2009-08-31

刹那

非常に短い時間であるさま。
しかし、その刹那的な時間でビジネスは動いている。
コンピュータ処理の世界での高速化と思ってしまうかもしれないが、
それと同様、それ以上に人間間の交渉にもその刹那は意味を持つ。

こんな高速、性急な行動が必要か?って思うかもしれないが、
本当に性急に答えなくていいだろうか?
いろいろな問いに対して、
「ちょっとお時間をください」
「持ち帰って検討します」
という回答より、即時対応が相手の要求に応えることになるといえる。

刹那に応えることで
即時対応してくれた場合の対応により、
新たなビジネスチャンスの芽がでたり、
相手側は実施される前提で待っているのに、検討結果、拒否された場合の
時間的損失により、すぐに拒否して別のアクションを取ることによる
商機の流動、変動をえたりと
得られることは多い。

思うに、
高度情報化、移動、伝送時間の短縮を考えれば
いろいろと検討するという行為より
アクションおよびそのリカバリをどれだけ多く実行できるかが
現代ビジネスの主務ではないだろうか!

2009-08-28

筆記

文字に書きとめること。
IT化が広がってきているために、
長めの文章を直筆で書きつづることは激減してきたが、
筆記する行為自身はなくならないことは身の回りの
文房具を見れば明らかだと思う。

僕の恩師の一人の教えの言葉に
「現代人は思考するときに文字を介しないと何事も考えをまとめられない、
 だから、言語の教育は重要なのだ」
というものがあり、とても感銘を受けている。

最先端のIT知識、実活用を心掛けている僕の傍らには
お気に入りのシャープペンとクリップで留めた裏紙メモが必ずある。

IT等の技術を駆使して新しい価値を考えるには
そのIT技術だけを触っているのではなく、
その技術をオブジェクトと捉えて、どう活用するかを
図や文字で検討する作業を介しなくてはならない。

それはやはり、ペンと紙での書きなぐりが一番安易かつ効果的って感じる。
だから、逆に思う。
PCの前にだけ向かって、アイデアが浮かばないって発言する人間って
本当に思考しているのだろうか?ってことを!

2009-08-27

悪名

経営者は悪名高き存在になって行かざる負えないと思う。
いい社長は、どうでもいい社長になるだろう。

現場の活動をしている社員からすれば、
いい経営者より悪名高き経営者のほうが必要なのである。

・現場の活動への厳しい監視の目
・社長にひと泡吹かせようというチーム体の結束力
・顧客と交渉する際の憎まれ役

を経営者にすれば、会社全体としての活動力は高まるといえる。

人に好かれる経営者は理想だし、
その経営者にあこがれて会社に入ってくる人材もいよう、
しかし、いつまでも経営者で有り続けることは無理だし、
あこがれて入ってきた社員より、
相対的に経営者のほうが高齢だから年次ともに先にいなくなるのは
経営者のほうだ。

僕自身はカリスマ経営者になれる器ではない。
しかし、僕の悪名が高まる分に比例して、
組織、仕組みとしての丈夫な会社づくりはできると確信はして、
それに努めているつもりだ。

2009-08-26

恐怖

恐れおののく感情であり、現代人が一番欠乏している感情。
人間は恐怖を感じ、それを克服するために進化をしてきた。
つまり、進化に関わる必要要素である。
また、その恐怖のために、個人よりも集団、組織として一致団結して
ことにあたることもしていた。

現代において、恐怖が多く取りさられてしまった。
ある意味、恐怖を取りすぎてしまった。
そのゆえ、おおくの人間は気づかぬうちに
恐怖の感情が薄れている。気が抜けている状態といえる。
だから、進化も薄く、組織的行動もできない社会といえる。

僕は思う。
成功報酬だけでなく、逆に失敗賠償もあると思う。
願望に応えるだけのモチベーションだけでなく、
恐怖からの緊張感もまた、人が動く要素だから、
人道的ではないという批判もあろうが、
人としての恐怖からの克服を意識して動くことのほうが
どれだけ人間らしいことかって逆に批判を批判する気持ちに満ちてしまう。
必ずしも、いいことだけをいうよりも、
嫌だから脱却しようのほうが、達成感はあると思う。

2009-08-25

野党

政党政治において、政権を保持していない側の政党。
時事ネタはあまり記述したくないのだが、
気になるので挙げている。
「責任ある野党として、、」
という選挙演説を聞いて、すごく違和感を持つ。

政党の本分は、国民の意見の最大多数の実現のための集団であるべきであり、
その目的は与党になることである。
その与党になるための大きな行動が、国民に選ばれる選挙である。
その選挙において、与党にならず、野党を目指すという発言はどうか?
確かに、規模の論理で過半数を取れない事情はあるが、
それであれば、今後どうしていくか、いつ、どのように与党になろうとしているのか?
そのような施策がないまま、責任野党という形に満足している選挙戦に感じる。

この発想が、日本の悪い形だと思う。
結局、小さき者は大きくなるのではなく
大きい存在にちゃちゃをいれることに満足している。
本質としては、新しい息吹だからこそ
小さき者であるはずなのに、
選挙もそんな動きをしているのだから、
今の日本は選挙では変わらないっている。

自分たちは自分たちで、この事実を覆していかなくてはならないと感じる。

2009-08-24

報道

あるニュースの内容は

 とある日本企業のトップは
 莫大な報酬をもらわず、
 社員食堂で社員とともに食事をしている
 とても理想的な経営者である。
 とのことが、外国のメディアで放映されています。
 実に誇らしいことです。

だった。
はっきり言えば、バカすぎる内容だ。
これは報道としては愚かなレポートだ。

・このニュースソースをまとめたのは
 従業員である記者であり、そのニュースどおり
 自分の会社の経営者はふるまうことはないだろう
 他人事だから、こんな記事になるといえる。

・外国メディアの報道をあたかもの自分のネタとして
 かつ、これまた他人事のように誇らしく思うというか
 そのニュースを流す会社の経営者がそれをするかどうかには懐疑的だ。

情報が多く飛び交う、
高度情報化社会において、
今までのマスメディア企業は
報道に付加価値をつけようとして、
あるべき情報を湾曲させていることが多い。

速さ、正確さをその価値として問われる報道が
現在ではその価値を見失いつつある。
だから、付加価値をつけているようだが、
そのれは蛇足になっているようである。

このようなマスメディアの報道が盛んゆえ
各種業務報告の内容が、報告と所見が入り混じり
ゆがんだ情報になっているといえる。

高度情報化が進んだゆえ
個人が発する情報がゆがみだしている社会悪化、
それゆえ、企業活動が停滞、劣勢になっているのが今かもしれない。
精神的な公害ともいえると感じる。

2009-08-21

事件

世間ではいろいろな事件が起きているとされるが、
それは間違いといえる。
現代の我々は、事件の情報を知りすぎているのだ。

人権意識による個人特定
技術、産業の趨勢による高度情報化、マルチメディア化
により、見る側、送る側においてコンテンツに事欠かない。
100年も前であれば、
事件という概念でなかったものが
コンテンツとして、取り上げられて報道されている。

正確な情報が取れないからこそ、
断定はできないが、人口と現在事件とされる事象の割合は
そう変わらないと思う。
ただ、その事件について、情報伝播の速度、解明の論理性は
全く異なる勢いで現代社会に現れている。

例をあげれば、
江戸時代、餓死、孤独死は事件ではなく、処理のレベルであった。
飢饉等による日常性や死因の主流だったし、
そのことをかわら版に乗せるコストに見合わないからだ。
しかし、現代では餓死をすれば、全国区の報道にのるだろう。

死体なき消息不明は
神隠しという、人智を超えて存在の力として扱われたりしていたが、
現在は失踪宣告、捜索願がまかり通る。


一面、社会互助の意味合いではいいことだと思うが、
その分、社会迷惑、社会体裁を考えれば
いらぬ情報が出回ってレッテルになることも忘れてはならない。

ひっそりと終(つい)を迎えたいのに、
社会に取りださされて、挙句に「社会に救われたくせに」
なんて言われるこの社会。

価値観にもよるが、
事件に振り回される社会が正しいとはあまり感じていないし、
自分としては、自分の周りがそんな情報に踊らされないように
心掛けることを常に促し続けないと、自己存在が見失われるのではないか感じている。

2009-08-20

使役

他人に何かをさせること、
使役と我慢は対になっていることを理解しているだろうか。

我慢はするものではなく、使役させられるものである。
我慢という言葉の用例を思い出してみよう。

「我慢しなさい」
「それくらい我慢しろよ」
「僕が我慢さえすればいいのだ」→ 自分自身にさせている表現

すべて、使役の上で成り立つ。
我慢はするようにみえて、させるもの。
使役をどうするかである。
だから、よーく考えてほしい。

我慢のさせ方で、その人の評価が逆になる。

やっていることは同じ多くの人民に我慢を使役しているが、
自覚して使役するものは、為政者
無自覚で使役しているものは、悪政者
となるわけである。

過去の歴史、自分の周りを見渡せば、おのずとこの事実が理解できると思う。
別に政治でなくても、振る舞いを見れば、
本当に無自覚に使役している愚者が多いこと、
そして、本当の意味でうまく立ち回っている人をよく見れば
部下たちや周りの者たちに、かなり厳しい使役をしていることが伺えるではないか。

2009-08-19

互換

互いに取りかえること。交換すること。とされるが、
今の主要な意味は、指定された環境でも最低限の性能を出せることといえる。
国際化、仮想化、仕事の細分化、価値の多様化によって、
能力(人、物)が汎用的では示せなくなっている。
つまり、一般条件といわれるものが示せなくなっている。

この能力は、特定条件においてはこれだけ出すことがでいる。
そして、別の条件ではまた検証が必要である。
と示されることが主流になってきている。

なんか面倒な社会だなあって思ってしまうが、
この背景にはPL法のような、提供側の責任を声高に訴えてきた結果である。
互換を保つということは、
その条件の使用において、
提供側がその動作保証、強いては損害賠償を負うことになるゆえ、
提供側としては、それだけの自信をもつ条件でないと提供できなくなってきた。

僕は思う。
互換の保証なく、安全性、確実性にばかり特化した社会って
資本主義、自己責任ではなく、
社会主義、社会責任で、
個々のチャレンジを社会として受け止めないから
新しい息吹をつぶすことになっているのではないか、
だから、技術発展しないのではないかって感じる。

2009-08-18

兵站

戦場の後方にあって、
作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関のこと。
こう表現すると、身近ではない言葉に感じるが、
英語でいうと、logistics つまり物流の意味である。

社員に兵站につて説明した。
なぜ説明したかというと、
いくら個人が優秀でも、その個人の能力を出させるためには
それに見合う、身支度、腹ごしらえ、等の間接支援がなくてはならない。
その間接業務を怠る者、組織に未来はないということを言いたいがためである。

個人能力主義が横行して、
いかにも個人でなんでもしなくてはならないはずなのに
間接部門を軽視して、当たり前に要求してくる。
そんな個人能力主義ならば必要ない。

自分のベストを保つために、
間接部門にコストを割くことをいとわない
そんな価値観が組織や個々を強くすると思う。

名人は道具と大切にする。
道具とは、道具自身では結果を出さない間接価値しかないが、
その道具と職人があいまって最高の結果がでる。
道具は組織という法人においては、
兵站であり、その価値を高くみなす組織にしたいものだ。

2009-08-17

反省

過去の自分の言動やありかたに間違いがなかったかどうかよく考えること
と定義されている。
このレベルであれば、共通認識を僕も持つこともできる。
しかし、一歩踏み込んだレベルだと庶民レベルと
異なる方向になるかもしれないと思っている。

反省における’間違い’の認識だが、
庶民や良識とされるのは、
社会と自分との比較で、自分に否があるとするだろうが、
僕自身は自分より、社会の愚かさに感じている。
反省を社会に対して同じ過ちをしないように思うのではなく、
社会に対して、どう仕返しをしてやるか、
そう思うのである。

実はこれは、文章にすると極めて過激に読み取れるが、
多くの庶民が気付かず行っていることにすぎない。

「最近の若者は!」
「一般常識もわからないのか!」

って口にしている時点で、
自分の認識が社会であるという思いそのもの現れである。
自分の思っていることこそ、社会である、つまり自分=社会となり、
反省をするのではなく、させる側にいるではないか。

僕はその感情やその思いに忠実に従っているにすぎない。
そもそも、社会は人間が作ったものであり、
社会をよくしようと反省するのであれば、
それは社会を自分の意思で変えていくという論理が順当である。

他力本願のくせに
自分の理想を掲げることなく、
自分の思い、それが仕返しであっても
社会を変えている意味での反省のほうが
前向きと思えてならない。

2009-08-14

選択

選ぶこと、
世間では、選択の自由というか
選べることの重要性を声高に言うが、
その選べる選択肢を準備する苦労について、
実は庶民レベルは意識していなく、
結局、選ばされているということを自覚できていない。

選ばされることは悪いことではない。
むしろ、選ばせる側の知恵と努力に敬意を示したい。

自分の好みを選んでるという言葉は
自分の好みをアウトソーシングさせている
と同義であるのが現代社会であるといえよう。

選ぶ自由より、
選ばせる工夫を
どれだけ提案できるかどうか
そこが企業として、成功者として
現在社会で地位をあげていく要因だと思っている。

2009-08-13

自負

自分の才能や仕事に自信をもち、誇らしく思うことであり、
今の庶民に全くない心情だろう。
すべての事象が、画一化されていて、
他人と異なることが間違いとされる。
いくらその技術を誇っても、その技術においてもっとすごい存在が
簡単に検索、発見できてしまう情報網の整備。
それが、庶民を画一化させた存在にしている。
そのくせ、自負はないが個性を訴える、愚かしい社会とも映る。

自負に値するものが他人より秀でているという概念ではなく
他人には全くないもの、ナンバーワンではなく、オンリーワンを
求めて行動できないものだろうか?

他人から理解できないから怖いのではなく、
他人が理解できないのならば、
その事象から得られている自分の幸福度を示せば
その事象がオンリーワンにみえていくことになるだろう。

そもそも、他人がすぐに理解できるものは
いろいろと後で模倣だの、盗作だので訴えられる。
相手のわからないからこそ、
自分オリジナルで自分を幸福にしてくれるもの、
そう、その価値を自らが負う、自負と言えると僕は考える。

2009-08-12

休暇

法定休日以外にとる非稼働日ととらえるべきであろう。
法律を遵守しなくてはならない立場でもあるが、
休暇というもの考え方が、社会悪ではないかと感じる。
休暇は労働者の権利とされるが、
その労働者の定義が間違っているので、
権利が濫用されているといえる。

労働者の定義は
雇用主に労働対価を買い取られている立場であり、
対価に見合う行動をしてこそ、その存在意義が認められる。
その認められた存在だからこそ、
その生産性を雇用主は維持したいために、
本来ならば対価相当の行為を求めるところを止めて
休暇というもんを与えるのである。
いわば、機械のメンテナンスと同じ発想である。
いろいろと異論があろうが、これが真の資本主義であり、
その本質を見誤っているから、高技術の職人、経営不振が発生していると感じる。

休暇は権利ではなく、
その対価を雇用主に認めてもらっている褒章ととらえるようにさせたい。
総すれば、休暇というものありがたみ、有用性を意識して活動するし
その休暇取得が労働者の目標にもあるのではないかと感じる。
事象のありがたみが薄れている現代社会だからこそ、
ある意味、当たり前を厳しくして、
その真の価値を体で再認識させる必要があるのでは
ないかって思う。

2009-08-11

帰省

故郷に帰り父母の安否を問うこと、
血族間の年次報告会と言えよう。

忘れてはいけないのは、
お盆の帰省ラッシュは日本発祥の行動であることを。
人間は神事祭事は家族、部族で行うことはともに生きているからこそ
それを分かち合うという意味だった。
だから、農耕民族は収穫期を基準に、年次で行うし、
狩猟、海洋民族はその猟(漁)の祈願、成功をもとに謝肉祭を行う。

日本は農耕民族系ゆえ、年次での行動が多い。
しかし、産業構造の変化により、
集団就職、都市への移住が全国民的におこり、
血族の分散、部族、集落の過疎化が顕著になった。

でも、血族、出身への回帰の念が国民感情的にあるので、
8月のカレンダーには明確な祭日がないのに、お盆休みとしての
帰省を慣行化して認めている。

これと同じ現象が、
中国の旧正月やアジア系において、
都市部への出稼ぎの方々に見受けられる。

考えてみれば、毎日会っていない状況だからこそ
帰省という概念が発生するし、
そのお盆休みという長期の休みを企業体として出すのは
集団就職で引きはがされた血族への恩返しという意味合いも
少なからずあるようなことを老舗の企業からお聞きすると
日本の企業にもそれなりの歴史があるんだなあって感じる。

2009-08-10

天災

自然現象によってもたらされる災害であり、
人間の進化の歴史は天災の回避そのものともいえる。
しかし、天災ってすべて人災ではないかって思う。
今の環境問題、つまり二酸化炭素問題とかの低次元の問題ではない。

そもそも、動物は自分の生きやすいように環境を変えるために
その変化の代償で災害の危険性を得てしまう。
地下に住むものは、陥没
木に住むものは、倒木
水に住むものは、濁流
と、そこにいるからこそ、災害を味わうのである。
しかし、だからといって別の環境に住むためにはそれ相当の覚悟と世代を要する。

人間は劇的なスピードで環境適用をしてきているから
その代償である災害のレベルが複数かつ致命的と感じられるだけである。

自然現象といいながらも、
そこに住んでいなければ
その自然現象は普通の事象にすぎない。
物の変化のひとつだと言える。

どこでも生きられるということは
どこでも危険であるとあるという
本能を人間は忘れている、、天災という表現に隠して、
ただそれだけのことと思う。

2009-08-07

自責

自分で自分のあやまちを責めることとされるが、
自分のあやまちの範囲をどれだけにとらえるかで
いろいろと考え方が変わる。

一般的なレベルだと
他人のあやまちと自分のあやまちを区別してしまうが、
自分に関わるあやまちは、他人でも自分のあやまちと
すべきと僕は思う。

相手を信用したこと
相手を選んだこと
相手に指摘しなかったこと

これすべて、自分ができていないあやまちであるといえる。
そのあやまちを二度としたくないがために、
相手を使役、制裁に至らしめることは僕の中で至極当然なのだが、
一般的は、狭量のもの、つまり自分のことまで相手のせいにするものと
結果的に同じみえてしまうかもしれない。

自責は自分の自覚、
他人から言われるものではなく、
自分の判断で、自分が自分であるために相手に影響、作用させること。
これって自由主義そのものの現代社会では当然のことだが、
どうも、社会全体として見失っている感がある。

2009-08-06

善悪

哲学っぽく聞こえるかもしれないが
世の中における悪とは、他人の善に他ならない。
自分が悪意を感じつつ行動し続ければ、
相手もその悪意に対しての対応に出てくれる。
良きにつけ、悪きにtけ。

しかし、自分が善と信じることこそ、
他人には悪そのものに感じる。

自分の信念を貫くことは善行だというが、
それは他人から見れば、社会性を無視した独断行為であり、
それを悪いことと指摘すれば、
善行をとっている本人からすれば、
その指摘こそ、悪意そのものと感じてしまう。

僕は根っからの性悪説論者。
もっといえば、善そのもの存在を理解していない。
善なんてものはない、生きているそれは他の生物への悪意そのもの。
だからこそ、いかに悪意を自覚して、
それを相手の許容にあわせるか
できないなら相手を屈服させるか
を常に意識すること、生きるということと思っている。

善人、いい人、それを誇りにするものの存在意義がわからない。
現に食するために、他の生物を殺生していることへの自覚はどう説明するのか?
仕方がないってバカな回答は、善行ではないだろうに、、

2009-08-05

発汗

汗をかく、
物理的な表現ながら、心理描写をさす表現である。
・冷や汗
・手に汗にぎる
・汗ばむ陽気
・汗になる
・汗の結晶
汗にまつわる表現は多い。

人間の心理は体温に影響し、
その体温調整を汗にて行うからこそ、
このような表現になるといえる。

今は夏ゆえに物理的に汗をかくことが多い。
しかし、ビジネスの山場は下期に向かう今が肝心と思っている。
夏の暑さの汗ではなく、
ビジネスの緊張感からくる発汗を楽しみたいものだ。

2009-08-04

風邪

いろいろと定義があるようで、定まっていない体調不良の総称かもしれない。
自分にとって、この風邪という症状は
季節に関係なく、一段落したときにかかりやすい、、
かかると言っていい。

逆に言うと、風邪をひいたときは
案件活動が終わったんだなあって感じる。

現時点、風邪がひどい。
ってことは、それなりに自分の役割を一通り終えたのかなあって
思える状況になってきた。

自分の体調と仕事の状況が反比例するような感覚で
あまりうれしくはないが、自分の体調不良で
案件の完成するなら、、人身御供になるのもある意味いいか、、って感じる。

2009-08-03

情緒

人にある感慨をもよおさせる、その物独特の味わい。
また、物事に触れて起こるさまざまな感慨。
となっている、、、では、感慨とは、、
心に深く感じること。しみじみと思うこと
となっている。
つまり、事象からおきる心の動きとでも簡約できよう。

この情緒というものは、
時代、社会変動とともに、変わっていくものであるのに
普遍的なものと思われている。
それは、使われ方が普遍だからである。

情緒という概念を口にする時には
概ね、上から目線でつかわれる。
年配や上司が、下の者を評価、揶揄するときに使われる。
だから、実際には年配、上司の主観でその意味を使っていている。
結果的に何年もその表現を使われているが、本来の意味は変わっていると思われる。
実際にその年配、上司が若かったことに、その人たちからみて
年配、上司と同じ意味で情緒を使用しているとは限らない。
いや、全く逆といえるかもしれない。
やっと自分の価値観で、相手のことを評していいという事実からである。

情緒は人の価値観、人の思いの現れであり、
他人からの評価を受けるものではないのだが、
目上の人間からして、使いやすいかどうかで
その情緒を指標にして話している現代社会に違和感を感じる。
情緒での査定は意味があるのかと、、、