2010-12-31

医療

人の命と健康を守るための行為であるが、
本当にそれが社会的に正しいのだろうか?

幸せ=長生き、ではないと僕は確信している。
それに現代社会にいたるまでの長い年月、
人は死に際に美学を求める行為に勤しんでいた。
無駄な延命は命より大事な誇りへの、家系への汚名とされた。

それに医療の発達が逆に不幸を導く実証を経験をした。

父は
定期健康診断結果として医者の言われるまま、
肺がんになるから、たばこを辞め
元気な体作りのために、適度な運動を言われた。
それなのに、
ストレス性の胃がんが発症、健康体ゆえに
がんの進行が早くあっけなく死んだ。
医療を信じてこの結果である。
ある意味、夭折したと思える感はあるし、
所詮医療が発達しても無駄なものは無駄だと痛感した。

そして、父の兄である伯父は
高血圧、高脂血漿、すい臓病で
ことあるごとに入退院を繰り返しているのに
もう喜寿を迎えている。
その分の高額医療費で生活苦になっている。

生存権のもとに医療を発達させたが
人を幸せにしたのか?
その延命行為に膨大な費用をかけていることで
個人、社会を不幸にしているかもしれない事実を
命の価値という大義名分で割り切ることにいささか疑問を感じている。

新渡戸稲造たちが国際社会に説いた

武士道

が近年までの大義名分だった国家のあるべきすがたなのだろうか?

2010-12-30

良問

受験や資格試験の過去問題解説や問題集において
「この問題は良問です」
と表記されているものがある。

この表記の基準が僕にはかなり不可解に思える。
基本、出題者と模範回答者は別人格であり、
出題者の意図と模範回答者の気持ちは通じることはない、、
通じてしまったら、それこそ癒着賄賂につながる。

一度大学の教授に聞いたのだが
入試問題について、
学校や予備校の講師たちが
「○○について理解しているかどうかを問う問題なので、出題者の意図を汲み取って、、」
という説明をしているが
当の大学の出題検討している人たちは
広報レベルではそれなりに考えて発言するが
問題作成の時には
「こんなことを知っていて当然、ちゃんと勉強して来い」
という発想であり、出題者の意図というレベルは
回答、解説者の自分の正当性の言い訳に過ぎないとのことだった。

僕の思いとして
問題に良し悪しはないと思う。
出題された以上、それに対して答えるだけである。
いろいろと憶測を練って考えていることは、、、
基本的に目的を異化していることになる。

ひとつ言いたいのは
良問を解くことは目的ではなく
出てきた結果を得ること、合格することであればよく
その問題がいい問題だったということにこだわるのは
その先の目的を見失っている証拠である。

資格が持っているに越したことは無いが
それを持つこと
問題の良し悪しを語ることが
ゴールになっているのはいかがなものか?

2010-12-29

真打

噺家の世界の、前座、二つ目、そして真打となる。
高座において、最後を務められるくらいのうまさ
しめ方を持っていると認められた存在とされる。

転じて、社会活動においてキーパーソンにみ当てはまるところで
使われたりしている、なじみのある表現となっている。

しかし、価値はインフレを導く。
真打とされるものが重宝されればそれるほど
その器がなくても真打にあげてしまい、
真打全体の質が下がることになる。

そうなると、真打の中の真打みたいな存在が出てくるだろう。
現在の噺家の世界では、真打の上は明確になく
名誉としての名人格、そして名跡の襲名がある。

これは噺家だけではなく、どんなところでもあり、
相撲も偉大なる関取で、大関が最高位だったのが
その上である横綱という存在を導いたり
京都の五山に相国寺をを追加したいからって
南禅寺を五山の上という地位に格上げしたりと。

すべての価値は市場原理なんだろうなと感じる。
結局、どんどん階層、階級のカテゴライズが陳腐化していくので
それ以上の地位を求めてしまい、今の地位が相対的に低下する。

逆に言えば、
新しい最高位が出てくる環境とは
現時点で活性化、社会的認知度が高い環境ということができる。

芸事も市場も
現在認知されている最高位という地位に就くことはゴールではなく
新しい最高位を創設することが永遠の命題かもしれない。

2010-12-28

新聞

新聞の論調に
「新聞が衰退したら、民主主義は終わりである」
と記事があったと話題を振られた。
僕に振られたのは
電子化、政治学専攻の観点から
ご年配から振られたネタだが、、、、

僕の見解からして、
新聞も民主主義もすでに過去のものであり、
それに価値はないと断言できる。
新聞記事の論調が既に破綻している。
新聞と民主主義は関係ない。
もっと言えば、現代社会と新聞はすでに民意と離れている。

新聞は第4権力であるメディアの旗手のつもりでいるが、
それは日本の中堅大手新聞社が行ってきた宅配制度による悪しき結果だ。
人々は毎朝、決められた新聞社の社説、見解を読み
鵜呑み、洗脳していていた。
これは民主主義における表現の自由の背理である
情報の選択の自由を抑止しているわけであり、
民主主義とは言いがたい。
新聞社に都合のいい民主主義であったともいえる。

現代はIT技術の高度化、個人思想の自由化で
誰でも、自分の意見を不特定多数に配信できる時代になっている。
決まりきった情報統制から離れた
新たな時代に入ってきたのかもしれない。

新聞社からすれば、自分たちの作った
思想統制でなりたっていた民主主義の崩壊かもしれない。
もっとも、新聞の見えない統制から離れた民意が
自由なのか
混沌なのかは
後の時代に評されることになるのだが。

2010-12-27

通勤

弊社において、創業して一番初めに否定した社会通念かもしれない。

出勤行為は必要だろうか?
この点から考察して、
必要性どころか、
負荷でしかないという結論になった。

・個人が作業に集中できる場所は会社か?
・出勤、帰宅にかかる移動時間は稼働時間ではないのは会社のエゴではないか?
・交通機関の障害による通勤遅延を遅延証明にして会社は意味があるのだろうか?

僕からすれば
作業場所に集まる行為は集団知の効率化より
作業停滞の談話の促進につながるとみなしている。
ならば、作業は個々に依存、
集まる理由があるときに集めることが
真の作業効率として、通勤行為をなくした。

それにより、
社会通念との乖離している自覚をもって経営しないと
社員が勘違いするのは、弊社に限ったことではないので
気をつけているが、
無駄な行為を否定することに気持ちは常に意識すべきだと感じている。

それにしても
交通網が発達したことはいいことかもしれないが
毎日のように運行遅延が起きて
勤務時間に支障がでる社会は
いかがなものか、一歩引いて社会を見ることは日本人はできないのだろうか?

2010-12-24

削減

バブル経済の崩壊後
多くの企業体でとられてきた施策は
削減という御旗と言い切れる。

コスト削減
経費削減
稼働時間削減
人員削減

そのことを可能にさせたのが
IT技術なのだが、皮肉にもそれが現在の不景気の要因になっている。

コスト、経費削減が
仕入先企業の発注額を下げて、
企業倒産を導いている。

稼働時間、人員削減は賃金水準を下げて
家計の収支を圧迫、購買層の小規模化、衰退を招いている。

削減というものは
大きく言ってデフレーションそのものである。
削減を目的に経済活動すること自体、市場否定である。

削減は過程でなくてはならず、
ある目的を行うために、現在の多くの力を集中している箇所の負荷を下げて
余った力を目的に当てる、力の再分配の成功要因でなくてはならない。

無駄に声高に
「削減、削減」といわずに
プラスなものを見出して
そのために再分配をする結果としての部分削減を意識しないと
削減の根本的に考えれば、自分がいなくなることこそが大幅削減といえるのだから。

2010-12-22

引金

現代日本において
本当の引き金を弾く人はそう多くないが、
毎日のように人々は引き金を弾いているような社会になっている。
引き金をひくとは外来語のトリガーに由来している。

トリガーの意味は塞き止めているところを開放するに近い意味である。
この意味が現代社会しいては日本社会の現れと感じてならない。
つまり、多くの人々はないかしらを塞き止めている。
感情
問題
禁忌
それらを表に出さないように生きることが社会生活であり、
互いが互いにそのトリガーをひかないようにしてするべき社会である。
ある意味、アーケードゲームにあるイライラ棒のようなものである。
高度成長期までは、そのトリガーを触らないようにしてきたものだが、
個人主義の横行、個性の偏重が
自分のトリガーしか見えない人間台頭いや
精神的社会生活レベルが低下したがゆえに
他人のトリガーを引いていることに自覚がないのである。
だから、毎日のように対人関係はトリガーの引き合いになっているように映る。

僕のようにわかっていてあえてトリガーをひくことにより
その人との関係を計算しようとするレベルの所謂騙しあいなら
知的ゲーム感覚で探りあいができるが、
現代社会はゲームというより自分の我を通すバトルロイヤルにみえて
計算なく、他人のトリガーをひきまくっているなあって感じる。

2010-12-21

送迎

高級官僚、会社の役員幹部が社用車で送り迎え。

なんかバブルのように感じるし、
それが今で言う事業仕分けの対象になるだろう。
社会悪のように思われるが、それは一概に言えるのか?
庶民発想すぎないか?

僕の祖父や父の得意先は所謂、戦争成金のなりあがりであった。
だから、社用車での送り迎えというものを身近に感じていた。
そして、未就学児のときに
大手の得意先の社長からこんなことを言われたのを
未だに覚えている。

おじさんたちが、
運転手さんに送り迎えをしてもらうのは
電車が嫌いなわけではないのだよ。
おじさんたちを嫌う人に命を狙われたり
おじさんたちをさらって、お金を脅し取られないためでもあるんだよ。

という言葉だ。
今になってそう感じた。
成金はお金を持っているからこそ成金であり、
日本ではお金持ちは卑しいと蔑まれるし
身代金要求には、あまり本腰ではない国家レベルであるから。

まして、現代社会。
身代金誘拐が国産犯罪化している昨今もあるし、
社員の命で会社の存亡に関わる身代金ならば、
社用車で送り迎えのほうが安く済む。

社用車とて、
会社で車を買い経済活性化させ
会社の営業品目でない行為で運転手を雇用できる。

害よりも社会益が多い行為だと思う。
そもそも、庶民根性が現在の景気の圧迫を呼んでいるだから
庶民よりの発想を捨てて、考える時代になったと思うことはできないだろうか?

2010-12-20

民意

民意というものは、現状否定ということに尽きる。
古今東西、民意とされるものは現状批判になっている。
今のままではいやだという趣旨の回答ばかりである。
つまりは変革、刺激がほしいだけではないかって感じる。

そのうえ、熱しやすくさめやすい。
ある指導者を選んだ半年後には
その指導者を国賊呼ばわりすることは歴史、現代の事実が物語っている。

民意に長期視点はない。
それゆえ、民意の強い国家運営は一進一退で進化が遅いどころか、
相対的に逆行していることもありうる。

あえて言えば、
民意を尊重し始めた段階で
国家反映はなくなると思うべきである。
なにふり構わず、否定しているだけなのだから。

これは国家レベルでなくとも組織、会社もそうだ。
社員優遇を言い出すと
結果的に顧客信頼との天秤となり
会社としての与信をなくす結果をごまんと見てきている。

民意によって選ばれた存在ほど
八方美人の風見鶏であり、
選ばれたことがゴールになり、それ以上は無理というもの。

新しい価値観、長期視点で変革を求めるならば
既存の民主主義最善論を捨てる時期であると言い切れる。

「未来の子供のため」
という真意には
今の人間が生贄にならずして
成り立つわけがないことを自覚すべきだ。

2010-12-17

育成

健全な肉体、健全な精神とはなんだろう?
そしてそれを求めることは健全なのだろうか?

そもそもおかしいと思うのは
健全な精神の子供たちを育てるために
悪いことを排除した教育をしよう。
なんて発想は自体が健全ではない。
それは思い込みの人格洗脳でしかない。

いろいろな経験、
場合によっては如何わしいことに触れてきたからこそ
ものの有用性、大切さがわかるものである。

「これがいいことだ。」
「悪いことに触れてはいけない。」
という温室育ちが健全だろうか?
やっていることは、
ブロイラー育成、
農薬加工栽培の野菜と同じで
外害に弱い劣勢種の生産に変わりないと言い切れる。

現代社会は他人に理想を突きつけて
自分はやらなくていいと思う思想が多すぎて
結果、他人批判しかおきていないのも
この健全育成という夢物語信仰の悪しき成れの果てと思うべきである。

やけどしたことのない人間に熱さの痛さ、怖さを理解できようか!

2010-12-16

肩書

最近の日本において、どう間違ったのか、
肩書の存在、運用が形骸化されている。

はっきり言えば
名刺の1ラインだけになっていると言い切れる。

肩書は

・上下責任の所在認定
・社内の絶対的ランク付け
・給料体系

を象徴するものであり、この肩書きだけで
社内外の他人に簡潔に自分の存在意義を示すものである、、べきだが、、

・プロジェクト制による地位の乱立
・肩書きでの呼称を嫌う不敬文化の正当化
・能力主義

で責任の所在やその人物の存在意義が
社外どころか、社内でも全くわからなくなっている。
そんな状態で、正当な絶対的な査定、評価が可能なのか
会社を持つものとしていささか疑問に感じる。

会社は学生の学級会ではない。
たまたま、日直、班長になった存在では責任はとれない。
みんながんばろうという落としどころは存在しない。
組織内外に示すをつけるために、賞罰必須をとらなくては統治できない。
だから、肩書きによる責任とそれに伴う対価が求められるのである。

上記の思いをしっかり受け止めれば
真の社会人ならば、
必然的に肩書で呼び合うことになるはずである。

2010-12-15

職人

創作技術を生業とする者たちへ
職人をprofessionalとしたら
芸術家をartistとしたら
としたら、決定的に違うのはなんだろうか?

お金を稼ぐかどうかだって?
日本のアーティストといわれる人たちは
高額納税者に名を連ねていることを考えれば
彼らをartistにした場合のprofessionalの定義は?

いろいろと言い訳のような定義を耳にするが
結論はここに示すものが正解と言い切れる。

professionalである職人は
無数の縛りを抱えた中での結果を導く存在であり、
artiastはsの縛りから解き放たれた自由発想の創作活動者といえる。
その縛りは
時間的
環境的
予算的
なものであり、
出てくる結果のアウトラインを多くの関係者と意識の共有が行われた
創作活動の結果を求められる。

対して、artistとされる芸術家は
その芸術家の感性、思い、表現の方向性の結果であり、
出てくる結果への納期、完成場所、無論金額も算定できないものである。
結果により、初めて関係者に意思の共有が初められるのである。

Businessにおいて
artistic な完成はいらない。
professionalとして、与えられた条件のもと
結果を出せるそんな職人気質を強く求めたいものである。

2010-12-14

才能

個人の才能というものは
個人ではなく、その才能を引き出した人のおかげである。

断言できる。
才能を出すのは自己啓蒙では決して無理であると。
なぜなら、才能というものは他者評価であり、
自画自賛では才能とは認められない社会なのだからである。

とはいえ、才能なんてものは無能の紙一重。
時代ともに評価は変わる。
抽象画をうまいといえる社会があるから、認められるピカソの絵画。
ドラクロアの的確な描写力よりデジタルカメラのほうが解像度が高いので
デジタルカメラ作成者をたたえることができようが
ドラクロアの描写力を未だ持って評する。
石川啄木が評価されたのは、死した後のこと。

個人が自己の才能の気づくのは
生前ではなく、死した後のほうであり
かつ、経済的な投機マネーの臭いがしてならない。

今、自分の才能が認められないと思う人が多いと思うが
それは才能というより、投機マネーの対象に現段階では値しないからであり、
そして、あなた自身がまだその才能に固執しているから
評価されないのかもしれないと理解してわりきったほうがいいと思う。

2010-12-13

試験

試験、テストの趣旨が
社会としておかしくなっていると思う。

「100点をとれた。」
「基準以上の点数を出しています。」

という言葉が踊っているが、これは品質を下げているという可能性のほうが高い。
つまり、基準のしきいを下げれば、下げるほどその合格ラインに
届きやすくなり、言葉の意味を誇大表示したことにならない。

そもそも、テスト、試験の必要性は
品質維持と同等に、発生した不具合から今後の改善点、改良の種を見出すことでもある。
不具合が出ることは、
問題ではなく
改善への一歩である。

間違えたことを責めるは愚の骨頂であり、
間違えたことの原因、要因、再発の可能性の因子を
洗い出すことで全体品質の向上が図れるものである。

まして、現代社会の
オンラインによるパッチ配信
機能改善の機会増大
により、完全なものの出荷より
出荷後の定期改善、メンテナンスがあることが
よいサービスと思われる社会価値観の変革であればなおさら
試験の目的は
合格点より
不合格ポイントへの対処が
重視されるといえる。

2010-12-10

芸術

生産性はないが、精神を癒す形而上活動といえよう。
この定義からすれば、
娯楽はすべて芸術ではないかと思う。

現代日本人は愚かにも
彫刻、絵画等を崇高に考え、
漫画や人形の類を相対的、絶対的に下等にみなす傾向がある。

僕からすれば
古典芸術はその芸術性は薄れ
資産的ステータスに異化されている以上
真の芸術性を持っているのは
現在身の回りにある娯楽そのものではないかと思う。

バロックアート等を美術館で1時間見続けるのと
漫画喫茶で1時間読みふけるのでは
どちらが精神的に楽だろうか?

多くの現代人は漫画喫茶である。
美術館でくつろいでいるのは、
現代社会では少数派であり、
その少数派が崇高とは僕にはまったく思えない。

ゆえに僕は
古典芸術とされるカルチャーとされるものと
漫画等のサブカルチャーとされるものと
を同一軸で楽しんでいるんだが
なかなか庶民には階層立ての壁があるようで、、、僕には理解しがたい。

2010-12-09

充実

充実した生き方とは、
不自由であることが必須条件といえる。

不自由が少しずつ改善されていく過程こそ人間が充実感を得るものである。

だからこそ思う。
治世、監督者の行うことは
生活改善ではなく、不自由要素を常に提示し続けることではないかと。
生活改善を提供してしまっては
充実感をえられる過程の機会をなくしてしまうどころか
庶民は与えられて当然、
もしくははじめから持っていたものと錯覚してしまう。

普通選挙権は今では当たり前だが、
これを獲得するのに多くの人々が苦労したことは
現代人には教科書レベルでもわからないのだから。

便利、よい生活と自覚するためには
不便、苦しい生活を経験しなくてはならない。
それゆえに、充実感、幸福感をかみ締められる。

それを結果的、作為的でも経験させることも
人の上に立つものの使命ではないと最近は感じる。

2010-12-08

将校

兵隊たちからすれば
「将校は口で言えばいいだけで、現場で生死をかけるのは自分たちだ」
という論理で騒ぎ立ている。
多くの物語やメディアもそのような論調で表現を展開している。

しかし、そうだろうか?
本当に将校という存在はそういうものだろうか?
強いて言えば、現場管理職として兵隊たちより楽な存在だろうか?

僕は現代の管理職を含めて思う。
管理職は現場のために、全方位で戦わなくてはならないと!
それは味方なき戦場ではないかと。

兵隊の存在意義を常に矢面受けて立たねばならない。
行動の正当性を上層部に説明、納得させ、
行動のタイミングは兵隊たちに統制させて、
戦果の立証を多くの第三者である人民に伝えなくてはならない。

上も下も世間もいろんな意味で、敵である。
それに対峙し毅然としなくてはならないのが将校、管理職である。
現場サイドは目の前の行動を遂行する’だけ’でいい。
その前後に控える、生き地獄をかいくぐることは考えなくてはいいからだ。

目の前のことに当たるだけで文句をいうより、
その前後に耐え難い、罵声と蔑視をうけ続けることにどれだけの人間が気づいているのだろうか?
現代の管理職不足の多くはこの事実に耐えられずに
現場に逃げることへの自由があることもまた不足を呼んでいるのではないかと思う。

管理職の苦痛を理解、敬うことが組織を強くすることと思うし、
その管理職を助ける気持ちや守る気持ちを持つことが
組織の結びつきを強くするといえよう。

もしかしたら、
読者のお父さんももしかしたら
それ相当の将校、管理職かもしれないのだから、
敬ってみては?

2010-12-07

本質

本質を見抜く。
難しいとされることと言われることだろう。
しかし、僕からすればそれはそう難しくない。

こう書いた内容を見て
「お前にわかるわけがない」
っと思った読者は見抜くのが難しいではなく
才能がないと思うべきである。

本質とはありのままのことである。
見たままであり、それを見抜けないわけがない。
問題は、それをどう他人と共感できる表現で伝えられるかである。
見ているものが同じでも、
それをどう表現するかは、その人と伝え手の関係にも依存する。
気の聞いた表現だとより伝わるのだが
なかなか伝わらないゆえに、
その本質を見抜けていないと揶揄されるのが現代社会、人間関係であるといえる。

本質を見抜くことなんて簡単であり、
その次にその本質からどう有益な事象に展開していくかが
現代人に足りないとしか言いようがない。

知っている、見抜いたことなんても
僕らすれば至極当然。
それゆえにどうするかを考えて発言、行動を続けろといいたい。
まして、聞き手がその事実を否定することで何が得られようか?
相手の思い込みを否定する前に、
自分の固定概念の再編成を意識すべきである。

2010-12-06

模倣

他人の行為を真似る。

文化交流誌の社説からの引用なのだが、
欧米では、オリジナルへの意匠侵害だが、
中国では、最高敬意である。
この論理から、中国では違法コピーを悪いと思うどころか
オマージュとしていいことと思われる文化なのである。
欧米からいろいろといわれるから、
違法コピーを取り締まるのだが、
根底にはなぜ怒るのかわからないという思いが中国にはある。
そうだ。

日本でも、師の教え、伝統継承伝というものを尊ぶ。
しかし、切り口を変えれば、模倣そのものである。
日本では、
親しき存在の模倣は尊ばれ
見ず知らずの存在の模倣は不正コピー
とみなされることが多いが、これは独特の観念と言い切れる。

中国からすれば、
いいと思う気持ちがあるから模倣し、
それに共感するひとにその気持ちで真摯な価格で提供している。
こんなまじめの思いを違法コピーといわれることが理解できないという。

国が違えば、感覚が違う。
模倣を違法コピーとして取り締まるという概念は
これからの高度情報化社会ではナンセンスになると思う。
誰の模倣か、どっちが先に行ったかが明確にできないくらい情報が早いから。
これからは模倣されることを抑止するより
模倣されることこそいいものの証拠と割り切っていくことになるだろう。

考えてみれば
今生きている人々の人生なんて
99%は他人の模倣だと思う。
親、兄弟、先輩、先生、技術の先人からの
Copy & Paste でしかないではないか。

2010-12-03

先読

洞察力が高いゆえに僕は相手の行動を先読みできてしまう。
一聴すると、先読みができるということはとてつもないアドバンテージに感じられようが、
基本、現在社会において過ぎた能力は身を危険にするもので
必ずしもいいものではない。

先読みをできたことを第三者に伝えてしまったとする。
それはある意味予言になり、そのとおりになる。
そこで賞賛されるどころか、人間は強欲で
「わかっているなら、どうにかしてあげればいいじゃないか!」
という発言で僕を責める。

では、それを伝えたら、
行動を予測された相手は烈火のように怒り
「お前に言われる筋合いはない、自分のことは自分でわかる!」
と言い放つ。
この指摘によって得られるものは何もない。
予測どおりであると、なかろうと
「お前が言うからだ!」
という結論しか導かない。

まして、
行動予測して被害を蒙るだろう存在に助言をして貢献したつもりでも
本来加害する側の責めをかわり、こちらに対して矛先が向けられる。
なんとも、憤慨の至りだ。

所詮、
相手の行動の先読みができたところで
自分に得られるものは少なく、
それを自分以外への貢献に変えると大きな不利益になるだけである。

アルジャーノンシンドロームというべきかも知れないが
過ぎたるは及ばざるが如し
社会生活という範疇においては、異能は使わない限る。

2010-12-02

肉食

今回は自分の主観、経験の結果から認めたい。

肉食系という言葉が流行している。反対は草食系といわれる。
肉食、、、肉を食べることをこよなく愛する人についてだが、
僕の見解では攻撃的というより、
むしろ防御、、耐えしのぐタイプが多いと感じてならない。

イメージや既存の概念に抵触する発想だが、
実際に論理構成をすれば、自分の中では説明がついた。

本来の肉食系の動物は
肉を得るために、
瞬発、致命傷、噛み砕く、
と獰猛な能力が要求される。

しかし、現代人が肉を食べるのはどうだろうか?
まず生きたままの肉を口にすることはない。
それゆえに屠殺から肉として食するまでに時間がある。
また、そのためにほぼ多くの肉料理は火を入れる。
そのほうが、滅菌、柔らかく、そして美味になるからだ。
対して、
魚や野菜は場合にもよるが
生食と鮮度を要求することが多い。
刺身やサラダは噛む力が弱くても食べれてしまう。

肉は口に入れるまで
長い時間を待たなくてはならない。
そして、鮮度にもよるがよく噛まなくてはならない。

ゆっくり時間をかけて、よく咀嚼して食す。
そして、食することで体を大きくしてしまう栄養素が多い。

本来の肉食系動物というより
太古ではブロントサウルス(今はアパトサウルスが正しいのだが)
近代では、象や犀、河馬に通じる
草食系と全く同じ行動である。

そう考えて回りを見渡せば
肉好きの人間は攻撃的というよりは
あまり騒がず、重鈍な確実な運びを得意としているように感じてならない。

肉食系、、、
実際の生態とイメージは必ずしも一致しないと思えてならない。

2010-12-01

証拠

現代社会において、
それだけでは意味がないものになってきている。

例えば、

「れっきとした証拠がある、だから自分には非がない」
「これだけの証拠が示すように、あいつが悪い」

と立証したとしよう。
しかし

「非がない?だから、それでお前は何もしなくていいという意味ではないだろう!」
「あいつが悪いのはわかった、でも現実問題、お前がどうにかすることは変わらない」

というのが、日常茶飯事である。

確かに、証拠を示すという行為は
人間社会において、経緯、納得、責任の所在という点では
重要視できなくはない。
が、現代社会はそれだけでは全く無力なのである。
場合によっては
証拠を持っているからこそ、狙われ不利益を蒙ることが多いことは
仕事に忠実で優秀な人ほど感じているのではないだろうか?

証拠は武器における砥ぎ石にすぎない。
砥ぎ石では、相手を倒せない。
その砥ぎ石を使って、己の武器を鋭利にして
相手を倒すのである。

その武器は
現代社会では活動提言であり、賠償、代償請求である。

証拠があるからといっても、この世では何もならない。
証拠を持っているから、他人があなたを救うことも期待してはならない。
証拠がある以上、
自らその事実を自分の意思の礎にする思慮、覚悟を持たなくてはならない。