2012-05-31

蛸足


あたかも蛸の足のような配線状態を蛸足と呼ばれることが多い。
いわゆる、疑似表現だ。

蛸足配線になってしまうのは
・使い方
・設置環境
など、使い方の悪さを指摘することが一般的だが、
・工業デザインの悪さ
になぜ言及しないのか?と思う。

配線組を自分で考えて行う人は一般家庭では少ない。
規格どおりの電源タップ
規格どおりの配電コード
を組み合わせた結果が蛸足配線になっているわけで、
意図して、蛸足にしたくて、しているわけではない。

蛸足にならないような
電源タップ
配線コード
デザインを提案すべきポイントはないだろうか?

蛸足配線により火事が起きるのは
使い方よりも、
この狭い日本の住宅事情、
電化製品の増加に
合わせた考慮不足への指摘があるべきだと思う。

新興業界に身を置くので
顧客の要件に従わなくてはならないことが多いので
既存業界の怠慢が当然であることに何か不満を感じてならない。

2012-05-30

暴徒


多くの人が勘違いしていることだと言えるのだが、

鎮静できるか、否か、、それだけで
暴徒か革命派かの認識である。

つまり、大義や心情は後付である。

既存政府が押せつけられれば
それは、暴徒による反乱であり、
押さえつけることができなかれば
それは、国民による革命が起きたとなる。

実際問題、国民の数%しか過ぎない人々が行動しているだけであり、
その行動が国民全体の意思とは限らない。
意思のようにメディアが煽っているだけである。

武力を否定しているようで
結局は武力で勝ち得たものを後で
賞賛する社会であることは誰も否定できない事実なのに、、
そこに触れることをたばかるのは、
まるで裸の王様のように感じられてしょうがない。

2012-05-29

禁断


多くの禁断事項を破り去るのは、、
犯罪者ではなく、
理論武装のインテリである事実をみんなは気づいているだろうか?

禁断とは実は、秩序維持の目的が強い。
あえて、禁じることで
多くの人々の行動制限を起こし、治安を安定させることもある。
それは経験則であることが多く、
言い伝えや習慣、神事でありうる。

それを守っていれば、
今までの生活を維持できるのに
好奇心や科学偏重主義の
インテリが出てきて、そのことを解明するしたがる。

その科学的解析で
禁断の理由が分かることが多いが、
その知的理解が必ずしも社会生活に有益だろうか?

インテリはその禁断を解禁させて知的満足だろうが
その禁断に従うことで今まで生きてきた住民の生活は改善どころか
新たな障害がでてくることが多い、
やってはいけないことが、いきなりやっていいと言われた場合の
・実行手順
・後世に伝えるメンテナンスルール
などが整備されないと、社会生活が改悪になることが多いからだ。

そう考えると、インテリの好奇心をかえって危うい。
現代社会を考えると、、、、そういう輩が増えているので
秦の始皇帝が行った、焚書坑儒を復活させてもいいのではないかと思うときもある。
禁断を解禁させるのは、知的好奇心ではなく、
為政者の領分をわきまえあさせることが今は重要である。

2012-05-28

希薄


後ろからぶつかってきたのに
「私の邪魔しないで!!」
と言っている怒り出す愚民に対して、現在の日本の治安は無力である。

その愚民に
・軽犯罪法
・刑法
も適用できないどころか

その愚民に
注意すると、名誉毀損を平気唱え
あまり言い過ぎて泣かすと、パワハラ、セクハラ、を転用され
制裁をすると、暴行罪になる。

愚民の行動が悪いことという認識がない道徳心
それを注意できない社会構造
規範が社会にあっていない無秩序

の状態を安全、治安がいいといえるのだろうか?

人と人との関係が希薄なったと言われて久しいが
上記のことを考えれば、希薄にしていくことが
身の安全ではないだろうか?と思う。

実際問題、
ビバリーヒルズの住宅街、
そこは、ビバリーヒルズ住民と外部の人間とを
町の周りを鉄の柵で囲って分けている。
そうやって住民の安全を守っている。
人間関係の限定化により成り立っている治安が成り立っている事実を考えれば
人と人との関係が希薄なるということこそ、治安そのものではないかと
いえる。

2012-05-25

待機


ビジネスにおいて、待機ということもビジネスの一つだといえる。
しかし、効率化という概念がそれを悪いものとみなしているから
結果的に、悪循環が起きていると思うことがある。

待機の要素は

・停止条件
・クールダウン
・順序性

と待たなくてはならない理由があるはずであり、
怠惰、停滞と待機の位置づけをしっかり分かることが必要である。

それゆえ、待機状態があるからこそ、付加価値、活動価値が上がるわけである。
これは市場メカニズムもそうであり、
供給を待機させることが、需要の高まり、価値の向上が図られる。
意図的に、待機で付加価値をつけることは市場経済では当たり前のことといえる。

日本人はハムスタービートハートビジネスだから、
常に行動していないといけないと感じているようだが、
動かないことも価値である理解を示すこともあるのだ。

悲しいかな、日本人の多くがお参りする不動尊、、不動明王、、
動かない神さま、ゆえに、最高級神扱いされているのに、
その神様の有様は理解していないんだろうな。

2012-05-24

棚田


棚田をみると、
日本という国の特性が現れているように感じる。

・狭く、傾斜のきつい国土
・価値基準が米、、水田である
・自然科学に逆らわない

この集大成のひとつが棚田と思っている。
だから上記のことから、

・狭いけど、新しい領地を求めず、今ある国土をどうにか利用
・他の食糧でなくて、米にこだわる
・自然を敵視せず、ありのままの流れをうまく転用

が国民性にも表れていると思う。

これが島国根性といわれ、
グローバルでないものとしても、
僕はあるべきだと思うし、、
そもそも、棚田のような開墾技術や美的感覚を無理に
グローバルにするくらいならば、いっそ、閉鎖的なところに徹底することもありだと思う。
そもそも、国土から出ていく意識がない国民にグローバルを求めるほうが
あっていないのではないだろうか?

棚田のような開墾技術や土地利用を徹底すれば
必然的にそれを欲しがる国も出てくることもあるだろうという
認識のほうがいいのでは思う。

2012-05-23

真実


別にメディアに関わる人でなくても、表現に規制は伴う。
真実を告げたくても、
「あの人が悪いのだけど、言ってしまうとこの先」
「自分のせいじゃないことにしないと、、」
となり、真実を表すことは、、、結果的に自分の可能性のある未来を閉ざすことになる。

だから、真実を本当にいえるときは
自らの身分が変わる瞬間、、、
・転職、転属
・そして、、死期
となることが多い。

真実を告げるということは勇気という話だが、
自分の人生には嘘をつけない、
自分の人生を守るためには、真実を真実で告げることに価値はないことが多い。

人間は嘘つきである。

先生が生徒に、
「本当のことを言いなさい」
と言っているのは、自分の都合のいい回答に誘導させて
真実ではないことを真実として言わせていることが多く、
真実なんていうものは、、あってないが如し。

真実を告げるということは
自分に都合のいい情報を出すことでしかない。

だから真実がどうであれ、
力さえあれば、
正しいと言い切れるのだから、
真実も虚言もあまり変わりないと思っている。

2012-05-22

掲示


掲示板のように公共的な場所への公示は、最近では効果が薄い。
理由は
・場当たり的な商業広告の反乱
・個人のほしい情報が個人の電子媒体に出力される環境
になり、
自分に伝えたいのならば、
自分に向けて出してほしいというスタンスが強くなっている。
それゆえ、掲示板に公示して伝えていても
「聞いていない」
「自分にわかりやすく伝えないほうが悪い」
とわるびることはなく言い出す始末になっている。

高度情報社会がコミュニケーションがしやすくなったというのは全くの逆で
掲示板のように、多くの人に伝えたいことがなかなか伝わらない時代になっていると思う。
物理的、好立地に立てているはずの掲示板より
アングラサイトのBBSのほうが多く読まれるのだから、
情報の発信の意義、伝え方は大きく変わってきているといえるだろう。

2012-05-21

緩和


規制緩和という言葉、、、は既存の法令遵守者への裏切りと思ってならない。
守り決めしことを、忠実に守ってきた人々が明日から
それを守らなくていいという見解はどうだろうか?

そして、多くの場合、その遵守してきた人々に報いどころか、
その緩和により利益を得る人が権益をえるだけに見える。

時代に即した規制に合わせるという言葉はある意味、
大義名分を人に思わせるが、
実際問題、自分がやりたいから、ルールを破るのをみんなでかばってくれという意味である。

ある意味、、

赤信号、みんなで渡れば怖くない!

それは交通ルールを守ると規制したのに、これで
そして、その信号無視で交通事故を起きれば
無視したほうではなく、自動車運転手の注意不足になる。

規制、その緩和、無視、、もう秩序の論理性はない時代だね。

自分がルールになりつつあることは、、それは混沌なのに、、

2012-05-18

例外


格差、権力の具現化といえる。
統一規格があるからこそ、秩序が成り立つ。

その統一規格に合わないことを認めるということが例外であり、
例外を認めるのは、悪い奴ではなく、力を持った存在である。
統一規格そのものを認めないと言い切れる存在である。

みんな平等、みんな同じ基準でという
万人向けの仕組みを作ることでよりよい社会性の実現を目指しているのに
例外があるということはその実現への障害なのだが、
社会そのものを否定しかねない存在だからこそ、、例外が許されるといえる。

例外を認めない社会づくりを多くの人々は願うだろうが、
人間の有史依頼、例外のないことはなかった。
例外があることこそが、人間といえるし、
そもそも、統一規格という物事のありようを固定してしまう発想も
人間が動物として進化しているようでそうではない概念かもしれないと、
地球規模的な視点で思ってならない。。
いっそ、人間というものから、例外になるほうが、、
、、、それが、権力者がいつも目指し、苦悩するところか!!って
歴史が物語っていることもわかるし。

2012-05-17

基盤


バリューチェーン、、付加価値市場である今の経済において、
誰かのビジネスなくして、自分のビジネスは成り立たない。

自分が関わる情報処理産業においては
パソコン等のハードウェア
OS等のソフトウェア
通信のネットワーク技術
がないと成り立たないし

パソコン自身を掘り下げると
液晶技術
ストレージ技術
計算処理回路
電力供給
の産業がないと成立しない。

産業基盤と言おうか、
前提条件としてあるべきビジネスのもとに自分のビジネスがあることを考えていること
その前提条件がなくなることやその代替をどうするかを
いろいろと考えることが
リスクマネージメントであり
BCPだと思う。

自分のビジネスを見つめなおすということが
リスク回避や永続性につながるといえるが、
その見つめ方について、
自分のビジネスの構成条件である基盤のあり方を深くみることが
根本論だと感じている。
自分のビジネス=付加価値創造とは
既存価値への付加にすぎないのだから。

2012-05-16

人前


社会人になりたてや、従業員で不当と思われる扱いをされていると

「一人前として扱ってほしい」

という言葉を耳にする。

と言う僕も使っていたと思われるが、
実際にこれは、結論を言えば
1個人に値する存在になっていない、
言葉悪く言えば、什器レベル、PC端末と同じ存在と変わらないと思うべきである。

個人としての存在意義を管理監督者が見いだせない以上、
それはインプットされて動く存在でしかない。
言われた通り、支障なくできるその出なくてはならない。
そこに個人の意見が介入する必要はない。
什器やPCが勝手な判断をしたら、入力側はとても不快だし
作業効率が下がる結果になり、強いてはその什器、PCは廃棄になる。

それと同じあると理解する前提から始めるべきだ。
ポイントはその作業での勝手な判断ではない。
その次のアクションをどうするかが、一人前へのステップだ。

やることを終えた後、終わるころに次のアクションを提案することが
一人前の入り口だと考えるべきである。
やっている作業自体に介入すべきではないのだ。

従業員レベルで
「一人前に扱われていない」
という話において、
自己提案の有用性が管理監督者に無碍に扱われているのであれば、
それは一人前として扱われていないと言える。、
そうなった場合、僕はその組織にいる必要がないと思い離席を実行してきた。

しかし、多く場合
単調な仕事しか与えられないことへの不満でしかなく
単調な仕事ばかり投げられるのではなく、
単調な仕事しか扱えないとみなされている事実を理解すべきことを理解してないだけと言える。

自分の周りを見渡せば
やるべきことややってできることはいくらでもあると
常に思い行動しているか
そこが一人前かどうかポイントである。

意味を繰り返すことになるかもしれないが、
一人前とみなしてからそう扱われるのではなく、
一人前の活動をしてから、はじめてみなされる事実をよく理解すべきだ。

2012-05-15

未来


未来という言葉の真意は現在の切り捨てといえる。

交渉事、政治問題において
未来という言葉を使う裏には、現在の犠牲を要求する常套句になっている。

政治活動の多くは、支持という票取りゲームだけだからこそ
「今の生活を改善しなくては、、」
「未来の子供たちのために、、」
と始まる説明は表裏逆になると決めていいと言い切れるくらいだ。

現代人の多くを見ればわかるとおり、
遠い未来には自分はいないし、子孫にも興味を示さない個人主義において
未来論を掲げてもなかなか通じない事実ことを自覚して
統治を考えるべきだと思う。

政治レベルには興味は薄いが、企業統治の観点では、
将来の社員に期待すること自体恥ずべきことと思って
今および見えている予実を意識して統治すべきと心掛けている。

2012-05-14

悪意


そもそも悪とはなんだろう?
根本的には、一般人からかけ離れている
という意味である。
常軌を逸脱しているということであり、とても優れているという意味が強い。

しかし、大衆性の強い日本では
みんなの和を乱す=よくない
とされて、
優れている=悪という意味から
みんなと違う、社会において共有できないというマイナスな意味になってきている。

そんな風土、社会性がある国なのに
個人主義や能力主義を声高に言い始めたために
現代の一般性が個人の思い込みになりつつあり、
自分=一般=善 という混沌、無秩序になりつつある。

みなさんもふっと思ってほしい。
悪いという概念。
気づかぬうちに、自分が認めないものという認識になっているのではないか?
自分こそ、最悪という考え方に立てば
相手の悪はそのレベルにおいて、想定内という思いにたてるかもしれない。

悪ゆえに悪を許すなんて
宗教観に近いかもしれないけど、俯瞰的に自分を悪視するのもたまにはいいかも?

2012-05-11

友達


外人の知人に

「義務教育って意味があるの?」

と問われた。

当たり前に受けてきた義務教育だが、
それは日本だからこそ、
日本においては、学校に行けない子供より幸せといわれるが
先進国においては
自分の子供を自分が選べない教師に洗脳されてしまう
危険が高いと認識する国民も少なくないことを思い知らされた。

日本の抗弁として
「義務教育の教育現場では友達ができるよ!」
と言い返しても、それは逆効果となった。

・あわせたくもない人間と嫌でも席を並べられる
・予期せぬ悪い遊びをその友達といわれる子供から覚えてしまう
・いじめなども、無知な子供の付き合いから発生する

といわれた。

そう、逆に考えると
義務教育や友達の概念があるからこそ、
・いじめ問題
・教師の子供間の問題で親との調整によるストレス
が社会問題になるのである。

子供のために、
学び、友達を増やせる環境づくりは
第三者の外国人の観点からは
問題を引き起こす温床になっているという指摘は
なるほどって思えてしまう。

僕もまだまだ視点が低いと思い知らされた。

2012-05-10

短刀


小御所会議の御所警備にまわっていた西郷隆盛(薩摩)が
一言「短刀一本でかたづきもす」と語ったといわれている。
その言葉の重みと実行力から、紛糾する会議の議題、
摂政・関白・将軍職の廃止が決まったとされる

僕はこれは事実だと思うし、これが真実だといえる。

摂政・関白・将軍職の廃止ということは
今でいえば、国家、内閣という国体をすべてやめるという大きなことだ。

そのような大きなことは議論に議論を重ねて、、
という輩が多く、当たり前のように言われるが、
議論すれば議論するほど、決まらないということは
今日の国会運営、各会社、組合の会議をみればわかること。

会議では決まらないといえる。
決める要素は結論で言えば、保身である。
議論するということは、自分の利権を守ることを主張して
互いが譲らないのが常である。

利権が利権である以上、この社会では難しい。
でも、利権を受け取る存在そのものの危機が迫れば、、
それが西郷の短刀発言である。

そんな暴力的とかいうかもしれないが
社会秩序の安定には必ず、武力、そしてその実行力が伴うことで
抑止力が芽生え、利権の主張を抑えられる。
今までの、米ソ対立もそこにあったと言い切れる。

短刀発言で、国体を変えた西郷隆盛、、、そして西南戦争の首魁、、
でも、その後、上野に銅像が作られる。

うーーん、
やっていることは反社会勢力の武闘派テロリストなんだけど、
後になって賞賛される社会、それが日本って感じる。

2012-05-09

撤退


田中芳樹先生のある小説の一章が頭によぎる


支配されていることに対して
暴動の起きたエリアからあえて撤退した。
その時に食糧などの物資をすべて持ち去る撤退だった。

そこに、救済目的で敵勢力が乗り込んできて
そのエリアを統治し始めた。
渇望する物資要請に快く援助をするのだが、
その渇望のほどが底なしで
かつ元来自分の土地ではないゆえの物流が成り立たず
乗り込んできた者たちの食糧すら欲する始末だった。

乗り込んできた勢力側は
「助けてやっているのに、えらそうだ!」

エリアの住民は
「なんのために来たんだ、目的を果たせ」

となり、対立が起き、またそのエリアで暴動が勃発する。

その暴動を機に、撤退して戦力が十分である元の統治軍が
敵およびエリア住民を一斉攻撃する。

敵軍は理のない戦いにすぐに退却。
住民もどっちについても破滅になるので、命乞いを統治軍する

して、元々も統治体制が一層強化された。

先に撤退を決断した司令官はこれを見越していたということに、、、


小説の中では大した章ではないかもしれないが
これが人の統治の仕方と学生時代に悟る開眼的な内容と思った。

結局、
助けてください!
救ってあげよう!
にはなにも意味はない、
「助けてくれるのならば、もっともっと援助すべきだ」
「救ってやったんだから、言うことを聞け」
でより環境は悪化する。

統治をしたいなら、撤退という役割放棄、とその後の徹底報復が
大きな目的達成になる事実は僕の考え方の大きな主軸になっている。

放置、制裁、隷属、、これが支配の強化ということを!

2012-05-08

無能


携帯電話、スマートフォン、PCが身の回りにある時代。

・暗算
・暗記
・知的教養

はそれらツールを使うことでよく、
そのタイミング、使用スピードが評価されるべきだと思う。

携帯電話をポケットに入れながら、
飲み代の割り勘計算を暗算して間違えることより、
素直に、携帯の計算機能で答えを出すことのほうが正しいのだが、
その事実に
「携帯に頼るな!」
とかいう、おかしな輩がいる。

基本、ものは使いこなしてこそ価値がある。
それは能力、技能も同じで
必要な時に
正確に結果を
瞬時に出せなくては意味がない。

暗算が得意でも、
給料計算や時間計算はそうではないとかいう人は
暗算のスキルがあるとしても
それは、無能、、という評価しかないのである。

役に立っての技能であるはずなのに、
役に立たないことを自負するこの時代、
無駄な能力と無駄な研鑽時間がはびこりすぎと思ってならない。

2012-05-07

価値


人とのいざこざ。

「そんな安いバッグをどかせよ」

「俺のバッグに文句つけるな」

「俺の数万もするバッグに比べれば、価値がねー」

「そんなダサいバッグにそんな金を払う奴に価値があるわけねー」

「この良さが分からないから、お前は生きる価値ねー」

僕からすれば、これが人間の価値観そのものだといえる。

価値観は
自分の存在の固持ではなく、
他人の存在拒否、否定を起こすものほうが
現代社会では主流になりつつある。

個人の好き嫌いではなく、
相手への強制的な表現を有してきている現代社会、、、
もはや価値観の尊重ということはあまりよきものと感じられない。

そもそも価値というものが人によって異なる基準になっている以上
価値というものはあってないもの、
あまり表面に出すべきものではないもの
と認識すべきではないかと社会に投げかけたい。
個人レベルの価値という表明は、ある種の嫌がらせに他ならないと言い切れるだけに、、、

2012-05-02

加圧


圧力をかけるということは
面に対して、力をかけるということで、
物理的に、ある側面の耐久の強さ
精神的に、どれだけ劣悪な環境にさらされるか
に言及することである。

圧力というものは
力である以上、
力点
支点
作用点
があり、それは精神的なものにもあると言い切れる。

どこが力点、、問題の発端で
どこが支点、、なぜそれが自分に差し向けられたか
どこが作用点、なぜそんな嫌な感じで自分にくるのか

ということを意識すると案外、自分に与えられた圧力というものがわかる。

またこれも力学的なもので、
広い面積でうければ比率的は小さい力になるのだが、
狭ければ狭いほど、高い力を感じる。
自分が一人で受けるものであるか、
それとも、、、という見解もあるだろう。

圧力をどう力ととらえて、扱うのかが個々の才能になるのだが、
日本の評価させる力は耐久、持久、の力を求めるところがあるように感じる。
圧力に対して頑丈でなく、それを回避する才、分散させる才を
もっと評価すべきと最近の社会潮流をみると強く感じる。

2012-05-01

恐喝


あまりにも恐喝すぎて、その恐喝の事実を認めないことが多い。

「大きすぎて潰せない」
「ここで援助をやめたら、今までの援助をどぶに捨てる結果になる」
「その前提でこっちは動いてきたので、どうであれ変更はできない」

個人レベル、
企業レベル、
国家レベル、
でこういう発言がいいのだが、これはあからさまに恐喝行為である。
自分ではない相手の財産権をなにかしらの脅威で脅し、
それを手に入れることである。

当人としては、自分の権利、責務で正当と思って全く悪意ない場合が多く、
大きい声でいいきればそれでいいのか?!と
思うことばかりだ。

相手の立場を考えるという発想や相手へ何かしらの見返りを与えないようでは
強者、弱者に関係なく恐喝社会という、餓鬼界と全く同じにしか見えない。