薬価が高いか適正か?
使う側は原材料、生産コストベースで高い高いっていいだすが
よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
最終運航電車発車時間の意味。
要は、日付跨りがあっても稼働日とされる時間内で最後にその駅から出る時間。
ニュース、報道のアーカイブと比較したら面白い。
2019/10 首都圏の交通機関の終電時間の延長
2020/10 首都圏の交通機関の終電時間の繰り上げ
になっている。
オリンピック期待とCOVID禍、、
たった一年でジェットコースター的に変わる社会情勢を反映しているといえる。
終電時間の繰り上げにより、飲食店が打撃を受けるというが
そもそも論として
終電まで飲む、飲ませることが健全な社会か?
都心で仕事、繁華街で飲んで帰る発想が一極集中の問題って言っていなかったか?
これから論として
仕事の食事も都心でするものではなく、地元還元型になる
終電まで働く、飲む、遊ぶなんて発想がもう時代としておかしい
という兆候ではないかと言える。
憲法によって行う政治。立憲政治。
では憲法とは何か、
国の成立に係る統治の根本規範となる基本的な原理原則に関して定めた法規範。
となると、憲政を掲げることは改憲こととは矛盾しないか?
この論争に言い訳、水掛け論が多い現代社会。
僕からすれば代表民主主義制度そのものが過去の遺産、
もっと言えば、過去の人物がその時思いついた考えで作った憲法を
いつまで従順に従い続けるのか?
そこを直接全有権者に聞くことができる直接民主主義がデジタルで実現できるのでは?
と思うがね。
紙への記述投票のほうがインターネット経由での投票より
信憑性があるという思い込み。しかし紙による紛失、数え間違いなどもあるのに。
条文でしか理解できない法制度、ビジネスでは図解しないと理解されないと言われているし
そもそも、日本語の曖昧な表現ではグローバルに対応できないという昨今と乖離が大きい。
どうも、現代民主主義の進化のなさに憤りを感じてしまう。
上手の対義語。
他より地位・能力が低いこと。
しかし、下手の定義ってある意味は発言者の思い込みで
これを発する人は、、正直バカである。
下手と発するときって、ある意味経済生産性と関係ないところ
それも僕から言わせてもらえばどうでもいい虚戯レベルで用いられる。
仕事が下手という表現を使っている場合は
その評価に責任を持てない無責任発言でしかない。
能力がないのであれば、市場から徹底を求められるので下手と言われることはないはず。
そして、その下手の定義も自分を中心にした思い込みでしかない。
例を挙げれば
運転が下手と言いだす人が多いが、
交通ルールを違反してない以上問題なく、
上手という人ほど、周りを押しのけて危険運転になっているギリギリを
評価したりしておかしい価値観になっている。
また、猫舌は食べるのが下手と言われる。
理由は熱さを感じる舌先で食べるからだと言い出しているが
逆に舌先に熱さを感じる器官があるのはそこで生命の危機をとっさに感じられるためであり
猫舌のほうが生存器官が発達しているので、生きるのが上手といえるのでは?
どうも、現代人の思い込み発言が闊歩しすぎて狂った社会になりつつあるが、
気づくのは、後世で生き残った評論家くらいなんだろうな。
100円ショップのこと。
今のIMEなどの漢字変換では出てこないが時期に、熟語として変換されるだろうな。
生活必需、そうでなくても欲しいものが手に入る社会。
基本、店舗やWEBサイトで目的に合ったものを探し購買するのだが、
それと同じようなものがそれも100円ショップで見つかるとちょっと思う。
購買したものの品質がいいものであっても、所詮消耗品。
いくつか買っておいて、おかしくなったら交換すればいいのでは?
モノ消費コト消費で考えれば、現在はコト消費の昨今。
モノオリエントではなく、コト、、つまり自分の生活パターン、効率化視点から考えたら
同じものが気兼ねなく使えるほうが充実しているといえる。
100円であることの安さより、100円でまた買えるだろうという安心感が
今の百均の価値なのではないだろうか?
あれこれと考え、よい方法を得ようとすること。
また、その考えついたうまい方法。
はっきり言って、この定義は現代社会では当てはまらないと言える。
工夫とは、
本来あるべき姿で実行できないので、それに酷似していると思われる
別のやり方で代替させることである。
そして、工夫をすることは決して正しくない。
なぜなら、本来あるべき姿で実現していない前例主義、マニュアル主義の現代社会
にそぐわないから、後に否定される対応といえる。
この前例主義、マニュアル主義で得たものは
失敗しない、自己責任を負わない効率化で色づいた無脳人間の量産だ。
工夫、創意、失敗を数多くさせないだから。
新しい付加価値、経験則が導けないところに至っている。
この実態をおかしいと思わないのは、本当に衰退する国家の有様でしかないなあ。
印材の平らな面(印面)に名前を彫刻した本体部分。
印鑑と判子、印章の区別が出来ていない昨今。
脱印鑑なのか、脱判子なのか、違いがなくただバカみたいにデジタルと言っている。
印鑑は押されたものであり、押す行為を行った証跡である。
判子はその印鑑を押す手段的道具。
脱印鑑とは押す承認行為を物理的なことであり、
脱判子は印鑑行為を無くすことと言える。
だから、脱判子であれば、署名、指紋、とデジタルでなくてもいいわけである。
今、脱印鑑と騒ぐ前に脱判子をしてから物事を進めるべきだ。
デジタルにする前に印鑑証明という制度を無くし、
外国人も含めて個人認証を統一する法制度を整える過程でデジタルというべきだ。
それを行わないでデジタル先行で進めるとまたバカが法解釈や違法とか騒ぐのだから、、
本当に民主主義の考える規制は愚かだなあ。
熟練したあざやかな手ぎわ。
「手練手管」という言葉があるのだが、
なかなか使わない四字熟語かな。
思うままに人を操り騙す方法や技術、
あの手この手で巧みに人をだます手段や方法なのだが,
これを優秀なセールスマンとみるか、詐欺師とみるかを
買い手である庶民に任せていること、そして一方的な見解をSNSで発信できるため
なかなか技術を磨けなくなっているのでは?
デジタル化の時代になると、デジタルスキルをフォーカスするが
実際はそのデジタルになっているもの、しようとしているものを
手練手管で説明、説得していくことが重要なことを忘れていないか?
どうも、評価傾向がおかしい現代社会に感じてしまう。