2011-09-30

書評

百歩譲って行為を認めても、この活動を生業にすることは僕は許せない
そんな活動だと思う。

自分の自己表現、作品として創作活動をしている作家の苦労に対して、
出てきたものに自分の意見を載せる。

「他人のふんどしで相撲をとる」だけでなく、
あたかも持論を正しい論調でまとめていくのは、
作家の作品への肯定、否定を問わず
価値に値するものではなく、価値がない以上は対価をもらうべきではないと思っている。

まして、文字で書いてあるもの、文字で評することなど、
作家の紡ぎだした言葉たちへの盗作活動以外何者でもないと思ってならない。

相手の作品に思いがあるのならば、
それは無償かつ自己責任で行うべきで
対価前提、ビジネス前提であるのはこれこそ
作家の行っている表現の自由への冒瀆と思える。

2011-09-29

鶏肉

食用家畜のなかで
鶏が一番、個体における食用肉の比率が高いそうだ。
それゆえ、養鶏活動が全世界的に推奨されている話もある。

一昔前、
ブロイラーという品種は
ありあまる食用需要に対応するために
大量生産プロセスにのせて養鶏していたために
「鶏肉は悪環境で育てられたので、健康に良くない」
という風説があった。

食料需要に対応するために
食用といえども、生命を一生懸命育てて
屠殺までして食卓に提供している活動をよくもまーいえたものだと思った。

健康に良くないものを食べないという思いが
健康ブームで騒がれているが
肉体的な健康である以前に
その発想が、社会生活的に
精神健康上狂っているという自覚はあるのだろうか?

食を提供してくれたそれに携わる人々、
そして、命を滅した食材のことを考えれば
健康ブーム自体ひどいものと思えてならない。

2011-09-28

人選

結局、人は人によって足を救われる。

社会である以上、一人では活動できない。
権力のあるものが、自分ではない人材を選び共同するのだが、
その選ぶ行為に、第三者は責任がない発言を繰り返す。

自分としては有能な人材という基準であれば
今までの経験、関係を重視することで選べば

「癒着、閉鎖的」

この批判を回避したり、新しい試みで
若手に、接点の少ない人選をすれば

「責任性、管理能力」

を言われる。

結局、人を選んで活動することは批判が付きまとうことになる。
この批判に耐えて、答えてということを人民は求めるが、
こたえるための人選では、本来行うべき活動への本末転倒になっていることが多い。

人の活動、活躍への人選行為に
表現の自由は結果的に社会停滞を導くので
規制すべきだとつくづく感じる。
基本的に発言するときには、
もう少し法的責任を持たせることはできないのだろうか?

人が人を選ぶことこそ、社会の基本である信頼の根本であり、
その信頼を批判することは社会そのものへの背徳だと感じてならない。

2011-09-27

未完

日光東照宮の陽明門はひとつの柱だけ、さかさまで未完である。
それゆえ、出来上がったものではない、ゆえに朽ちはてない。
その伝承ゆえか、未だに創建当時の姿に近いそうだ。

その言葉の派生だろうか、
画竜点睛の意味も人によって異なる。

意味由来は、
完成しかけた龍の目を描いたとたんに龍が具現化して天に昇ったというところなのだが、

ふつうは、
『画竜点睛を欠く』というかたちで使い、
ほとんど完成しているが、肝心(かんじん)なところが抜けているために、
全体がだめになっているという意味で使うとされているが、
今は、天に召されて、なかったことにしないためにあえて
未完の状態で保つという意味でも使われる。

未完であることは
未だ完成、完了に達していない、
これからもまだまだ伸びる、右肩上がりの表現なのかもしれない。

2011-09-26

流儀

古来では、特定の教義を継承する人々の指針だったが、、
現代社会では、、ただの我儘の自己主張にすぎない。

効率化、一般化において、万人ができるようにしてきた結果が
現代社会であり、そうではない行動は非効率、汎用性のない行動である。
それはある意味、その前提で自分を押し通そうとしているだけであり、
それを流儀という言葉で美化させているとしても
それは自分の非効率の正当性を相手に押し付けているだけだろう。

ストイックにそれを実行しているとしても
大きな客観的な視点に立てば、非効率、汎用性のない行動の無駄な主張といえる。

流儀を押し通せるのは
それを許してくれる周りの環境、、、いやそれを何らかの力で認めさせている強いエゴであり、
社会的な円満状態とはなかなか言えないかもしれない。

だいたい、流儀が出てくるときは必ずそのアンチテーゼを唱える勢力がいて
対峙することになるのだから。

2011-09-22

象牙

象牙には多くの思惑がある。

象の墓場
印鑑
遺伝の実験場

これらの話が日本の悪意で
つながっていることがわかるだろうか?

日本の印鑑において、象牙は大変人気があった。
そのため、大量に日本に送られてきた時代があった。
そのときの輸入業者の言い訳は

「象は死期が近づくと、ある場所に行って死を迎える。
 だから、その象の墓場に行くと、大量の象牙がある。
 大きなものは西洋人が持っていくので、日本人の小さな印鑑分など
 些細なものである。」

もしかしたら、この話を信じている日本人がまだいるかもしれない。
これは大きな嘘である。

象牙は密猟、西洋人が死んだ象の象牙を持っていくがないわけで
大きな象牙ほど、多くの印鑑が作られるので儲けが大きいだけである。
日本人の印鑑需要がメインであるのが事実であった。

そして、大きな象牙をもつ立派な象ほど密猟で狙われたおかげで
その系統の子孫が残らず、現在の象の牙は小振りになったわけである。

人間は確証があっても信じたがらない動物である。
未だに日本人の多くは象のこの事実を理解することは少ないし、
それを隠している感がある。

自分たちの自己証明の文化である印鑑、それゆえにいいものを!という思いは
時として他の動物へ悲しい思いをさせている事実につながるのである。

2011-09-21

集積

今年になって、久しくなったこの言葉。
一昔前までは

「効率的に考えれば、ひとつの場所に集めるべきだ」
「同じようなものが多すぎる、無駄をなくそう」

という言葉が常識だったのに、震災以降は

「ひとつの場所に集めるから惨事になった」
「なぜ、分散しなかったのだ」

と平気でいう。

ことをなすためには、集まることが重要。
社会という発想もそもそも、人間の集まりであり、
それなくして、今の生活はありえない。
人だけではなく、物流、機能というあらゆる概念が集積を前提にしている。

集まること、それは集中という言葉のように大きな力を生み出す。

その大きな力の恩恵を人々は受けている。
その事実、前提なくして、分散論を平気でいう人は、、、
まー、そういう人ほど、ひとりでは生きていけない他力本願であることは
集積がもたらしたある意味弊害の一つかな?

2011-09-20

神聖

もっとも邪悪なものかもしれない。

聖の字を使うと
・聖剣
・聖戦
・神聖ローマ帝国
と、自由、非暴力のはずの神の御前のはずが
その反対の意味でも許されてしまう。

現実世界において、聖剣が斬るのは人間以外ないのだし、
聖戦というもので、対峙殺しあうのは、相手もまた神を信じる熱心な信者であるのに、、

基本、聖の字がつくものは自分たち以外からすれば、邪なのである。
自分の正しさは必ずしも他人の正しさではなく、、
むしろ、自分の神聖さこそ、相手からは究極の邪念洗脳に見えてしまう。

聖なるものという考え方ほど、
他人を不快にさせるものはないというのが
この世の理なのだが、なかなか理解されそうにないなあ。

2011-09-16

行楽

日本人の感覚なのだが、

「好きな仕事をしたい」
というくせに
「好きなことを仕事にしてしまうと、楽しくなくなる」
ということが並立しているような気がする。

<報酬>と<やりがい>の両天秤に対して
多くの日本人は<やりがい>と答える。

守銭奴という表現や
自分の報酬額を隠すのもまた日本人独特のものだといえる。

pay <報酬>の高い仕事を選ぶべきだ、
それが<やりがい>という感覚にならないのがいつも不思議だ?

好きな仕事や<やりがい>を日本人は先入観で決めているが
やってこそ、やっていくうちに、そう変えていくという思想が欠落している。
それに、<報酬>が高いということはそれなりに
やりづらい、やり手がいないからこそであり、
そういうものに挑むことこそ、<やりがい>だと思う。

なんか、勘違いしているように感じる日本人感。
高い支払いをもらって、みんなできないことをすることが仕事の醍醐味であって
やりたいことって誰がすでに定義した旨みの枯れたことであり、そんなものに高い支払いをするわけがないだろうに、、

2011-09-15

叛旗

「叛旗を翻す」

いかにも体制側の発言だが、
翻した側は

「腐敗した体制を改善させるために立ち上がった」

となる。

勝てば官軍の言葉のように
最後に実権を握ったものが負けた側を
反乱、崩壊と呼称するだけであって、
どっちが正しいというのは難しいと感じている。

つまりは、勝算ないものが悪いのであり
結局は、自然淘汰、弱肉強食なんだろうな、
高度社会といわれていても
論理性、納得性が求められても
勝ってしまえば、、、それは真理のひとつなんだろうな。

2011-09-14

検討

答えはいくつもない。ひとつである。
検討はいくつもしてきた。

これが社会の根本であるが、
現代社会は形骸化、目的と手段の混同が甚だしい。

「答えはひとつではない」
「これまで行ってきた努力を評価してほしい」

この発言をそうだ!と思う人が多く、
この手の人に責任や権力は与えるべきではない。

答えはひとつであり、
検討系のいくつかの検討結果の確からしさは実績である。

この手の考えが横行したのも先人たちの愚かしさゆえでもある。
「なぜこうなったか!」
という要求側の発言が
「答えが1つだからです」
と答えたことから、
考える行為のボタンの掛け間違えが始まった。

要求側は
・検討した確からしさをもって成果、実績とみなしたい
・代替案の存否
を求めた。

しかし、被害者感情、庶民レベルでは
・答えがいくつも必要
・こう考えるまでの努力をみたい

と思い込んだ末路が現実のようだ。

検討行為を
手段とみなせるか、
それを目的とみなすか
要求者と実施者の思いは大きく異なることがよくわかる。

2011-09-13

歩幅

歩幅は処理能力単位と同義と感じている。

身体的特徴で人の歩幅は人それぞれ。
それゆえに、歩幅の数=長さとはならない。
また、歩幅が広い、狭いからといって
必ずしも、歩みの速度が早い、遅いとはならない。
歩幅の狭い、、狭いからこそ、早く取り回しができて
足の速い人もいるといえる。

これは、コンピュータのnビットアーキテクチャーと同義といえる。
歩幅と同じ概念たる、演算幅が8ビット、16ビット、32ビット、64ビットと幅広になってきた。
それにあいまって、ムーアの法則で、CPUのクロック数も高速化されてきた。

取り回しであるCPUのクロック数が近代では数社、寡占による
ディフェクトスタンダードに成っているゆえに
演算幅の広さがものをいう時代でもある。

歩幅をコンピュータのアーキテクチャーゆえに、
その先を皆さんに問いたい。

皆さんの頭の歩幅は
一度に多くのことを考えることができますか
それとも、高速に処理をできますか?
みずからの頭の高性能化は、
上記のように考えて、今の自分に足りないものはどっち
どう補うかを考えるという視点も一興かと。。

2011-09-12

憐令

生類憐みの令をどう感じるか?

「天下の悪法」という言葉があるが、
それが蔓延していること自体が後付、試験問題だなあって思う。

この令の経緯は
いろいろな時代劇で説明しているので割愛するが
法令の効能については、あまり表していない。

この法令のおかげで
無駄な殺生が激減したのである。
この法令発令前までは
戦国時代の余韻の残る時代感。
「切り捨てゴメン」
「刀の試し切りで町で辻斬り」
「武士の思い一つで、他人を殺しても罪の概念がない」
人がこれなので、犬なぞ生物としての価値が、、、
それを法令で禁じた、生物擁護の画期的な法案だった。

天下の悪法としているのは、、
歴史的に明治維新の徳川批判体制、同期の水戸光圀のヒーロー性にあやかった解釈に感じる。

現代社会なら当たり前やりすぎといえるかもしれないが
その行為を当時の社会で行うと奇異に見えることが多い。

そう考えると、、、歴史的な事実って本当に正しいのか??って感じる。

2011-09-09

翻訳

同じ意味で、他の言語に変換する。
どだい難しいことであり、
意味が同じと思っても、実際に伝わる内容が異なる場合が多い。
翻訳は逐語訳ではなく、
その言語風土によらなくてはならない。

例えば
アメリカンジョーク
慣用句
各国の故事に倣った表現
などは他の国には通じない。

簡単な表現で言えば

A piece of cake ! = 朝飯前!

ということは逐語訳では通じない。

その文意、会話の流れから汲み取るしかない。
ビジネス英語とかTOIECとかで一生懸命やっても
それが通じるとは限らなかった。
なぜなら、言葉は進化しているし
話す相手が、ビジネス英語やTOIECレベルと
関係ない世界に人間だったりするからだ。

同じことはこの日本でもいえることで、
絵文字メールを
日本語検定を受けてきた外国人が読めないことは至極当然といえる。

所詮、言葉を訳すのではなく
自分の思いをなんらかなカタチで示すしかない。
もっと言えば、人間共通なのは、痛みだからこそ
武力、暴力がコミュニケーションとしてなくならないのも
翻訳の結果だと僕は感じている。

2011-09-08

神童

悪人のたまご。
結果的に現代社会ではこれが現実だ。

神童といわれてしまった子供は
そのまま育ってえらくなると、
政治家やエリートビジネスマンになり
庶民から非難され、
途中、その道から外れると
「昔はいい子だったのに」
といわれる。

自分としての生き方をしていても
世間から悪くなったように見られてしまう。

また、何度も記述しているが
現在物語の多くの作品は
努力、優秀な存在は結果的に敗者として扱われ
その場しのぎ、無神経が人間がヒーローになる話が実に多い。
創作物だから現代社会とは異なると言い訳しても
作り手ではなく、視聴者のレベルがそう感じていない現代社会では
そのような人間を心から目指してしまう愚行も目立つ。

能力主義といいながら、
日本では能力を伸ばさせない風土と国民性があるといえる。
画一思考が劣等種を最小限にとどめてきた誇りもあるだろうが、
基本自然界は自然淘汰であり、優秀ではない個や他人と違うことで
生存競争を戦わない種は滅びる道理を正しく理解して
割り切りや自分自身の力で生きる道を個々が目指さないとだめといえる。

日本でおける神童といわれてちやほやされてきたみなさん。
どうせ、世間の評価なんてこんなものって感じておられますよね。

2011-09-07

理学

自然科学の基礎研究を行う諸分野の総称。
理にかなっているの’理’といえる。

この概念は迷信や伝承の裏づけや否定につながっている。
今まで自分たちが信じてきたことがどうしてそうなっているかを
解明する学問に近い。

そして、この理学こそ人間の叡智の積み上げに感じてならない。
人文学系は個人の説や思いが強いのでなかなか積み上げにならない。
解明される自然現象の前提で、次の事象を解明していく。
前提である解明は先人たちの活動の結果であり、
それを血統ではなく、学問を志すものが受け継いでより深めていく。

血筋、人種に関係ない、後継へ引き継がれるすばらしき
人の世界の伝承が理学と思ってならない。

2011-09-06

粗捜

近代社会は、粗捜しばかりで権威を貶めている。
少しでも、注目される人が出てくると
その人への賞賛より、粗捜しばかりが行われる。

・あの人、○○だってよ。
・あの人、昔、、こんな悪をしていた

ということだけでなく

・あの人の親類は、○○だ
・仲の悪い親類と絶縁状態だ

という、本人の一族について言及したあと、

・あの人の近所は
・あの人の住んでいる地域は

という、生態にまで及ぶ。

これらの情報、報道について
「知りたい人がいるから」
と正当に言い続ける現代社会だが、
注目された事項には、社会的要望があったから注目、期待しているわけであって
それとは直接関係ないことで注目していることへの障害、邪魔はあるべきではないと思う。

個人情報と知る自由の戦いではないが、
知る自由の根本は、個人の情報ではなく、統治機構への自由という法理を知らないので
知る自由と思い込んでいる粗捜しの愚行は、
知られたくない個人、知りたくなかった第三者の自由を奪っている事実を忘れていないか?

2011-09-05

地方

「中央は地方をバカにしている」
「地方を信頼していないではないか!」

という話を聞いたが、、、、そのとおりであるといいたい。

僕が地方で目にしたのは
「なんで残業するんだよ、定時なんだから帰ろうよ」
「1分でも残業したら、残業代を請求しないと」
「どうせ、いいんだよ、適当で」
という言葉ばかりだった。

現状では、仕事への責任感を感じられないことが多い。

これは鶏卵論かもしれない。
中央が地方を信じないから、地方はこういうふうになる。
こういう地方だから、中央は信頼は信頼できない。
どっちもどっちである。

今のままでは、全く改善されないだろう。
どっちが玉を持っているかといわれれば、
玉などない。玉は作ればいいわけである。
地方にビジネスチャンスをあたる中央の判断
地方独自のサービスを中央に持ちかける
いろいろとある。

そしてもっと言いたいのは、地方で仕事をしている人たちに

「がたがた言わずに、
 その仕事を辞めるか、中央に出て行けば?
 理由はどうであれ、地方のせいにしているのは甘えではないの?」

とね。
地方根性が地方としての意地でないプライドは認められないと僕は判断するがね。

2011-09-02

検査

自信あるものになってから、成果物を検査対象にあげる。
市場論理として、至極当然かもしれない。
その成果物を製品、商品として顧客に提供する観点からすればそうであろう。

しかし、全くできてない時点から検査を行う方法もある。
これでは製品、商品にはならない。
しかし、これにより、提供側、作り手側のスキルが見いだせる。
・モノづくりの傾向
・好きな工程の緩急
・どこのアセンブリから進めるか
など
製品、商品という最終アウトプットではないが
中長期的には、生産活動をよりよくするヒントが隠れているかもしれないことが見れる。

とかく、最終アウトプットばかりに目がいくかもしれないが
途中の過程での抜き打ち検査なんてものは
案外、見えてないことがみえるいい活動と思っている。

2011-09-01

助舟

打ち合わせをしている際に、
劣勢側を支援するつもりで議論に割ってはいる行為をさしたりするが、
多くの場合、いらぬおせっかいになりかねない。

助け舟は基本、助けたいという思いであり、
助けられた思いと一致するとは限らない。

最近では打ち合わせの手引き、how to の書籍が乱刷されているどころか
内容は他の本の反対を書くことで自分の内容の正当性、売り上げを意識しているせいで
打ち合わせの進め方の思いが乱立している。

あえて、劣勢ゆえに開き直るやり方を行うとしているときに
助け舟を出して、かえって自分の思惑通りにならないことになった場合、
相手は助けてやったつもりでも
こっちとしては、「なんてことをしてくれたんだ」
と相反する気持ちになってしまう。

助け舟のような、親切行為は現代社会においては反対に作用してしまうことが多く
あまり他人に干渉しないことのほうが、互いに安全と思うべきだ。
人によっては自分の都合で、助けてくれないって騒ぐが
助けてもらう状況に陥った自分の無力さを恥じて禊の代償を払うべきが
自然の摂理だと思うのだが、そうではない日本の変な思想が恐ろしくてたまらない。