2012-01-31

切捨

現代社会が直面して、これから求められる概念と悟っている。
成長経済においては、飽食、飽物で
いろいろなものを手に入れることを目指して活動することをしてきた。
いわば、物欲こそ経済の活力源であった。

まずはすべて欲する。そんな時代だった。
でもこれからは、何を諦めるか、何を捨てるかを考える時代になってきている。
その概念はじわじわと浸透してきている。

世間で騒がれている、ダイエットというものがその象徴である。
昭和初期の日本は、みんな腹をすかしていきていた。
職業に就くことを、食ってけるっと表現したくらい、空腹を満たす概念が主流だった。
しかし、今は、ダイエット、食べないことに文化、嗜好の潮流が流れている。
食えないから、食わないという方向になっている。

個人レベルで始まっているダイエットの概念は
企業の無駄の効率化、
そして、国家運営の税金無駄遣い
と、今までは手に入れてからという概念が正しかった時代だったが、
それを持ってはいけないという時代になってきている。

ダイエットと国論は一緒ではないと感じる人がいるだろうが所詮、人間の概念。
必要ないものに気づいたその時から、思考の方向は固まっていしまうのである。

無駄を切り捨てるという名目でどんどん切捨てが始まっている。
その事実は否定できない。そして忘れてはならないのは
切り捨てる側ではないという事実だ。
つまりは、自分が切り捨てられる可能性にいかに対処するかを忘れてはならない。

・リストラ
・コストカット
・業務効率化
・システム化

などというもので発生する結果は
価値の認められない給料である
あなたの収入に影響する可能性をもっている危機意識を。

2012-01-30

美談

つまりはありえない話。
美談に感動することが多い。
しかし、美談は相対的に稀な事象ゆえに美談である。
現実社会は、その逆が常である。

美談を聞いて、感化されて、自らの行動をそれに続こうという思いは大切である。

しかし、今の社会は
美談を聞いて、自らを棚上げして
それを他人に強要するから、抗争が生まれる。

悲しいかな、美談を知ったがために、醜い日常が繰り返されているともいえる。

美談を聴き、感動するのは個人であるのだから
それを自らが行うものであり、他人に強いるものではないことを
意識して行動することが美談を聴いてからのあるべき姿と思い、
そこまで、指導しなくてはならないと思った。

2012-01-27

英断

優れた決断とされる。
英断をするという表現は、権力を一手に握った個人格に使われるものである。

古びた会社や国政をみると、なんか感じる。

誰かが何かしようとすると
反対、不信任を騒ぎ、
そのかわりに新たな人が立っても
反対、不信任が繰り返されて、全く進展のないことを繰り返す。

社長が毎年変わり、方針が二転三転する企業
選挙が終わった瞬間に、解散を騒ぎ始める国政

そんな状況下で計画をもって行動できるだろうか?
その計画を一丸となって決定できるだろうか?

そう考えると、独裁、独断こそ英断につながるといえる。
何もやらずに、結果落ちていくのと
何かを英断した結果、落ちていくのでは
その理由と対処が明確化、区別できる。

黙って従っていたほうが、結果がでるのでは?
戦後の日本の高度成長の理由も、黙って従っていたからだと
結論付ける見解をなぜ認めないか、僕にはわからない。

2012-01-26

連帯

結果的にマイナス的なものを呼び出す表現になっている。

互助、信頼の意味で
連帯という言葉があったのだが、
現在社会においては

連帯保証人にされた
連帯責任をとらされる

と言葉のイメージは悪い方向に使われている。

多くの人を助けるために、
みんなで個人の苦労を分け合おうという
博愛精神はすでに精神論に成り下がり、
自分はおいしいところだけ
嫌なことは他人におしつけてしまえ
という社会になっている証拠と感じてならない。

犯罪性の大なり、小なりの違いはあるかもしれないが
多く一般的にそのきらいが社会にある事実は認めざるおえない。

連帯の真意が薄れていることを嘆く、批判することは誰でも出来る。
だからこそ、連帯の真意を復権させるような、経営をしなくてはならないと思っている。
連帯する仕組み、責任そして、、享受するありがたみを。
草の根的かもしれないが、それが組織力の根底だと確信しているので。

2012-01-25

公平

すべてのものを同じように扱うこと、とされるが、
決してありえないし、あってはならないことだ。
すべての個体を尊重するならば、同じように扱えない。
また、愛情という感情を認める以上、好意の偏りがでる。

公平を強く主張する人の妻が、浮気した。
妻は、「公平に愛している」と答えても男は糾弾する。
それは別の問題として扱ってしまう社会なのである。


社会の秩序を維持するには、不公平でなくてはならない。
なぜなら、秩序を維持には判断、判決を行う立場の存在がいなくては
物事は決まらない。その立場を公平するということは物事が決まらないことにつながり
停滞、衰退の一途になる。

独占的な権力からの脱却を公平のもとに人類は歩んできたが
その公平もまた社会的にあるべき姿ではなかったという判断してもいい過渡期に
なっていると強く感じている。

根本的には、好き嫌いがあることこそ、人の個性なのだから
公平にするということは所詮無理なことといえる。

2012-01-24

秘蔵

とっておき、、ではなく
お蔵入り、、、つまり使えないものである。

秘蔵と表現すると、なんかいいものに感じるが
この市場経済において、在庫とし残っているということは
市場価値が認められないということである。

TVで秘蔵VTRとかいうが、
それは、放送できないものであり、
結論的には、つまらないカットであり、
本編の放映では使えなかったもので、
本編の反響にあわせて、附帯的に流すことが多いのである。

日本語のアヤかもしれないが、
価値のないものをいかにも価値あるように表現することは
他の言語圏からは、詐欺表現とみなされるリスク、、
いや、そういわれ訴えられている事実も理解をしないとならないと思う。

秘蔵=訳あり商品

として、その理由を明確にしなくてはならない現実を。

2012-01-23

僻地

都会から遠く離れた土地のことを指し、
僻地と都会との差を問題視する声が社会問題になっていたりする。
しかし、その問題視そのものが問題ではないだろうか?

年配者の中に、田舎で過ごしたいという声の意味は
都会ではない、僻地の環境を求めているわけであり、
都会と同じになることは望んでいない。

また自然保全の観点からも、都会と同じになるべきではない。

僻地、過疎、高齢化という声について考えれば
それは、自由資本主義の大前提を忘れているに過ぎない。
市場として魅力がないから僻地化
人を寄せ付けるものがないから過疎
そして、購買意欲がなくなっている高齢者にビジネスチャンスを感じない
人々が選んできた結果であり、
それを他人のせいにするような論理がおかしい。

僻地の声を反映させると言いながらも
そこには市場もなかれば有権者も少ない。
資本、制度として対応することができない実情を問題視して無駄に騒ぐより
自分たちの仕事、ビジネスの展開でそこも内包させるくらい事業展開を志すことが
本来の社会人には求められているといえよう。

僻地は僻地ではなく、安い土地がたくさんある
という割り切った認識のほうがかえって、
市場を活性化させるという事実も正しく理解すべきである。

2012-01-20

歯車

動力の伝達にもちいられる機械要素である。

円の外周にギザギザがついて、
動力の方向を自在に変える優れた発想だと僕は思っている。

現在では異化して、
社会の一部になることの暗喩で使うことが多々見られる。

「自分は社会の歯車になりたくない」
「会社の歯車として、働いてきたのに」

なんて発言をしていることを耳にするが
そんな発言をしている人ほど、
歯車であるわけない。

上記のように
動力の伝達が要素であり、
社会、会社で動力を伝送ロスなく伝えるかという視点に立てば
役に立っていないとしか言いようがない。

人間界での歯車になるということは
誰から伝えられたものを、
目的になる人に的確に伝える力をもつ存在でなくてはならない。

人として、
他人からの思いの伝承を後進にうまく伝えるくらい立派な人になれている人が少ないからこそ、
歯車になれた人は賞賛すべき人と僕は感じる。

2012-01-19

護符

お守りとお札の違いがわかるだろうか?

お守りは、モバイル
お札は、ディスクトップ
と現代風にいえるだろう。

お守りは
個人を守るものから
いつも肌身離さず身につけているべきもの
お札は
地鎮の要素から、
地点に定め、奉るものである。

お守り、お札のようなものは
身近なもののようだが、
ちゃんと意味をもって効用をするべきだと思う。

とりわけ、日本人の多くは信仰に対する節操がなく、戒律も縛りも薄い。
年末年始のみの神頼みで都合がよく考える以上、
少なくても最低限のルールを守らないと
目的のご利益のかけらもないだろう。

2012-01-18

転用

デジタル技術の飛躍で、
いろいろなことが複写しやすくなった。

文章、音源、画像、、そしてビジネスロジックも可視化、オブジェクト化して
コピーできるようになっている。

しかし、この複写は複写であって、転用というものではない。
そこを勘違いする、、いやその勘違いが現代社会の歪みになっていると言えよう。

モノとしては、複写できるが、
そのモノをそのまま使うことはありえない。
複写する意図はわざわざ複写するのであって、
その複写は結果ではなく、過程であり未加工である。

それをいかに加工、調整、、目的にあわせることが
転用であり、現代のビジネスモデルそのものといっても過言ではない。
転用とは付加価値をつけている結果であり複写ではない。

転用するときに技巧を凝らさないものは仕事をしていないと同義である。

最近の庶民クラスの発想は
いかに複写するかであって、転用の技巧が皆無で見るに耐えない。
まして、複写すらろくに出来ない輩の横行かつその実力が伴わないレベルに
嘆きもあり、そしてある意味、価値を示せるいい土壌でもあると思えてならない。

2012-01-17

嘘吐

「うそつきはドロボーの始まり」
「嘘はいけません」

と教育をされてきた。
しかし、嘘をつくことが現代社会の常識、
強いては礼儀になっている。

・もう限界なのに、まだまだって励ます。
・余命がいくばくの患者に、真実を告げない。
・社会的混乱をさせないために、情報を隠蔽する。

嘘と真実を隠すことは別という、
愚者との問答をする気はないので言及をしないが、
嘘という真実を遠ざける行為をすることが社会を生きていく術になっているところはある。

また、個人情報保護のために
偽名を使うという人が多くなっていることなどから
嘘をつかないことのほうが正しいと思う。

学校教育で行われた
嘘はいけませんは
教師の管理のしやすさ以外はなく
その教師とて、敬意もないくせに上司、父母に
敬語を使っている社会に、嘘がいけないっていうのはどうだろうって
真実の気持ちで綴ってみてしまう僕は、正直なんだろうなって思ってしまう。

2012-01-16

自衛

実はギャング、やくざの根底にあるもの。
そもそも、ギャング、やくざは
地域の自衛団を発祥としている。

国家や政府に見捨てられた地域が
自らを自らで守るために、生まれたの自衛団である。
・清水の次郎長
・ゴッドファーザーのヴィトー・コルレオーネ
その自衛団のもつ武力が
自らを守る  
→ 自分たちに攻め込まれる前に対象をつぶす
→ 自分たちの利益を阻害するものを消す
と異化されて、現在の暴力団になっている。

国家、政府に救いを求めても裏切られたがゆえ、生まれたものが
結果的に、国家、政府から訴追されるという現状はなんとも皮肉だろう。

ジョンロックの説いた
「抵抗権は人間の自然法である」という台詞がある。
自分で自分を守る行為の解釈基準は時代ともにかわる。
集団的暴力行為は自衛でないとみなされるこの時代、
整列や集団ルールを守らない庶民の行動は
自分の利益のために自分を守っているという論理ではなく、
罰せられるべき対象にひとつ思うのだが、、
いかんせん、今の社会基準がわからない。

自分は自分のルールで、という論理で
少なくても、弊社内では自己と組織の自衛の位置づけを明確化して
経営統治をしなくては!って自戒していこうと思う。

2012-01-13

巧妙

非常に巧みであること。
では、巧みとは
美しいものを作りだすわざやはたらき
はかりごと。くわだて。たくらみ。
の意味である。

巧妙という言葉はある意味現代日本では使えづらい。
すばらしい働きを巧妙と評すると
評された側は、馬鹿にされていると思うこともあるし、
謀の意味で、巧妙な手口と言われれば、悪い表現に感じる。

巧妙という言葉が使いづらくなっているのは
現代社会において、いろいろな意味で、技術力が欠如しているからといえよう。
考えて、考えて編み出すこと
相手の裏の裏をかくような奇策
を導かなくても、のほほんと生きられる日本になっているからだ。

だからこそ、この先危ないといえる。
先進国の老獪さ
途上国の生存競争むき出しの行動
は巧妙そのものである。

その巧妙を受けるだけでは、搾取される一方で、何も残らない。
いわば、いい餌にされかねない。

外国企業の活動実績の話を聞くと
巧妙なことをするという気持ちを持ってはじめて
グローバルに太刀打ちできる時代と意識して
経営をしなくてはっと思いに急かされている。

2012-01-12

情状

きつい表現をしてしまうと、
情状とは、違法容認であり、これを認めることはあってはならない。

組織気運、民意がどうであれ、情状を容認すると
秩序が崩壊するといえる。

冷たいという人が多いと思うが、それが誤った考えである例を挙げよう。

ある人が盗みをした。
その人はとてもまじめに生活をしていたが
貧乏であったため、病気の母に高価な薬を買えなかった。
母のためにどうしてもその薬が必要で、盗んでしまった。
この裁きで、裁判の執政官が情状酌量をしてしまうと、
・自分はもっと貧乏だから、盗んでも同じように許されるべきだ。
・そもそも、薬が高いから悪い、それを全部無料にしろ
という民意が騒ぎ始める。

盗んだ人の行いに情状すると
・前例を自己解釈につかう輩
・他人の財産権、市場論理を無視する愚民
が現れ、今まで統制を取っていた秩序が崩壊する。
せっかく、努力してお金をためてきたのに
貧乏な奴らから盗まれることが容認されたり、
原価がかかってその値段になっている商品価値を
不当に下げて、儲かるべき利益が全くなくなるということもある。

情状は
誰かを酌量するかわり、誰かを不幸にするという諸刃の刃であり、
その不幸が、既存の秩序を乱すことになる。

現代社会はマスコミや民意が横暴的に意見をいうが、
道徳、倫理、秩序を維持するのならば、
情状を一切なくした決断をすべきあり、
それが、結果的に多くの人々のためになるということを
強制的に理解させることが極めて重要といえる。

情状が多いということは、
無秩序、賄賂の可能性もあるという不正な状態である認識を
現代人は強くもつべきだと思う。

そもそも、人を裁く法律は選挙、立法という、歴史的な民意の結晶であり
その法律に対して、民意で情状を強く表明しているのだから、
そもそも民意の意味はないという事実を理解しているだろうか?

2012-01-11

祝辞

祝辞という時は
祝う
辞める
という漢字の熟語であり、
なんか矛盾しているように見えられる。

しかし、そもそも、
辞という文字の意味の認識が
一般的にことなるといえる。

辞という文字の本来の意味は
’宣言’という意味である。
言霊をもって神に宣誓するという意味合いが強い。

祝辞とは
祝いの言葉を神に誓って言わせてもらう
という意味に訳せるだろう。

ではなぜ、辞めるなのか、、、
答えは、日本の不文表現にあり、
「それを言ってはおしまいよ!」
「そこまで言うな」
というように、言わずもがなの最終宣言にあたるものが、
ことを終わらせる宣言、、辞任、辞職、である。
任命されたことについて宣言をさせてもうらう。
職について、語らせてももらう
ということは、すでにその職位にあらずという意味であり、
終わったという意味で辞という意味がある。

主語が弱い日本語だからこそ、
主語に当たる接頭がつく場合
祝辞
答辞
送辞
という意味では、宣言の意味だが
主語にあたる接頭がなく接尾がある場合
辞任
辞職
辞表
は、言わずもがな、終わるという意味になるといえる。

日本語の難しさ、考えると本当に複雑だ。

2012-01-10

方言

お国ことば、
多くの場合、恥じらいの意味でつかわれていたりする。

遊郭の郭言葉(くるわことば)、
「ありんす」等は
地方の田舎娘であることを隠し、
その遊女たちの地位を
お里の生まれで商品価値を
下げないとために、生み出された文化である。

方言は特定の人にしか、コミュニケーションをとれない言葉であり、
恥じらいとは、
自らの意思が相手にうまく伝わらないときに感情である。

方言のために、自らの発言を恥じる文化が日本である。
それゆえ、背中で語るという、言葉を超えた表現を美徳に感じさせる文化に昇華したと思いえる。

県民性に近い方言でこれであるから
日本語というもの自体が、一地方言語である国際社会になっている現代、
日本人が英語などの外国語を覚える行為より
背中で語る、、仕事で結果を出すということに注力させるほうがいいのでは
国民気質の観点から感じてしまう。

僕らの仕事は、口語、専門用語、そして、マシン語を使い分ける必要があるのだが、
結果的に、求められるのは、言葉ではなく
得られる結果ということは、このビジネスでなくても同じと思ってならない。

2012-01-06

歩行

歩く。
二足歩行という言葉があるように、
人間に持ちいらることの多い熟語だ。

歩行行為を行っているとき
みなさんはどう考えているか?
??
ただ歩いているだけ、と答えてしまうと
僕としてはもったいないと言葉を返したくなる。
歩行時というものは、
足を交互に動かす単純運動かつ
血の巡りを良くなっている状態でもある。
そして、多く場合、歩行時はマイペース、一人の時間といえる。

この条件は物事を考えるに適した時間といえる。
その時間をつかって、物事を考えてみては?といいたくなる。

僕のこの発想は独特のものというわけではなく
日本の哲学者、西田幾太郎の思索の小径 哲学の道 とあるように
歩くこと=考えること とつながっている。

歩いているとき、案外、大きな問題のヒントがえられるかも?

2012-01-05

謙虚

控え目で、つつましいことをさすが、
国際化社会において、
謙虚である日本の美徳はあまり通じない。

自分の功績を自ら立証せずに
あわよくば、人に褒めてほしいとみなされることになる。
??
っと思うかもしれないが、
文化が違えば、謙虚は謙虚ではなく、あつかましい態度と映ることも理解しなくてはならない。

謙虚な姿勢というものの本質、
それを示す人をわきまえて、
自己表現する時代になっている。

自己主張する人間と
自らの功績を誇示せず、誰かにその実績を褒めてもらうのを待つ人間と
どちら、好ましいかは日本人の視点ではなく、
その人の育った文化を理解しているかにも依存することを忘れずに。

2012-01-04

松明

きわめて無茶な読みをあてる。
松を先に書きながら、読みは後ろで、まつ として
たいまつ
と読ませる。

日本の漢字の読みは難しすぎ
小鳥遊でタカナシ
一でニノマエ
という名字はとても難しい。

人名を正しく表せないということは失礼にあたるのは国際的に共通認識だが、
このように漢字の読みが複雑では、到底失礼のレベルとは言えないだろう。

漢字文化を肯定するとしても
これはどう考えても他の言語圏には受け入れられないだろうな。
英語を必須とするより、
母国語である日本語を精査する活動のほうがいいのでは、
結局、これらの難しさや汎用性のなさが
カタカナ英語の乱用を招いているのでは?って思ってならない。

ITの仕事に携わっていると
多くがカタカナ表記になりかねない、
それを日本の語法かつ漢字表記と合わせて表すのは本当に難しい。

図示する書き物が説明に必須になっているのだが、
あれ、、図示することから、転じて象形文字たる漢字ができたのに
その漢字がまた図示を呼び出しているこの時代はって感じる。

2012-01-03

祝祭

祝日、祭日が公休になって久しい現代社会。
しかし、欧米の祭日と異なり、
その祝祭が仕事を休んででも行わなくてはならないという意味ではない。
ワーカフォリックたる日本人のゆえんに感じてしまう。

欧米の祝祭日は
仕事<行事
という意味があり、仕事をせずに国民全員で祝い事の祭事を行うために
仕事をしないように国家が定めている。
だから、国際案件になると、相手国の祝祭日、もしくは休暇期間に
日本基準で仕事を依頼すると、とんでもなく反感と
強いては雇い主であるこちらをバカ扱いまでする文化である。

対して、日本の場合は
基本的には
仕事>行事
であり、労働基準法の法源の意味合いのほうが強いといえる。
休みを国家的に与え、その日の稼働は休日出勤扱いに処するという意味で。

根本的に、行事への取り組みがない日本において、
祝祭日を強制するのは根源的には無意味ではないのかなあって感じる。
より効率的に考えれば、すべての休日を個人、組織依存にすることが
日本人のためになるいえる。

現在の日本国の規制では難しいが
少なくても弊社においては、
個々の休日感、祝祭感を大切にしたいと経営したい。

祝祭はここにおいて違う社会になっている。
家族の誕生日、参観日、みんなで行楽
これらがそれぞれの祝祭であり、それを間接的に祝い、支援することが
経営者としてできる仕事のひとつと心得ているからだ。