恩ってなんだろうね。
恩を感じるのは主体、自分であるはずと同時に
恩を感じさせるのもまた行い手である自分である。
よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
共通、共用で使用できる言語。
日本人は公用語とされている英語を必死に勉強する、させる。
しかし、、英語圏の人間は義務教育で多国語を必須にするだろうか?
英語だと、、とか言うが
そもそも英語の言語性はどうでもよく
その言語を使っていろいろとしたいという覇権へのこびへつらいでしかない。
高次元に物事を見たら、英語なんか使わなくても
生きている、発展できる社会があるべき姿なのに
こういう高次元への検討を絵空事にみなしてしまう社会が
言語的支配を求めている事実に、、、、
まーこういう発想が哲学とみなされる空想とみなされるかは
その時の社会情勢でしかないのだがね、、
平和、コミュニケーションという価値観に支配された
言語至上主義で凝り固まっている今はなかなかか、、、
かゆいところ。
かゆみとは皮膚触覚において、異物がくっついている認識。
それを取り去ろうとする意識。
虫刺され、かさぶたは自分の皮膚が皮膚として機能しなくなったから
周囲の皮膚から異物扱いされた結果。
この認識は別に皮膚感覚だけではないだろう。
平時に比べて、変わっているものを異物として排斥する。
それがモノ、、者であっても。
だから、社会的差別やいじめになるんだろうな。
しかしだ、その扱いもこの社会いつでも反転する。
今の常識、未来の非常識、、
この社会的かゆみをいかに蔓延させる、、異物感を失わせるか、、
インフルエンサーって社会を人体に例えると
インフルエンザと同じように悪性病理認識されるが
将来的にはミトコンドリアのように溶け込むことを狙った行動か?