2011-08-31

防犯

犯罪を起こさないように、おきないように互いに注意しあおう。

これって、当たり前になっているけど
実際問題、「他人を見たら泥棒と思え」を隠喩しているに過ぎない。

人を統べるものの論理からすると
防犯を実現させる方法はこんな曖昧なものではない。
大きく2つで

<当該行為を犯罪とみなさなければいい>
<当該行為をする概念を民衆から奪えばいい>

に尽きる。
極論すぎて、多くの人は理解に苦しむだろうが実際に
そうなっている。

犯罪とみなさなければいいということだが、
古来日本、現イスラムでは未婚の娘が肌を人前にさらすのは罪で罰せいられた。
しかし、今の日本人女性はそれを罪とは到底思わないだろう。
社会や国家がそれを罪とみなさなくなったからだ。

犯罪概念もそうだ。
サイバーテロ活動は一般購買できるPCレベルで容易にできる。
しかし、PCでそういう活動をしている人は少ない。
概念がないからだ。
犯罪を防ぐというから、多くの人が犯罪ということを理解してしまう。
知ることなくして行為なし。

根本的に犯罪なんて言うもの、人間の思い込み。
人間外の生物からすれば
人間ほど重犯罪なものはいないわけである。

犯罪を防ぐという発想自体がエゴである。
防犯ではなく、
自分の思い込みをどう他人に押し付ける
もしくはさせないようにさせるか
とても恐ろしい支配思想の自覚は庶民レベルにはないだろうけど。

2011-08-30

籠目

~かごめかごめ~
ほど、みんなが知っているが、実体はどんな意味なのかわからないものはない。
子供の遊戯囃子から始まり、歴史の暗号、淫らな悲哀、はたまた呪詛とまで
数多の解釈がある。

西洋と違い、日本の民話、昔話はかなり隠喩が見られる。
恥の文化、言わないことが美学という国民性が直接表現から隠喩を導いた。
口伝、伝承の過程で直接表現でないことから、
真意が風化して、現代の音の節しか確かな情報はなくなってしまっている。

そのおかげで今日では
真意を探る知的探究、妄想に近い歴史ミステリーが多くの人の気持ちを昂ぶらせている。
しかし、俯瞰的に見れば
この発想、つまり隠喩や腹の探りあいということを好むことが
直接表現を好まない文化が国際社会における自己主張できない日本人を導いている
といえる。

2011-08-29

品揃

品揃えがいいというのは、展示されている品物の数ではない。
ほしいと思うものが、いくつかあるかだと感じた。

地方の人が東京で買い物するときに
圧倒的に展示物が多いのに、
「この店は品揃えが少なすぎる」
と発言した。
その発言を聞いて、東京の人は
「田舎者は見る目がない」
といいだして口論になる。

この手の話は多くある。

これは実は、地方の人が価値を知らないという人の価値の問題だけではなく
社会構造ゆえの品揃えの問題である。

地方の人の発言の意味は
基本、地元で購買しているものが基準であり、
その購買物のアップグレードが東京にあると思い込んでしまう。
地方より都会というイメージで、
しかし、地方ゆえ、多くのものを需要できない、
地方独特の需要ゆえの品揃えで地方の売り手は勝負をしているのであって、
東京の売り手はその地方前提がなく品揃えを行っている。

地方にとってはあるべきものが東京にはないという地方からの人の思いと
東京では、地方の需要なんて知る由もない思いは
相容れないものである。

わざわざ東京に出て買い物をする必要は
その条件でないところ、オリジナリティー以外
もはやないのではと思ってならない。
現在の
地方企業の努力
ネットを筆頭にした通販
の努力は、店頭の品揃えの概念を大きく超越しているのだから。

2011-08-26

委譲

多くの社会人が経験してきていることとして、
「なぜ確認しないんだ」
「いちいち確認にくるな」
ということを上司から、論理矛盾にも似たことを言われきているだろう。

僕からすれば、根本的にするほう、されるほうの能力不足でしかない。

確認の前提に、上司から部下に依頼つまり、委譲行為がある。
その際に、確認のポイントを明確にしておかなくてはならないが
多くの場合、その確認ポイントの明確化を忘れる、、いや意識しない。

ここが大きな問題だ。

確認するということは
依頼、委譲の内容への品質管理であり
なくてはならないが、確認があいまいでは
品質以前に、そもそも依頼、委譲する意味が見出せない。

他社の力を使うという行為には
その行為への統制が必要でそれこそが、マネージメントといわれる概念であり、
マネージメントと確認行為は一体で捉えなくてはならない。

そこの認識、日本の管理職はもう少し、いや徹底して見つめなおすことが必要だといえる。

何も考えないで行うから
依頼する側、される側、互いにいやな思いをし続けているといえるので。

2011-08-25

力量

日本人は力量を間違えやすい。

例えば、

槍の扱いがとてもうまい人を戦上手というが、戦争は槍では戦略、戦術の世界
優秀な営業マンが必ず優秀な経営者とは限らない
どぶ板選挙活動で当選したからと言って、画期的な政治、改革はむしろできない

日本人の大きな間違いは
積み上げをすれば、キャリアできるという発想が正しいと思っていることだ。
今までの国としての成長経験が右肩上がりゆえに
なんでも経験して、一流になっていくステップアップ論理が成り立ってきたが、
これだけ専門的になってきた行動技術社会ではそれでは力量を図れない。

外国の経営者にたたき上げが少なく、他企業からくる者が多いのは
経営者というスキルあってのこと。
その会社の業務は業務であって経営ではないからだ。

皮肉なことを言えば
自由と平等な国、アメリカの娯楽映画のサクセスストーリーに
努力をする作品はひとつもないどころか、
努力をして見返そうとする人間はむしろ敵キャラ。
ディバイン、天性でそうなる定めのものが主人公であり、
誰でもなれるものではないという傾向である。

力量は努力ではなく、生まれ育ちできまるものであり、
努力は既存秩序への抵抗、批判なのが
悲しいかな、、、実質国際基準だったりするのである。

2011-08-24

緑化

緑化政策、緑化行為は善行とされる。
自然を回復させよう。

いかにも偽善、エゴに感じてならない。
木々をいくら植えても、真の自然には戻らない。
真の自然は苔生して、虫も、獣も、弱肉強食であってなくてはならない。
人間が思う、都合のいい植物だけをそろえたものを自然回復というのはどうだろうか?

緑が二酸化問題を回復させるというが、規模が違いすぎる。
そもそも二酸化炭素による気温上昇の科学的根拠が薄すぎる。
今まで地球に幾度も起きている氷河期、低温期の説明がつかない。

そもそも、緑は人間の高度社会には邪魔だから伐採等で減ったわけであって
その行為自身も自然淘汰の一環である。
それをまた理由をつけて緑化させるというのは、、
現在発展している先進国が更新国の発展を抑止する
既得権益の保守という、これも自然界の種の保全に見えてならない。

2011-08-23

正座

日本においては正しい座り方とされるが、
海外では、なんと子供の成長を抑圧する悪い座り方とされる。

周りをよく見てみれば
正座は
足の筋肉、血流を止めて
立ち上がる際にしびれて、転んだら逆にマナーになりかねない。
何とも変な行為だ。

自分たちの行動が当たり前と思うことほど
実は非効率、逆に悪化させていることもある。

そういうものを胸を張って辞めさせて効果的にさせることは
既得権益、既存価値の崩壊を導き
日本の悪徳にみなされる。

この思想こそこれからの日本の阻害要因と感じてならない。
正座の意味が分からないし、
ある意味、虐待と外人に言われたことは僕の価値観の変化であったがゆえ。

2011-08-22

皆様

口語でいえば、みんな にあたる言葉。

この言葉はあいまいかつ主観的なもので
日本人の社会認識の欠陥を導いている。

あなたの思うみんなと相手の思うみんなは
はっきり言えば、まったく異なるといえる。

相手の思うみんなは
あなたの思うみんなと比べれば
・部分的(あなたの思うみんなを含めてもっと多数)
・包括的(あなたの思うみんなの一部分)
・排他的(あなたの思うみんなと全く異なる集まり)

ここで文章にわざわざしなくても
幼少期~年老いてまでこの問題は社会である以上誰でも直面する。

~隣の○○ちゃんも、、、みんな持っているのに、自分だけ持っていないよお!
~みんなに笑われてしまうから、ちゃんとしなさい
~みんな、私なんかくたばってしまえばいいと思っている!

よく聞く言葉の数々だ、、、

これらの言葉を考えると、
みんなという表現の多くは
マイナス的な意味でつかわれることが多いことに気付く。
邑社会、他人の目を気にする日本人の性なのかもしれないが、
みんなというものは、自分を抑圧する擬人格かもしれないと思う。

2011-08-19

慙愧

自分の見苦しさ、過ちを反省、恥じること

慙愧の念をどう捉えるかはそれぞれだと思っていたが
最近の日本人には薄いようだ。
基本的に他人が悪いと発言するようであれば
慙愧の念は起きない。

しかし慙愧の念を持つことが人の成長の起点と感じるだけに
由々しき事態と感じるところもあり、
自分の嫌な部分を直視できないから
日本の失われた10年がおきたのではないかと思う。

オレサマタイプの僕であっても、案外、慙愧の念を毎日感じるし
その思いを次のアクションにしているつもりだが
その概念のない人は過去の過ちを繰り返してもなんとも思わないどころか
なぜうまくいかないんだと社会批判になる事実は、、見苦しいの一言なんだが、、

2011-08-18

猛禽

肉食性の高い攻撃型の鳥の総称。

猛禽の禽の字が鳥という意味は日本人でもわからないのだから、
外国人にはもっと通じないだろうと思った。

まして、鷲と鷹の違いを明確に言える人は日本人にいえるだろうか?
答えは、、大きいと思われるものが鷲、そうじゃないのが鷹である。
つまり、明確な基準はないのである。

日本の鳥に対する識別、認識はきわめて低い、、、ひどい。
鳥類とまとめるのに、猛禽という言葉のつながりがない分類をするし
トリニクを鶏肉、つまりニワトリニクをトリニクと略したり
強いては、キジは国鳥なのに狩猟対象という、国鳥を狩れる唯一の国なのだから。

そんな認識なのだが、
猛禽と日本人は古来より鷹狩を通して、接してきた。
鷹狩が西洋のハンティングと同様に権威ある活動だったので、
鷹を筆頭とした鳥に猛禽とつけて他の鳥と区別したことは容易に憶測がつく。

それだけに権威ある動物なのに今の社会では
危険視されるのは、日本古来への侮辱に感じてならない。
外来種のほうがよっぽど危険に感じるだけに、、

2011-08-17

殺虫

蚊取り線香は日本独自、、
外国は日本から輸入しているくらいだそうだ。
蚊が多いのに、除虫効果を研究していないそうだ。

そう考えると、
日本の殺虫剤技術はすごい。
戦後のDDTという外国の殺虫剤を筆頭に
限りなく、人間の健康被害も伴うものが多い。
他の生命の命を奪うのだから、当然、自らもという
命の尊さを表しているかどうかわからないが、
人間に害をなす虫から守るために
別の健康被害という論理は本末転倒くらいに感じる。

その点、
日本の多くの除虫剤は
人間への健康被害を最低限を目指して
その上で、殺虫効果を持たせるのだから
技術としてすごいことと思う。

命の尊さを謳う輩もいるだろうが
自然というものは命の奪い合い、
自己の種の保存、保全に他の種をいけにえにすることを
否定できないことを自覚すべきだ。

理想を唱えながら
食事をする人の神経がわからない。
光合成を持たない動物の食は他の生命のいけにえが前提なのだから。

今日も蚊取り線香の恩恵を享受しようっと。。

2011-08-16

用語

この間知ったのだが
サッカーのセンターリングという言葉はクロスに変わったらしい。
年のせいか、
サッカーに興味を失っているせいか
へえー、としか言いようがなかった。

時代とともに言葉は変わる。
また関わる人たちの思いで同義の言葉を変えてしまう。
それは言葉の性。
ただし、僕も感じで腹が立つのは同じ専門性の世界にいるのに
自分たちのローカル用語を公用語と思っている輩が多いということ。

コミュニケーションの統一のためには
概念の共有化が求められる。
そのためのテクニカルターム(専門用語)なのだが、
専門性の多岐が進みすぎて
同じ意味でも多くの言葉、用語が多すぎて困る。
僕の場合、事前準備を行いなるべく、共通化、公用化された言葉を選んでいるのだが、
ローカルルールが万国共通と思う輩が多すぎて会話にならないことが多い。

もっと自分が歩み寄れればと反省する気持ちよりも
そういうローカルルールの乱立が
今日の日本国内の規格統制の失敗、
ガラパゴス技術の温床になったと
確信して、そういう輩を叱り付けるほうが将来のためと強く感じてならない。

2011-08-15

一位

人間はランキング、順番付でNO.1を好む。
どうせなら、一番の物がいいからという発想である。
だから市場において、一番を目指して企業努力を行うことが
良しとされている。

これは本当にいいことだろうか?
僕はこの基準にNOといいたい。
一位になるために努力をすることは全く意味がない。
もっと言えば、自分が一位になるものを提供してそこに鎮座すればいいのである。
「はーー??、何を言っているの?」
と思った方は、日本人として一生消費者、労働者基準で生きていくべきだといえる。

毎日のように新しい言葉や国際基準が出てくる世界情勢。
その中で、意図して日本人が自分がその頂点だという人間はいないが
国際的、、いや日本以外では、そんなことはざらで、
自分が一番といい続ける社会なのである。
その自分が一位であるがために、相手を蹴落とすためにランキングを使うのであって
ランキングの一位は結果ではなく、手段なのである。

こんなこと当たり前で
ランキング一位を目指すのは企業の目的ではなく
企業として収益をあげるという論理を最優先である。
お金、お金になりたくないとい日本人の気質が
案外、国際的に地位を下げているかもしれない。

2011-08-12

甘味

基本的に現代は子供に甘すぎる。
僕が子供のころのベビーブーム時代は
電車内で騒いでいたら、大人に怒鳴られたのに
最近では怒鳴った側が秩序を守る良識の大人が大人気ないとされる時代。

甘やかして育てる、恐ろしさを理解しなさすぎないか?

生命の危険のない環境下では、ろくな成体が出てこないという自然の摂理もある。
昆虫は魚類などは多くの卵を産み、その何万分の1しか大人になれない。
自然淘汰を生き抜く、生存競争に勝ち抜いたから大人になれるわけであり、
手厚く、生存競争も知らないものを成体にしてしまうと
結果的に種の破滅を導くという事実をあるので、ある意味死活問題なのだが、、

そうそう
極限まで肥料や水をあげない環境で育つ植物の実は限りなく甘いそうだ。

肥沃な環境で甘やかした植物は甘くなく
劣悪な環境で徹底した植物は甘い

とは、甘いという言葉に皮肉な結果だ。

2011-08-11

喧噪

物音や人声のうるさく騒がしいこと。
都会の喧騒というが、
喧噪を五月蠅がる人ほど、その喧騒が静寂になるとかえって不安に思う人だったりする。
基本、人間という存在である以上、社会を構成するし、
その社会は会話で互いを理解して
物理的充実でその価値を実感する以上、
喧噪を伴うものである。

喧噪から離れるということは
社会とのつながりを切るという意味になるのだが、
その意義を理解できる人はなかなかいないだろう。

喧噪あっての人のつながり、
そしてつながりが生活をさせている事実は僕とて否定できないものだからね。

2011-08-10

短気

間違いなく、短気なのだが、それが悪いこととは思っていたことがなんかもったいなく思う。
短気で怒ってしまう。。
当然のことではないだろうか?
社会に僕を怒らせる要因があるということ
怒るという感情を持つこと
に何か問題でもあるのだろうか?

この社会、怒らない受け入れていると結果、搾取されるどころか
それに限度を感じて抵抗すると
「今までよかったのに、なぜ怒るんだ!」
って言われる。

法律も、占有権や不断の努力というものを認めている以上
自分に降りかかるものを即座に反応することを認めているのであるのだから
短気、すぐに反応して問題はないといえる。

日本人のいう寛容が現代では通じないといるのだから
過敏に反応することはもはや必須スキルといえよう。

世知辛い、住みにくい社会と感じているとしたら、
その人は社会の実情を俯瞰的、長期的に見ているのだろうか?
面白いことに、
長期的、計画的な人ほど、短気であり
刹那的、無計画な人ほど、気長と思える。
僕からすれば、気長=考えていない、考えるスピードがないといいたいのだが、、

2011-08-09

顛末

事の最初から最後までの事情

森羅万象
論理性

の理解は、物事の顛末を順序立てて理解することだと思っている。
どうして始まり
どんな経緯をたどり
最終的にどうなったか
はじめから既に終わりが見えているものはまずはない。
その途中や終わりに至るまで
何かしらの影響を受けて、結果が導かれたのである。

それゆえ
物事を学ぶ、解き明かすときには、その顛末をたどることがかなり重要なことになる。
しかし、勘違いしてしまうのは
評価は結果でだけでいい。
なぜなら、どんな理由があれ、現時点において要件を満たせているかは
顛末であると結果だけで構わないのだから。

2011-08-08

格付

自由と平等の国、アメリカ に
国家、法人を差をつける格付け会社がある。

確かに、投資家に対して、信用の安全性を提供するという名目
相対的、客観的な評価の定量表現
という目的、正当性から格付け会社の意味は重要かもしれない。

しかし、一企業が下した国債の格付けに対して
各国政府がその評価に対して声明や抗議を出すということ自体
国家の存在意義は民間企業と同等にまで落ちている。

自由と平等と謳っているアメリカにある企業に
評価されている国家、企業に、自由平等で行動できるのだろうか?

市場という言葉の保護に格付けが許され認められている
そして、その市場で強い力を持っている国の民間企業にて行われる実態から
格付けを使った恣意的な国家扇動も容易な状況だと思う。

たとえその格付けがどれだけ公正であるといっても、
だって、担任の先生の子供の評価が絶対公正であると言い切れる人間がいないと同様に
人間が行う以上無理なこと。

2011-08-05

読解

学生時代

「読解力がない」

と教師に怒られたが、、
実際問題、社会人になると、
学校で学んだ読解力のかけらもない輩ばかりであることに気づく。
そして、まーー、開き直りの輩が多いことに気づく。

学生時代から真摯に受け止めて
5W1Hを意識して
説明を組み立てることを習慣づけるようにしてきて
現在に至るが、、、多くの社会人は思い込みで
「聞いてない」
「解るように説明しろ」
と自分中心に話しを進めることばかりだ。

もし、社会のほうが正しいなら
学校教育も
読解力や説明力より自分が正しいと言い切れる実学教育をすべきなのだが、
社会不適合な教師どもの集団である学校では
実学は学べないのは自明だろう。

まー、真実を見抜くことに切磋琢磨している僕からすれば
人から学ぶことはもはやなく
人が自然の摂理でどうなるかを観察する観点、、、
それこそ、真の読解と悟っているのだが、、、

2011-08-04

酷評

匿名で、自由に表現が許されるネット社会において
酷評を受けることはある意味健全ではないかと思う。

賛否両論というように
酷評もあれば、高評価、酷評に対する反論が
成り立つのはある意味で健全な市場世界だと思う。

みんな揃って、最高っていうことは
どんな裏取引、政治的圧力がかかっているんだろうと勘繰ってしまう。

できれば、
酷評の中に、今の改善のチャンスとなる表現があれば
それこそ、今後のためになるものだが、
いかんせん、酷評する人のほどが知れるのか
自分の感情論ばかりでなかなか前向きではないことばかりだ。

口は出す以上、
それ以上のことを示すべきだと思うが
口を出すこともできない文句と
せっかくの改善ヒントも理解できない無関心さや感情の高ぶり
ばかりで、酷評が酷評としての価値を有していないさびしい市場になっている感はあるが。

2011-08-03

功績

太原雪斎
保科正之
上杉鷹山

という人を知っていようか?
知っていれば、かなりの歴史通であろう。
彼らは近年、功績が評価されているが、
それまでの間、評価どころか存在を忘れ去られていた感があるのである。

そもそも、彼らの共通の行いとして
人命尊重を優先した知略の功績
自らの功績である自分の記録を没する際に放棄させたり、
直系が厚遇されない、させないことが
現在社会に伝承されていない事実である。

って考えると、、、教科書の歴史なんてものは
恣意的、下手をすると権力者の創造物ではないかって思う。
結局、勝ったもの、生き残ったものにより、
いいように書き残され、
本来、あったこと、功績があったことは
なかったのごとく闇に葬られてきた。

考えてみれば、
教科書に出てくる為政者の多くは
genocider(大量殺戮者)の筆頭だが、
それを成功者のように教えて
道徳の時間で
「人を傷つけてはいけません」
って教育する矛盾はどうだろうか?

功績は教科書では学べない。
つまり、教育では人は救う術を得られないのだが、
それは、日本では理解できないだろう。
覚えることがいいことである限り。
覚えると言うことはサルマネにすぎないという自覚がないのだから。

2011-08-02

能力

能力主義と言う言葉を多くの人は履き違えている。

「出来る人間が高い評価を受ける」

ではなく、

「出来ない人間が搾取される」

が正解である。

優秀だからといって、取り分が容易に増えるほど
この社会はインフレ気味ではない。
ある程度、決まった分量であり、それを適分配することが求められる。
決まっているのだから、多くするということは増減が出る。
多くなるプラス志向に人間は目移りがちだが
実際問題、減らされることも多々ある。

それを不平等だの正当に評価されていないだの騒ぐのであれば
能力主義ではなく、社会主義、、、いや労奴になるべきである。

僕の観点から言えば、
能力主義という概念は日本では無理。
悪いが、相手を蹴落とす、社会的差別、区別が当然の社会でないと、成り立たない。
弱肉強食
自然淘汰
を笑って容認できる社会構造でなけんれば、
能力での評価を求めることは無理。

だって、今の日本において
能力主義といっても、
低い評価をつけた上司はその上司の顔色をうかがってつけざる負えない社会であり、
結局は評価は、管理者の恣意的にならざる負えない。
数字で示すとしても、原価配賦をいじればいくらでも、
当人の手柄から切りかなすことは容易なのだから。

2011-08-01

物作

モノづくり日本の復権とかいうが、、、

現代社会において、~作りは両立できない。これは真理と確信している。
価値の多様化を認めた以上、
多くの人々は、自分の思う方向に進みたくなる。

そうなると、、人間の力量では多くのものを行えない。
一つが限界であるといえる。

だから、社会現象に表れているように

・仕事と家庭の両立が難しい
・自分の作業ばかりして、管理仕事ができない
・子供ばかり作って、仕事ができない

すべて共通しているといえる。

・モノづくりと家庭づくり
・モノづくりと組織つくり
・モノづくりと子づくり

どれかを成り立たせると、他がおろそかになるのは
現代人の必定だといえる。

メディアに出てくる人間とて
おおくの~づくりを両立、鼎立させているようで
それは実際にできていないのに、
メディア側の映像作りでごまかされているだけであったりする。
映像作りはモラル作りを冒してでも行うものであるから。

多くの人はもう、多くの~づくりはできず、
日本人の仕事の代名詞である
モノづくり自体も選ばれる選択肢の一つにすぎなくなっているのである。

多くの人の幻想である
モノづくり日本の復権のためには
昔の価値観、
非能力主義、年功序列の復活や個人主義撤廃、団体行動強制などの今までの国家づくりの崩壊
賃金を見直して、安い単価でのブランド市場づくりの破棄
などを選択をしないと成り立たないといいたい。
ゆえに、、、無理である。

だから、モノづくりという概念から新しい概念での作りを目指さないとならなく、
今はその黎明期、既存概念にとらわれない思想づくりが
今の僕の役割と思い行動しているところもある。