2012-03-30

粒度

同じことを扱っているとしても
担当する当人のレベル、認識で粒度が異なることがある。

粒度がきめ細かいほうが、物事を確認でき、認識の共有が図りやすいとされる。
しかし、そうとは限らない。

人には理解する側に粒度がある。
細かすぎると理解することが無理なことが多い。
いくら小学生に方程式を懇切丁寧に説明しても
それを理解する知能どころか理解する概念もないから無理である。

また、細かい粒度は先入観、思い込みを助長させることにもなる。
認識違いを掘り下げてしまうとその思いが他人には何を言っているのか
全くわからないレベルにもなりかねない。

物事を他人とともに扱わなくてはならないときに
その物事の理解の粒度より、
他人側の理解の粒度を先に理解することが重要といえる。
それが協働作業の前提となるからだ。

2012-03-29

適温


日本人にとっては、春や秋の気温が適温とか言われる。
暑くもなく、寒くもないという妥当な温度域だからだ。
でも人間には個体差があり、
本当にその温度がみんなのいう適温かどうかはわからない。

何も気温だけではない。
お風呂なんかその典型例で、
・熱い
・ぬるい
・ちょうどいい
は人によって違う。

昔は銭湯で熱さを好む爺さんの横で
水を入れると、爺さんに怒られた。

それが当たり前で
自分の適温はまだ子供の領域で
大人の適温に達していない未熟さの自戒を持っていた。

、、、うん??
最近、年配者より子供優位になっている。
ということは
社会は子供の適温化といういうこと、、、
だから、設定温度、、、そしてすべてのことが’ぬるい’ということなのか!?

2012-03-28

協議

英語でいう、dogma 宗教の教えを体系化したものという意味。

日本ではありがたいと敬われることかもしれないが、
外国においては、忌み嫌われることになりかなねない。 
教義を信じる宗教においては絶対だが、
他の宗派、宗門からすれば、奇行だったり非常識になる。

 dogma のもう一つの意味は 独断的意見でもある。 
日本語でいう盲信。
当人は信心深いと思っていても 世間の目では盲信と揶揄される。
ありがたい教えとは それを支持するものたちのものであって
そうではない人にとっては、カルトな思想に扱われるものである。
 結局、自分の信じるものを信じ、
他人の言葉に惑わされないことが教義に殉じるということだ。

あれ、、
日本の美徳、「他人の話を聞こう」は相反することになる、、、
人によっては何を信じれば正しいのか?につながるなあ。

2012-03-27

穿鑿

この字を読めるだろうか?

せんさく  と読む。

意味は、、掘り進めるという意味で
穴を掘り進めるほかに、
追求する意味合いから、調査するという意味でつかわれる。

古語ゆえに最近は使わないが

「あれこれと自分のことをセンサクしないでほしい」

センサクは
今は詮索
本来は穿鑿
である。

森鴎外の小説のでは、穿鑿だったのであるから。。

実を言えば、今の”詮索”のほうが間違った使われ方であったが、
それがまかり通るようになっている。
今、
「穿鑿しないでほしい」
って書くと、庶民は読めないし、
それゆえ間違っているといわれるだろう。

嘘から出た誠、、

ではないが、日本語の弱さ、正しさの流動性を感じずにはいられない。
正しさはその時点の正しさであり、
誤りもその時点の誤りで、
後の時代では、誤りが正解、
誤りが通じ、古い使い方もう通じないので不正解となる。

正しさなんて、
使い方次第、なんでも正しいといえるつくづく思う。

2012-03-26

白食

日本は白もの食材が多いと思う。
白米、
豆腐、
はんぺん、
白身魚
とあげられる。

中華、洋食において、白い食材は多く見られない。

白物食材は、えてして、淡白な味である。
日本人以外の民族は淡白な味付けは好まない。
しかし、淡白な味のなかに、うまみが隠されていることが多い。

だから、日本人は旨味成分を発見できたのかもしれない。
淡い存在は、なかなか目立たないが、存在はしている。
強烈な自己主張だけでは気づけない存在が
実は重要な意味を持っていると感じられる。

2012-03-23

決事

決まり事、
お約束事、
不文律、

社会にはそんなものが多い。
判例法、商慣行などを重んじる
日本、英国においてはその発想は強い。

しかし、欧米化というか
当たり前を当たり前にしない発想で迫られることが確執につながったりする。

力が強いほうが
「言わなくてもわかるものだ!」
もしくは逆に
「そんな発想している意味が分からない」
と言い切るのも、ある意味
人間社会、力関係の決まり事である。

強ければいい、
ただそれが正しさ、決まり事といえる。

2012-03-22

満点

受験勉強で満点を取るように育てられてきた世代の人間に
「君の作ったものの品質管理はどうなっているんだ!」
という社会構造はどうなんだろう?

つまりは、自分の作ったものに間違いがないように何度も見直しをしろという教育ゆえに
間違いをださないことが至上価値で
それに向けて、場合によっては不具合を報告せずになかったことにしてしまうことに対して、
障害検知率が0%という状況に
市場は
「品質管理をしっかりしていれば、0%なんてありえない!」
という評価をすることが通例だ。

教育と社会の乖離を言われて久しいが
久しいだけに、この試験という概念についても
認識の乖離はいっこうにかわらないのではないかと思う。

結局、学生から社会人になるときに
社会人教育をし直し、
学力≠仕事ができるなのだから、
教育課程、その試験の成績っていったいなんだろう。

2012-03-21

居間

家族が一家団欒を楽しみ、寛ぐ部屋

今の言葉でいえば、リビングルーム、、、略してリビング。

お茶の間の意味は、居間のことだった。
住居の洋風化で、居間という認識ができなくなってる。

だから、現代の子供たちには居間という言葉が通じなかったりする。

それはそれでいいと思うのだが
日本では、古文や近代文学を推奨する教育をしたがる。
イメージがわかないものを理解することは難しく、
それは真に理解するより、、、解答を覚えてしまえばという発想になることは自明の理。

新しきものを求め、
古きものを忘れない
という日本人の発想があるから、
丸暗記の意味のない教育という
思慮の薄い子供が増えるのではないかと思う。

無理だろう。
遊びたい盛りの子供に
古典など興味のないものを強制させる教育の有様は。

2012-03-20

空回

ある意味、人間のストレスのもと。
最近では、価値観が逆になっていることも多く
社会としておかしくなっている事象のひとつ。

良かれと思って行動しても
相手にとって、なんも意味がない、もしくはいらぬ迷惑だったことになったりする。

僕の育った価値観では、
その状態を空回りとみなして、
そうしてしまった側が恥ずかしいという認識になると思っていたが、
最近では、空回りしている人が切れて
「こちらの親切をばかにするな」
と、あたかも空回りしているほうが勝手に怒っているのに
それが正当になるようだ。

空回りするほうも逆ギレもおかしいと思うのだが
そもそも、空回りさせている側の無能さも問題だろう。

人間の親切心は
感じない
通じない
というレベルになってきている事実は
ある意味、精神的な進化かもしれない。
他人に依存しない、
他人が介入できない、
個人で完結できる独立した自己圏の創設、
社会性の否定が進んできたと見受けられたりするように感じる。

2012-03-19

属人

社会は面白いものだ。

一昔前までは、
仕事の属人主義をやめようと躍起になっていた。
右肩上がりに人が役割を自由にしようという意味合いと
グローバル的に業務の可視性を求める傾向になったからだ。

しかし、
不況になると一変した。
・コストカットによる、人員の削減
・専門性の高い人員の専従
・国際というよりまず自社の存続優先
という気運が高まり、
結果的に属人的、そしてそれを否定することは会社批判になるようになっている。

もともと
日本の能力主義の発想が
・他人ができないことができる
・自分でないとだめ
という観点が強かったのだから、
属人主義の温床でもあった。

僕は属人主義を否定しない。
むしろ、属人主義だからこそ
経済が活性化することも思っている。

属人主義で行うから、安定
属人主義がとれないから、衰退、他者へのビジネスチャンス到来
という考えかたができると思っているから。

2012-03-16

勇壮

いさましく元気なこと、

勇ましさって現代社会で評価されるものだろうか?
勇ましさって特定の集団の中では評価されるが
それが他の集団からみれば、やかっかいかつウザい存在に映るだろう。
邑文化という一定範囲内での社会構成は現代社会では難しく
必ず他の集団と接し、批判が付きまとう。

出る杭は打たれるではないが
勇ましさを賞賛すると
・暴力的
・威嚇的
・高圧的
という批判が起きやすい。

その批判に勇ましさの元抵抗すればするほど、、悲しい結果になる。

勇ましく元気であることは
やっかいな存在として扱いかねないこの事実。

でも僕は思う。
もっと攻撃的に勇ましく、
時には暴力事件くらい起こす勢いがないから新しい潮流は起きない。

各国の民主化は、鎮圧されれば暴徒の暴動
成功すれば、民衆の勝利と
暴力は肯定されるのだから、
勇ましく元気は決してわるいことではないし、
それで殴りあいくらいして何が悪いか!
の勢いが持ち続ける気概を日本人は取り戻すべきではないかっと。

2012-03-15

遊刃

大きめのナイフがなぜ 包丁 なのか?
遊刃余地 という4文字熟語 の意味は?

現代人が理解しようとせず、
どうでもいいと感じていることかもしれないが、
それが、
「なぜ、なに?」という好奇心不足からの学力低下
「日本人のくせに、日本語を知らない」という教養のなさ
が国際的知的水準の低下を導いている。

上記のことだって、知れば至って簡単な話。

刃物で肉を料理するときに、骨との間に余裕をもって巧みにさばいた
あたかも遊ぶかのごとくに

つまりは、
・余裕をもって物事に対処すること
・職人の技巧の極み
こそが、遊刃余地

その遊刃余地を示したのが

中国の料理人 包丁 

中国の包丁にあやかって、
そんな切れ味のある刃物ブランド
包丁刃物
それが日本国に伝播したので、
日本語特有の省略表現で

包丁(刃物)

となった。

・4文字熟語の意義
・モノの名称の由来
・日本人の歴史的傾向

が一連で理解する視点がないと
情報量の多い現代社会
1:1での理解には限界がきて、
今の日本の学力低下につながっているような気がしてならない。

2012-03-14

他者

自分ではない者。
当たり前のようで、現代人は忘れてしまっている自己責任の概念。

自分が気になる他者については

「ひとりで行うな」

と干渉する癖に、干渉先が不利益をおこすと

「他人のせいにするな」

と平気でいうことになる。

他者と分かり合うことあたかも正しいという風潮にある全世界。
しかし、他者は他者、自分とは異なることが多い。

よかれと思っても、それは他者にとっては不快なことが多かったり
それを不快と応えると、それが問題視される社会状況。

感情論を抜いて、
あるべき情報を数字的、過去事象の観点をもって
・市場経済
・自己実現
の要素でみたら、、
他者の存在って必ずしも肯定できるものではないことが多い。

その事実と社会性を両立させることが
現代人の大きな葛藤と矛盾、、そしてストレスの根源ではないだろうか?

人は人によって害されるということを。

2012-03-13

重箱

重箱、、
重箱読み、
日本の漢字には、音読みと訓読みがある。

本来、熟語レベルでは
音読み同志
訓読み同志
で成り立っていることが通例だが、
そうではない読み方として、重箱のような組み合わせがある。

言葉においては、
その時勢に合わせて進化するということは否定できないものである。
ただし、、それは必ずしも使いやすい方向になっていると言えない。
それぞれが、独自のルールで、自分たちの思い込みで成り立っている。

あり得ない組み合わせであるはずの
重箱読みが出てきた当初はかなり異端視された記録もあるが
使いこんでしまえば、それが教科書にのるのも言語の世界である。

今間違って使っている日本語も
それを押し通してしまえば、
それが正しくなるといえる。

きれいな日本語、、、
そんなのないということに感じてならない。

2012-03-12

図表

自分の考えをまとめる、
相手に自分の意図を伝えるときに
言葉だけでは難しいことが多い。

ある人は

「言葉で解るのなら、図にする必要はない
 また、言葉で解らないものを図にすること無駄」

と言われたことがある。

しかし、
そう言う人は
何を言っているのか、何を伝えたいのかわからない生き方をして
他人を苦しめていて、その事実に気づかないことが実に多い。

人間の特性、、、いや嗜好や経験で
言葉を聞いても
理解できること
理解しづらいことが
ある。

それと同じ意味を図表を用いてその説明をすることで
理解を深めることに繋がったり、再認識できたりする。
それは、他人だkでなく、
自分の頭の整理において、図表は見えていないポイントへの
視点切り替えにもなる。

最近、PCに表現ソフトがプレインストールされることが多くなってきている。
それが、図表を用いて自他の理解を深めるために使われているのであれば
人はより効率的なコミュニケーションの領域に向かってきていると
人類の社会性の発展へ期待を持ってみたいと思う。

2012-03-09

本能

現代社会においては、
本能は禁忌、隠すものとされている。
なぜだろう。
素の自分をさらけ出すとか表現が闊歩できるのに、、

それは具体的に考えてみればなんとなく
本能、、つまりは赤子と同じレベルであるといえる。

「それがほしい、くれ」
「腹減った、何か食わせろ」
「眠いから、できない」

こんな輩が近くにいたら、嫌なものだろう。
自分を律するということは
本能に購うことともいえよう。

もっとも、その本能すら自分の特徴、長所に昇華できるのであれば
評価できようが、、、

そんな人は一握りかつその人が作り上げた人間関係と社会がなくてはならず、
庶民では到底無理というものと感じてならない。

2012-03-08

侵略

実は救済活動である。
???って思うかもしれない。

人間の歴史を例にあげよう。

A国がB国を攻める。
A国の侵略である。

しかし、A国の論理は
「B国の圧政から国民を助けてあげよう!」
という救済活動である。

対して、B国側はその国民自身が
兵であり
被害者になる。

これは国レベルでなくても組織レベルで頻繁に起きている。
過去未来関係なく、起きている、起きつづけるだろう。
基本、人間の救済活動は侵略行為というべきだろう。
既存の自助努力否定なのだから。

SF映画にある
エイリアンの侵略は、
「バカな地球人に汚染された地球の解放」
という正当な論理かもしれない。

逆に、人間が宇宙に移住することも
エイリアンからすれば、
なんて侵略行動をしてきたんだ!って思うレベルである。

本当に人間は自分本位な動物と思えてならない、、、僕自身はとくにね。

2012-03-07

設置

設備、施設、機関を設けること。
組織的、物理的に新たな機能をつけて、
付加処理、ハンドリングを行い、効率化させる。

僕が思うに、設置という行為は失敗の温床だといえる。
設置するということは実際問題意味がない。

既存機能に付加させるのだから、
既存機能からみれば、想定外のことをされる思いで
新た歪みがでるだろう。

実際問題、
物理設置は、既存機能に不具合を誘引して、
組織設置は、新たな人的抗争を生んでしまうことばかりだ。

設置をするくらいなら、
根本的に基礎からの見直し
統廃合から行わなくてはならないといえる。

設置ということは、その場しのぎと同義という理解をしないのは
根本的な問題が見えていないということといえる。

2012-03-06

離反

手下が離れるということ、、
ついつい、庶民感覚ではその点として事象ばかり目がいき
離れられた側のほうを糾弾する。
しかし、線の事象から考えれば、

従っていたからこそ、離反が発生するわけで
従わせるなないかあり、その条件に支障がでたということを
見落としてはならない。

転職の自由化、転職を社会的に容認する時代になってきて久しい現代、
会社、組織から離れることは頻繁にあり、それと同じくらい組織に編入することがある。

離反される前には、そこへの追随、主従がなくてはならないが、、、
今の日本の個人主義、能力主義は
その主従関係が極めておかしい。
指揮命令系統が曖昧どころか、
自分の上司、部下を的確に把握できない組織が多すぎる。

こんな状況において、離反するということはなく、
タダ単に、嫌だから行かないに等しいのではないだろうか?

2012-03-05

創造

創造と製造は大きく異なる。
そんなの当たり前という人は悪いが頭が悪いという程度に感じてしまう。

当たり前ではない、
製造は学習や経験の累積がモノを言うので、
学ぶという概念がいかされるが、
創造行為は、それが役に立たない。
全く役に立たないとまでは言わないが
製造をしているからこそ、
想像できないことが多い。

今まで、そうしてきた。
こうやることが当たり前
という既成概念、先入観が新たな創造を導かないことが多い。

当たり前という表現を使うこと自体が
創造性の欠けるレベルに近い。

当たり前を当たり前にするということが創造の入り口と思うことであり、
その難しさは、現在社会においては社会生活に苦痛を伴うことも多い。

それゆえ、、というか
新しいことが始まらない
経済が停滞している温床になっているまで言えよう。

この先、製造工程では先進国に太刀打ちできない先進国。
ルールや資金で押さえつける既存概念の押し売りではなく
新たな創造を行使しないと、未来はないと思ってならない。

今までの事実を否定して、、
でも、今の社会で価値を維持しながら、、
経済社会での経営は難しいなあ。

2012-03-02

風情

実に難しい言葉である。

「風情のある景色」
「この記者風情が!」

同じ漢字熟語なのだが、、意味合い、受け手の感情からして全く逆になりかねない。

もともとの意味が
日本独特の美的意識である、経年劣化、風化に基づくところで
人によっては理解しがたいところもある。

万人共有の意識ではないし、人によってはその状態を嫌う可能性もある。
新しもの好きならなおさらその傾向になるだろう。

曖昧表現かつ共感しづらい感覚が多い日本語の悪いところで
こういう表現ゆえに、なかなか他人と合意できない根底論につながる。
好き嫌いを表明することができなく、討論に弱いといわれる日本人。
それはこのようなどっちつかずの一義的ではない表現もその要因であると僕は思っている。

2012-03-01

一円

一円でも動けば、売り手と買い手が成り立つ。
有償行為が成り立つ。

有償行為が成り立てば
買い手からすれば
「お金を払ったんだから、どうにかしてほしい」
と理想と現実の差にクレームを正当根拠に起こしかねない。

お金をもらうということへの責任が発生するからである。
巷で騒がれている、無償ビジネスはそこをうまく熟知しておかないとならない。

もしよろしければと言う気持ちで行い
相手に真に欲すれば、その対価に見合う行動をとることができる紳士的なアクションであり、
現在の無償ビジネスのスタイルを確立した先達たちに敬意を表してならない。
また、
The proof of the pudding is in the eating.
(プリンは食べてみないと味はわからない=論より証拠)
が、今まで買ってみないと解らないことが、
使ってから買えるという実証主義になったことも
商取引の新しい概念、商機創設も評価すべきと思ってならない。