2015-12-28

改変

内容を変えて、違ったものにすること。
モノの捉え方によってはこれまでの事実を否定することであり、
実績の初期化ともいえる。

人間は自分の人生、行為を否定することはしたがらないが、
他人に対しては鈍感であり、改変というものの多くは
他人から与えられる何らかの力により改変は行われる。
だから、計画通りというときには改変とは言わず、よくて進化というくらいだろう。

改変がいい機会でもあり、そして崩壊の起点にもなる。
改変により、今まで行えなかったことができるようになるから、
それで変わるものもある。逆に今まで保っていたものがなくなるので
安定とされるものもなくなるが。

来年に向けて、弊社はいろいろなものを改変することになった。
上記の通り、何らかの力を受けている意識があるが、それも自覚したうえで
前向きに受け入れていくつもりだ。
保っていたものがなくなるからこそ、もう引き返せないという背水の陣で挑めるのは
ある意味、人生の醍醐味に感じるようにならないと、人生を楽しめていないと思わないとね。

2015-12-25

熟考

よくよく考えること。十分に思いをめぐらすこと。
日本においては、未だに熟考することに好感を持たれる。
それは、浅はかという言葉があるように即応することが失敗すると思われているからだ。
しかし、そこの価値観は根本的にみなすべきであり
もともと「時は金なり」という諺があるように、時間をかけてもったいないことになる。
また、この集合知の世界で
個々人がそれぞれため込んだ情報や判断軸で行動されても、、、
それこそ浅はかになりかねない。

熟考という概念を捨てて
すぐにアクション
情報を集合知に集めるということが
これからは求められるだろう。
それこそ、社会のクラウド化
そして、これは個人能力主義の崩壊にもつながり
新たなビジネス、社会価値がなると思えてならない。

2015-12-24

香辛

植物から採取され、調理の際に香りや辛味、色をだすこと。
英語で言えば、spice で、その物質群は spices といえる。

料理において、香辛をまとうことは当たり前になっている現代。
入っていない料理など料理ではないというかもしれない。
しかし、根本を考え直せば
元の味が知り、それよりもっと美味くなるから香辛を行うわけであり、
元の味を知らずに食べ続けるのはどうなんだろう。

現代人に多い味覚障害。
近代までその概念すらない症状といわれる。
それは、どんどん高刺激な香辛を求めた結果
何も感じられなくなってしまったということ。
本来感じるべき、元はどんな味なのかを気づかずに。

クリスマスから年末年始
いろいろな美味を口にする時期だが、
食べすぎ、呑みすぎという話以前に
その食材のもともとの味やそれをいかに調理したのかを考えそれに感謝する。
本来、そういうものが謝肉祭などの祭りの意味であったことを思わないから
経済、社会が熟成していかない日本と思ってないらない。

2015-12-22

弁証

弁論によって証明すること。
つまり、口頭で証明することで現代社会では重要とされる。
でもね、それって本当、結局は話しても無駄だと思う。

いくら証明しても、いろいろな切り口で
「納得できない」
と言い出したり、
自分が理解できない表現で証明されても
「何を言っているがわからない」
と聞く耳を持たないことが実に多い。

それに証明とは、、つまり持論を他人に強制させることである。
それを口頭でいくら説明し、それが証明していると言っても
抵抗できる力を持っている相手には無駄である。

僕は結論付けると
弁証には2つの条件がいる。
一つは
弁という言葉が互いに理解できることであり、
その理解の結果で、聞き手がどう行動するかを
聞き手側も弁証できること
そして、もう一つは
証という言葉の裏にある、証拠、根拠というものであり、
一般的には、科学的、物理的な物証を考えるだろうが
それはあくまでも一般的であり、人間である以上そんなものより
実効支配的な脅威があれば、人間というものは従うということ。

弁証はあたかも口頭で証明しているが
その裏には、圧倒的な力がない以上無意味である事実に
向かい合わなくてはならない。

「嫌だ」といわれる環境では言葉は本当に無力であるということを。

2015-12-21

訓戒

組織における軽度の処罰。
職務上・経済上の不利益は特に生じない程度の、軽度の処分である。

良く知られる懲戒処分とは違うようだ。
懲戒処分は組織外に向けての処分で
その処分を受けることは公に、そして自分の職務経歴書に書かなくてはならないとのこと。
しかし、訓戒は組織内のことだから
職務経歴書に表すものではない。

だから、懲戒処分を行わず
訓戒後に、自主退職が慣行になりつつある日本。
でも、これってある意味、閉鎖的、、臭いものには蓋の論理であり、
今の時代、どんなことでも人伝、ネットなどで情報はいくらでも流れてしまうもの。
その訓戒を出すことが出される本人、出す組織の価値を問われることになる。

自分自身、
これまで懲戒検討、訓戒は発令し、
それをカタチとして従業員に強いることを数度経験したが、
出す側の冷淡や苦悩、
出される側の想定外の対応、
いろいろと人間の極限の心情をみて、学ぶところがあった。

能力主義である以上、
懲戒もまたマイナスの能力評価
出さないということは、賞罰必定ではなく
真の意味での能力評価とはいえないと僕は強く感じるし
そういう甘えがこの先どんどん日本を悪化させていくと思ってならない。

2015-12-18

親書

みずから書くこと。
とりわけ、手紙に使われるが、
親書での手紙は本当になくなってきたといえる。
~IT機器の台頭、社会がそれを受け入れる
~多種多様なフォント
ようになり、乱筆乱文になる親書より、電子的なものが当たり前になりつつある。
今では、eメール、SNS,で手紙という概念すら危ういし
年賀状という物質的なハガキすら、電子を使って書くのではなく製作している状態といえる。

だから、だろうか、筆まめな母はITが使えなくもないが
ちゃんと親書でのお礼状などを認めることへ、おどろき、感銘を与えているようだ。
この時代にちゃんとした行いができるといわれる。

時代が進めば、今までの所作がいらなくなることが多い。
しかし、だからこそ、古き良き所作を行い続けることは
価値を持つといえるだろう。
それは、ただ親書であるだけでなく
~書体
~時節のあいさつ
~機知に富む文章
の総合力が問われ、それに答えられて初めて、感銘など人の気持ちを動かすようだ。


2015-12-17

予告

前もって告げ知らせること。前ぶれ。
現代社会、技術、満足度の水準が高くなればなるほど
予告ができなくなってきている。

昭和の時代、
いろいろなものが計画的に行え、
それに対して、受け手が期待を込めて待ってくれた。
しかし、現代では
受け手からの意見が双方向どころか
モノ言う受け手になってきて、送り手側の計画に対してダメだしをするようになったり
技術水準の過信から、どんどん納期が短くなり
予告を出す期待感への価値がなかったり
そもそも予告を出す工数すらなくなってきている。

予告を計画のバロメーターと考えてみれば
今の社会全く無計画になってきたなあって思う。

そのくせ、需要予測はトレンド傾向を分析を求めているが、
その分析ツールの要件や実装が計画通りに行えない人たちに
求める価値があるのかって遠目で思ってしまう。

2015-12-16

憂国

国の現状や将来について心を痛めること。
でも、これは現時点、社会において認められていない、
もしくは蔑まされている身分の人の思い。
逆に、今を楽しんでいる人からすれば、
「なんて馬鹿なことを言うんだ!」
という意見で一蹴されかない。

未来は不安であり、どんなものでも確約されているとは言いがたい。
しかし、寿命のある個々人レベルではなく、
国家レベルにおいてはそう簡単には変わらないと思っている。
しかし、国家という概念も人間の産物。
ネット普及、タスクヘイブン、グローバルという概念が台頭している昨今。
国家が国家足り得るか?、そしてそんな国家の社会保障がいつまで有効なのか?
案外、気づかぬうちに亡くなる概念であり、
憂国という概念より、
これからどう生きるために社会を利用するかを考えることが
何よりも重要だといいたい。

まー、昔から日本人はその本性を隠すために、憂国といってきたけどね。

2015-12-15

怪人

文字通り怪しい人物。
でも、これってその人への主観的な思い込みでしかない。
当人、および当人に関わる人は怪人ではなく、
親しい人、もしくは重要な人かもしれない。
もっと言えば、怪人と思われるほど、他人の持っていない異能を有しているかもしれない。

僕からすれば
怪人
天才
ヒーロー
は紙一重、というか、周りの人間が自己中心的な思い込みでしかない。
自分にとって、有益かそうではないかで他人をそう評してしまう。
ある愚かな人は
「社会にとって有益な人かどうかだ!」
と胸を張ってバカ発言をする。
だって、その人のレベルでの思い込みの社会であって、
それが万人、未来永劫的に有益だろうか?

例えば織田信長。
当代では、最悪な怪人だろう。
しかし、後世である今では、英雄扱いになっている。
でも、それは織田信長自身が変わったのではなく、
社会が変わったわけだから。

怪人とは、時限的な評価、そして当代の人間の愚かな思い込みでしかない。
人間の主観って本当にあさましいと感じてしまう。

2015-12-14

至宝

非常に大切な宝。
思うに、現代において’宝’とは何だろうか?

~価値の形而上化
~通貨の電子化
~変動相場

により、物質的なモノとしての価値は失われつつある。
しかし、だからこそ、固定的な存在価値のものは実在、固定的価値を示すことが
宝とみなされているかもしれない。

~金銀、宝石などの自然的な有限資源
~先人が作りだした、美術品

そして、今では宝足り得るものとして
あえて希少価値を示す、限定生産、シリアルナンバー付与。

価値観は変わっても、宝を求める人の気持ちは変わらないようだなあ。


2015-12-11

駅前

公共交通機関である電車の駅の近くの立地のこと。
人間が拠点を構えるとき、大きな判断要素になるといえる。
通勤、通学に便利ということだけでなく、
駅前には多くの消費財の店舗なども集まっているから、
いろいろと便利となっている。

僕はここがこれからのブレイクスルーポイントではないだろうか
~在宅勤務
~ネット学習
~ネット通販
などから、必ずしも駅の周りに住む必要はなくなる。

対面交渉の重要性
土地神話
という迷信に等しい考え方をそろそろというか
まだこだわる人間をどうにか淘汰することが
これからの社会の必須と考えてならない。

2015-12-10

黴菌

ばい菌のこと。
人体に有害な細菌などの微生物の俗称。

最近はばい菌とはなかなか言わなくなっていないか?
このばい菌という言葉についてあまり語源が書かれていないが
ちょっと調べればわかること。

文明開化以前はなく、っして最近使わなくなった言葉。
つまり、開国後に新たに入ってきた概念の言葉を日本語訳したものであり、
それはウィルスのことである。

古来日本における病気の源は気の問題だったが、
欧米の科学では、目に見えない菌などに引き起こされるもの。
その病気の菌の類はウィルスと呼ばれていた。
ウィルスはラテン語で virus であり、
そのローマ字読みとわかりやすいように接尾句に菌をつけて
ばい菌とあてた次第。

この事実、なぜネットなどで書いていないの?
まー、学者が定義したというより、
巷で広まった呼称は定義できないからかなあ。




2015-12-09

気密

 密閉して気体の流通を妨げ、気圧の変化の影響を受けないようにすること。
言葉の定義はこれだが、私生活レベルでは住居において、内気が外気に漏れない、
もしくは隙間風が入ってこないことといえる。

建築技術や建物老朽化でその建物の気密性は変わる。
自分が実感して感じることは
昔住んでいたオンボロ邸宅だと、気密性のかけらもないため
冬寒すぎて、布団から出れない思いをしていたのだが、
今のマンションではそれを感じずにすむ。
逆に玄関を開けるまで気づかず、上着を忘れてしまいけていることだ。

四季を感じる生活を重んじる日本では気候、気温の変化を肌で感じられないことは
良くないこととされるが、現在の気象下では身体に悪影響を与えるようになっていることは
四季を重んじる以上に深刻な問題ではないだろうか?

思うに、
現代人はこのように気密性の高い住居や高度な科学技術の進歩の恩恵で
肉体的に劣化して、四季に耐えられなくなってきたか?
それとも
地球の変化に耐えられなくなり、気密性の高い住居技術などが進化したのか
どっちなんだろう?

2015-12-08

静観

成行きを静かに見守ること。
人によっては行動前提主義、いろいろと行うことがよく、
下手な鉄砲数撃ちゃあたる
という発想でいる。

でもそれは僕には合わない。
考え方を替えれば
下手な鉄砲は撃てば撃つほど弾のコストがかさむし
その誤砲で事故が起きるだろうし
そして世間的には、下手という認識され社会的評価が下がる。

いろいろな意味で静観することが必要だと思う。
~自分自身の状況
~自分の周りの動き
~これからの変動要素
などを把握することが必要である。

そして、最近強く思うのは考えすぎないということ。
あまり考えすぎて結論にいはならない。
それは需要予測エンジンもそうだし
人間の考える詳細な計画がほとんどうまく行かないことで分かるように。

時代やいろいろな事件、事象に巻き込まれる自分を
静観しているから舵を切れるという思いで考えたほうがいいかもしれない。
考えすぎる自分に今はそう言い聞かせている。
焦って考えずに、ただじっと動きに眺めていることも重要であると。


2015-12-07

先物

先物取引のことで
将来の予め定められた期日に
特定の商品(原資産)を
現時点で取り決めた価格
で売買する事を約束する取引のことえである。

なんか、マネーゲームと思うかもしれないが、
日常生活でも、事前予約で買っておくことで
いざ発売日には買えないくらい値上がりしていた
なんてことがを抑止することは気づかずに行っている。

そに何気ない取引において、値上がりしていたら、
事前予約していたものを
売ってしまおうという発想がマネーゲームになっている。

あれ??
これって、ダフ屋と何が違うの?
なんか言い訳をしているけど、結局おなじことではないか!
権力者は汚く、
自分たちが認めるものは先物取引とか言い出して法整備するが
コンサートなどのダフ屋行為を個人で行うものは違法とする。
こういうの法的な贔屓活動を正しく指摘し是正することが
超法規的に必要に感じてならない。

資本主義、自由財産というものが
結局は多くの財産をもっとものがそれを維持拡大させるものを
象徴する事例と僕は思っている。


2015-12-04

旅路

旅をして行く道筋。
でも、旅路という表現には、死を意味することがある。
これは日本語だけではないみたいで
go
という単語の真意は、発言者の元から人が離れていくことを指し
離れた結果の最終形が死であり、goneという表現の裏には死が潜んでいるそうだ。

一昔前は
通信連絡手段が限られ
連絡先の所在、戸籍も画一的なかったり
交通安全がほとんど保証されていない
という状況では、旅というものは命の危険があり、
旅立つときはある意味、今生の別れかもしれないといえよう。

昨今、旅行ブームで国内外いろいろと行けるようになっているが
その背景には、旅路を保証するいろいろな社会基盤が挙げられる。

ちょっと前までの考え方では
旅路の果てで息絶えてしまったといわれても、
それは旅立つ決断した自らの責任であり、
この考え方は安全といわれる今でも忘れてはいけない前提条件だと僕は思う。
事故があると旅行に関わる企業体を責めるが、
その旅行に行こうとしたこと自らの責任はいったいどこにやら、、


2015-12-03

役務

漢字で書くとこうなるが、サービス業務のことである。
役務つまり納品ではなく、労働での対価をもらうことである。
日本語が誤った英語理解となっているのが
サラリーマンとサービスである。
これって僕の中の結論で言えば、
サラリーマンではなく、サービスマンと言い換えていきたい。
つまり、会社務めとは、役務で収入を得ているのだから
サラリーというより、サービスを生業として人のことといえるから。

正しい日本語の前提として、
英語概念と日本語の訳を近づける努力からではないかと考えるだけに
僕はそう考える。
もっとも、正しい日本語、、というか正しい日本人なんてものは
ありえないと心で感じていることは事実だがね。

2015-12-02

胆力

物事に簡単に驚いたり恐れたりしない気力。度胸。

文章でみるとこのように表現するが、
実際にそのような人格者、存在は見当たるだろうか?

胆力という言葉は使わないが若者が
「あの人、マインドつえー」
ということはある。ほぼ同義だろう。
しかしそう言われる人は大概驚いたり恐れないことを
無感情
鈍感
とあまり、社会生活をともにしたくない人ともいえる。
あくまでも社会人である以上、一定の反応と思慮がないとならない。

胆力という言葉が
中国の戦乱の時代、つまり社会より個々の戦闘力が重視される時代であれば
評価されていたといえ、今の社会では、、、??、、、!!
あれ?
個人、自由、能力主義、
これって、戦乱の時代とあまり変わらないのでは?
もしかしたら、胆力ってこれから求められる重要なことかも??

2015-12-01

氷河

積雪がその上層に降り積もる雪の重みで圧縮されて氷塊となり、
低地に向かって徐々に流れ下るもの。

というが、市場経済においては氷河期の意味、
経済流動性が停滞気味の意味で使う氷河のほうが多いだろう。
多くの人々の認識が異なるのは
氷河期のように経済停滞するということに対して
他人ごとのようにいうが、
停滞させているのは自分自身の貯蓄意識である事実をそろそろ認めるべきかなって
痛切に感じている。

貯蓄は美徳というのは、
戦後復興の日本政府が洗脳させた概念であり、
欧米、そして大陸系の人たち
つまりグローバルではその美徳感は全く通じないのである。

経済を回すということは消費であり、それを浪費というマイナス表現するのも
日本だけである。

確かに見通しの立たない借金をしてまで消費をすることはおかしいが
貯蓄し続け、あたかも永久凍土のように資産を氷漬けにすることが
日本経済を氷河期にしている事実も理解しよう。

外国人によるインバウンドによる経済効果、、
あたかも個々人輸出、
輸出で成り立つ日本からの脱却のためには
この貯蓄氷河期の脱却ではないかなあって思ってしまう。