2013-11-29

正反

本を読んでいる。
ある小説では
「自分を愛せない人間は人を愛せない」
対して、別の話は
「自分が嫌いだからこそ、そのアンチテーゼで他人を愛せる」
となっている。

大局的な意見でどちらも正解と思っているし
相手を間違っていると思うだろう。
しかし、愛というレベルにおいて社会は正解を出さない。
というより、自分の権威を示せるものに
人間は自分と主張が正しいということで正解を付けたがる。

って考えると、、僕は哲学的に考えて
正解って言うのは、誰かに従っていますよ!ということではないかと考えている。
正解を出すのが得意ということは
極論的に言えば、自分の世界を持っていないということだと言えると結論で付けられなるので。

これは、
地動説が正解とされているが
今までは天動説が宗教的にも正解とずっっと言われていたこと、
その正解が宗教裁判という権威に縛られていたことが歴史的ににも証明されているだけにね。

2013-11-28

性分

生まれつきの性質。天性。

この性分がたちが悪い。
平気で
「自分は我慢できない性分なんで」
「私、嫌なことを絶対やらない性分なんですけど」
という言い訳が平気で通るようになっている。

これについて、
クレームをつけると
パワハラになる。

なんだろうね。
つまりは自分は肯定で他人は否定ということだよね。

人として扱われる人の基準。
もはや、人というより危険物の取り扱いだよね。
危険物は成分により廃棄できるのに
人間は性分を理由に廃棄することはできないのに、、、

2013-11-27

偏屈

性質がかたくなで、素直でないこと。ひねくれていること。

これって、マイナス的評価
プラス的になると

信念をもっている。
時代の先を見据えた先見性がある。
他人に惑わされない。

となる。

要は
その時に権力を持つか持たないか
評価する人間が力を持っているか
それだけである。

人間性がいい人が、、、
いや、結構ひどい偏屈な人ほど
大逆転的に評価されることが多いのは
今の景気、不景気の変動の中
多くのサラリーマンが味わったのではないかな?

2013-11-26

文法

言語の体系、およびそのモデル、およびそれをもとにした、ある個別言語の話し手が従うべき規範

目的として、語りかける相手に対して
わかりやすく理解してもらうためのお約束で、、あった。

すでに崩壊しているといえよう。
正しい文法で説明しても、
現代人の多くは

「わかんねーよ、自分にわかりやすく説明しろ」
「そんな言い回し、伝わらないんだよ」

と平気で言い出すようになっている。
対して、語り側も

「そんなこともわからない奴はいらない」
「バカなじゃない、こんな最低なこともわかないで」

と応戦することも多い。

確かに言葉は進化し、時代とともに変わっていく。
それに伴い、文法も、、、、実は嘘である。
基本文法は変わらない、文法が変わるとその言語自体の存在にも言及することになる。

しかし、、すでに日本語の文法が怪しい。
ただでさえ、主語が消えやすい語法なゆえ、、、
現代人のコミュニケーション力不足、
この語法の問題を含めて、基礎的に今まで培われてきた集団生活の基礎の崩壊によるものではないか?
と感じてしまう。

言語もルールも通じなくなってきている集団社会での
コミュニケーション、、もはやパワーバランス以外にないはずと思ってしまうのは正しい判断だと感じてしまうが、、

2013-11-25

鼻炎

風邪の定義は実は無い。

頭痛
そして、鼻炎などがあると、風邪とみなされる。

鼻炎、、とりわけ鼻水はなぜ出るんだろう。
それによって、何かを体外に出そうとしているかもしれないが
人によってはそれをすすってしまうのに、
わざわざその機能になっているのはなぜだろう。

人体の構造、機構は未だ謎のまんまだ。

2013-11-22

戦記

戦争記録およびそれを題材にした創作のこと。
人間は戦争を批判しているが
古今東西、
戦記への評価は高い。
その内容を異化して、
ビジネス
生き方
の指針になるからという。

しかしだ、
結局は戦争発想が前提であり、
批判しているが
人間の考え、行動の基本は戦争だと言える証拠ともいえる。

戦記から学ぶことは多い。
でも読む経験より行う経験のほうが大きい。
そう考えると、、、僕は空虚な平和論よりよっぽどわかると思う。

火傷は熱に触れた経験者が一番理解している。
これが真理だと思うなあ。

2013-11-21

剽窃

他人の作品や論文を盗んで、自分のものとして発表すること。
小さいものは宿題のコピー、
大きくなると盗作と言われる。

それが悪いかどうか、
それは文化の違いになる。

中華系は写本、習字の如く
真似が上手いことが評価になるが
欧米では、著作権、意匠権の侵害になる。

今は、欧米系が対応しているが
それまでは、中華系が主体だった日本。

写本にはコピーライトがあるとは言わないが
自分の作品には著作権をこだわる。

全く、どうしようもない国に感じてならない。

2013-11-20

黄昏

漢字で書くと、こうなるが読みは
たそがれ

その意味は

誰(た)そ?彼?

という、日暮で人の識別ができなくなっている時間をさす。

その時の日の色目が黄色かかっているので、黄昏。

そんなものさみしい時期を心情に例えて、黄昏の時期。

いったい、どれだけの意味を持たせるんだ、日本語というものは!

2013-11-19

言切

言い切る。
ちょっと前まで、憚れる行為だったと思うが、
最近は、根拠も責任もなく言い切る輩が多い。
自己主張が無責任かはわからないが
それに伴う影響が大きく、機会損失をしていることも事実なのだが
その機会損失を見えないものとして無視する傾向もある。

説明責任が求められる時代になってきたのに
言葉があまりに空虚すぎるのは
いったいこの国はどうなるのだろうか?
他人事のように感じていないと生きることすら難しく感じてならない。

2013-11-18

実験

「やってみなければわからない」
ということが
「やる価値がない」
として止められることが多い社会になった。

多くの情報がもたらした現在の集合知。
それは自分の確証もなく、ただ他人の意見に類似することで
結論に至れる。

それゆえ、多くのことを試す必要なくその集合知があたかも正解になっている。

しかし、自己の身の回りの環境って必ずしも集合知で賄えるとは限らない。
人間関係、
上下関係での受け答え、
前例なき事象。
その構成要素で成り立っているので
実験を試みなくてはならないことも多い。

集合知を正解として、何もしないことをコスト削減というか
結果が見えているかもしれない、もしかしたら新しい化学反応が起きるかもしれないと先行投資するか
を判断、いや賭けられることが、実験の異議であり、責任者の器だと僕は感じてならない。

2013-11-15

対処

対処と対応の違いはなんだろうか?
感じ方として
対処はいやいやで
対応が前向きな姿勢に感じる。

対処するという概念は
基本的に障害に対して
それを正道に戻すことを意味することといえるだろう。

とはいえ、
現代社会、
正道という概念がないどころか、
対応ではなく、すべてのことが対処になっているような気がする。

これが個人主義、価値観の多様化の末路かねえ。

2013-11-14

繁忙

どんな仕事にも繁忙はある。
いや、仕事に限らず、人生、社会全体にもいえる。

忙しいときに、いかに効率的にするかばかりに
世間は目を向けるが、考えてみれば
忙しくないときに、どう過ごすかと課題のほうが重要ではないかと悟ってきた。

忙しいときに効率化という話をしたところで
儲かってたり、今が楽しいのだから
下手なことをしたがらないのが人というものだ。

いつ忙しくなるかわからない、
もしかしたら、今後一切忙しくならないかもしれないが
その時にこそ、効率化、根本的見直すをする必要があるのではと考えに至る。

2013-11-13

文句

現代社会、文句を先に行ったもん勝ちな所がある。
明らかに悪いほうが、
「自分が悪いわけない!」
って言い張ったために、相手を怒らせてしまった場合、
怒った側が悪い事になる社会。

つまり怒らせたほうが勝ちという論理で現代社会が成り立っているのだが、
その事実についてあまりにも理解されていない事実が不思議で仕方ない。

言葉で言ってわかるというが
言葉が社会を悪くしているのだから、
もう幻想を辞めて武力による統治でいいのでは?

殴られるのが嫌だから従う。

それのどこが悪いのか?
幼児の親の教育ってそうだったじゃないか?
それがなぜダメってなったのか?
僕には未だに理解できない。

2013-11-12

文系

理系、文系、人の能力、思考傾向を分ける表現。
とはいえ、
論理的な思考が求められるとき、
言語を表現にたけた文系が有利か
自然科学の筋道を理解している理系が有利か
って議論される。

って、僕からすれば、その議論をしていること自体
もはや頭が悪いと思ってならない。
文系、理系、ではなく、
どういう思考のフレームワークのパターンで結果を求める傾向があるかであって、
世の中で求められるのは、頭の良さ、分類ではなく、いかに結果を出すかである。

どうも、結果を出せない輩はその過程や傾向を楽しむことしかできないので
見ていて馬鹿らしく感じて、、腹立たしくてならない。

2013-11-11

論説

物事の是非を論じたり解説したりすること。
また、その文章。特に、
新聞の社説など、時事的な問題について論じ述べたものにいうことが多い。

つまり、自分の言いたいことを行っているだけでしかない。
報道の自由、表現の自由と言われてきたが
本当の意味での自由は最近ではないだろうか?
ネットの普及、当たり前のように自分の投稿ができる。
それゆえに、、多くの問題も起きている。
自由とは至ってそういうことでもあるが、、

対して、報道機関での論説というものに価値は皆無に等しい。
意見を述べることが特権的だった時代ともう違うといえる。
その意見は、ただの偏見の一つとなっている。
歴史的に見て、、今の旧来の報道機関は、、
落ちぶれた封建制度下の貴族と同じ。
いくつかの貴族は新事業に乗り出して、今でも大手企業になっているが、
多くの貴族は、、

報道機関の論説をみると、、過去からの妄執、そしてその断末魔的な感覚を覚えてしまう。

2013-11-08

蝸牛

カタツムリのこと。
もっとも、現代では蝸牛は耳の奥の蝸牛器官のほうを指すことが多いかもしれないが
そもそもは、それがカタツムリに似ているから名づけられたのだから。

この熟語、よくできているなあ。
蝸、、巻貝という意味に歩みの鈍い角のある動物である 牛 をあてがっている。
それにそれぞれの触角が独立して引っ込んだりするから
カタツムリと呼ぶことも、、、

昔の人は粋な名付けかたをするもんだなあって思う。

2013-11-07

劇場

演劇・歌舞伎・舞踊・映画・オペラ・バレエ・コンサートなどの芸能を観客に見せるための施設

僕はその存在にそろそろ、限度を感じてきている。
人間の有史以来、人々が集まる場は必須とされてきた。
集会場、コロッセオ、祭場
どの古代文明にもその存在を肯定している歴史的遺跡がある。
しかし、それも過去のモノとみなすべきかもしれない。

人を集めるコンテンツがあることが重要とされているが、その周辺には
敷地
集合手段
運営ルール
個々人から始まるトラブル、軽犯罪対応
が求められて、規模に比例、、いや二次関数的にその周辺への配慮が求められ
場合によってはコンテンツ以上に問題になることが近年の傾向だ。

それに対して、
視聴覚技術の向上
伝送技術の高速化
受信ディバイスの多様化
により、コンテンツそのものをTPOに関係なく確認し、参加できる時代になってきている。

劇場に出向き、そこで体験することによって得られる経験が
それらディバイス経由で得られるものより低いという求人類もいるが、
そういう輩が昔いたんだ、バカだよな!
っていう新人類も多くなってきているだけに、
劇場という空間の認識を変えていくことにしないと
この先、その施設への価値で争いがおきると僕は確信しているのでここに書き残しておこうと思う。

2013-11-06

捨身

ある意味、自爆的に捉えられるが、
この熟語、、仏教用語であることを現代人は理解していない。
身を捨てて他の生物を救い,仏に供養する布施行の一つ
が元来の意味。

捨身の攻撃

っていう用例ははっきり言えば、間違いなのだが、
一般的にはこちらのほうが主流になりつつある。

言葉は時代とともに変わることを認めてざる負えない。
もっと言えば、
仏教用語すらサンスクリット語を漢字訳したものが日本に伝わり
本来の文字ではないし、
今ではその漢字を発祥の国、中国では略式文字で学び
まともに書けない国民が多いのだから、
正しい使い方、書き方という考え方すら、もう個々人の思い込みになってきている。

そりゃあ、人間のコミュニケーションなんか取れるわけがないよ。
言葉が通じなくなくなりつつあるのだから。
いくら、言語学習してもこうなっている以上は。。

2013-11-05

議員

民主主義において、
民意を代表する選挙で選ばれて
立法を議決する資格者。

それだけの存在のはず。
権力を持つものではない。
それに民意で選ばれていると言っても
投票率が50%を割れているのかで過半数を取ったとしたら
有権者の25%、4人のうち1人、強いては3人は嫌いという
状況で選ばれているにすぎない。

その存在が結構、やりたい放題になりつつある。
確かに、以前からここで述べているが
立法とは既存の法律、ルールを破る行為であるから
一番初めに守らなくなることをするのが
立法である議員かも知れないが
手続きが得て、初めてそうなるものであり、
議員であるから、何をしてもいいというのはどうだろうか?
とりわけ、実績も何もない存在にだ。

僕は法治国家は認めても、
民主主義は否定する立場だけに、
議員というものを根底から廃止すべきだと考えに至っている。

今、社会を動かしているのは
一企業のファウンダーや独裁的に経営を断行した中興の祖となる人達であって
民主的に選ばれて、議決をとっている存在に何ができるのだろう?ということは
自明の理であるのだから。

議員になることが目標になっている存在価値を根底から否定することは
禁忌どころか、これからの正論だといえるがね。

2013-11-01

履修

学校(大学などを含む)などにおいて、
単位を修得するために特定の科目を学ぶこと。

履という文字は
英語で言えば、、put on といえる。
元々の意味は、履物、、つまり靴類を指すものであったが
常に身につけるもの、、という意味が抽象化されて、
身に付ける事柄となって今に至る。

修という文字も、、
修飾 という言葉あるように、くっつくという意味である。
そのくっつくという意味が、抽象的に人の技能となって
修行、修学旅行 のような使われ方になっている。

履修という言葉は
実は、履も修も
一件別々の意味のような漢字だが
身につけるという同義の漢字で成立していることが面白いといえる。