2013-07-31

難問

世の中には難しい問題が多い。
その問題に対して、多くの回答は、、、

昭和の時までは
「すみません、自分にはできませんでした」
現代は
「そんな問題を自分にさせるほうが悪い」
となっている。

この傾向は結構やばいと思っている。
何がやばいか、、
それは向上心と周囲への影響認識が非常に希薄であり、
社会全体の発展が停滞すると確信できる。

「できないことが悪いこと」
この認識はある意味、効果的だ。
だからこそ、できるようになる努力とできることへの憧れを触発する。

「出来なくて当然、そんな問題をだすほうが悪い」
というなると、今が正しい、改善していこうというしない姿勢は
全体的、相対的に低下を招く。

基本、世の中、、自然界は難問ばかりだ。
それに挑むことこそ、生きるということではないかといえる。
だから、
「そんな問題を自分にさせるほうが悪い」
って発言は、、自然淘汰してください、と等しいと思うのだが、
そういう発想を道徳的におかしいと指摘されることが多いが
そもそもその考え方のほうが、自然界的におかしいのでは?と感じてならない。

2013-07-30

電化

日本では原発問題でかなりイメージが悪くなっているが
冷静に考えれば、電化に進むことが人間の進化、経済成長になっているといえる。

電化の主なところは
発動機を電力にて賄うことであり、
電力にすることで、
・稼働の単純化
・燃料の運搬コスト
・扱いの安全化
を実現させている。

今の日本は論点がおかしくなっているが
電化を進めることは、悪どころか
日本の大好きなものづくりの根幹に関わる必須であり、
そこを否定するような各種意見ははっきり言えば
自分で自分の首を占めている愚行と思ってならない。

考えてほしい。
現在身の回りにあるどんなことでも
必ず電化の力に頼っているのが事実である。
電気を使わない生活って言っている人間がいて
水道水を飲み、道路の信号待ちをしていることは
電気とは関係ないって言い出している論理がまかり通っていた。
それだけ気づかないレベルまで来ている電化が進んでいる昨今を考えて
電化の重要性をもっと理解すべきだと言い続けたい。

2013-07-29

空転

何の成果もないまま、物事がむだに進行すること
空回りしている状態。

僕からすれば、
多くの議論が空転状態で無視すればいいと思うことも
・民意
・個人の尊重
という話で聞かなくてはならないのが現代社会と言われる。

多くの意見を聞きすぎて
何もできない、、
社会そのものが空転していることへの自覚はあるのかねえ。

意見を言うくらいなら、行動を起こせと思うことばかりだ。

2013-07-26

炭素

漢字の先入観でイメージを悪くしているものといえる。
逆に言うと、こういう漢字があるから
日本にカタカナが横行しているといえると悟っている。

炭素繊維、、
超高度磁器、

と言われると
炭でしょ、
磁器は磁器でしょ。
となるが

カーボンファイバー
セラミックス

といわれると、なんか凄そうに感じる。

漢字が象形文字のように
目に見えるものから連想してなりたっている。
しかし、科学技術が進歩すると
その目で見えていたものは実は違う、
もしくは別の効能があったときに
すでに名称が漢字与えられているものイメージがあるために、、、
あたかも違うものにしてしまうこと、、
それがオリジナル外来語のカタカナ表記であろう。

カタカナばかりの日本語になって
わかりづらいという声もある。
しかし、漢字の特性上
その漢字の成り立ちが今の科学技術の証明と異なることが多いための
ギャップとも言える。

まさか漢字を採用する際に
科学技術を意識、、そもそも化学の概念がなかったのだから
無理はない。

漢字に限らず、多くの言語が抱えている問題である。
既存の単語では表せない意味を科学が生み出している。
その乖離が大きくなりすぎて、、意思疎通が取れなくなっている。
もしかしたら、言語体系そのものを変革し無くてはならない時期になっているかもしれない。

2013-07-25

余韻

自己主張が蔓延する現代、
余韻にひたるという概念が薄れてきているなあって思う。

それに対して、2つの意見がある。
一つは
他人の言動に重みがない、全然記憶に残らない
もう一つは
自分のことで精一杯で他人の言動を理解する隙がない

どっちもどっちで、人間としてゆとりがなくなっていると感じる。
情報が多すぎて、、、個々人の処理能力が追いついていない
つまりは、考えていないレベルのことが多い。
考えているつもりでも、、それは処理をしているということに他ならない。

余韻にひたるということは
ひたるのは自分であり、そのきっかけが他人の言動である。
相手のせいに、、もっと言えば、古人、むかしの作品に目を向け
それから受ける思いを素直に思い、考えることが
余韻にひたるという思いではないだろうか。

少しでも余韻にひたる時間をもつことは
きっと心のリフレッシュ、次のアイデアの源泉になるのでは
常に思い、古書などに手を伸ばす今日このごろだなあ。

2013-07-24

新興

日本近隣の国が
新興勢力として、国際市場で羽振りをきかせている。
日本人としては、それを揶揄する人も多いが、
考えてみれば、日本がバブルの時に
・有名な美術品を多く落札
・海外の不動産を買い漁り
を行なっていた。
その際に、欧米諸国のメスメディアはちょうど今の日本のような感じで
・ジャパンバッシング
をしていた。
・敗戦国のくせに
・今までの経済援助を仇で返すのか
という論調でまさに今の日本のような感じだった。

ある意味、
盛者必衰、
新しい息吹がおきると
今までの息吹は、、新興勢力を批判することでしか自らの存在維持できないのか、、
歴史は繰り返されるという良い教訓かも
だからこそ、日本にやられ、そして今の新興勢力にもとなっている
欧米諸国の振る舞いを、真似る、反面教師にする気持ちがとても重要といえる。

2013-07-23

定義

突然だが
メンチカツというものをどうカテゴリしているだろうか?
メンチカツはメンチカツと言い張る人は、
知的考察力をもっと鍛えたほうがいいという前提で記そう。

幼少期、当時の肉屋でコロッケとメンチカツを買っている時に
母に尋ねた
「コロッケとメンチカツは見た目が同じだな」
母は
「中身にじゃがいもを多く使っているか、お肉を使っているかの違いなの」
って説明された。
自分では、コロッケとメンチカツは具材の違いで製法は同じって理解した。

ところが、
小学校の友人の家で食事をごちそうになった時
市販のハンバーグに衣をつけて揚げていた。
それをメンチカツとして出された。
自分の中ではショッキングだった。

自分のコロッケとメンチカツの定義ではなく
ハンバーグとメンチカツというものが出てきて
具材はほぼ同じで、製法が異なるという点だったからである。

VS コロッケ
VS ハンバーグ

でメンチカツの定義は異なるということを強く理解した。

同年代の小学生では
「お前の家の料理、間違っている」と言い出すことが多い社会だが
僕はその事実を自分の中で、定義の違い、それが各家庭、個性になることを悟っていた。

たかがメンチカツであり、多くの人は物事を一義に考えるが
比較対象の存在があればあるほど、
いろいろな定義に変わるし、、しいて言えば、
自分の定義なんて氷山の一角のようなものでしかないと思うべきだろうな。

2013-07-22

面白

面白いことってなーーんだ?
言葉で説明出来る人は少ないだろう。
楽しいこと、
ワクワクすること
、、、なんかちょっと違うので?

ある人が最適なことを口にしていた。

面白いとは
未だやっていないことをやってみること

だそうだ。

これって正解だといいたい。

面白いことを期待するということは
曖昧なイメージ、、、つまりは未だわからないことを思っているといえるからだ。

面白いことをする
それってチャレンジ、冒険だと思う。
現在の効率化、リスク回避、経験重視主義の現代社会。
だから、面白くない、つまらないって言い切れる。

面白いことをする、させるような環境づくりが
今の僕の使命と思ってきた!!

2013-07-19

名誉

価値があると自他共に認め、それを自らの尊厳、誇りと見なすこと。

だった。
僕から言わせれば、
名誉 という言葉はすでにその意味ではない。
今は

現役ではない

という意味と言い切れる。

名誉会長
名誉教授
名誉市民

と今まではそうであったが
今はその威光の残りで生きている。

僕としては
名誉~
になるくらいなら、死んで評される方がいいと思う。
それが本当の人の価値だと思うからだ。

2013-07-18

神話

英語で言うと、mtyh
そのmyth の意味は
・神話
・作り話
つまり、神話とは人間の創りだした作り話にすぎない。

有名なギリシャ神話は
ほとんどといっていいほど、
ギリシャでは作られていない、
後付けでギリシャ神話になり、今日に至っているそうだ。

そんなのギリシャ神話ではないという人がいたというが、
そもそも、作り話に真偽があるだろうか?
そこに論点を当てる愚行はあほらしい。

問題は、なぜギリシャ神話が作られ
そして、なぜギリシャ神話のカテゴリに後付けまでしてきたかということ。

要は
統治論、
正当性の立証、
神という存在を認識させて、
自分たちが王権神授の名のもとに行なっているといいたいがため、
日本の古事記もまた然り、、

神話、、
一番人間臭い自己満足の書にほかならない。

2013-07-17

桉樹

何て読むか?
答えはユーカリ。
日本では、コアラの食事で有名な植物と言える。

とても生命力が強い植物で
葉っぱには本来、毒素があり、
通常の動物では食用できない。

コアラはその葉っぱでも特定の新芽のみを口にして、
コアラ特有の腸内細菌で毒素も含めて分解して、栄養を取っている。

もともと、コアラの先祖は他の食料を取っていたが
生存競争の結果、ユーカリの木の上に追い詰められたとされる。
それゆえ、ユーカリの新芽しか食べない生活になっている。

しかし、考え方を変えれば
生命力がつよく、オセアニアの4分の3を占める植物
その葉は毒素があり、他の動物では口にできない。
その新芽をうまく食べて生活しつづけるコアラは
ある意味、食料問題をオセアニアで一番克服した種といえるかもしれない。

人間側の視点に立てば
追いやれて、ユーカリの木の上ととらえているが
視点を変えれば
安全な天国で自分しか食べられない食料を好きなだけ食べられる生活を
謳歌しているということもできるのでは?

要は、受け取り方、考え方、それだけの違いにすぎない。

2013-07-16

換気

夏冬問わず、
室内の空気と外界の空気を入れ替えることを
社会は推奨している。

外界の新鮮な空気、、、
はーーー?
考えてほしい。
室外機にて部屋の空気を外に出している。
ある意味、使用済み空気だ、
それが各家庭、それも密集している日本において
外の空気とは、自分も含めて
室外機にて出されて使用済み空気に満ちている。
待機全体で考えると微々たるものというが
近所の室外機から出ている空気の密度は近いほど高いと言うことは
小学校の理科の撹拌の実験でも明らかなことだ。
また、微々たるというが、
フロンガスなんて本当に微々たるものと言えるのに
オゾン層を壊してたと言われている社会において微々たるものといえるのだろうか?

日本人の多くは
こんなに世界で誇れる浄水されている水道水であっても
飲料水を買っている。
では、それ以上に浄化されていない空気を
換気をすることに抵抗がないのか?

換気に比べたら
水道水は本当に浄化されているとつくづく感じる。

2013-07-12

蜻蛉

何て読むか?

とんぼ
かげろう

どっちも正解である。
しかし、トンボとカゲロウは全く別の昆虫である。
違うのに同じ。
日本語がおかしい、、、、とは言えない。

たとえば
蝶と蛾という表現。
英語では butterfly and moth だが
フランス語では papillon と一つになる。
蝶と蛾を明確に分けることに意味を感じていないからだ。

また、
鷲と鷹と大きさで日本では区別するか
英語では
eagle
hawk
vulture
condor
falcon
と5分割していた。

言葉とその科学的解析が必ずしも伴っていないゆえ、
見た目やそのありようで、同義、区別は人間の主観でされる。
もっとも、科学的解析もある視点での人間側の勝手な判断でしかすぎない。

正しい言葉を使うとして
それが科学によって覆されることもあり、
いろいろな意味で正しさというものは今一瞬のことでしかないのかも?

2013-07-11

表現

「お前は記憶違いをしている」
と発言されることが多い。
が、自信を持っている僕が正しいといえる。
そのくらい常人ではない洞察、記憶をしているからだ。

その分思う。
当時、その人の思っている認識と僕の思っている認識とが
少しでも齟齬があるとそうなるだろう。
つまりは、相手が僕である受手の理解への遊びがないからだろう。

例えば
「よかったよ」
と表現をその雰囲気で理解したつもりで
自分は素直にその言葉通り理解しても
相手は皮肉で言っているが、それが僕に伝わらない表現力だったとき、
その言葉通りの記憶でも
相手は後日
「よかったなんていっていない、記憶が違うぞ」
と平気でいいだす。

人間は表現と思いが必ず一致しないという前提が必要。
そして、思いが表現を凌駕するので
周りの認識と自分が合わないと、自分の言っていることが通じないというストレスを受ける。
日本の教育では
国語や現代文の授業をあれだけやってきて
結局は心情の読み取りなんてできない無駄な時間だったと思うと同時に
自分の心情と表現の齟齬を前提に考え
相手の表現をそのまま理解しながらも
また、自分の表現も理解して
相手がどう受け取ったかの反応を経験として蓄積してその人の傾向を掴むしかないと思う。

だから、記憶違いなんてことはまず無いだろう。
それは、相手の表現が心情と連れているというであり、
その人の表現力のなさか、心情が僕の理解できないところにあるということで
僕はその経験を蓄積して、他人との接し方の考察を深めるしか無いとおもうだけである。

2013-07-10

稽古

多くの人は練習すると同義に感じているだろう。
しかし、この熟語を紐解くと、、、

稽:考えるの旧字
古:歴史あるあらまし

つまり、稽古ということは
歴史的に積み重ねてきた行為を自らで考えて行う
という意味である。

だから、稽古をする条件として
・歴史ある行為を今に伝える存在
・それを自分なりに解釈しようとする存在
という2人格が必要である。

伝達媒体の多様化で
伝える存在が必ずしも生の人である必要はないとされるが
その媒体に映す元は必ず生きた存在であることは変わりない。

稽古とは練習というより
継承であり、それをどう今の時代に合わせていくかということを
考えることが必要である。

稽古をつけるということは
伝承させること
自分なりに解釈すること
のふたつが成り立っていないとならない。

ふと思う。
現代社会って稽古をつけるという行為そのものが
なくなっているといえるなあ。
これって、
効率化、
それともコミュニケーションの希薄化
いや、両方ともであり
なるべくしてなった結果そのものだといえる。

2013-07-09

敬虔

やまいつつしむ気持ちの深いさま。特に、神仏を深くうやまい仕えるさま。
日本人の多くには馴染みがないが、
世界中では、敬虔ではないことのほうが異常とみなされる方が多い。
これが日本人の大きな世界観の過ちであり
英語を勉強する以前にこういうことを知るべきだと言える。

日本人が思う以上に
世界では神の存在は絶対かつ身近である。
それゆえ、発想が逆であり
敬虔ではないことのほうが理解できないとみなされる。

例えば
休日に仕事をすること、
僕個人としては許すことにしているし
日本においては問題意識すらない。

しかし、神からもらっている祝日に働くのは背徳であるし
拝礼にもいかないのはどうかしているとみなされることが多い。

だから、日本基準で納期優先とかの名目で
フル稼働を要請するのは、国際的に間違っている認識とされることも
考慮するべき事案である。

国際化といい、いろいろと語学、世界情勢などの知識、技能を身につけても
他国の<常識>、日本で言う敬虔が当たり前ということを理解できないからこそ
国際的な成功が難しいといえる。

そもそも、こういうことを考えれば、無駄な国際化が
それぞれの国民の信仰の自由への弊害となぜ世界社会が気づかないか
不思議に思うレベルである。

2013-07-08

身長

人は大きなってきている。
統計的な情報でそう言っている。

本当だろうか?
もし本当なら、、歴史家の今までやってきた研究は無駄になるだろう。

戦国時代、
身の丈八尺の大男

鎌倉初頭の弁慶やそれ挑んだ猛者

三国志時代の英傑

どう考えて、現代人より大きい人が多く存在し活躍した。

ただ大きいだけの人間は存在しても
彼らが活躍したという歴史家の古文書の解釈を信じれば
現代人は小さくなっているのではないだろうか?

現代の医学を信じるが
過去の事実を研究している歴史家を信じるか
ある意味、学問の進化がいろいろと矛盾をどんどん増やしているようで
人の研究って信じられないレベルになっているなあ。

2013-07-05

鍛錬

金属を打ってきたえること、、、、
転じて金属のような固いものを鍛えるようなきつい苦行で己を磨くこと。

鍛錬行為を美徳としながらも
実際のところ、その行為を非効率とみなすことが多い現代社会。
鍛錬を行っている時間、労力、不確実な結果の可能性を鑑みたら
鍛錬は極めて非効率と言い切れてしまう。
ある人からすれば、
鍛錬はある意味自己満足、ただの趣味、性癖に近いとまで言い切る。

それは言い過ぎと思う一方で
真っ向からその論理を否定出来ないことから
ある意味、現代では鍛錬はそういうものとなるのだろうと悟ってしまう。

2013-07-04

本格

本来の格式に則っているという意味。
嘘である。

だいたい、市場で「本格」という表現を使うときは
・値上げ
・既存との差別化
であり、本来の格式という概念とは全く逆の発想になっている。

本格という言葉で
今までの積み上げてきた、そうなってきた既成事実を否定し、
自分の論理を正当化させるのは
かなりおかしく感じる。

正しさを求めると結局、嘘になるような人間の性の現れか?

2013-07-03

包括

勘違いの源泉になる条件である。
一方は、包括されていると思っていても
他方は、それは包括されていないということが多い。

文字上、多くのことを包み込むという感じが受けるが
全てではないときに使われる。
全てだった場合はわざわざ、包括条件を定める意義がないからだ。

どこまでが
どういう理由で
包括されるのか、
そこを自分としてだけでなく、
その関係者に共通認識をもつことが極めて重要なのが現代の
契約社会だと思う。

それなのに、現代社会は権利ばかりの主張が多く
自分の思いの包括条件が押し通すことが多く感じてならない。

それって、契約社会の中に<包括>される対象にならない、、なれないのでは?

2013-07-02

外来

日本固有の種を守る。
そのために、外来種を入れないようにする。
当然のように言われる。

また、日本古来の文化や食生活を守るために
入ってくるものに関税をかける。
これも然り。

としながら、
日本の企業は
グローバル
海外進出
が至上命題のように活動している。
自分たち守るとしていることを
他国に仕掛けるというのは
なんて身勝手なことだろう。

どの国も同じ論理で国際社会を生きているというが
それは勝ち組に論理であって
国際的な通貨経済概念のない国
軍事力や政治制度が現在の欧米論理にあわない国
のほうが実は多いし、それの多くが途上国とみなされている。

発展途上という論理で他国に押し付ける発想は
なんか、危なくないかなあ?

全く理解できない概念で宇宙人が攻めてきて
占領されることが許せないと日本人は言う。
しかし、それと全く同様なことを
今まさに途上国に強いていることは理解できているのだろうか?

いつ今の日本人と同じ思いに
途上国が思い始めるかわからないだけに、、

2013-07-01

文献

文書と文献の違いは?

文献は研究上の参考資料となる文書で
献は賢い人という意味だそうだ。

うーーん、
じゃあ、僕の認識では
すべてのものが、文書だと言える。
賢い人っていう定義がすでに賢くないし
参考にしたからと言って、説得力が増すのは
鵜呑みにする無知な輩に対してだけであるから。

文字の発達で
他人に時間、場所を超えて伝えられるようになったが
その分、他人の言動が文献のように影響力を持ち続けるのは
社会発展を考えるうえで、どうだろうという時期だと思うだけに、、