2009-03-31

改編

現時点の失敗という意味。
改編という言葉を耳にするときは
得てして、新しい試みということに気持ちと視線を向けてしまうが
現実問題、今まで行ってきたことを否定するという意味を忘れがちである。
改編しなくてはならない事実はなんなのか?
改編することがどんなことが達成できるように目論んでいるのか?
その趣旨を外した改編はどうなるか、、、近いうちにまた改編を召喚するだろう。
改編のための改編では
なんのために行っているか、全く見えないものだ。

この時期多く行われている改編。
過去という失敗
未来という目的
という視点で自分の周りを見てみよう。
多くの場合は、今かっこいいから、みたいなお粗末なものが多いことに気づく。

2009-03-30

利益

価値を何らかの形で捻出すること。

多くの場合、経済基準単位である金額を中心に考えているように見えるが
実際のところ、そうではない。
金額での表現をマスメディアが行いやすく、
ネタにしやすいからです。

では、金額ではない利益ってなんだろうか?
読んでいる各位なら身をもって知っているはず!

「今回の経験は、会社にとって大きな利益につながる」
「人材を得られたことが、会社としてのプラスだ」
「仕組みが構築できた、それだけで、会社としていい方向に進める指針があった」

なんて言葉で、貢献(損失?)=利益 
とみなしてくる表現を見聞きしているだろう。

要は、後になって、その結果が何らかの形になるという感覚があれば利益だ。
実際のところ、金額ベースであっても、その金額があるからすごいというわけではなく
その金額が今後いろいろなことが出来るという予測や期待があること
それが、利益というものだと思う。

利益追求型のビジネスモデル。
実際のところは、観念、思い込みの活動だったりしないかなあ?

2009-03-27

万能

結局何も出来ないこと。

人間は万能を求める。
例えば、携帯電話やパソコンで1つにすべての機能を入れました。
っていうと売れるが、その言葉に釣られて買った多くの者は
その3割も機能を使いこなしていない。

また、無能な人間は
「何でも出来る人が集めたがる」
がそういう人間は集まらない。

得てして、なんでも出来ますねえって
賛辞を受けることがあるが、それはあえて言うなら、
何でも出来る以前、
どこまで出来るかわかっている
どこからは自分には出来ない
というラインを常に持っているからであり、
その限界値に抵触しないようにしているだけである。

だからこそ、僕の場合はすべての機能がある携帯において
ほぼすべての機能を使った経験がある。
そのことにより、
使える機能
使えない機能
使わない機能
を自分の基準で判断しているからこそ、
万能に使いこなしているように他人の目には映る。

万能を求めることはしないが
出来ないことを知るということは
自分の中では出来ない人間に思えても
他人からは万能に映ることになるだろう。

2009-03-26

権利

虚偽の価値。

辞書的に言えば、
ある利益を主張し、これを享受することのできる資格
となっている。

うーーん??
何をいっているんだろう。
法学をやっていた僕の結論は簡単。

現時点存在が定かではないものをあたかもあると言い張る言い訳

これが権利。

自由権  自由って何?
予約権  予約って何?
所有権  手に持っていればいいんじゃないの?

もしその現物が存在すれば、
権利なんてものは必要ない。
そのものが抽象的になってきているからこそ、
あいまいなものをさぞ、自分たちが正しいって言い張ることが権利。

だから、現代人は無駄に権利を主張する。
現物を手に入れる器ではないからこそ、
そう言い張るのだろう!

「自分たちは幸せになれる権利がある」
「国民の権利を保障しろ」

自分で勝ち取れよ!
虚像を追いかけずに、、、、

2009-03-25

自信

自分を信じるという漢字表現にあたるが、
自分を信じるためにはどうすればいいのだろう。

経験
気持ち
ポテンシャル
他人の推挙

要素をあげればきりがないだろう。
実際のところ、
自信の根拠にあるものなんてひとつもない。

自信における究極の姿は、
言ってしまえば自分自身のプラス思考の未来予知であり、
その予知がすべてあたる確証があるならば、
それはすでに社会人ではないだろう。
なぜなら、人智の域を超えているからだ。

でも自信をもって行動している人を見かけるだろう。
それは、自分を信じているのではなく、
自分が行動することで、見ている人、関係している人、
そして自分自身を信じさせていると読み取れる。
自信がないから、何もしないという多くの民衆より
自信を虚像でもいいから、みなぎらせて行動促進させることのほうが
社会的に前向きであり、それが現代社会における
自信の表れだろう。

だから、
自信がないから~
なんで自信をもってできるの?
という愚かな発言はやめたいものだ。

2009-03-24

尊敬

日本独特というか、
日本的すぎて、逆に日本人が使えないもの。

敬意を示すことは、
万国共通でありうる行為だ。
しかし、この尊敬という表現にあたるものは難しい。
安易に尊敬を用いれば、尊敬を軽んじていると思われるし、
逆に使わないと不敬もののそしりを受ける。

そんなの暗黙の了解っていう愚民がいう。
あえて、愚民というのは、
その暗黙の了解=自分の価値観だと思い込んでいるからだ。

どこに尊敬の基準を置くかは
その人の器や洞察力に関わってくる。
・自分との相対比較
・相手の尊敬に対する気分の取り方
で、尊敬という表現を用いることになるはずである。

そういう僕はどうか、、
尊敬をすることはあるが、
人に対してはありえず、
その行為に対して尊敬を示す。
罪人でもかっこいいい行いをすれば、尊敬するし
社会的に地位がある人間でもダメならば、軽蔑になる。
尊敬するって意味を刹那でとらえ、
今後の自分の振舞いの模範にすべきととらえている。

2009-03-23

不安

動物として生きている証拠。
つまり動物である条件。

草食動物は肉食獣に襲われないように
常に警戒やそれに適した巣作り、
状況の変化に敏感である。

肉食獣とて、
その日暮の獲物獲得に
縄張りの探索、
同種族の侵入警戒、抗争
等の不安を抱えている。

原生動物には不安はないように感じるが
水生の原生動物は、水質の変化を少しでも感じると
生命維持のために、外殻を硬化させて仮死になり
死への不安から回避する。

不安があるこそ、
動物はいろいろな特性を進化させていける。
不安があるから、動物としての種をより高められる。

、、、っで人間は?
「不安のない社会作り!」
っていうススローガンを見聞きする。
それって、なんだ???

2009-03-19

葛藤

おもしろい言葉だ。
植物の文字なのに、心情を表している。

辞書的に言えば、
《葛(かずら)や藤(ふじ)のことで
枝がもつれ絡むところから派生して、
現在の意味になっている。

人生といういうか、
人間の行動において、本能ではない行為はほぼ葛藤と思える。
今やるか、やらないか、
どっちを先に行うか、
些細なことでも多くは葛藤だと思える。

また葛藤を軽減させることが
ビジネスって思えなくもない。
葛藤=悩み、、つまり悩みとは選ぶべきことを葛藤しているということでもあり、
その行為をいかに、
安心させて選ばせるかを推し進めることが
仕事、ビジネスではないかってふと思った。

2009-03-18

共有

この言葉どう受け取るか、
・みんなのものは自分のものでもある。
・みんなのものは誰のものでもない。

僕自身は、後者の概念で教えれてきているが、
貧しい発想の人間は前者のようである。

公共物に対して、自分の取り分なんて考えたことがなかったが、
どうやら、そういう発想が蔓延しているようだ。
そうかなあ?って思っている人もいるかもしれないが、
日照権、地下所有権、という最近の権利の多くは
共有の切り崩しだといえる。

誰のものでもないことが当たり前とされていたものが、
それぞれの自我によって分割、割譲されている。

その分割、割譲が悪かって問われれば、
そうではないし、それを悪としてしまえば、
資本主義の否定だし、自分のCEOの地位をも否定になる。
問題は、分割、割譲した以上はその責務を全うしているか!
共有と宣言したものがその保全管理を徹底させているか!
ということが現代社会は垣間見れない。

割譲をうけたならば、
それを維持するために
自らがどうアクションしていくか、

共有ならば、
その共有宣言者が受益者全員に
保全管理を徹底させていくか、

本当に無策な場面しか見ない。

だから、弊社はその徹底こそが、
会社を共有するものの勤めとして、
それぞれが役割を徹底することを主是としているのである。

2009-03-17

伝承

とかく日本では伝承行為を限定的にする傾向が多い。
一子相伝、免許皆伝という言葉にもそれはあらわれている。

市場ルールの一面からすれば、それも納得できるだろう。
特定の専門技術を持つということが
社会的ステータス、およびそれに見合う社会からの高い価格評価を
もらえて品質を維持できているといえる。

対して、科学的にはどうだろうか?
その限定伝承されてきた技術は本当に限定すべきかどうかの
化学的立証、もしくは多くのみなさんにも伝承して
人類全体で恩恵を享受すべきではないのか?
ということもいえる。
まさしく機械化の設計思想がそれにあたり、
かつ説明責任の多くは、その恩恵の納得性にあたり、
日本の不得意とするところだ。

日本人は
機械化はできても、
機械化させる設計思想は持ち合わせていない。
高い手法を持っていてもその手法を一般人に説明する能力は乏しい。
それでは、国際市場での競争力にならない。

伝承、継承行為はいつの時代も必要とされてきている。
多くの場合は、自分の特別な技能を特別な存在にって思う輩が多いが、
僕の組織においては
できるだけ一般人にわかりやすく、
より容易に理解できるように、
伝承していく”仕組み”を考えることに価値を見出すつもりだ。

マイスタージンガーのようになれればいいのだがーー

2009-03-16

技術

「技術力がある」
という言葉をいろいろな場面で耳にする。
・日本には、、、
・零細企業なれど、、
という用例は挙げればきりがない。

しかし、そういう言葉を使わざるおえないということは
「技術がない」ということといえる。

もし、本当に技術があるのならば、
それを世間に認知させる技術があるのではないか?
世間で言う、営業力や説明能力も技術であり、
その技術がないということといえる。

多くの「技術」という言葉の引用例は、
偏った知識行為 = 「技術」
となっていて、それによって得られる受益者への説明がなされない。
だから、受益者がその技術に対価を払えないのではないか!

もし、自分の技術を高めたいならば
なおさら、それを他人に理解してもらう行為をしなくてはならない。

そのために重要なことは、「伝承」である。
次に続く、、、

2009-03-13

治安

異端糾弾だろうな。
安全を治めるという語彙としても、
その安全ってなんだろう。

治安維持のための強制執行ということもある。
執行される側は身の安全とは全くの逆なことを被る。

表現の自由といいながら、
治安維持のために糾弾していたら、
怖くて表現できないという抑止効果を導き
結局、自由はないだろう。

これは国家だけでなく企業も同じで、
自由な意見を!
と言いながら
社内統制のためにと言いながら
発言した社員を糾弾するような査定したら、、、、

そもそも、自由も治安も意味がないのではないか?
結局は統治、労使関係。
やる側、される側は永遠に変わらないだろう。
それに小手先の緩和なんて意味がない。

ニーチェの奴隷道徳が心に響く。
奴隷なくして主人なし。
主人なくして奴隷なし。
互いが互いの存在を導きのだから、
それぞれの役割を!

自分の役割を自覚、徹底したら、
自由も治安も必要ないだろう!

2009-03-12

誤謬

言葉としては耳慣れない単語だけど、意味は

論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、
その論証が全体として妥当でないこと

つまり、論理構成破綻。

結構、多くの身の回りの環境で見受けられることが多くなってきている。
多くなってきている理由は
・企業活動のアカウンタビリティー
・自己主張の台頭による他人との権利争奪多様化
・メール、ブログ、SNS等の簡易更新技術の発達による表現活動の頒布
と論理をあらわす機会が増えているのに
その論理を検証、推敲する過程が極めて薄いからだ。

ちょっと聞くと正しそうだけど、誤謬のことは多い。

企業活動のコストカット行為は
企業存亡のために支出を下げるという論理だろうが、
ステークホルダー全体のインカムを下げて、
結果、企業の売り上げの低下を導く。

企業の増員計画を
社員を増やせば、活動の自由の多様化で質が上がるという論理だろうが
会社の資産(得てして固定数) / 社員という構図から
社員教育費肥大の抑制
個々人への会社からの福利、管理の希薄化
を導き、既存の社員の帰属意識、モチベーションの低下を導き
逆に社員減になる。

上記のことは、合成の誤謬という表現で
先人たち経験で導かれている。

アカウンタビリティーという論理説明はとても重要。
だからこそ、それに見合う論理の検証、推敲を絶えず意識することが
誤謬対策かつ、本当の説明能力ではないかと思っている。

2009-03-11

因果

算数のレベルは生活必需だが、
数学のレベルになると実際のところ、
あまり生活、人生において役に立たないとされる。
確かにそうだと思う。
数学の公式や定理はあまり使われない。
でも、それは歴史の事件の年号暗記もそうだと思う。

重要なことは数学も歴史も共通していて
学ぶべきポイントは必然、連鎖の因果だと思う。
前提条件があるから、
後続する事象が理由をもって導かれる。
火のないところに煙は立たないということだといえる。

因果関係を意識すること、
因果関係から事象を紐解くことが
人間の人間らしいことだと思う。

因果関係を意識できるからこそ、
事前予測、危険回避ができて、
生物としての生存率を高めているといえる。

現代はこの因果関係の意識を
社会システムや機械化にゆだねているから
意識の希薄を感じるが、
些細なことでも因果関係を意識できるかで
その人の有用性が高まると思う。

相手が次にどう動くかは、
予想ではなく、その事前行動にあるわけだから。

2009-03-10

文具

文房具といわれるものは、変革の塊だ。
古代から現代まで考えれば
壁画のため、固い石とやや粘土質の壁
竹簡のため、墨筆と竹柵
そして、紙の登場で、
羽ペン
万年筆
鉛筆
ボールペン
サインペン
シャープペン
と、筆記具だけでも多く進化してきた。

しかし、現在の文具は
パソコンとプリンターだろう。
もっと言ってしまえば、ペーパレスといわれるので
プリンターで担保されてた紙もディスプレイに変わりつつある。

この流れで予測されるのは、
筆記用具の将来は携帯電話端末になりそうだともいえる。

昔から、仕事ができる人は道具にこだわってきている傾向がある。
毎日頻繁に触り、使うものだから。
とりわけ、現在の第三次産業に従事している者は文具に対してが多い。
それが現代では、筆から入力端末になってきている。

弘法筆を選ばずっていわれるが、
あくまでも弘法大師の域の人の話、
道具はしっかりしたもので仕事に挑むべきだ。

まずは、いい道具を買うのではなく
キーボードや携帯をきれいに掃除、手入れをしよう。

2009-03-09

譲歩

自分の意見を聞き入れてもらうこと。

辞書的には
他人にゆずりながら自分の主張の一部または全部をまげて、
相手の意見と折り合いをつけること
と定義しているが、真意は、自分の核心を相手に受け入れてもらうことである。

どうも、国際的にみても交渉術に譲歩がうまくされないように見える。
というよりも、譲歩を行うための核心理解、複数の手段の施策定義が
あまりにも弱い。低能力化している。
面白いことに、比較すべき古代と比べて、技術革新において
検討できる手段の選択肢は累乗的に増えているのだが、
それとは逆に、多くの人間は選択できるものが唯一選定をとりたがる。

自己主張をすることに否定はしないし、
しないとこの現代社会では埋没されるだろう。
それゆえ、
主張する内容の核心はなんであり、
主張に対する施策を複数もったうえで
主張すべきである。

つまり、
譲歩は相手に言われてから初めて行い検討するのではなく、
事前にいくつかの施策を準備したうえで、
相手に対峙して交渉すべきではないだろうか?

2009-03-06

投資

言葉をいいイメージ変えているけど、’ばくち’の意味でしかない。
あるヤマを張って、
そこに自己資産を入れてリターンを得ようとしてることなんだから、
善意、良心で投資するなんて言葉、論理矛盾であり、
本当に善意、良心ならば、’寄付’だろうって思ってしまう。

僕はだからこそ、投資がいいことだと思う。
善意、良心なんて基準がないが、
自分の利益につながるという目的達成に、自分の持っているものを
投資ということでかけてみる。
いわば、自分の才能にかけてみる行為は
将来的は自信になったり、反省につながると思う。

人間は常に成長すべきであって
そのために、自分に金をかける行為を
投資してみる。もっといえば、自己投資するこてで
なりたい自分になれるかどうか試みる。

これが本当の能力主義であり、
自分で自分を磨いている証拠だと僕は思う。

2009-03-05

発酵

人間が人間らしい証拠の行為。

発酵は微生物の呼吸行為。
ちなみに呼吸とは息をするということではなく、
エネルギーを作り出す代謝行為のことである。

その微生物の呼吸は
代謝過程で別のものに変えてしまうのだが、
多く場合は腐敗を呼ぶのだが、
その中で人間の生活エネルギーに変えやすい
簡単にいえば、おいしいものを見つけたこと
そして、その微生物の呼吸行為を人為的行わせることが
人間たる所以と感じる。

これは、地域に関係なく
人間ゆえに行ってきたといえる。
チーズ
ヨーグルト
ワイン
ビール
納豆
醤(味噌)
と世界中のあらゆる食材は発酵から成り立っている。

そして、その発酵から人間を例える表現も多く、
円熟、寝かせてきたという風に
年月の発酵期間が深みとされている表現が多い。

そういう視点に立ち、
発酵的な管理がいいのかもしれない。
毎日の湿度、温度という外気管理を徹底するが、
決して発酵している微生物たる現場のものに手を入れない。
そんな管理が人間がすべき管理なのかなあって思うときがある。

2009-03-04

読書

事実と異なる表現だと思う。
書籍ということもあるが、
一般的には本を読むことをさしているのに、読本とは言わない。
書類を読むときに、読書とはまず言わない。
事実と熟語が異なる表現の一つだ。

そして、この言葉もまた価値をゆがめられている言葉のひとつといえる。
本、書籍を読む行為は、なんとなく質の高い行為とされている。
それって、どうなんだろう??
僕自身は読書やものを読んでいる時間は
情報収集の一手段に過ぎず、ネットサーフィンとなんら変わりない。
他人がまとめたことをただ見ているだけだから。

本と比べてネット、雑誌は違うという意見をいう輩がいる。
本を通じて筆者と読者の対話という。
それこそ、自己主張と妄想癖の最たるものって感じてしまう。

読書という行為は趣味のひとつとしては認めるべきだ。
しかし、それを他人に強要、優劣をすることはどうかと思う。
それぞれの趣味にとやかく言うべきではないのだから。

2009-03-03

事実

いくら自分が体験したことを的確に説明しても
その説明を行ったことで、他人にとっては事実ではなくなる。
その説明する人間の主観や感情のバイアスがかかって
ありのままの情報は伝えられないといえる。

事実を人間間で伝えることで一番重要なことは、
聞き手側のスタンスだといえる。
つまり、相手の説明をいかに客観的な情報を掴み取るかということだ。
多くの場合は、人間は見たものを定性的に捉えている。
「背の高い人」
「いっぱいあった」
という表現をよく耳にするだろう。
定性は主観的なもので、
背の高さなんて自分を中心に考えてしまいかねないから
実際は背が150cmくらいかもしれないこともある。
そう、150cmという表現があるように
事実は共通統一概念に近い、
定量表現をどれだけ話し手から聞き出すか?
そして、その定量表現の確実性を高めるかだといえる。

現在のような超情報化社会だからこそ、これが重要。
情報が多いという言うことは、逆に考えれば
要らない情報も多いということ、
本当に必要な情報、、事実をいかに掴むかが
勝ち残れるといえる。

ただ話し、聞きすればいいのではない。
できるだけ、定量的にかつ確実な情報に研ぎ澄ますことが重要である。

2009-03-02

和暦

元祖ガラパゴス仕様といえる。
日本では時間概念をGMTに統一していて、
YYYY/MM/DD HH:MM:SS
のYYYYだけを、日本仕様の皇歴を主に採用しているのは、
どうなんだろうって感じる。
僕の場合は、西暦でカウントすることに慣れているが、
年寄り、役所、老舗、大手金融勤めの人は和暦を使ってくる。

不思議に思うと同時に、
これが日本、つまり加工貿易立国だと思う。
日本発の技術や運用は少ない。
多くは、ファンデーション技術を他国が作ったものを
より使いやすくより受け入れやすい加工をすることが
日本の技術、、、島国根性といえる。

和暦を起点に、ひらがな、今では携帯電話仕様もそうなっている。
島国においてはとても使い勝手はいいのだが、
全世界基準にしてしまうと対応できないものとみなされる。

最近言われている、国際標準化を目指す日本の技術だが、
その行為自身に疑問を感じる。
そうしてしまうと、日本の技術にならない。
標準は一律であって、付加価値がないことでもあるから。

和暦を否定する気持ちと同時に
それがあるからこそ、
日本製品の爆発的なヒットを生んできたと思う事実に
複雑さを感じる。