2014-07-31

連盟

共同の目的のために行動をともにする誓いを結ぶこと。また、その組織。

という言葉の定義の裏腹に、
同じような組織体連盟が多数存在すること事実にどう思う。
大きいところでは、経団連と新経団連とか
身近では、PTAと保護者会
など。
一見すると、
共同の目的のために行動をともにするのだから、
一緒にやればいいのではないかっと思ってしまう。

実はここが人間というものの性である。

共同の目的 という真の意味は

あいつと一緒にやりたくない
自分の主張が通らない時点で目的と外れている

というポイントがある。

連盟における共同の目的とは
根本的に、自分が生き抜くための条件であり
達成することなどどうでもいいということが事実である。

それゆえ、同じような連盟が多く立ちあがり、
聞こえがいい、共同の目的からしたら、
そんな連盟の乱立では難しいということも
そもそも、共通の目的という建前でしかないという人間の性からすれば、
いたし方ないとしかいいようがない。

そんな建前と本音が、人が結ぶ連盟なのだから。

2014-07-30

奨学

学問や学術研究を奨励すること。
僕は奨学行為と奨学金は同じ言葉にしないほうがいいと考える。

奨学という行為に対して
研究開発
公共、公立学習施設設置
はあるべきだが、

現代の奨学金は
学問や学術研究というより、
就職予備軍への貸付に成り果てているし
それについて、返済できないことを恥じないような輩が
学問や学術研究を奨励を受けた人間のすることか!と思ってならない。

経済的に苦しくて、学ぶことができない。
その人たちに救いの手
そんなで救われる輩など、たかが知れている。

有能で未来ある者は経済に関係なく才能を発揮しているし、
そうでなくても一旗揚げる覚悟の輩は
自己努力で学問ではなく、実技、技術を身に着ける。

天は助くる者を助く

奨学金目当て者をそう思い込むのは愚かとしか言いようがない。

2014-07-29

特典

特別に与えられる恩典。
現代社会はこの特典で問題がおきている。
市場において
特定の購買条件を満たすと特典がつくこと、
販売促進、つまりプロモーションとして常套だが、
その条件を満たさせないで、特典がもらえない人が
「そんな条件がおかしい、私にもあたえるべきだ!」
と平気で主張する。

将来的な潜在需要を掘り起こすために
その主張に答えてしまうと
わざわざ条件を満たすためにアクションした人から
「なのために、条件を満たしてきたと思っているのだ」
と既存の支持層離れを起こしてしまう。

僕は思う。
どんどん特典での付加価値をつけるべきであり、
そして、条件を満たさない意見を切り捨てるべきだ。
特典のためにいろいろと支出することは無駄遣いではなく
市場活性化である事実をもっと理解するべきだし、
条件を満たさないで騒ぐことは
重要と供給論理に従わない愚かない意見で
恥じるべきということを強く躾なくてはならない。

主張すれば通る甘い社会ではなく、
対価を支払う、そのためにも労働して収支をあげることが
健全な社会であることをもっと、現代人に思いなさせないと
これからの経済社会は成り立たないといえるのだから。

2014-07-28

無恥

恥を恥と思わないこと。

この考え方自体、
グローバルでは鎖国的な発想となっている。

例えば
欧米人のように馴れ馴れしい、厚かましいことを
日本人は恥に思う。
また、
中国の品質管理について、
加工業者として、恥かしくないのか!とかいう。

しかし、
それは思い込み、
日本人のその恥ずかしさの発想自体が
国際感覚として、恥ずかしくないのか!
って言われかねない。

また、日本人同士でも
私のそんなことをするなんて、恥知らず。
あんな価値観でよく恥ずかしくなく生きているなあ
って互いに言い出す。

日本人の恥の感覚、、
もしかしたら、根深い恐ろしい問題かも??

2014-07-25

陪審

民間から無作為で選ばれた陪審員(ばいしんいん)が、刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加し、
裁判官の加わらない評議によって事実認定と法の適用を行う司法制度

裁判員裁判

僕はこの制度発足から、バカだと思っていて
結果今予想通りの結果になりつつある。

控訴、上告されて、裁判員裁判の結果がどんどん覆ってきている。
裁判員裁判の結果に比例してどんどん増えている。
そんなの当たり前だ。

裁判員というから話だからおかしくなる。
これをあなたの仕事と置き換えよう。

今まで努力や資格試験によって身につけてきたやり方、ノウハウで仕事が効率化されてきた。
そこに、国の命令で
「これから無資格の人が君の仕事を行う。」
となって、やってきた。

あなたが今までやってきたことが通じず、
感情に任せて判断されてしまう。

それにより、いらぬ作業、ありえない結果による対応でてんてこ舞い。
その上、その結果について、上位機関は今までどおりであれば
その行為そのものを否定するだろう。

なんのために今まで培ってきたノウハウか!
プロを馬鹿にするな!

ってね。
プロ意識を持つということは上記になるという結果でもある。

その上、司法は

法の番人
三審制
身分が憲法で保証されている

ということから、素人が出てくることを認めていないことが容易に理解できよう。

三権分立
でも、裁判員裁判を、行政、立法、司法を強制した。

根本的に考え方腐っているということをなぜ、現代人はわからないのかなあ。

2014-07-24

仮説

真偽はともかくとして、何らかの現象や法則性を説明するのに役立つ命題。

最近、仮説&検証という言葉がちやほやされていた。
僕からすれば、それは昔からの研究開発以外何者でもないと確信している。

仮説検証って結構都合がいい。
それを行っている人はその検証結果に
◯ならば、「仮説は正しかった」
☓ならば、「なぜダメか分かった」
と言い張る。

しかし、それは当事者の言い分であり、
その仮説検証を観ている側からすれば
◯ならば、「そんなわかりきったをなぜわざわざ行う」
☓ならば、「無駄な時間を使いやがって」
となる。

仮説検証を行う場合
それを誰からも邪魔されない権限と予算が必要であり
景気が良くなっているからと言って、、
いや、景気が良くなっているからこそ、
そういう訳のわからないところにリソース配分することはできなくなっているといえる。

結局、仮説検証行為と言われることも
それはだたトップダウンでの研究開発費にすぎない。
現場サイドの思いではないという事実を常に意識しなくてならないといえる。

2014-07-23

既読

僕はSNS系に触れないようにしているが、
既読についてはいろいろと物議があるようだ。

しかし、面白いのは
そんな既読に目くじら立ている輩ほど
業務上の日報、週報のレベルが低く、
それに対しての提出先の既読への興味が無いときている。
相手に読んでもらいその反応を知るターゲットが間違っているとか
言いようがない。

その進化の先かどうかわからないが
SNSでビジネスをする企業にも関わってきたが
僕は経営者、先見性のある人間として
断言できるのは、
そのやり方は永続性、コミットメントが見いだせない。
既読やいいね!に拘束力が成り立たないし、
電子立証が当分認められないこのご時世において
そうさせるわけにはいかないだろう。

既読という概念の
読んでもらえないか側に力を持たせることがおかしい。
むしろ、読まずにはいられない状況づくりに気を回すべきということを理解すべきだ。

2014-07-22

当分

ある時点からしばらくの間。
定量的ではなく、そして定性的ともいえない曖昧、
いや、何もしないという発言。

当分という概念は
使い手、聞き手 それぞれの思い込みに繋がり、
「当分といったではないか!」
「当分っていつまでだ」
「当分はもう十分の期間を過ぎている」
となり、争点の種になりかねない。

だから、当分という言葉は禁止すべき言いたいが
まずこの現代日本では難しいんだろうな。

当分がもつ、物事を棚上げする機能のおかげで
目の前の問題に対処できるという気質だけに。

2014-07-18

充分

現代人は充分と十分の区別ができないどころか、楽な方に流れている。
要求に対して、
自分として満たされた場合は 充分であり、
相手が満たされたかどうか憶測の意味での 十分 となる。

それが、馬鹿みたいに すべて 十分 になっている。

この発想は
「わたし、そういうこと出来ないタイプじゃないですか!」
というところと共通の感覚に相違ない。

正しい日本語、
相手に伝わるかどうか表現語としての日本語、
たぶん、それぞれの人間がそれぞれに勝手に思い込むことができる
ようになっている。

「ちゃんとした日本語で話せ!」
「おまえこそ、日本語で話せ!」
となりつつ、いやすでに、そうなっていることに気づいてるのかな?現代人。

2014-07-17

桃缶

桃の缶詰。

僕の先入観か、
どうしても、葬式、入院を連想してしまう。

いろいろな意味での労りの現れかも知れない。
生物より日持ちがして
後で家族で分けられる。

でも、この固定観念は
フルーツ缶詰の地位が確立されてからのこと。
そして、今はチルドとかいろいろな保存方法が生まれている。

僕のこの先入観は、僕の代で終わるのか?
それとも、日本の風土文化になっていくものか?

ちょっと時代の推移を見てみたいものだ。

2014-07-16

団地

生活または産業などに必要とされる各種インフラおよび物流の効率化を図るために、
住宅もしくは目的・用途が近似する産業などを集中させた一団の区画もしくは地域

言葉で記せばそのとおり。
しかし、いい年した僕は間違っていた。
団地=マンション、アパート
と思い込んでいた。

そのため、
工業団地というものは、工場地帯で働く人々の住まいの集合地だと思っていた。
実態は多くの企業棟でしかないのだが。
愚妹が、県の外郭団体の保健指導の責任者として
工業団地に赴いたことを話題にした際に、

「にーちゃ、勘違いしているよ、にーちゃの好きな団地妻はいないよ。
 いるのは、メタボとヤニが止まらないおっさんばっかりだよ。」

なるほど。
案外、人の思い込みは些細な事で気づく。。。

でもおい、好きなって定義は間違っているだろ!

2014-07-15

工場

実際の製品を生産(製造)したり、
既成製品の機械関係の点検、整備、保守等のメンテナンスを行う施設

こうじょう と 読むと
大きな企業の生産箇所に感じるが
こうば と読むと
中小零細の作業場に感じられるのは、
日本語の妙だろうか?

ファブレスという言葉があるように
ものづくりというものが、
変化、分業のさらされている。
必ずしも、工場での生産が生産の中心とはいえなくなっている。

また、
多品種少量生産
限定品
カスタマイズ品
という最近のトレンドから、
大掛かりな工場では逆に作りづらいとも言われている。

産業革命後に成り立ってきている工場を用いた生産方式。
これからの生産、付加価値創造は
果たして、工場のままありつづけるのかどうかの今はその分岐点かもしれない。

2014-07-14

配信

通信社・新聞社・放送局などが、
入手した情報やニュースを
支社や他のマスコミ機関・官庁・企業などに配送すること。

もうこれは古い定義とすべきだろう。
ネットの普及、高速通信、情報リテラシーのコモディティー化
により、誰でも配信できるようになったし、
誰でもそれを観て自分の意見をいえるようになった。

だから、逆に既存の報道機能の無能さが目立ってきた。

今まで、自分たちが民衆の代弁者と思っていたが
案外、それは独り善がり、いや勝手な思い込みということが
いろいろと目立ってきた。

最近気になったのが
あるキャスターが
事件をスマートフォンで撮影してネットで流したことに対して、
「一般人が報道すべきではない、そういうことは我々のようなわきまえた、、」
という発言をしていた。

配信することが特権という発想を垣間見れて
本当にダメだなあって思った。

配信された情報をどう受け取るかというより、
それをどう思い込むかというレベルなのか?!

2014-07-11

期日

前もって特に定めた日。
僕は期日の捉え方のその人の性格と信用を感じるようにしている。

期日を
・日にち
・死線
・条件
と僕は考える。

条件
つまり、その日までにしなくてはならないと考える人が
一番信用できる。だって、その日ではなく、その日までの時間全体で考えているからだ。

死線
デッドエンドラインと考えて
その日にはやらないとならないと思っている人が僕の思う最低ラインの人間である。
期日を認識しているが、その日までどうにかしたいという発想だから
全体を見ていないといえるからだ。

最低というか、人して扱わないのは
期日を単なる日にちとしか思っていない輩だ。
だって、期日にできないなら仕方ないと
責任感がない以上は、その輩が生きていく責任に僕は関わりたくない。

スケジュール管理が
ビジネス、ツール、個々の認識で
これだけ蔓延している昨今。
だからこそ、
期日の感覚が狂っているだけで、
社会不適合と言い切れるといえるのではないか?!

2014-07-10

時雨

一時的に降ったり止んだりする雨。
しかし今、そんな雨はゲリラ豪雨になっている。

これは今だから、豪雨になったのか?
それとも昔から?

僕は昔からそういうものはあった、
それが洪水、河川の反乱であったと思う。

だが、人をだます人間は
今の変化は人の業であり、
二酸化炭素やら公害とかで温暖化しているというが、
そう言っている人の真意は
だから、自分のビジネスにお金を払えって言うことがありありである。

そもそも、地球には氷河期、地軸の変動ということが起きていた。
だから、今その端境期にはいったと考えるべきで
人間がどうこうできるものではないと思うべきではないだろうか?

豪打の言い出すくせに、
その自然に立ち向かうことはより豪を重ねることなのに、
都合がいいなあ、人間という化け物は。


2014-07-09

卓上

机の上におけるサイズ。
実際問題、どのくらいの大きさ?

実はこの言葉はある意味、相対的な表現。
今まで、机の上に置けないとおもわれたものがそれだけ
ダウンサイジング化されたということ。

パソコン
計測器
大型家電

がいい例である。

しかし、演算処理する機構がどんどん小さくマイクロ化された今、
卓上ということすらも、大きいとみなされ、
今の主流は、
持ち運びサイズ
そして
ウェアラブル(着けてられる)
になってきている。

つい10年前までは、卓上で
「おー、すげー」
だったものが、現在では
「あれ、いつの間にか、気づかなかった」
までに大きさに進化しているのだから、
技術革新のスピードは尋常ではないといえる。

2014-07-08

多分

数が多いこと が 本当の意味。
それが転じて、数の多さ=高確率 という意味で
おそらく
という意味になり、多分の使用のほとんどは推測の意味で使われている。

人間は未来視はできないが
予測などの推測、計画などで、次への対応をする。
その次への対応において、高確率のものを選びたがる。
それゆえ、多分などの言葉を用いだした。

それは、辞書的な建前の論理。

多分がおそらくという意味で使われだした真意は
日本人特有の無責任、責任回避の論理。
~自分の意見だけではなく、数字が物語っている。
~自分は断言していない、多分を用いて言っている。
そんな理由である。

言葉の使われはじめなど、色々なことに
建前、ある意味、責任や批判を恐れずに
ありのままを伝えるべきだと強く思う。

事実を数や批判により、捻じ曲げないようにすべきだといえる。

2014-07-07

牝狐

めすの狐。
というより、
男をだます女 という言う方が一般的だろうか。

聞くところによると
キツネはそう賢くないとも
そして、メスは情に深いとも聞く。
つまり、キツネに取っては、、いい迷惑かも。

語源をいろいろ文献などで辿ると
遊郭らしい。
色白の京の女性がしっかりしていて
なかなかなびかないことの下衆の
心理学的な 

酸っぱいブドウ

の意味でそう呼んだ。

「あいつはどうせキツネだから、女じゃない!」

おっと、酸っぱいブドウでは言う側はキツネなのに、
下衆側の真理とは皮肉なものっだ。

2014-07-04

昆虫

宇宙人の支点で現地球を見たら
生命体の数から間違いなく支配的数にいるのは昆虫である。

といった学者がいた。

しかし、それって、いろいろな意味で思い込み。
その学者先生の勝手な思い込みで

昆虫というカテゴリにしているが、
それって人間も哺乳類とみなしているのと変りなく
人間も豚もネズミも1と数えている。

昆虫だってもっと細分化できるはず。

そして、もっと大きく見れば
植物の数のほうが圧倒的に多いといえる。

昆虫という概念そのものが人間が生み出した考え方であり、
僕らが同じと思っていている昆虫も全く違うかもしれない。

それに、宇宙人がその学者先生の価値観どころか
全く人間と違う価値観であれば、そういう概念すらないともいえる。

昆虫というカテゴリは本当に一義的、今の時代で
当てはめた、6本足の外骨格のいきものの総称にすぎないと思うべきである。

2014-07-03

混合

二つ以上の異なる成分物質に適当な操作を加えて均質なものを得ること。
これが正しい意味。
だから、同じ治療効果を求める医療行為の組み合わせ(保険外、保険内)を
混合診療というのは、日本語として間違い と言い切れる。

言うならば、保険適用範囲の緩和 のはず。

正しい日本語とかいうけど、
政府側がこうやって間違った使い方をどんどんする社会に
何が正しいのか、全くわからない。

2014-07-02

比類

それとくらべられるもの。同じたぐいのもの。
でもこの言葉の使い方って
比類なきもの
比類なくすばらしい
と、基本、比類ない と否定形で、
比べることができないという意味でしか使わない。

言葉として、全否定前提の言葉ってなんか不思議。

でも言語っていうものは数字と違い、
曖昧なことで話を進めるための手段である以上
意味の全否定を定性的な強調表現としては常套手段なのは確か。
die hard
という言葉もなかなか死なない っていう否定による強調であり、
日本語だけでなく、英語にもあるのだから。

2014-07-01

背音

バックグランドミュージック、サウンド。
いろいろなところで流れている音楽である。
最近、その音楽の音量から騒音というクレームも挙がっている。
とりわけに海の家や人が集まるところで言い出す人が多い。
それって正論だろうか?

僕は間違っていると思う。
もし、背音がなくなると
周りの人の会話が耳に入ってしまう。
聞きたくもない他人の話の内容が聞けてしまうのは
プライバシーを守る観点で
集客している側の立場としては、背音を使うべきだと思う。

最近の庶民の意見は
一過性、自分よがりで
周りの影響を考えずにいう傾向と
それで生じた副作用すら他人のせいにするきらいがある。

あまり庶民は考えずに発言すべきではないと思ってならない。
もっとも、庶民の意見は僕にとっては背音と変わりないのだが、、