定性、定量という言葉がある。
最近、故Steven Paul Jobs のプレゼンテーションがうまい
理由に 、数値的なスペックではなく直感に訴えるところがよく、
仕様を数で表す日本メーカーを馬鹿にしている論調があった。
この理由は愚論である。
言葉を悪く言えば、ゆとり教育の失敗発想である。
偏差値社会からの脱却と掲げ、
偏差値の値でない評価を求めた結果、
評価できないではなく、評価に値しないレベル人間を多く生み出してことは
国際的な学力 ”指標” に色濃く現れてしまった。
数字つまり、定量は比較、評価に適している。
直感に訴えるという定性表現は相手へのインパクトとしては評価できるが
決定打にならない。
定性はタイトル、定量はその裏づけというバランスといえよう。
偏差値教育は、定量評価が強く、定性的なもの、目的意識が希薄だった。
高偏差値だったから、何が実現できる?という問いには対応できない課題があり
問題視されて事実はある。
対して、ゆとり教育は、どうなりたいという定性的な気持ち先行で
その裏づけがないゆえ、結局何もできないという結果を導いて、破綻したといえる。
Steven Paul Jobsのプレゼンに振り返れば、
定性表現は本人の論調に対して、
バックモニターには、比較すべき数字が多く出されている。
定性と定量のバランスがあるといえよう。
今の日本メーカーの製品とて、そうなっているし、
すぐに対応できているといえる。
裏づけとなる数字に表れる性能を有しているからである。
日本製品もそれ相当と思っている。
っというより、消費者側がだまされすぎではないかと思っている。
「すごいものが出来ました!」
「優秀です!」
「こんなことが出来ます」
なんて言葉を鵜呑みするほど、思考がないのかといいたい。
「どうすごいのか?」
「優秀の根拠は?」
「こんなことが出来る裏づけはなにか?」
そのポイントを、定量的なもので理解、説明できないままの買い物は
一昔前の、
おもちゃ屋の前でぐずる子供となんら変わらないレベルと
自覚がないのだろうか?
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