2014-03-31

偏重

物事の一面だけを重んじること。
これって第三者から見た、
専門性、選択と集中そのものといえる。

自分として
限りある資源、時間を特定の分野に特化しようとする前向きな発想なのだが、
第三者からすれば、
全体を見ていない偏重という見解でみなされる。

自らで判断して決めたことに対して
それを偏重という批判する発想はいかがなものだろうか?
とりわけ、その判断に巻き込まれていない本当の第三者が無責任に
そう発言することはある意味、罪に等しいのではないだろうか?

日本のムラ社会発想での社会全体影響感覚のまま
個人主義を無理に導入しているからこうなっていると僕は結論づけている。
みんなという概念に重きをおいている日本において、
個人主義を偏重した結果の失策といえる。

みんなとか社会のためとかいう発想を捨てるか
個人能力主義をやめるか
そこを偏重、選択と集中、を明確にすることが既に必須条件になっていると言えよう。

2014-03-28

探求

あるものを得ようとしてさがし求めること。さがし出して手に入れようとすること。
ということは、あるものが手元にないということとも言える。
探し求めているものの実態、手に入れたときの感覚を経験していないから
ワクワクもするが、実際には結構味気ないという思いもしたりする。

探求するという行為自体が
愉悦な状態かもしれないと思うことがある。
結果主義である現代をよくよく考えると
相手への結果
自分は過程
を楽しむことが幸福のサイクルなのかなあ?

2014-03-27

年層

年齢層という概念は難しい。
商品などを発売する際に
ターゲット年齢層を考慮して発売されることが多い。
それにより、ヒットしたならターゲット通りなのだが、
年齢は万人に共通して経るものである。
ターゲットとしていた年齢層は必然的に年取る。
少年は青年、成人は老人。

それに対して、商品はそれに合わせて進化させることは難しい。
その形状、機能を前提に生活を考えている人からすれば
変わることはあってはならない。

万人に受けるものはなかなかヒットしない。
ターゲットを選定すると当たるがそれを維持することが
商品のターゲットである年齢層に受けなくなる事実。
実に、時間経過というものは、、、面白い。

2014-03-26

既知

既に知っていること。

情報化社会において、この概念が大きな問題。
自分は知っていて当然ということを
必ずしも、相手が知っているかとは限らない。
そこでの衝突こそ、コミュニケーションがうまくいっていないとことになる。

社会の多くは

「なぜ知らないんだ」
「知っていて当然のことだ」

「聞かされていない、教えてもらっていない」
「自分だがわかっていればいいのか!」

で成り立っているような感じまでしてしまう。

調べればわかると言い出すが、
実際問題、そういうときは調べて出てくる情報と
使われている情報の意義が異化されている実態なのだから。
いくら調べても無駄なことになる。

既知と思うことほど、しっかり相手に意味定義をしなくてはならないかもしれない。
そして、同時に無知となっている側は
「そんな事知っている」
「俺の認識とは異なるので間違っている」
という発言をして、コミュニケーションに壁を作らないようにこともとても重要と
思うべきだ。

2014-03-25

胡椒

香辛料の代名詞といえる。
歴史上、この味覚のために
通貨と同等の扱いを受けた時代すらある。

が、日本においてそう使うものだろうか?
確かに、異国料理とりわけ肉料理においてはこの存在は必要というレベルといえる。
しかし、昨今注目されている和食において、胡椒は必要というより
不要に近い。
名前は同じでも、柚子胡椒に胡椒ではなく、辛子である。

日本国で生育されていない調味料を
異国の文化に従って、変に重用する文化も日本らしいが
そういう強い刺激で日本本来の淡い味覚を麻痺らせていることに
おかしさを感じることはないのだろうかって思いもまた日本人らしさの愚かさを
感じてならない。

2014-03-24

観光

楽しみを目的とする旅行のこと。
日本は観光立国と言い出しているが、
それはちょっと虫が良すぎ。

考えて欲しい。
日本を家と例えてみればわかりやすい。
日本人はお客を招くのが下手である。
とりわけ、一見さんについて、、
そう一見さんという言葉があるくらい。

ホームパーティーで未だ知らない人を迎えられる気質ではないどころか
知っている人が来るとしても
部屋の掃除ができていない、お迎えする準備ができていないと言う論調で
嫌がるほうが多い。
できるだけ、人を迎え入りたくない。

そんな気質の日本人が観光立国というのは
来てほしくはないけど
お金頂戴っていう気持ちのところに行きたいと思うだろうか?
そういう気質そのものを理解した政策、舵取りをしなくてはならない。
観光という言葉に騙されて、自らを見ない考え方では
また失われた10年を繰り返すだけといえるだろう。

2014-03-20

膳立

お膳立て、
大きな仕事の前払いをしておくことに使われる。
僕の人生、このお膳立て、当て馬のようなことばかりである。

難しい問題、
やりたがらない事件
の担当にさせられ、
有能ゆえ、結果が出るとところになると
それを奪われる。
つまりおいしいところを持っていかれることばかりだ。

有能なら奪われないようにすればいいと思うかもしれない。
そう、それを行った結果が、
僕が受けている悪名だといえる。

膳立にならないように、、
強いては、自分を守るために
相手を潰すこともまた人生の目的を叶えるための
お膳立てと僕は感じてしまうのは、僕が悪意の塊だからだろうか?!

2014-03-19

東洋

限りになく、日本語といえる。
中国からすれば、東洋は日本でしかない。
東の海の果てだから、

しかし、日本からすれば、
海ではなく文化圏のように扱って
反対語が西洋になっている。

航空移動の発達
文化、経済のグローバル化
でもはや東洋という区切りはなくなったといえるが、、、

でも、未だに、西洋料理とか
洋風という言葉が日本に残る。
それをどう外国人に翻訳していくか、
そもそも、その認識で、グローバル対応できているといえるのか?
この国の文化認識の歪を感じてならない。

2014-03-18

腐心

漢字と意味がかなり異なる。
意味は、目的のためにいろいろと考えることなんだが、
漢字だけで見ると、、心が腐るというイメージになってしまう。

共通認識を与えるべき言語が相手との認識を惑わす。
その原因の一つが、単語の意味定義が挙げられる。
とりわけ、日本人は勝手な定義をして、それが一般化されると日本語として
正しく受け入れてしまう。
言葉は生き物という認識で。

逆に、僕が腐心を正しい意味で使うと
多くの庶民レベルは
「腐心って心が腐っているという意味だよ、バカなんじゃない」
っていう評価を受ける。

本当に日本人の考え方では意思疎通は難しくなる一方だと言える。
これを打破するために、教育と騒ぐご老体も多く活動なさるが、
芸を仕込むには適さない動物をいくら調教しても、、という思いがよぎるのは僕だけ?!
本当に、現代社会を生きるためには腐心させられる。

2014-03-17

手段

ある事を実現させるためにとる方法

目的と手段という表現で使われることが多く、
目的のために手段と言われる。

目的のほうが上位とされる。

しかしだ、
それは自分の思い込みであることが多い。
人によっては、手段こそ目的かも知れない。
そして、その目的を優先させて手段を軽視することは
他人からすると、バカにされているという思いになったりする。

例えば、
Aさんは
ある職業に着きたくて、とある学校に入るという場合
目的は就職であり、手段として入学なのだが、
対してBさん
ただその学校に入れればという思いであれば
目的が入学なのである。

だから、
Aさんからすれば、学校なんて手段にすぎないが
Bさんからすれば、それは人生の大きなポイントである。
AさんとBさんとしでは
価値観の違いで喧嘩になることはあるだろう。
A,Bどちらかが入学できなかった場合
Aが落ちれば「Bは大きな目的もないくせに」
Bが落ちれば「Aは学校なんてどこでもいいくせに」
となる。

目的と手段を間違えるなっていうけど、
その発言自体が、目的と手段という固定観念で見失っていないかと思ってならない。
目的と手段を使う時
基本、自分の思うことを先に告げて
それに相手が合わせられるかどうかで進めるべきである。

2014-03-14

符牒

作業者同士で使用される言葉、
また売買の場や顧客が近くにいる現場などで使われる独特な言葉の事
はっきり言えば、コードネームってこと。

悲しいかな。
日本語のその意味を示す言葉があるのに、
今では、外来語のほうからその日本語を説明し無くてはならないなんて、、
というより、
日本語という言葉はそもそもなんだろうか?
意味定義ができない、外国語に頼っている言語。
もっと言えば、日本国内でしか使えない専門言語というべきなのかなあ?

2014-03-13

破戒

聖職者がその属する宗教の戒律を破ること
科学的根拠がないとして、
多くの地域に根付いて禁忌を破る行動が目につくようになっているし、
それで経済発展してきたという。

でもちょっと待てよ。
科学的根拠って万能だろうか?
その禁忌を破ったことで
結構、、凶作、、、不況になっていることも目につく。

論理、科学もいいけど
信心的な統制や歴史的な戒律があっての現代じゃないかと思うことが多い。

信仰の自由は多くの民族において重要なこと。
ちょっと日本人はその辺を軽視し過ぎではないか?
身の回りの道祖神に一礼をする心持ちがあるべきではと思ってならない。

2014-03-12

全部

全部という表現、実はかなり難しい。
どこまでという範囲を考えた時点で、全部とはいえないだろう。

現代社会、
なんでも欲する輩多く、
なんでも全部と言い出す。

全部という表現にはスコープ、前提条件という重要な判断基準を見失っていて
ビジネスリスクの塊でしか無い。

なんでも欲しがる、知りたがる輩は
強欲ゆえに結果を出せないというのは
自明の理なので、相手をしたくないと言えるがね。


2014-03-11

開放

立場が異なると同じ行動にでも表現が異なる。

支配されていた側が
支配から抜け出すために行う活動は開放活動
しかし、
支配している側からすれば、それは反乱活動
互いに自分たちの利権を取戻すために行う気持ちでそう表している。

最近の傾向では、
開放のほうが正当性があるという感覚を持っている人がいるが
それって、反抗期を迎えた未成熟な者達が暴れていることのほうが多く、
開放された後、待っているのは無秩序な状況で
終いには、自分たちを保護しない世界が悪いなんて言い出す始末。

最近の途上国の革命後の今、
そして、学歴社会、正規雇用から開放された今の日本の労働者の有り様も
僕からすれば同視できる開放の結果といえる。

2014-03-10

今昔

今と昔、
でも、今昔物語集の略語と思ってしまうだろう。
上記のように
「今と昔」という意味なのに
今昔物語集では
「今は昔」という書き出しだから
今昔物語集になっているのだが、、

本来の意味と
使われる意味が異なっているという事実すら
現在の教育や認識は伴っていないことに
どれだけの日本人が意識しているだろうか?

なんか、僕はこの社会の教育、当たり前、常識が愚かしく感じてならない。

2014-03-07

関連

ある事柄と他の事柄との間につながりがあることだが、
案外、関連については主観的、感覚的に判断していることが多い。

だから、自分の考える関連については
場合によっては、他人から
~関連があるとは思えない
~関連があるはずなのに、なぜそこを見ていない
という指摘を受けることがある。

世の中に多くの事やモノがあふれているため、
すべてが作用、、関連する可能性があるのだが、
その中から、特定の視点に焦点を合わせて
不要な関連性のキヅナをあえて切ることも必要と言われる。

とはいえ、
その不要という判断もまた論理的というな独善的な判断基準であり、
検討した時点で、関連有りと僕は思うのだがね。

物事事象を分けることの難しさは
真剣に向き合うと実に難しいのだから。

2014-03-06

潤滑

潤いがあって、動きの滑らかなこと。また、そのさま。

ふと思う。
動きがあるときには液体がなくてはならないのではないか?
摩擦を下げるには液体が欠かせない。
潤滑油の発想、、、、
いやそれだけではない。

潤滑なスピーチには、喉や舌を潤す飲み物。
人的摩擦解消のための飲み会、、、

やはり、潤滑というものは液体が欠かさないということがよく分かった。

2014-03-05

献身

自分の利益を顧みないで、他者または物事のために自己の力を尽すこと

人間はこの献身を求めるくせに
経済活動を生活の中心においている。
現代人はあたり前のようにとらえているが、
どう見ても矛盾だろう。
対価をもらう前提で行動するのが経済なのだから。

そして、
献身はさせるものであると認識している輩も多い。
席を譲ってもらって当然、早く自分のために行使しろ、人間どもと思う輩
自分のために他人がどうなろうか気にしない、そうなることが能力主義なのだから
こういうことが普通になっている社会において、、

見直すべきではないか、献身の価値観を!

もっと地球規模でみれば
自然回帰の思考でいろいろと取り組まれている環境問題。
自然の大きな流れ、自然の摂理でいえば
強いものが弱いものに食われることが摂理。
やられることが当然なはずなのに、、、
その摂理に逆らう、人間の人道的献身って
根本的に自然破壊的な発想なのかもしれないって考えることは
もはや正論だと僕は確信めいて感じている。
すでに人道というレベルは社会契約上の一手段でしかないということを。

2014-03-04

気変

気が変わる。
周りの人間からすると、先までの感情と異なる感情を示していると
捉えられることになる。
しかし、当人は自分なりの何らかのルールに基づき
感情表現しているわけで、なんら変わっていることはないのである。

対人関係において、この点が争点になりやすい。
気変わりを起こした場合、それをどう判断するかは
力関係、結局従うか、従わせるか!しかない。
「自分は気変わりをしていない、君らが不快なことを言うな!」
もあれば
「勝手に気変わりを起こして、その分の責任をとってもらう」
ということもある。

気変わりを起こすと、案外社会的に問題を起こす事が多い。
だから、気変わりを起こしたとしても、それをそのまま表現せず
だんだんそうなってきている過程を周りに示しておくことも必要だと強く思う。

2014-03-03

難度

難しさを表わす方法って、それ自体が難しい。
絶対的、相対的に難度というものは
基準がないに等しい。

そして、自己主張そのものが難度ともいえる。
その活動が他人より難しいというから
自己の能力が高いという立証になるし、
活動の標準化、安定化をさせることは
難度がなくなるということになる。

そもそも難しさという概念はなんだろうか?
他人と理解し合えないことともいえるので、
あまり、認めるべき価値ではないはずなのに、、
難しさを強調する人が多いのは矛盾に感じてしまう。