2010-10-29

汎用

多くの人間は、恒久的かつ汎用的なものを求める。
しかし、それは幻想であり、市場経済ではあってはならないことである。
もっと言えば、
汎用なものという肩書きの専門的なものが出来たということになる。

人間の技術進歩は
日進月歩を超えて、秒進日歩であることは
もはや疑いない。

昨日までの最新技術がいつの間にかレガシーって呼ばれる時代である。
この技術進化を市場、、つまり経済活動に関わる人間は否定しない。
出来ないはずである。技術進化こそ、有効需要、供給の礎であるからだ。

それゆえ、恒久汎用という
今後これでOKというものは技術進化の背理であり、
そんなものが出てくるということはその分野の市場限界がきたということであり、
今後の経済活動が見込めないということになる。
恒久でなくても、汎用的なものが登場した段階で
経済活動の限界が見出せ、新たな市場に目を向けるときともいえる。

しかし、人間の心理は
「何でも出来て、長く使えるもの」
を求める。
そして、
それに応えようと多くの企業が多機能、長寿命な製品を出してくる。

でも実際にその製品のマーチャンダイズライフはどうなるか。
「機能が多すぎて、理解できない、説明書が厚いよう」
「いろいろな機能のせいで、やりたい機能がすぐに動かない」
「こない市場にでた、新製品のほうがかっこいい、これ動くけどもういらない」
「修理が利くって言うけど、部品代工賃が専門の技術者で高すぎ」
という巷のクレームを浴びることになる。

汎用という訴求力のある製品はインパクトがあるぶん、
嫌われることも汎用的だったりする。

2010-10-28

音頭

音頭をとるという言葉。
リーダーシップをとるという意味とされがちだが実際には違うと感じる。

そもそも日本においてリーダーという存在はいない。
集団農耕民族ゆえに、リーダーというより
みんなが自主的に我田を耕し、繁忙期に互助する関係が出来ていた。
偉いとする立場があるとしたら、長老のアドバイスが
判例法のような採決権限を持ち、どうしてもというときに長老に仰いだ。

音頭をとるとは、リーダーというより
合力して行う活動のタイミングをとるために発声するだけの存在であり、
責任というより調子あわせの勢いのある声が求められた。

そう考えると古来日本は
・我田という責任範囲
・繁忙期の互助の暗黙化
・年配者の判例主義の絶対
・目的に合わせた役割アサイン
とある意味、自治は出来上がっていたとかんがえることもできる。

欧米式の管理方法
役割の国際化
ということが求められるが、
国際基準とて、
有力国が自国のやり方を強いているだけであるのだから、
自国色、
音頭とりというリーダーが存在せずとも自治ができる制度も
認められた仕組みではないかと思う。

2010-10-27

条約

国家間で取り交わされる契約条文を示すもの。
あまりにも大きな話で自分には関わりが薄いと思うかもしれないが
ちょっと視点を変えて俯瞰してみると面白い。

現在、国家間で取り交わされる条約のほとんどが
過去の否定条約であることに気付く。

EPAは関税自主権という条約を過去に結んだものを一部品目に限り撤廃。
国土回復は今まで相手国に占領されていたものを返してもらう
特区市場開放は不可侵条約だったものを撤廃する

ということが見受けられる。

今まであえて制御してきたことを止めるということを
緩和、撤廃して自由にさせて、人民の活動を活性化させる。
聴きようによっては国家からの恩恵享受に感じられる一方、
そもそも、国家の存在意義がもはや機能しないしなくなったのでは?
という見方も出来うる。

グローバル市場
国家間の行き来が容易
ということから、条約の緩和、規制の撤廃を導いているが
そもそも、国際的な国と地域の存在意義は?
国家そのものが国籍を与えてその手数料としての税金という
大きな人間倉庫、卸業に化していて、その存在すら規制撤廃ではと
論理を飛躍することも可能になってきていると思う次第である。

2010-10-26

当然

当然と思う心理はとても危険である。
当然ということはなく、必然、偶然しかありえないと思うべきだ。

当然という思い高ぶりは
他人に対して、威圧的、侮蔑的な印象を与える。
少なくても感謝の念は入っていない。
つまり、相手への配慮がないということだ。
また、当然と思うときはミニマムマックス、
これ以上譲れないという思いもこめられていて
当然を否定された場合、
相手への攻撃も辞さない張り詰められた状態でもある。

心の余裕というか
必ずしも相手は思い通りにならないという思いをもって
相手に接するならば、当然という表現は使わなくなるだろう。
たとえ、自分の中で当たり前と思っても
他人は他人であり、
自分にとっての当然は相手の当然ではないことを。

2010-10-25

努力

最近強く感じるのだが、
21世紀のメディア作品(映画、小説、アニメ)の
東西というか全世界的に言える傾向として、
努力を進めるものはまずなくなってきている。
多くの場合、主人公は生まれながら
・天才
・血統
・全くの偶然、ハプニング
でその主人公の地位を得ているものばかりである。

そのうえ、
いろいろと努力をしているキャラは
えてして、敵もしくは失敗の典型例に扱われることが非常に多い。

努力すれば報われる
Heaven helps those who help themselves

という言葉はすでにこの世では古典なのかもしれない。
現実世界、努力しても報われないと悟っているから
多くのメディア作品にそれが反映されているかもしれない。

とはいえ、これはゆゆしき事態でもある。
結論からすれば、何もしないという発想を植え付けることになり、
人としてのアクションを阻害するものだから。

確かに努力によって手に入れられないものが多くなっている時代だと思う。
目に見えないように既得権益保護、階級差別が制度化されつつあることに
多くの人々はストレスを感じているのだろう。

努力が報われる社会とは
新興勢力に既存の安寧が奪われるということと同義なのかもしれない。
ある意味、安寧への反抗行為とみなされかねない。

でも僕は思う。
仮に現状の安寧を壊そうとも
努力をして地位や手に入れることはあるべきであり、
それが社会の新陳代謝だと思う。
権益を奪うことを責めず、奪われる方に責めがあるべきではないだろうか。

2010-10-22

図々

図々しい。
あつかましいなどの意味であるが、
言葉で説明するとなると、なかなか難しい。
そして、尚更外国人への説明になると。

ハリウッドの映画の主役の性格は
えてして、図々しいことが多い。
若さに任せて、やりたい放題、他人の迷惑顧みず。
でも最後には、彼が評価されたりする
ステレオタイプの展開がある。

日本人の僕にはその心情の意味理解に苦しんだ時期があったが、
これはお国柄。
図々しさを美徳までではなくとも悪徳とは捉えていない
個人主張のアメリカの発想なのだろうとわかった。

やりたいようにやり、
自己責任をとるという発想ならば
図々しさもありなのだろう。

対して、農耕集団生活社会の日本においては
図々しさは悪徳に捉えられる。
我田引水、自分さえよければという考え自体が否定されている。

図々しさを考える上でお国柄で捉えると、

自分が幸せ、相手も幸せならそれでいいと
一人称を中心に捉えるアメリカ思想
相手が幸せ、その相手が幸せならば自分も幸せと
相手のことを捉える日本古来の世習慣。

どっちが正しいかはなく、
個人の思いに他ならない。

2010-10-21

戦力

多くの企業が人材募集に掲げる
「即戦力募集」
というフレーズにはいささか企業の存亡に関わると思う。

多くの転職経験と異なる実務経験を重ねた僕からすれば
即戦力を求めること自体、
企業としての独自性、特色を持っていないことに他ならない。

視点を変えて論じれば
即戦力とは、
他のフィールドでの実績を移植していること
会社実績のアウトソーシング受注ということで
利ざやを取るだけの企業になっているということだ。

独自性がある企業であれば
どんなに経験、実績があろうと
自社なりのやり方を理解して
それに合うやり方をしてもらい品質維持に努めるべきである。
そのためには、時として
実績がある人材でも社の意向に合わないければ
採用しないことや理解を受け入れないであれば
離職してもらうこともしなくてはならない。

会社としての戦力を本当に高め、
品質維持には
独自性からの社員理解の徹底にほかならないといえる。

2010-10-20

老舗

日本人は変なもので
事業の世襲を嫌うくせに
老舗の何代目という表現には安心感を得る。

古くから信頼されていることを有難く思う癖に
それを成立させようとする行為に冷酷だ。

老舗になっている企業で世襲になっている企業の創業期は
そんな事業に誰も後を継がなかった、
仕方なく、子供もが継承したという経緯もある。
誰もやらないから、子供がという条件での一族の辛酸があり
事業が軌道に乗ってきて、一族として恩恵を受け始めると
利益にたかるかのごとく、外のものが世襲批判をし始める。
個人主義、実力主義の御旗を掲げて。

僕は老舗の世襲はブランド力としてあるべきだと思う。
それは個人主義に合わないという思うかもしれないが
創業者個人の夢を血脈を通じて成立させているという
世代にわたる個々人の創意であるというべきである。
老舗をついて、発展させるか、没落させるかは
その代の力量、個人の責任である。
それに対して、外野は介入せず、
嫌なら、自分の老舗を作るか
没落させるようなライバル事業を成立させることに注力すべきと思う。

親のふんどしで相撲をとっていいのは相続者の権利と義務。
それに対して、自由や平等という概念で略奪すべきではない。

2010-10-19

気概

気概という言葉は一般的に使われない語彙かもしれない。
ただ意味合いとしては、がんばる!に近いといえる。

気概とは困難に屈しない強い意思(意志)と表されている。
使われなくなっている理由は
言葉の難しさという問題だけではなく、
こういう意思(意志)が最近の人間にはなくなっているからだとも
言い切れる。

確かにがんばれという表現や壮行行為を行うことは見受けられるが
それが困難に屈しないというレベルだろうか?
僕からすれば、困難というより個人レベルの能力不足等の極めて
個々の不足論であり、屈するというより、未達の浅はかさと感じることがある。

自分としてどう努力、検討、創意工夫を行って現在に至るかに
自信を持つことなく、ただ、仕方なくそこにいるという感覚での
がんばれに何も気概を感じない。

気概を出した結果には
それ相当の経緯の説明が語れる、、そう物語になっているはずなのだから。

2010-10-18

厳格

規律や道徳にきびしく、不正や怠慢を許さないこと

たぶん、現代社会で足りていない人格要素だと思う。
なぜなら、厳格であることは他人に嫌われることが多い。

・融通がきかない
・厳しすぎて他人のことを思いやっていない
等の批判を受けて、現代社会から煙たがれる存在とされしまう。

他人のことを本当に思いやるのであれば、
厳格に躾けることや守るべきことを守らせることが一番重要だと思う。
甘やかしているだけど、
善悪の概念が希薄になり、
自分=正しい
という思想になりやすい。

しかし、何が悪いかという厳格な躾がされていると
自分=正しい
から
行為=正しい、やばい
という認識になる。

善悪は人間ではなく、より細分化された行為に宿る。
その基準を身につけさせるために
厳格な躾があるべきだ。

2010-10-15

図書

本、書籍と並んで現される、著作物への呼称。
主に図書館という表現の一部で使用されることが多いので
図書館、、公共施設所有の公共閲覧書物として捉えよう。


僕は図書館の本では内容を理解したとは思えない。
なぜなら、書き込みやラインが引けない。
つまり、自分の意見を見出すことができないからだ。

僕の中での読書行為は
相手の意見を聞くことではない。
そもそも、僕自身、相手の意見を聞けるタイプではない。
でも、読書行為に感じることは
相手から自分の欲しい情報が見出せるかもしれないということであり、
僕の中では、ウェブサーフィンも読書の同種の位置づけである。

そして、自分が使えるかどうかまたそれがどういうものを考える上で
書き込み行為は必然となってしまう。
ウェブならば、ブックマークやコピーペーストによる編集が可能だが
いかんせん書籍になるとなかなかできない。

だから、借りてきた本を写本するわけにはいかないので
借りずに購買することにしている。
購買することで、市場経済が潤うと思えば
図書館利用より社会貢献度があるともいえるし、
購買した本、書籍は大概、身の回りのものたちに書き込みの上
渡してしまう。
あたかも自分の見解の理解をさせるがためにである。

図書館という概念から
反面教師のように感じているのは
情報は受けるものではなく、
取得、加工、発信するものであるべきだと。

2010-10-14

無法

ルールがなくて、統制されていない状態のように感じるが
実際の無法とは、現代社会そのものかもしれない。

例えば、
明文化されていなく、識字率の低い部族においても
村の掟、村長の判断は絶対であるというところを
無法地帯だろうか?

対して、
法律があるどころか、無数に存在するだけでなく
多くの条文に但し書きがあり、それぞれの個々が
己の主張する条文をもって争っているところが
法治社会といえるだろうか?

王権神授の脱却から
社会契約、条文主義で形成されてきた
近代社会思想もそろそろ
変革期なのかなあって思うことが多い。

法が人の都合よく解釈されるようになり、
自然法の概念が破綻して来ている以上、
人が他人と生きる社会についての枠組みを
進化、再構築することくらいの気持ちがいるのではないかと思う。

だって思う。
国家というレベルでなくとも
会社
コミュニティー
ボランティア
の社会構成体において
多くの話のネタは、統制者、統制機構への愚痴と反感しか聞かない状態なのだから。

2010-10-13

謝罪

ある事件で
カトリック教徒である遺族が
犯人からの謝罪を拒んだという記事が
普通に書かれていた。

この世から、謝罪の必要性はなくなったという僕は感じた。
決して他人を許さないということが
社会的、宗教的に当たり前になってきた顕れである。

カトリックなら、
「左の頬を叩かれたら、右の頬を出す」
という罪を憎んで、人を憎まずの博愛の精神を
拠り所にしているはずなのに、
今回の事例から、人を憎むということが当然のように行われている。
精神のよりどころである宗教の思いはどこにやら。。
また、記事としての扱いもその宗教性、犯人の罪悪感より
事実の面白さに追求したエンターテイメント性への執着になっている。

謝罪という行為は、個人の思いではない。
社会として謝罪行為を受け入れて
それにより、社会の自浄作用を高めることが
有るべき姿である。

謝罪行為に尊きを置く社会、組織でないと
人は間違うことができない。
いや、間違いを認めないし、認めるわけにはいかなく。
それが現代かもしれないが、
僕は謝罪を認めあう社会、組織でないと
罪の重さ、更正の必要性により
全体の自浄作用がなりたたないと思う。

少なくても、社会の流れがどうであれ。
自分の管轄するところでは
謝罪に重きを置き、個々の自浄作用を高めていくようにするつもりだ。

2010-10-12

車格

車の排気量、ボディーサイズ等から
ナンバープレートの格付けで分類する基準。

昭和のころまでは
それにより、社会的ステータスを暗喩していたくらいものであったが、
自動車価値の変化、
所有する目的が用途に特化しはじめたり
都市交通の発達で必要性がなくなってきて、
現在では、社会的ステータスとの紐づきは薄れつつある。

だから、
軽車両と大型外国車において

軽車両からすれば
「大きいのだから、道を譲れ」

大型外国車からすれば
「軽のくせに、どけ」

と対等に言い合うが、それぞれに理があるように感じる。

僕個人からすれば、
大型外国車は所持に多くの税金を払っているのだから優先されていいと思う。
それゆえの車格による税率だと思うが、、、
現在の日本の個人主義、狭量の庶民レベルでは
そこまでの論理展開は難しい世の中だと感じているので、
議論もできないのかとあきらめてはいるが、、

2010-10-08

同義

同じであるということ。
同義である立証をするということは
状況にもよるが、ブレイクスルーになることもある。

多くの場合、
それぞれのものが独立、別個であるという認識である。
対して、別個、相手と違うと思っているものを
同じであるということはかなりインパクトがある発言になる。
だからこそ、同義とされる場合に
その認識から新たな共感性、共通状況をもとにいろいろと考えれるようになる。

2000年代までは
個別、カスタマイズ化で
個別の付加価値をつけることを求めてきたが、
最近の傾向はデフレもあいまって
同義を効果的に考えるような思想が強くなってきている。
同じであることに
自分のアイデンティティーを否定される嫌悪感もあるだろうが
同じとみなされてしまうこと自体に
その事実が客観的にみて、大した付加価値を有していないこと
何を持って同じとされるかのポイントの把握をもって
同義の効率化
オリジナリティーの再定義が必要になるだろう。

2010-10-07

寄付

善意をもって慈善団体に見返りなき金銭譲渡が寄付とされるが
それはこの時代においては責任放棄、慈善より偽善と感じる。

あるべき姿として、
その金銭の使用細目、運用実績を指示してこそ
市場経済においてもっとも効果的であるといえる。

慈善団体が必ず善人だろうか
慈善団体が善人としても購買先が市場価格を提示しているか
この情報は寄付後のトレーサビレティーで追うことができない。
いわば闇になることが多い。
善意なのに、闇であるという言葉遊びになりかねないような
実態はいかがなものだろうか?

市場経済を考えれば
寄付より、
その金銭を使って
有効需要を創設することに投資することこそ
有益である。

寄付するくらいの富を得る才覚があるのだから、
その寄付予定金を使って何か経済をまわすことに
知恵を使うべきである。

お金をだしたから、という認識には全くありがたみも価値もないといえよう。

2010-10-06

迷惑

迷惑をかけるという概念は主観なところが多い。

自分では相手に迷惑をかけていると思っているときは
実は相手は迷惑という認識ではないことが多い。
対して、相手から迷惑を被っているときは
相手は迷惑をかけている認識がないことがほとんどである。

迷惑であることとは、
他人の権利に抵触していると考えることができるが
ある意味、自分の権利の正当行使をしていると思い込むと
自分の行いが迷惑とされることが迷惑と捉えることにもなる。

そう捉えると
個人の尊重、自己主張を通すという
あたかも自由主義的な発想は
いかに他人に迷惑をかけられるかっていうことにもなる。

まさに
「勝てば官軍」
自分の思いを突き通せば、結果それが是となる社会かもしれない。
いや、そもそも歴史的に考えても
迷惑を根拠に自己主張してきた強者が社会を作っていることを考えると
迷惑をかけないという発想すら、
弱者として押し付けられた論理なのかもしれないと思うことが多い。

2010-10-05

指導

「こんなところから指導しなくてはならないのか!」
という言葉が出る組織、
それは既に組織として機能が破綻している。

多くの大手企業は
十分教育されていているはずの新入社員を
数ヶ月かけて新人研修を行う。
あたかも、何も知らない人間のように。

そこが日本企業の強さだったかもしれない。

確かにそれ相当の学力がある社員を入れたかもしれない。
しかし、それはそれぞれ個々が会社の利益とはまったく別の分野で
違う価値観の先人の教えで修めてきたものであり、
会社、企業からすれば、その組織色にあった価値観に
再指導をしなくてはならない。
学生時代できたから、優秀ではなく、これから、そしてその組織内で
評価されるべき行動をして始めて評価されるのである。

大きく言えば、会社、企業の粒度だが
最近の社会的稼働状況からすれば
チーム、プロジェクト、タスクフォースという
極めて細分化された組織体においても
指導が必要である。

一から指導するということは面倒というより
教育と同じ、洗脳行為を施し、
構成員においての共通価値での成就を狙うべきである。

2010-10-04

否定

日本では、
ネガティブでよくないイメージをもつ言葉かもしれないが、
僕は思う。
否定こそ、自我の表明ではないかと。

否定すると言うことは、
定まったことへの異を唱えることであり、
少なくても、そこに2つの見解が存在することになる。
否定される見解と否定する見解とである。
(否定するが、その根拠がない愚は対象としない)

そして、否定する側に立っている時点で
自分の見解が存在しているといえる。
否定しなかれば、その存在はいてもいなくていい存在とみなされることになる。
定説とされる側に意思を持っていようが、埋没されるのだから。

スキルアップ、地位アップという
自分としての存在の向上を求めるならば
まず否定する立場を前提条件で考えてみること。
それにより、
否定すべき、自分の思う見解が解るし、
もしその否定より肯定になったしても
より深い考察から、今までの見解より磨かれた見解を自論として持つことができることになる。

肯定して考えることでは、
付加価値、自己存在の優位性は見出せないのである。

2010-10-01

忘物

忘れ物をするというのはどういうときだろうか?
ふと考えてみる。

出かけるときに、服を着忘れることはないだろう。
靴をはかずに出かけることもないだろう。
目が悪い人がメガネ等のかけずにでかけることも少ないだろう。
でも、筆記用具や書類等は忘れてしまう。

これは、たぶん出かける寸前に
今の自分に必要なものを自分の理解できる範囲で考えてしまうからである。
そうなると、出かけるのに必要のない行為、ものはついつい忘れてしまう。
ちょっとこの先のことを考えれば、
忘れていることに気づけるのだが、
出かける際の慌ただしさで忘れてしまう。

その対策として、僕は習慣づけが重要と思っている。
出かける前に、出かけ先での行動の考えてみる。
そうすれば、その行動に必要なものが見えてくる。

ほんのちょっと、次の行動をシミュレーションすることが
重要なのではって感じている。