっていうだけでむかつく
と平民に蔑まれることのほうが多い。

本人は何もしていないのに
いい思いをしてきた
思われてしまう。

戦後の成金の子である父
そして、その事業は引き継いだ父の子である僕自身、
当人として生活が苦しくても
ボンボン
と言われて嫌な思いをしてきた。

平民は平民の負け犬根性で生きてきて、
正当性の共感を得ているかもしれないが
その負け犬根性をぶつけられる身分のたちのことを考えているのだろうか?

そして、さらに思う。
もし物語で平民、貧乏人が困難に打ち勝って大成した場合、
間違いなく、家族にその恩恵を継承させるだろう。
その家族は当人の努力と関係なく地位を引き継ぐのだから、、、
今度は物語の敵側になる条件を満たしていることになり、
結果として世代を渡り、身分が流転するように感じてならない。