2010-05-31

救済

社会的に批判を受けるとかもしれないが、
救済は悪いことと言いたい。

救済は字のごとく
困っている人を助ける意味であるが、
現代社会において、
救済行為が社会をダメにしている。
する側もされる側もである。

救済される側になくてはならない概念として
救済されている意識がなくてはならない。
自分には何かしらの救済を受ける条件があるということ
ある意味の非がなくてはならない。
その意識がないと、
他人が労働して得られる対価を
自分は何もせずに得られる特権、、、貴族意識を導いてしまい、
永遠にその特権にしがみついてしまう。
救済は時限的でないと、ならないはずなのにだ。

対して、
救済する側も認識がおかしくなる。
救済される側の自立に対して
仕組みを作ってしまうほうが効率的と思われていた。
その仕組みが目的をもって機能していればいいが、
救済される側と同じように意識がないと
タダの資金プールの温床、
何もせずに参加することに対価をもらえるという認識になってしまう。

現代社会の救済行為は
自立、公正から見れば社会悪である。

救済よりも市場競争、自然淘汰の脅威から
回避方法を時限的に教えるという
より具体的な各論で行うことこそが、
結果的に社会が公正されるものである。

消えるべきものが消えて
新しいものが新たな価値を生み出すことをしなくては社会は進化しない。
また消えるという恐怖の事実が
動物に大きな進化への起爆剤となるだろう。

2010-05-28

抑止

抑止効果という言葉があるが、有名無実だと思う。

抑止効果の裏には、必ず恐怖の感情を芽生えさせなくてはならない。
生命の危険を味わせなくては効果はないのである。
平和ボケをしている現代において、抑止効果のためというのは
単なる言訳、費用の無駄な計上である。

危険であることは安全ではないというが、
危険かつ恐怖を持つことこそ
人間が動物本来の危機察知、危険回避を行えると思う。

僕はもっと人間に危険かつ緊張感を与えるべきだと思う。

相手が暴力を振るかもしれないと畏怖するから、敬意が芽生えたり
身の回りの物は凶器で安全ではないから、慎重になる。
それが、社会生活における抑止効果が思いやり、大切に扱うという行為に繋がるといえる。

2010-05-27

代行

サービス!サービス!
って日本語の表現が蔓延しているために、

サービス=無料

と感じてしまっているが、
サービスとは、代行行為である。

相手が出来ない、しないことを代行してあげるから
それに見合う対価をもらうことがサービス業である。

「タダより高いものはない」

という諺の裏には、
タダと思い込んでいるからそこ、
それに伴う対価の認識のなさが
思わぬしっぺ返しに感じるんだろう。

とりわけ、
アジア系の人間が代行というものに対価を支払う感覚が薄い。
それは、欧米の概念である権利という認識より形而下の存在しているものでないと認識できないからだろう。

一つ例に出せば

魚が店先に並ぶ。
その魚を買うと言う行為は

日本を代表するアジア系の人たちは
その魚を手に入れるという認識だろうが、

権利の概念で考えると

本来自分で魚を
・釣って
・〆て
・運ぶ
という行為をすべきところ他人に代行してもらったのだから

・釣った代金
・〆て梱包した代金
・輸送代金

がこの魚にかかっているという原価意識になる。

サービス業とは代行行為の積み重ね
原価の集積であるという意識をもって
相手に接すると、、、、他人への感謝の気持ちが出てくると思う。

存在して当然と思う気持ちからいろいろな意味で脱却すべき社会的状況になっていていることを
もっと日本人は感じなくてはならないと思う。

2010-05-26

叱咤

怒ると叱るの概念が変わってきたのは、
価値の多様化が導いた結果だろう。

先生が生徒を怒っていることの多くは
叱りつけることであった。

それは、生徒が道徳的に正しい道と思われる方向に進んでいないからこそ
大人の怒りの感情を子供に示して、
自分らの行いだと、こんな嫌な思いをするんだなあって思い知らせることだった。

しかし、社会の価値の多様化、国際化、自己主張の横行により
自分たちが正しいと貫く思想
間違っているものはどんな相手でもかみつく
概念がまかり通るようになった。

その結果が
・モンスターペアレンツ
であり、それゆえの
・サラリーマン教師
の台頭である。

僕は思う。
多様な価値観で個々を尊重することは狩猟民族的な思想であり、
自己防衛前提の生き方だと思う。

日本のように、農耕民族、集団的防衛を常にしてきた思想では
個々人よりも、組織を維持するためには
責任ある存在からの体罰で、みんなで痛みを共有する指導こと
叱咤がないと、自分自身および自分の組織を維持発展できないと思う。

日本がめまぐるしく成長した高度成長期
個人主義という概念がなく、外れたものへの叱咤があったからこそ、
組織としての行動が国際競争力を持っていたと思ってならない。

2010-05-25

蛇足

庶民が間違う、付加価値の意味。

自分としては相手のことを思い、
付加価値を付けたつもりでも、
その付加価値のために、
本来すべきことへ弊害を起こしてしまう。

特に現代社会において、多々見受けられる。

要因はいくつかあり、

成果主義という個人評価の増長
相手への思いやりが恩着せがましくなった教育
高度技術が簡易に実現できるフレームワーク

人間の生活を良い方向へ導こうとしている活動が裏目に出ている。

相手の真の目的を理解すれば
蛇足は減るが、その分、付加価値が減るのが現代人、庶民だろう。
味気ない結果にあふれてる現代の成果。

結局、付加価値をつけても蛇足になるのに、どうすればいいか?
視野を広く持たないか?
その時点では蛇足なものかもしれないが
別の角度からすれば、、、、、それは副産物かもしれないし
新しいビジネスの切り口かもしれない。

一番早く蛇を書いたので足をつけてしまい、
目的を見失い、褒美の酒をもらえなかった男は
視点を変えれば、足を書いたことで、
後世までその男の行動は語り継がれるという
故事成語の礎になって、後世の人々に教訓を与えていると言える。

その一点だけを見ずにその後に
どう応用させるかを考えれば
蛇足になった付加価値も決して捨てるものではない。

2010-05-24

勇者

勇者になること、、それは最強の敵になること僕は確信している。
ゲームや物語の主人公が勇者として
既存の社会制度に対して立ちあがり、
その社会制度の根幹を駆逐して新しい社会に変えるという
ステレオタイプのパターン。

作品が違っても多くの人の思いにそれぞれの作品が思いつく内容である。
僕がいつも気にするのがその後だ。
たぶん、その勇者が祀り上げられて、
新しい社会を気づくが、それが次世代の勇者に潰される社会の始まりだろう。
勇者に解放された部落は繁栄する
勇者の仲間は重鎮になる。
しかし、それは
悪の根城
中ボス
を作ったにすぎない。

視点を変えれば、
勇者に倒されたラストボスの存在は
倒されたその存在は、まわりの方々からすれば
名君だったのに、新しく来た悪の王が倒して
悪政をしくようになったととも見えるのである。

自らの信念で社会をかえるということは
他人の視点からすれば、
勇者にも悪の王にも見えるのである。

みんなのためになんて考えて生きていても無駄である。
ただ、自分の思いに忠実あればいいとつくづく感じる。

2010-05-21

捨物

役に立たないもの。

役に立たないから捨てるという論理になるが、
実際に、捨てるの反対の意味で、収得した時点でそのものが捨物であることはない。
何かしらの理由で必要性、欲に相まって収得されたのである。

だからこそ、
重要なのは、収得、収集された事物、事象をいかに捨てると割り切るか。
一度手に入れてものを手放すことに、人間はかなり躊躇する。
しかしだ、自分自身は一人かつ平等な時間を過ごす。
自分が手にいれたものに関われる機会、時間がないのであれば
それを手放さないで持っていることこそ、非効率になるとえる。

これは、物体関わらず、権利そして人間の存在にも関わる。
手に入れて使いこなせないのであれば、
それを手放すことに躊躇するのは互いに嫌な思いをするだけでなのだから。

2010-05-20

収集

人は集めたがるものであり、それを手離さないものである。
多くのものが自分に帰属することへの歓びは
その対象物に差があるとして、本能だといえよう。

収集は物欲とされて、悪徳のようにいわれるが
それこそが、人間の向上心の根源である。
その欲があるから、人間は進化、発展できたといえる。

しかし、今は分岐点、
集め過ぎていること、
集めるものを有効につかっていないこと
集めることが欲から義務になっていること
等の異化が始まっている。

いろいろと思う。
だからこそこれからは、
集めるための捨てるが必要ではないかと。

2010-05-19

統合

僕はall in one が好きだ。
総ての機能が内包されている。
それ1つですべてのことができる。

人によっては欲張りとか言われるが
自信を持って言えることは、身の回りのいろいろな物質、
とりわけ家電製品については、全機能を使ってから
その機器の有用性を考えている。

携帯電話に代表される多機能になっているから
実質使わない機能があるといわれるが、
その機能が有用かどうかは僕自身が実際に使ってみたうえで
生活に有用化どうか判断している。

その機能がここに内包されている、つまり統合されていることによって
得られる効果があるかどうか、
その機能がわかれていたほうがいいという観点で物事をみている。

だから、僕の携帯電話やPCはそれ相当に酷使されている
統合の象徴だからである。
他人からすれば、なんでそんなに酷使するのって思われるが
僕からすれば、同じ機能を複数持ち歩くほうが非効率に感じてしまったりする。

これは、機器だけでなく、
人事においても統合機能を求めていて、、
まーそれを酷使しているというのであれば、、それはそうかもしれないが、、

2010-05-18

先駆

ビジネスは先手でなくてはならない。
他より一歩先に行かなくてはならないが、
二歩以上進み過ぎていると、市場や世間がついてこない。
この絶妙なバランスがなくてはならないが
僕および弊社はそれが弱い。

革新すぎると相手はついてこないし、
当たり前のレベルだと相手にされない。
そのバランスが一向につかめない。

しかし、これはある意味、努力や資質の問題ではなく、
時代や価値観、社会現象にところもある。
いったい、今隆盛な企業を10年前に予想していた人はいるだろうか?
それに成功したからこそ、
大きな発言をできるのであるが、10年経つと
なんて偉そうなことを言っていただろうって後世でいわれることが常だ。

先駆することは
時代の寵児にもなるが
過去の道化ともみなされることでもある。

それでも、、、だからこそ、
僕らは過去の道化と呼ばれるような実績を求めて活動し続けるしかないのだが、、

2010-05-17

責務

どうも庶民の発想が責務を意識しない社会になっていると感じる。

政府として、、
会社として、
組織として、、

等の発言をして、あたかも自分はすでに責務をしているような発言をしているが、
実際には他人に負担を押し付けることが当然のように口にされる。

自分はここまで行います、それゆえ、
・前後
・権能
・能力
の理由でできないところを代替していただけませんか?

という発想がまったく庶民がみいだせない。
この発想が、社会契約論にもとづく、近代社会のはずではないか?

今の状況は、六道の餓鬼道
自分の欲さえ満たせればいいのではという発想にしか見えない。

自分の行動を宣言、立証して
相手への要望を伝える知恵や意識を
もっと磨くべきだ。
だからこそ、責務という意味が成り立つ。
今はただの鬼ごっこ、時限爆弾渡しゲームでしかない。

2010-05-14

調整

はっきり言えば、management の本当の日本語訳だと思う。
management を管理と訳したりするが
control との違いなど、いろいろとしっくりこない。
調整こそmanagement だと感じる。

調整の字のごとく
調査し条件を整えることであり、
とても難しく、そして重要な活動だ。

管理職をマネージャーというのは
そのような調整をする役割でなくてならない。
だから、管理職ではなく、調整職と訳すべきだと思う次第。
本当の管理職はディレクターではないかと感じる。

既存の日本語訳に流されて、
本来のあるべき意味を理解しない人が多すぎるとつくづく感じる。

2010-05-13

畏怖

人を統べるときに充分条件ではなく、必要条件のスキルと感じている。
結局、人を使役する際に必要なのは、
畏怖しかないのではないか?

褒めるとか
信頼関係をもつとか
利害が一致したとか
いろいろと成功者は口にするが本当にそうだろうか?
やはり、その人が出す威圧的なものが
他人を使役しているのではないかって考える。
仮に威圧的な畏怖を感じさせなかったら、
その美味しいところだけを盗んでいくのではないだろか?
それがある意味での市場主義でもあると感じている。

他人を畏怖させる強い胆力で圧していかないと
多様化した価値観のこの社会で
自らの意思を他人に押し付けることは無理といえる。

2010-05-12

批難

人間は何をしたところで批難されるものだ。
善くても悪くてもだ。

「あいつ、あんな悪いことしやがって!」
「偉そうに、正しいことをしやがって、かっこつけてやがる!」

僕からすれば、批難、批評をすることに価値は全くない。
その行動に似た行動で有意義なものをするならば
当人と行動根拠、結果について討論すること
自分の思う点での指摘、アドバイスをすること
は互いの市場的、人格的価値を高めることに繋がるといえる。

批難、批評は言葉の責任がない愚民の行動でしかない。
言葉を発して相手と対峙することができない陰口より
正面で相手へ自分の見解を発する気概を持って生きるべきと思う。
それが難しい??
だから批難している?
そんなレベルの存在に、エンジニアリング、革新的付加価値の創設が望めようか!

2010-05-11

断定

断定させることは
リスクでもあり、
責任が伴うことである。
しかし、、、だからこそ、断定は必要なのである。

現代社会において
責任をとらないとために、
推論と仮説が横行している。
それだと、どうなるか。
仮説の上に仮説を積み上げていくことになる。
その仮説のまま、目標に達せれば、
仮説をコンクリート(具象)にして結論になる。

結論が正しい、間違ったかと後に検討する場合
この考え方では前提条件の仮説に責任転嫁しつづけるだけで
結局、反省や成功根拠を導けないことになる。

断定することで、そこまでの責任をかぶるとともに
そこまでの成果の帰着にもなるべきだとだと言える。

ハイリスクハイリターンという言葉が形骸化しているこの時代だからこそ
その責任と報酬を明確にしていきたいものだ。

2010-05-10

協働

協力して仕事をするということは、基本的にありえない。
その事実に多くの人間は気づいていない。

道徳のせいだろうか?
それとも理想なのだろうか?

子供会等で子供たちに
「みんな仲良く」
って口にしている婦人会、多くの場合は他の婦人の悪口しか口にしない。
まして、多くの仕事を共同といって他人に丸投げをしあうだけである。
その投げ方での陰口が婦人会の多くだし、
僕は記憶力が高いので未だに覚えているが、
小学校、中学校の先生たちは非常に仲が悪いし、
そのために、先生間だけでなく、まじめでマスコット的だった僕を取り込もうとしている
活動を多く目にしていたし、、、、それを利用させてもらった。。。

基本的に、共同、協力して仕事をすることなんてありえない。
出来ることは、自分の役割と他人役割とのインターフェイスを明確にして
そのインターフェイスの効率性を高めることやその責任の果たしあいで互いを信頼すべきである。

プロジェクトワークや組織運営を長くやっているが
他人と仕事を協力するという発想は甘え、組織の生産性の低下につながるから
喧嘩状態でもいいから、インターフェイスの明確とその責任の明確化を徹底させた。
プロセスにおいて険悪であることで、パフォーマンスが下がるのは
それは、管理職の管理の仕方の問題。
険悪だからこそ、同じことではなく、他人のせいで自分が迷惑していると言うくらいの結果を出し合わせれば
最終的にはパフォーマンスは向上すのだから。

なかよしこよし、、、そんな世界での高パフォーマンスの夢を捨てようではないか!

2010-05-07

支度

支度、仕度、どちらでもいいとされ、
専ら準備の意味と同視、同使用されると言葉だと思う。

言葉は変わるから、
現在の準備と同義であることは否定するわけではないが、
本来の意味は、準備より見積もりと同義といえる。

支も度も、両方とも語源は、測るという意味であり、
今後のことをいろいろな切り口で測っておくことが本来の意味。
準備行為の多くは測ることと言える人間社会
(距離、時間、寸法、価格など)
支度=準備に変わったのも自然の流れだと思う。

だからこそ、
現代において、事前準備において測る要素がないものが多いのは
本当に準備、、、、支度してことに挑んでいるのか?
って問いかけたくなる。

2010-05-06

犯罪

犯罪って本当に犯罪だろうか?
連休中によく起きる起きる事実。

行列を並んで待っていた。
それを無視して入ってきた者がいる。
それに注意しても、「自分は悪くない、違法でもないのだから!」と言い張る。
そうなると、人間は感情的、被害意識を持ち、実力行使にでる。
その実力行使が、違法となり、犯罪扱いになる。

これは本当に正しいのだろうか?
もし、その割込に対して、
実力行使することは、社会的な正義ではないのか?
それを一方的に罰するのはモラル、治安の低下を感じる。

いくら注意してもわからないものに制裁を与えることは
古来から人間への教育で
「口で言って解らない奴には、、、」
って折檻することは人間の歴史上、結論だと思う。

社会をよくするという名目で取り締まる犯罪の基準も
このモラルだとみなすべきだと思う。
もっと家庭、組織、地域で、不正を折檻するくらいでないと
犯罪と言う行為の減少、社会的安寧の回復には至らないと思う。
抑止なき取り締まりなんて意味がないのだから。