2009-10-30

支援

多くの人の営みにおいて、支援と代行が曖昧なまま行われている。
作業支援と言いながら、
実質は支援している人自身がその作業をしていることがある。
また管理支援といいながらも、実質何もしていないという
現場のクレームある。

では支援とはなんだろうと感じる。
辞書としては
「他人を支えて助けること」
となり、言葉すら曖昧な表現になっている。
漢字の成り立ち、語源からいえること
そして、現代における用例をみれば
支援とは

他人が行いたい活動に対して
行いたい活動とその次の活動が
連続してできるように
準備、強制させることであり、
他人が行いたい活動自身を行わないこと

と言える。
支援をする目的が、当人の自立であることは
言われずとも明らかなことであり、
その自立を促すためには、その活動を取ってしまっては悪行となる。

そう考えると
支援という行為は実に難しい。
実際、自分がやってしまえば早いのに
という思い、行動を抑えて、他人が出来るように
あたかも非効率に振舞うのだから、
支援活動を考えて実行するということは本当に頭の下がることだ。

2009-10-29

文章

うまい文章は、
どれだけ多くの文章を書いたかより
どれだけ多くの人に向けて書いたかだと確信している。

文章を書くということは
読まれることを前提にして書き始めなくてはならない。
つまり読み手にどう理解されるかを意識して
構成を考えなくてはならない。
記した文面の数倍、推敲文章は脳裏によぎっていることになるはずだ。

僕自身もこのブログで多くの文章を書いてきてはいるが、
表現的に気をつけようとするのは、
このブログというより、読み手となったときに
読解しづらい内容を受けたときだ。
書き手側は自分が知っていることが前提で書くが
読み手側はわからないし、検索では出てこないこと
・いきなり出てくる人物
・中間検討活動の省略
・自分の活動範囲内で使われる専門用語
は読み手を混乱させる。

この手の文章の読み手になって初めて
自分が書くときはその点を意識しなくてはっと思う。
うまい文章を書く前提は、
読みやすいこと、そしてその文章から動きがイメージできるもの
であり、気のきいた表現技法はその過程で出てくるにすぎないと思ってやまない。

2009-10-28

権利

権利、権力の<権>という文字の意味が解るだろうか?
知っているようで、知らない漢字の一つと言える。

現代人に<権>を解りやすく言うとしたら、
仮、ヴァーチャルといえば伝わるかもしれない。
昔の表現だと化身と訳される。

権力:力みたいなもの
権利:利益をえたみたいなもの
権現:人の世界の現れたときの神様

実際のものとはちがうが、
あたかもそれと同じ効力があるということである。

わざわざこんな遠回しな表現を用いずともと思うが、
この行為自身が人間たりゆえんと言える。

<権>という表現を用いて、
現時点に存在しなくても、その存在を肯定することで
話を進めたり、解決を定義することが人間が行える
知的活動といえる。
これは<権>という東洋でなくても
<X>という不確定要素での論証は西洋科学でも用いられている。

だから最近ふと思う。
「解らない」
「できない」
ということは人間の知的活動ではない。
「<権><X>という不確定要素の前提で考察したら」
「<X>で進めたら、<X>は逆説で存在がわかりました」
ということが本当の知的活動といえる。

教えてもらっていない
出来ないという理由での活動停止は
僕としては人間らしからぬ活動とみなしてならない。

2009-10-27

視野

見える範囲。
でも多くの場合は視力ではなく、行動範囲だといえる。
僕は視野を3Dで捉えて、社員教育することにしている。

縦  :並行して動いている自分が行っていない活動
横  :自分が影響を与え、受けている人間の存在
奥行き:過去、現在、未来

自分の存在というものに対して、
視野の意味では自分自身全体を見ることはできないし、
過去と言うレベルでは、写真等により見ることはできるが、
将来を見ることはできない。
制限された視野という前提にたって、物事を捉えるようにする。
そう考えれば、自分の行動を他人がどう見ているか、
逆に他人の視点にたち、いろいろと目の届かないところを
見てあげるという視野的な補完が相互作用すると確信している。
それは何も見える視点だけでなく、
考えること、行動することという点にもつながり、
見えていない将来についても、
今はどう行動していけばいいかがわかり
ひとつひとうの行動が未来の道しるべになるだろう。

ゆえに、管轄下のものとこの論点で話すときに
見えないという劣等感を感じるなら、
一歩引いて、見えていないという自覚と
それをどう見てもらうかという思いを持つ方が
よっぽど建設的ではないかと叱責することを心掛けている。

2009-10-26

小言

咎めの言葉。
叱る、怒ると酷似している意味合いをもつ。
小言を言われる側はいい思いはしないのは人間の常だが
その小言を言う側の立場として、
多くの場合、
言われる側の人間より広い視野、重い責任をもってのことが多い。
そして、忘れてはならないは
小言を言われる側に対して
小言を言う側は改善責任、義務をもっていてことだ。

社会である以上、
他人と関係しあって活動するものだからこそ、
叱り、小言のような
内的攻撃反応も示さなくてはならない。
もし、社会性を否定すれば
叱り、小言はなくなり、攻撃的発言になるだろう。。。

あれ?
最近の社会って、
もしかしたら、個人主義過ぎて、自分以外攻撃姿勢なのかなあ?
だから、多くの場合、無責任主義になるのか、、、

2009-10-23

寒冷

寒い時期になってきた。
寒いという言葉と
冷たいという言葉とは
語彙は同じ低温度を示す言葉なのだが、
日本語も英語も使い分けをしていることが読み取れる。

寒い、cold は
空気に使われることが多い。
物理的な空気である、気温に対してだけでなく、
雰囲気、atmosphere にも使われる。

冷たい、cool は
直接、主観的な感覚に用いられる。
触ってみての皮膚感覚もそうだし、
直接対話により切れ者とわかったときにも用いられる。

寒い時期には動物は縮こまる。
人間も例外なく、
活動エネルギーの消耗を抑えるために、動かなくなる。
だったら、それを逆手に
みんなが動いていないときに、空気を読まずに動いてみる。
動けないなら、be cool 頭をうまく使う。
できるだけ、逆を意識して動くことに
活路があるのではって思うことが多い昨今といえる。

2009-10-22

循環

一連の変化の過程を繰り返すこと
医療の世界では、心臓、血管系をあえてこちらの表現にしているそうだ。
経済の世界では、金融は市場経済の血液としているように
資金の流動性が経済循環、景気の潤いにつながる。

自然界において、万物は流転するという言葉のように
停滞は好ましくない。
とはいえ、行ったまま、送りっぱなしという状態だと、
流す行為自体が出来なくなってしまう。

循環として流れるためには
・流し続けられる担保
・流すことで得られる利益
・循環しているということによる自己の存在意義
というものが必要ではないかって感じる。

これを念頭に
組織内情報の循環
社内資産活用の循環
等も考えていかないとならないと思う次第である。

2009-10-21

生地

手を加えていないもとのままの性質。
生まれつきの性質。

材料がいいから、
加工がうまいから、
どっちがいいか、という評価はしづらい。

国家歴史の観点から具体例を出せば、
イギリス料理とフランス料理がある。

イギリス料理は
ビーフの質が高いために、
ローストビーフのようなそれだけでおいしい食生活だった。

対して、フランスは国土、作付面積にわりに
おいしい食材に恵まれなかったため、
生地を引き立てるさまざまなソース作りを行った。

結果、
イギリス料理というものより、
フランス料理というものが、
味にレパートリーや素材を生かす調理法とされている。
しかし、ローストビーフの存在により
イギリスの食文化の貧富の差異はそう大きくなかったと言われている。

生地がいいと下手に加工しなくても大丈夫だから、
他の行動に注力できるという考え方もある一方、
加工技術が発達しないと、歴史的に衰退するから
生地が悪くても、それはそれで享受しなくてはならないことも事実である。

これは、、人材集め、教育に通じるところであり、
組織の永遠の課題とも言えるなあ。

2009-10-20

挨拶

コミュニケーション開始の初動動作と捉える事ができて、
社会人として、重要な行動だと思う。

そうと解りながら、僕自身その行動に自信がない。
多くの行動に自信を持ちながら行っていることが多いのだが、、、

実はこれはトラウマということはずっと解っている。
学童時代に挨拶が丁寧にできる子供だったのだが、
あるときに、きちっと挨拶したときに
おばさんから、
「何この子?冗談じゃない!」
って言われて、相当傷ついた。
今思えば、ヤンキーママの走りであり、
正しいことを受け入れないおばさんだったのだろうが、
幼少期の僕の気持ちにはそれはきつい結果だ。
だから、心から挨拶しても
相手に嫌がれるという感情が未だに残っていることは
もう一生ぬぐえないだろう。
「三つ子の魂、百まで」 とはよく言ったものだ。

だからと言って
挨拶をしないわけにはいかないことは解っている。
三つ子の魂のあるように、社員や若者が僕を見習っては困るからだ。

できるだけ、相手の状態、行動経緯を伺い
相手と同時に挨拶ができるように
行動を調整するように努めている。

挨拶は
コミュニケーションの初動。
それは、相手だけでなく、その周りにいる若者たちに対しても
見習うべき行動でのコミュニケーションの開始とも捉えるようにしなくては!

2009-10-19

純粋

混じるものがない、けがれがない状態。
プラトンで言えば、イデアにあたるものとも言えよう。

現実社会において、
純粋を求める気持ちがあったとしても
純粋なものを得ることは無理といえる。

存在、過程にて純粋性が失われることは想像できると思うが、
ほぼ確実に純粋性を失うのは
手に入れる瞬間であるからだ。

純粋なものを何のために手にいれるか?
その純粋そのものを維持するのは
手に入れる以上に、負担が大きいだろう。

僕は純粋なものを手に入れることもある。
素材、素体、人材など、いろいろとある。

自分がビジネスで生きているからこそかもしれないが、
その純粋なところから、
より付加価値を出すところに重きをおいている。

・何もされていないから
・何もついていないから
・何も教育されていていないから

これは
即時性においてはマイナスだが、
不要なものを削除しなくていいという点では長所である。

物事の捉え方を逆にしてみることが価値を見出す一歩かもって感じる。

2009-10-16

計算

数を数えるという意味もあれば
結果、将来予測をする意味と幅広く使われる言葉と言える。
計算とは自然界のルールでの行動積み上げといえる。
数字のルールは四則演算をそのルールに基づき、実施して答えがでる。
計算で出た答えの多くは、これから行おうとする物理の世界の予測である。
「冷蔵庫に2個の玉子しかないので1ダース買ってきても冷蔵庫、玉子置きにおける」
ということは、
残りの玉子 + 1ダースの玉子 ≦ 冷蔵庫の玉子置き
という計算の結果での行動が始まる。
身近なものはそんなものだが、
複数人、多くの社会事象も上記のようにできるといえる。
そう、計算は行動前のシミュレーションといえる。

シミュレーションは本番ではないので、
自由かつ何回でも行うことができる。
ある意味、ヴァーチャルな経験ともいえるが、
そのシミュレーションをどれだけできるか、
精度よくできるか、
それが、計算高い人っていえる。

計算高いって、こう言われると
悪いイメージよりも
結構、地道な活動の賜物だと感じる。

2009-10-15

方法

ある目的を達するためのやり方。

組織、事業性について教えをもらった中、
生産成果物が耐久財、消費財ではない会社は
方法論を持つべきとの話を賜った。
確かに、そうだと思う方法論は、会社の骨になる。

あるときは、セールストークのネタに
あるときは、仕事のスコープを守る防御壁に
あるときは、会社員の行動原理の教本に
あるときは、行動実績が昇進、評価基軸に

とあらゆる会社の骨になる要素を持っている。
小さく起業ばかりの会社だからこそ、
それを今のうちに準備、仮制定でもいいので
運用をし始めることがこれからの会社の方向性を示すことになる。

されど、いきなりは方法論という大全を示すことは
創作時間
社員の理解、吸収時間
から考えて、無茶なこと。

ひとつひとつ
行動定義
共通表現
行動前後関係
を繰り返して、説明して
社員の頭の中にイメージを作ることが
今の僕の活動だといえる。

その結果、会社としての方法論体系がまとまれば
それが今後の課題、、目標と捉えよう。

2009-10-14

語彙

言葉は進化、変化する。
例えば、メールと言えば今では多くの人は電子メールを連想するだろう。
でも、自分の幼少期は叔父が海外赴任だったので、
メールといえば、エアメールのことをずっと連想していた。
しかし、根本的には、メールとは手紙であり、
手紙は手紙として、日本人はメールとはあまり呼ばない。

外来語、専門用語が横行している現代社会において、
和訳すれば、同じ事象を差す言葉だったのだが、
進化、用例の代用が本採用になることで意味が変わることをある。

そこで僕はとても大切にするのは、
その言葉の本来の意味であり、
そして、その言葉どうして変化したのかを
常に意識すべきだと思う。

言葉の語彙を丸暗記し続ければ、
それは永遠の作業になるし、新たな意味の理由がないまま
同音異義で覚えなくてはならない。
でも、その元の意味を知り、どのような理由で意味が派生したのかを
リンクして理解すれば、その真意をつかむことや
今後の派生、そして、聞き洩らしや確認すべき論点の差異はなくなるといえる。

日本語、外来語に関わらず
その元の語彙を意識すれば、
案外、言葉というものはそう理解に苦しむことも対象ではなくなるし、
それより、その人間がどう理解して使っているか、力量も測れるといえよう。

2009-10-13

知恵

「頭がいい」の代名詞。
しかし、日本人というものは
「頭がいい」
という一言で終わらせてしまうが、実際には、
どう頭がいいかが必要である。

英語の場合、知恵について
intelligence
wisdom
と分けている。
英和辞典では、両方とも知恵と訳しているが、
実際の語法、語用からは違っている。

intelligenceは、理解していること、それの影響を論じられる。
wisdomは、解らないことを応用実証する。

日本人はそのことを理解していないけど、
感覚で解っている。

現場を知らないディスクワーク、研究肌の人間を「インテリ」と呼んだり
新しいことを始めて成功したビジネスマンを
賢人=wise man と呼んだりしたりしている。

僕自身も知恵を身につけたい知的好奇心で
物事を理解したりしているが、
多くの場合、intelligence が多い。
立場、役割を考えれば
wisdom としての知恵を身につけたいがなかなかだなあって感じるし、
これは、思考錯誤の結果、
思考錯誤の時間はとめどないのだから、
僕はまだまだ、賢人には程遠いと感じている。

2009-10-09

爪噛

癖の中でも自傷行為に位置づけられる爪噛み。

爪噛みの行為は、
親などからのプレッシャーに対して現れる怒りや攻撃心を相手に表現でず、
自分に向かって表現した結果、
自己破壊的な行動になってしまったことを意味するとされる。

僕もその癖は抜けない。
でも、この癖は幼少期になかった、、、いや対象が違った。
幼児性アトピーにかかっていたのは
この自傷行為だったのではないかと今は感じる。

根本的に僕自身、フラストレーションの塊と思っている。
確かに、他人からみれば、自分の目標に向かって
それなりのカタチを出してきているように見えるかもしれない。
しかし、それは結果、軌跡であり、
当の本人からすれば、
目標達成しているときには、
すでに違うものが見え、
それに対して満たされていない自分への自傷行為に走っている。

世間で言う前向きであったとしても
決してポジティブではなく、
前が見えてしまい、そこに達しない自分への怒りで行動を誘発している
その誘発が、、、爪噛みなのかもしれない。

2009-10-08

偏見

偏見と信念はほぼ同意とみなすべきである。
言葉として、耳障りの基準で見れば方向性の異なる言葉かもしれない。
しかし、根本的な主旨は

自分の思うまま、他人の意見が入る余地がない

という点に尽きる。

偏見を持つな
信念を持って生きよ

なんてことを聞くと、論理矛盾にしか聞こえない。
こう書くと
「そんなのお前の思い込みだ、正しくは、、、」
という反論も想定できるが、
それこそ、また、自分の思い込みである正しさという偏見ではないかって感じてしまう。

人は根本的に偏見の塊であり
その偏見に対して、懐柔をしていくことが会話であり交渉である。
そう考えれば、少しは交渉するときの心のクッションになるのでは
っと思う次第である。

2009-10-07

正義

正義とは、、、いわゆる信仰、宗教のひとつといえよう。
自分が正しいと思っていても、必ずしも他人がそれを正しいとは思わないだろう。
自分の信じるものが正義であり、
他人が信じて行っている行為において、自分の信じるものと相いれないのが悪だろう。
この発想こそ、信仰信教の世界に通じる。

そんな馬鹿なって思うかもしれないけど、
古来から最近まで行われている、戦争はその発想の塊だ。

戦争の大義名分は、正義を論拠した立証である。

仕掛ける側は、平和を乱す行為の脅威への報復のため
請ける側は、国民全員の安寧を取り戻すため

であり、互いが正義を立証している。
そう、当事者間では互いが悪である。

どっちが正しいとは一概に言えないと思う。

それは、信仰においても
どっちの神様のほうが偉いの?
っていうのと同じと言える。

そして虚しいのは
その正義を第三者が批判すると
その第三者もまた、当事者から悪の認定を受けることだ。

正義と言う名目がある以上
他人誰でも悪と言う病気にかかっているとみなし
排斥、改宗させようとする可能性がある。

正義論はいわゆる、精神伝染病ともいえる。

だから、僕は基本的は正義というものは判断基準におかないようにしている。
信教の自由は国民の権利だからね。

2009-10-06

発言

言葉を発した時、いや発するときに
自分の意図するところより
相手にどう捉えられるかを強く意識しなくてはならない。

自分としては、ちゃんと話したつもりであっても、
それが相手に伝わっているかどうかが
その発言の真意である。

「ちゃんと説明したのに」
「なぜ伝わらないんだろう」

ということより、

「相手の関心は今はなんだ?」
「言葉の意味定義は共通しているものだろうか」

があまり意識されてないような気が現代には感じる。

言語で他者とコミュニケーションをとる動物でありながら、
その言語が複雑になり、コミュニケーションという
動物の進化の産物がかえって、ストレスになっている人間。

コミュニケーションである発言は
<他者に意思を伝える>
ということであって、他者ありきであることを蔑ろにしているからではないか?
他者に伝わってこそ、発言した意味があるわけであって、
発言すればいいやでは、奇声をあげていると変わらないということを
もっと自覚しなくてはならないと思う。

2009-10-05

緩急

緩急自在、緩急をつける
というように、緩やかと急ぎを組み合わせて行うことといえる。

持論なのだが、
仕事はこの緩急の切り替えのタイミングが重要だと思う。
人間の集中力は短い。
その集中力を持続させて、高いパフォーマンスを求めること自体が
非人道的と思っている。
でも、現代社会は時間清算主義ゆえ
常に高いパフォーマンスを求めてくる。

高いパフォーマンスを出すための準備期間
いわゆる緩い時間も必要である。
それが、コーヒーブレイク、喫煙タイム、昼寝でも
それは有意義だと思う。

いくら時間を使ったとしても、結果が出るとは思わない。
緩急の中、ふとした事が新たな思いと集中力を呼び覚ましてくれることがある。

これは、自然界でも同じあり、
鉄の鍛造は加熱と冷却の繰り返しで丈夫な鋼を作るのだから。
今の時間清算主義は、たぶん加熱一辺倒だろう。
だから、それらしいものが出来上がるが、もろく、実用性に耐えられない。
冷却という一見、生成とは異なる過程をえるからこそ
強靭で実用的なものが生まれる、そう感じてならない。

仕事に対して、その気持ちで挑むことを常に言い続けたい。

2009-10-02

未解

解っていないいない不安要素が明確なこと。

尊敬してやまない僕の親方の意見は

「わかるところは後回し、もしくは任せた輩が助けを求めたときに
 行えばいい。その方が自分の価値を高めてくれるぞ。
 今やることは、わからない事象をいかにわかりやすく切り崩していくかだ。」

多くの人間は解らないところを後回しにして
出来るところだけをやるようにする。
現在の日本の教育の典型例だといえる。
しかし、ビジネスの社会においては解らないことを後回しにすることは
問題を先送りしているだけで、時の利益損失になったりするだけでなく、
解っているから行った行為も解らなかったことが解析されると
影響を受けて手直しをすることになり、返って工数が発生してしまう。

それに、社会人としての成長、ステップアップと口にしながら
解っていることばかり行っていることは論理矛盾ではないのか?
解らないことに挑み、克服することがステップアップだろう。

解らないということに対して、
アプローチを複数、効果的な汎用性のあるものを
どれだけ持っているか、それがポテンシャルといわれるものではないだろうか。

2009-10-01

作戦

現代用語でいえば、準備のことと言えるだろう。
文字通りで考えれば、戦(いくさ)を作るという物騒な言葉なのに
気軽に
「作戦を練ろう!」
って使われ方をしていることを考えれば、上記のとおりの意味になるだろう。

正式には作戦とはこれは戦略にあたり、
行動企画に位置づけて捉えるべきである。

何事も行動企画をもって当たるべきなことは
PDCA等の活動改善にもあらわされている。

ことに最近はその作戦とされる行動企画が無策化している。
それは情報が多すぎて、それだけ考えても結論に行きつかないとか
どんなアイデアでも、批判される
という
情報社会化
意見の平等
という近代社会の恩恵が逆に弊害になっているとされる。

はたして、そうだろうか?
作戦を立てて実行して、その結果をみて次の行動をまた行う。
それこそ、行動企画ではないだろうか?

作戦は行って初めて、作戦を行ったって言える。
何もしないで、ただ作戦を練っているそれは妄想にすぎない。

いろいろと考えて、時間になったら行動する。
そしてその結果もまた次の作戦に向けた情報ソースとしていく。
それを意識するだけで、行動を反省して、次につながる前向きに見解だと思う。