2010-06-30

雛型

雛型があるところ、進化、改善は遅れる。
前提条件として、雛型ありきで物事を考える。
その雛型自身の改善への提言は禁忌化される。

僕が思うに
雛型そのものがある種の雇用の足枷になっているだろう。

雛型は効率化、工期の削減目的で揃えられる。
その効率化、工期の削減自身の目的は人件費の削減である。
拡大再生産の時代であれば、
人手が足りないからこそ、人件費にあたる費用を代替させている
ための雛型があるべきであったが、
現在の不況、そしてこれからの付加価値が求められる時代において
世間一般で言われる表現でもある
人件費が一番高い
という経営論理はあるべきだろうか?

雛型という同じことを繰り返す生産ツールよりも
同じものを二度と作れない一点ものを多く作るノウハウのほうが
この先のビジネスのあるべき姿ではないかと思う次第である。

それに雛型を作り人件費を抑える経営は
これからの社会においては
購買土壌である家計に対してて
市場流動性を導く購買意欲を低下させる社会悪であるという
認識にならないと景気や経済は回復しないと断言できる。

経営自身も今までの経営の雛型思想から脱却しなくてはならない。

2010-06-29

並行

複数の事象物体が並んで目的に向かうさまを指すのだが
平行と並行を同義に捉えているせいか
多くの人間は並行を実現できないのが現実といえる。

平行の意味は交わらないというという意味があり、
複数の事象物体が合うことがなく目的に達成することである。
対して、並行は同時、同期をもって達成にあたる意味をもつ。
それぞれが独立、協業、競合しながら、目的達成に進む意味をも持つ。

それゆえに並行には調整、采配が求めれるが
現状の状況から、それぞれがどうあるべきかを示す存在として
なのだが、

多くの人間は並行というより、平行の感覚概念で
「それぞれがそれぞれの判断でよろしく」
って発言するから、、並行が成り立たないのではないだろうか?

僕は並行を実現させるための采配は意識しないと
交通事故ではないが、衝突が発生しかねないと常に思っている。

2010-06-28

叱責

社員や目下の人に叱責をしている。
相手側に立てば、それは怒られている被害者の意識なるだろう。
でもあえて、僕は怒るより叱責していると自負できる。

起きた事象に対して、
目指すところに近づいてないことへの
原因探求とその理由
そして、目指すところにどうすれば行きつくかを
感情をあらわに示している。

丁寧に説明することも重要だが、
緩急として、僕の思いをあらわにすることで伝わることを意識している。

それにより、相手が思考を巡らせてほしい。
「なにくそ!偉そうに言いやがって!見返してやる」
「だめだったから、改善しよう。」
人間は刺激に対して、抗体を活性化させることで進化するので。

2010-06-25

手順

僕自身のポリシーとして、
仕事のうまさは、技術ではなく、手順の確立だと思っている。
これは、僕個人の私見かつ特技であり、
技術の積み上げこと、仕事の醍醐味となる職人気質も
当然会っていいものだと思う。

僕が仕込まれた帝王学の一旦として親から
「例えテストで満点とっても、お前はないもできないんだ!」
と言われ続けてきた。

満点とっても、それは覚えていたことと鉛筆の動きが合っていたにすぎないのであり、
自分ができたことは鉛筆運動にすぎないのだと。
鉛筆ではご飯も食べらなければ、橋も作れない。
何もできないではないか!っと。
しかし、鉛筆を動かし、口で説明できれば
人にお願いや理解が得られる。
その理解のうえでのそれぞれの作業の順番をも説明できれば
人間の対外のことはできてしまう。
それぞれの特技が活かせるのであるから。
その順番どおりに人を動かすことこそが手順だと。

多くの会社で管理職を目指す人が多いが、
管理職という行為は、、
手順と言うものを
生まれながらの今教育、特技そして無力の自覚がないとできない。

優秀な技能工、職人を高く評価する傾向をもつ
日本にはなかなか根付かない発想だから
日本の管理職は手順を理解できていないのだろうと思う。

いいものはいいに決まっている。
問題は、いいものをいかに大量かつ高品質で生産できるか
それをいいものとして多くの人に高価で取引してもらうか
の手順的な技能を軽視しすぎだとつくづく感じる。

2010-06-24

障害

障害に対して、どういうイメージを持つだろうか?
前向きな人は、成長のチャンスと言いきれる人もいるだろう。
障害という平時には起きない経験を得られるからだという。

しかし、僕はやはり障害は嫌なものとなってしまう。
僕の場合、性分として事前に調査、回避できなかったことからの不利益、
いろいろな経験をするより、もっと気持ちを穏やかにさせることに時間を使いたい。

いろいろな障害を乗り越える術を身につけても
それは各論という個別の術であり、
汎用的なものではなく、同じ方法はまず使えない、、いや
使おうとして逆に悪化させる思いばかり、、、そんな思いしか障害対応には覚えがないからだ。

2010-06-23

範囲

世の中でかなり曖昧なもの。
自分の能力、可能性、という抽象的なものは当然のことながら、
明確に定義されている範囲内外の認識も
当事者の思い込みで結構異なる結果になったりする。

範囲を確定して活動を行うことを
他人に求めることが社会生活において頻繁だが、
範囲を確定した
ということは無理で
範囲を確定し続ける
ということが社会では求められている。

権利の前で胡坐をかく者を救わないという
法格言があるが、
常に範囲と言う自己主張する
せせこましい人間のほうが範囲は守れるようだ。。。
まー、その分、反比例するがごとく、
嫌悪、不信を持たれるリスクも高まるが。

2010-06-22

野望

Boys be anbitious!(少年を大志を抱け!)
anbitiousとは大志と訳しているが、基本は野望とすべきだ。
野望とは、他人に秘めた自らの欲の塊と言いかえられるだろう。

日本人は調和を好むからこそ、野望という表現を嫌う。
しかし諸外国では、野望という欲望に対して
比較的オープンに近いというか、
秘めた思いではなく、恥じることなく水から欲をさらけ出す。

狭い国土、鎖国の歴史、農耕気質が強いために
自らの野望は他人への侵害になりかねないから
野望より調和をとり、共存を狙っている感が日本の表現には
見受けられる。

対して、開拓精神、征服感、狩猟気質が強い欧米は
まず自分が!というところを出すから、
野望という概念もオープンできるし、その発言責任として
降りかかる障害も自己防衛という概念で、訴訟、戦闘も辞さない
構えになれるわけである。

欧米化が進んでいるといっても
気質に絡む野望、欲の実現について
口先だけでなく、相手を争っても手に入れるという概念、
相手からの交戦意識に断固対抗できる自己保全意識を
持たないと、概念のちがい国家とは交渉にあたれない。

日本人の思うありえない利権争いという考え方そのものが
国際的にはありえないと強く意識すべきだ。

2010-06-21

自戒

自戒するとは、自発的な反省であり、
そもそも、反省と言う行為は相手に求めてはいけないものといえる。
自戒である反省は自分自身が自発的に行うものでしかない。

例えば、
「反省しなさい」
って言われて、自分なりに考えて自戒した結果を
使役した側に告げたら
「反省していないではないか!」
って怒鳴られることが、人間社会で多々見受けられる。

僕から言えば、
「反省しなさい」
ということ自体、自戒を認めないエゴの塊だ。
相手を自分の思うような考えをさせたいだけであり、
自発性が全くないと言わざる負えない。
「反省しなさい」
ではなく
「私のために都合よく生きるようにしなさい」
って言っているのだが、
多くの人間は偽善者で、その事実を認める器量がないと言わざる負えない。

僕からすれば、組織を束ねるのだから、
ルールはこちらから強制させることこそ、
組織的一丸性を導けると結論付けて
使役することになんら違和感がないのだがね。

2010-06-18

伝送

情報伝達において、必ず漏れが発生すると思うべきである。
ITネットワークとて、
伝送エラーについて予め想定の前提で設計、構築されている。

人間同士の情報伝達である
コミュニケーション行為も基本は漏れのあるものでいるべきだと思う。
「そんなことはない!うまく伝わっているよ!」
という反論に対して、はっきり言えるのは
受け手の補完憶測がうまく行っている証拠と言いたい。

うまく伝わっているということは
伝達された側が、曖昧なポイントに対して
送り手の今までの発言、行動、思考を照らし合わせて
あたかも聞いたようにみなして行動補完がされていると言わざる負えない。

いくら送り手が丁寧に説明しても
人間すべての言葉を正しく理解できないものである。
僕とて言葉をすべて覚えていたとしても
その真意はその伝達のみではわからない。
しかし、その送り手側の行動から憶測をして行動していることが多い。

うまく説明しているつもりでも
結局は受け手の
能力
やる気
そして、勘の鋭さ
なくして、伝送がうまく行っているということはできない。

説明が下手でもうまく人が動いているのは
受け手の気持ちが送り手の気持ちに同調しているのであり、
送り手として、その事実に感謝すべきだろうと思う。

2010-06-17

稚拙

あまりにも表現力が乏しく、幼いもの。

僕はファーム時代
文章が稚拙であることを注意されて
結構な嫌な思いをした。
そして、そこで必死に磨いた表現力を駆使したら
「もっと簡単な表現にしろ」
とクレームをもらうことが多くなった。

文章等の稚拙なところは
相手にレベルが合っていないということに起因する。
相手の知的レベルに合わせた表現をすべきだって
社会的に言われるが、それはおかしいと思う。

相手に合わせ続ければ、
究極的には最下位のレベルの表現に落ち着いてしまう。
社会として成熟、成長することが求めれるのに
結局、相手のためという理由で
社会全体の知的水準が下がっていく一途である。

最近は
「そんなことも知らないのか!」
という表現がタブー化されているが、
稚拙なことこそ社会悪として
恥じて、奮起させることこそ、
知的水準の向上につながるのではないだろうか?

僕はその信念での指導が今の社会は必須だと思う。
愚かである恥じないことは罪だと思う。

2010-06-16

近隣

近くにいるけど、、、いや近いからこそ触れたくないのだろう。
そのくせ、周りの人間は近いことを批判する。

「隣なんだから話せばいいだろう」
「同じことをしているのだから、会えばいいじゃないか」

なんて平気で言ってくる人ほど
こちらが同じように見える存在に対して
同じように接するように問うと

「全く違う存在だ、何を言っている!」
「なんで俺が!」

なんて平気で言ってくる。

近親憎悪
遠交近攻
のようなもので
自分に近いものほど、人間は嫌い。
遠い存在に憧れ、親しみを覚えるものである。
悲しいのは、多くの人間がこの事実を認めようとしないことだ。

例えば、
仕事のことを同業を営んでいる親に聞けって言われた者が
取引先に妹がいるから仕事をもらってこい言い返して
殴り合いになっていたりしている。
根本的は同じ軸にしか僕には見えないのだがね。

2010-06-15

求人

企業の求人広告に
「一から教えます!」
というのをみるとどうしても納得いかない。

新卒採用の見出しならば、
一から教えますというキャッチは意味がないので
社会人経験者に向けてになるが、
その一から教えると言うのは企業として成り立つのか?

教える環境を持っているのか?
そんな素人を集めている企業に顧客は信頼できるのか?
と言う観点にたつ。

得てして顧客に信頼をいただいている企業は
それだけである種の社会的信頼があり、
求人するにもプロ意識を持って集めるだろう。
逆に素人が担当になって顧客の信頼を失うのが企業のリスクだから、
一から教えるという行為はタブーだろう。

そう考えると安易に素人を求人するスタンスは
企業としての経営ポリシーに関わると感じた。
人がいれば頭数で儲かる時代から
質の高い人材でいかに信頼枠を増やすかという経営思想で挑むことが求められる時代であることに。

2010-06-14

余裕

あせらずゆっくりすることと定義されるが
人生における余裕は、計画どおり、想定の範囲内でものごとが進んでいる状態を
余裕というのだろう。

僕は余裕がなくなるのが嫌いである。
それなり情報を集めて、そのうえでの安全係数をかけたうえでの行動を心掛けるのであって、
その情報量が足りない
安全係数を上回るリスクは
僕の能力というより、その活動そのものの存在理由、成功条件が危ういものとみるべきである。

自分の余裕の基準が妥当かどうか?
そんなのどうでもいいと感じている。
余裕と感じるのは僕であり、
基準の妥当性を判断する社会にあふれている理論はどれもすべて眉唾にしか感じられない。
それもそのはず、判断の妥当性なんてものはその発起人の思い込み以外何ものでもないのだから。

2010-06-11

宿敵

「的は己に内にいる」
物理的にもそうだろう。

テレビ番組のドラマや長編物語において
宿敵にあたるものは、、身内や近隣のものが
条件をかえて敵になる。

それも虚構の世界だけでなく、
市場においても、
顧客、ライバル会社と敵を想定しても
結局は出世レースで同僚が最大の敵になるのだろう。
まして、引退したのち
その経験を生かして、別の同業ライバル社の役員に平気でなるこのご時世。

近親憎悪というべきか
自分のことをよく知り、
自分の歩む道を歩こうとするもの、歩いてたものに
嫌悪や怒りを感じることが人間なのかもしれない。

昨日の友は今日の敵。
信用し過ぎるから裏切られたときの心傷も深くなる。

他人は他人の人生なのだから、
あまり自分と同視せずに距離を持っておいたほうが
自分のためではないかと感じてならない。

2010-06-10

範疇

カテゴリ、カテゴライズのことだろう。

僕は少し気になっているのだが、

国際協調を宣言している日本において
例えば、ニュースで

国内ニュースです、少子化問題が深刻です。
国際ニュースです、人口爆発による食糧問題が深刻です。

というのは、どうもしっくりこない。

少子化というのは、人口が増えないことであり、
食糧問題とは、人口に見合おう食糧が賄えないということである。

人口が減り、高齢化すると国際社会での発言力が減るから問題だ
というのだが、結局は国際社会において、自国の優位を保ちたいのであり、
国際的に人口爆発を抑止しているという発想には目を向けていないと感じる。
いろいろと問題を複雑にカテゴリをわけて、
自分たちの正当性を保つことにしかなっていないのではないか?

下手に範疇をつけて言い訳せずに、
もっとエゴイスティックになってもいいのではと感じる。

America is No.1
移民排斥運動

外国の活動は恐ろしいくらい解りやすいし、
それをバッシングすれば、紛争を起こそうと圧力をかけてくる。
それこそ、国際社会のあるべき範疇での行動だと思う。

2010-06-09

排斥

辞書的には
容認しがたく、拒み退けること
とされる。

しかし、排斥の真の意味は、自己主張の強制でしかない。
排斥の根拠は、自分の意思でしかない。
その意思を貫くために、認めないものを眼中から消すことである。

結局人間は自分の嫌いという思いをいかに理由をつけて正当化させるだけある。
排斥という行為により、
人間は自分の我を通している。

こう考え始めるとなんか今までの自分の強張っていた思いが馬鹿らしくなる。
カッコつけずに、嫌いって言い張ろうよってね。

2010-06-08

既存

存というものは、、、悪である。
保守とは悪の幇助である。

いきなりと感じるかもしれないが、
社会的、歴史的にみて、新しいことが善とされることが多い。

子供向け番組の多くは既存社会秩序に若者が向かって勝ち取る。

大手企業のシェアに挑むベンチャーを応援する。

新しい技術のよさで、既存技術の問題点を指摘する。

昔の言葉で
「権力は腐敗する」
とあるように、既存は存在悪になる。

既存という概念は
前進がなく、あることが当然になっている概念である。
時代が流転しているのだから、
既存というものは変化をしない以上、
社会から取り残され、その存在だけで社会悪になるだろう。

天下りや老人の溜まり場となっている
既存の権利組織とて、発足当初はそれなりの正当な目的があった。
(確かに発足に問題があったとしても、それが認めれる理由がなくては現代社会では発足できないので)
悪事を行うという目的ではなかったはずだ。

基本的に悪事というものは
今まで行ってきたことが形骸化、異化して発生するものであり、
癌という表現が本当に適切である。

既存はいわば、悪性新生物。
当たり前の存在のようで、実はただ無駄に消費している存在、活動かもしれない。
それを監視、駆除する機能を絶えず進化させて持ち続けることが
組織、社会秩序といえよう。

2010-06-07

残酷

ちょっと前にブームになった

本当は怖い~の童話

結末や過程で残酷な表現があるということを著していた。

現在のほ童話は
子供の教育上よくないから
残酷な描写を抜いてあるとの見解だが、
そんな浅はかな発想で編纂をするから、
残酷な事件が起きるのではないか!

今の虐待事件の多くは、加減を解らない、残忍さの認識なさである。
~まさか死ぬとは、、、
~これくらいやっても、、
という愚かな認識、、、というか残忍の概念の欠如である。
残忍なことを知り、それに目を背ける概念を幼きうちから叩きこめば
残酷なことを自ら行う時に感情がおかしくなり、躊躇もでてくるだろう。
知っていると知らないとでは大きく違うのである。

犯罪の裏に生まれ、教育が関わっているとされるが、
過保護のような事実から目をそむけた教育が
結果として、無自覚な残酷さを導いているのである。

2010-06-04

評価

評価を受ける際に、
目上からの覚えがいいのと
目下からの信頼をえるのはどちらがいいのか?

多くの民は、
将来的に考えて目下からの信頼が後になって効いてくると
未来志向で考えるかもしれない。
しかし、それは現実逃避になりかねない。

目上から好かれていないと
いい役回りを与えられない。
そういうものは、目上のお気入りの者に与えるからだ。

だから、目下のものと目上の者のことを愚痴っていれば
目下たちから一時信任されるだろう。
しかし、持たざる者の末路は目下からの裏切りしかない。
結局、持たざる者につき従っても得るものがなければ
その者との関係を解消したがるのが人間だ。

この時代、
上司がいつまでの同じ組織の目上のものとは限らないが
目下の者のことを守りたい、使い倒したい、利用したいという気持ちを持った上で
目上の人と接することが必要だ。
なぜなら、その目上の人間もまた同じ考えで、
自分を利用してくるのだから、互いの利害関係が解りやすくなれば
割り切りもしやすいだろう。

評価を気にする真の目的は
究極的には、保身に他ならない事実を強く意識すべきだ。

2010-06-03

労働

不況期の
安定志向
専業主婦化

好況期の
個人株式
ベンチャー投機

基本多くの人民は労働する気がない。
もっといえば、何もしたくないといえる。
何もせずに購買力を得たい。
対したことをしないで高い収入を得たい。
これが社会人の本能だろう。

「なぜ儲かっているのだろう」
「これ以上活動するとどこに影響がでてしまうか」

と僕のように考えているのは極めて希少だと自覚はしている。

労働の前提条件として、
付加価値の創設があり、
その付加価値がどのような状態だから
その価値に見合う対価かどうか常に考えてことにあたるべきと
親からの帝王学として、
そして自らの人生訓として、生きている。

労働において嫌な行為、
本来みんなが嫌がる行為ほど、
高い代価を得られるべきだと思うが、
みんなが憧れる仕事のほうが高い代価になっている。

その裏付けが
肉体的、精神的、技巧的、企画的、いろいろな側面からも
現代社会では見出せなくなくなっているのではないか!と
問いかけたいにも、誰も答えられないところに日々虚しさを感じてならない。

2010-06-02

点火

火のないところに煙は立たない。
という諺があるように、
火というものは因果律の塊みたいなものである。

火と言う存在は多くのものの存在価値を否定する自然現象であり、
失くしてしまう存在価値が大きければ大きいほど
勢いよく燃えるものであり、その火の付け方も特殊である。
そしてまた、その火によって、調理、蒸気、火力発電と
人間は進化を得たのである。

火こそ、破壊と創造の象徴とみなせるだろう。

ゆえに社会や人間関係にある火種も
ある意味、破壊と創造になるかもしれない。
重要なのは、破壊なくてして想像ない、
起こしてみて初めて新しい価値観が発生するというもの。

破壊は多くの人が嫌がる現在価値の否定だが、
現在価値の肯定だけでは進化はない。

社会的行動、人間関係においても
ある種の点火を試みてその結果が
どんな創造を導くかを常に意識すべきだと思う。

2010-06-01

例年

例年行われる行事、イベント等についてマニュアルを求めてくる。
毎年行っているのだから、
毎年使える恒久的なものがあれば楽になる。
人間はそう考えるが、、、、、そんなの無理、無駄、無謀である。

同じように見えて同じではない。
参加者も違えば、その時の時代、はやりが異なり、
同じことをしたくてもできないのである。

それに、たまたま同じ条件であって、
昨年と同じことをしたとしよう。
その際に、実行者が受ける言葉は

「昨年の反省がいかされていない」
「君たちの創意工夫がまるでない」

と平気言うのである。
そう、去年までマニュアルを作れと言っていた人間こそが豹変するのである。

毎年繰り返されることほど、
毎年作り直す思いで実行すべきだと思う。
所詮、人はその時の気分、思いで生きているのだから、
例年通りという過去はもう一度やってこないものである。