2011-06-30

泰斗

その道を究めている人という意味。

自分としてはこの表現かなり気に入っているのだが、
世間的は使わなくなった。

プロとか、名手とかいう表現のほうがわかりやすい。
でも、その道を究めている人へわかりやすい敬称は
なんか失礼だと思うし、気安く評すべきではないとも思う。

泰斗という表現は当人に対して使うべきではない言葉で

陰ながらでの尊敬の念で使うことに味を感じる。
陰口を悪口ばかりに捉えず、
畏怖の念
畏敬の念
をもって、評することもある意味
相手への敬意だと思うのだがね。

2011-06-29

聖人

人間は他人に聖人君子を求める。
でも実際に、そのような表現を他人に用いるときは
その当人を見下しているというのが現代社会だといえる。

利害、人間関係が複雑になっている日本において、
聖人君子の振る舞いは
頭が悪い証拠に近いレベルとなってしまう。

言われた通りに行動、
理想どおりの行動
は、社会的にコストと見合わない。
もし見合っていたら、それはコストカットの努力をしていないとみなされるのが
現代社会である。

善良な市民を求める癖に
できるだけせこく切り詰めて利益を出せという資本市場社会。

聖人君子思想が古いのか?
現代社会が狂っているのか?
という二択の論理であることを気づかない事態、、現代社会は病んでいると感じてならない。
頭がいい、学歴が高いのはわかったが、
本質的な問題を検討する力は本当に現代人はないなあって感じてならない。
もっとも自分自身を現代人と同視することは辞めているので
深刻に悩まないこととしているけどね。

2011-06-28

火力

火によって得られる力のことだが、日本人におけるpowerの概念そのものと思ってならない。

火力という言葉、
炎の出方という意味から派生して、
真剣度の具合
攻勢の程
などに用いられて一概に炎を前提にしていないことも挙げられる。

人間は火を制した動物といえる。
ゆえに、莫大なエネルギーをえることができた。
火とは、エネルギーそのものとも言える。

火の力が人間の発展の原動力でもあり、
それが今の日本人の火力の言葉に表れていよう。

火力のある生き方、、、人生に燃えていて、本人はとても前向き。
でも、炎と同じで、周りにいると、ちょっと熱くるしいかもね。

2011-06-27

利便

都合がいいこと、、
使う側、使われる側ともに言えるのだが、
利便性の追求は矛盾を抱えている事実を多くの人は見失っている。

利便性、、つまり便利になればという思いは
面倒だから、自動化、シームレス化を念頭に考える。
それを実現させたのが、現代社会だが、
その利便が、人の自由、責任を奪っている。

例えば、
便利を求めて、包括委任をすることが多い、
業務のアウトソーシングなんて大きな話だけではなく、
家電も一社に統一化させたりすることは多くの家庭でも見受けられる。
そうすることで、機能の連携、問い合わせ窓口の一元化、が実現できる。

しかし、それはうまくいっているときであり、
利便性の背理は、障害連鎖、独占による選択の不自由があげられる。

独占のための言い値に耐えきれず、
異なる選択肢を選ぼうとすると、連携を理由にその選択を選ばせないどころか、
連携の一つが障害を起こすと、つながっているすべてのことが機能しなくなる。

利便性を前提に生活活動を考えている現代社会では
出来なかった場合の対応には頭が回らなく、生活に支障をきたすのが常である。

利便性とは、ある意味、自分の生活を人質に取られた代価かもしれない。

まるで、おとぎ話や漫画に出てくる
契約者に心臓を渡したおかげで、
契約者が生きている間は、不死身になっているがごとく設定だ。

2011-06-24

安眠

そろそろ寝苦しくなってきている昨今。

安眠とは、
やすらかにぐっすり眠ることとされるが、

眠っているときの感覚で
安らかにって?
ぐっすりって?

て説明できる人なんていない。
だって説明出来たら安眠していないということだろうからね。

真の意味で安眠している姿を見たのは
絞め技で落ちた
失神
している状態だと思う。
本当に意識がなく、ただ寝ているのだから。

健康のために安眠っていうけど、
そこまで考えて行動すること自体、
意識しすぎて、疑似安眠でしかないといえる。

あんまり、眠りにこだわらず、
やれることや心配していることををしていれば
眠ることすれできなくなるはず。

それを続けていれば、どんな状況下でも
機能停止のような睡魔と眠りを味わえるよ。
それが本当に安眠だと思うけどね。

2011-06-23

一畳

とかく日本は土地面積への単位が多い。



ha
と日本語、英語入り混じっていて、大きさが解らん。

読者は
十畳はどのくらい?かわかるだろうか?

㎡ならば、16.562㎡
坪ならば、五坪
haならば、0.06ha

となり、10進法に慣れてきている現在人には計算とイメージがわきにくい話になっている。
そう、現代人にはわかりにくい表記になりつつある日本固有の表現である。

国際単位系を受け入れているのだから、それに統一すべきではないかと思う。
日本人の悪いところで、
国際化といいながら、自国の文化も推奨する。
それが今の日本らしさと高度成長を支えたとされるが、
その反動が、
日本語の煩雑さゆえの国際標準語になりえず、言語能力の低い国民性の原因を導いたり
独特すぎた発展による、ガラパゴス技術の台頭
を導いて、国際社会との乖離を起こしていると言わざる負えない。

国際基準を受け入れると言うことは
自国の文化を捨てるということと同義であることがなぜ解らないんだろうなあ?

2011-06-22

感謝

あえて言おう。

「感謝されるものであって、するものであってはいけない」

この認識こそ、重要である。

なんて偉そうな言い分と思うかもしれないが
これが真の本質であるべきだと確信している。

現代社会において、
感謝するという行為は必ず相手への負荷が伴う。

その負荷をかけるということが感謝を導くのであれば
自らがその負荷を受ける存在になること、
感謝されるようになることが思いやりにつながる。

感謝の念をもつだけでは、この実益社会においては意味がない。
「感謝してますよ♪」
という発想は相手へ不快感を導くことしかない。

感謝する行為自身を恥じるくらい気概をもって生きることこそ
これからの道徳観だといえる。

古い儒教的な発想をうわべだけで理解せずに
その背理にある真実を探求することが
これからの時代は求められるているのであるから。

2011-06-21

交換

「スペアパーツで交換できる、長く使える製品です。」

この幻想と社会停滞の温床、日本人はいい加減気づかないのかなあ?
交換できるということは、新しい技術革新を導かないということであり、
科学技術的な進化を促さないどころか
消費需要を抑止してしまうことである。

だいたい、交換できるものは
エコだの
経済的だの
いうが、後ろ向きすぎないか?

もっと、新しいこと、過去にこだわらないことへ刷新することが
将来に向けて投資であり、進化だといえる。

交換できることより、
市場活性化のために新しいものへ出資することに消費を向けないと
結局は、自分たちの財布は膨れないと思う。

2011-06-20

玉子

玉子ではない、卵が正解だ!っていう人は、生兵法レベルだ。
玉子と表記するときは、料理で使う前提での食用の意味を込めている列記として
正しい表記である。

玉子は初代ファーストフードの苦汁をなめてきたと思ってならない。

お手軽で高い栄養価の食材はその認知の過程において、いらぬ風評を受ける。
「食べ過ぎると病気になる」
「高カロリーだから、健康を害する」
というのは、はっきり言えば、どんな食材にも当てはまるものであり、
限度を超えた摂取、、、というより、その食材を見ていない人たちの嫌がらせと断言できよう。

今現在、玉子が健康を害するという言葉は聴かない。
それも、僕の生まれる前のあたりから、その言葉失われてきた。
そして、ハンバーガーについて、健康を害すると声高に言う人も減ってきた。
僕の幼少期は、その風評ばかりだったのにだ。
簡単なこと。
その時食べることを止められた世代が、親の世代になり、食べることに違和感がなくなっているからだ。

玉子を食べられなかった、食べる機会を失った
ハンバーガーを食べられなかった、いまさら食べたいと言いづらい
そんな大人の事情こそ、ファーストフード批判の根源であり、
大人の思想なんて、醜く、そして浅はかさを論理化していることがよくわかる。
しかし、こういう思想は根強く、また新しい食材にこの活動はおきるんだろうなあ。

2011-06-17

湿度

夏になると、除湿器
冬になると、加湿器
日本は湿度に対してせわしない。
いや、逆に定置に順応し続ける表れなのだろうか?

欧州では、バカンス、避暑地の概念があるように
温度変化に伴い、違う場所に退避する傾向がある。
それは、広大な土地、植民地を手に入れ、
自分の住みやすいところを目指した表れだろう。

また、中央大陸の遊牧民も、家畜が食む牧草が季節に合わせて
かわるので、結果として住みやすいところへ移り住む。

日本人は比較的高温多湿で四季があるゆえ
住みやすいところに移動すべきなのだが、
定住思想と何よりの島国。

狭い日本、そんなに急いで、、どこへ、、
ゆえに、一つの場所でも快適にと、技術革新がすすんだ。
暑さ寒さに直接アクションするのではなく、
そのもととなる、湿度を調整して体感を変えるという発想は
たぶん日本人ならではの発想および、進化と思い
湿度を操る概念を進化させた技術者の技術視点は賞賛すべきだと思う。

2011-06-15

人道

人の人たる道、生き方。。。
って何?

みんなに好かれる人?
そんな人は絶対いないという論理が成り立つ。

部下に好かれる上司は、上司の上司や顧客から反感を買うことは必定。
この必定が、敵の敵は味方の論理で好かれることことにつながる。

みんなに好かれるということは決して無理。
好みがある以上は、嫌いもあるわけだ。
人道的ということは、ある意味、好戦的なはずなのだが、
なんか日本の認識はおかしい。

仮にもし、誰からも好かれる人がいたとしよう。
「この人は人道的な人で、みんなから好かれている」
と紹介されたら、僕自身は胡散臭いって嫌うだろう。
ほら、これで誰からも好かれるということは否定される。
結論的に、人道的なことはありえないといえる。

もっとも、僕自身を’みんな’の定義に入れないという
閉鎖的な考え方で、人道的を定義することもできなくもなく、
僕は人外扱いされれば別だが、、

健全

なんともあいまいかつ卑怯な言葉ではないか?

健全の定義は
考え方や行動が偏らず、調和が取れていること
となっているが、こんなことが成り立つだろうか?

学生時代に
健全な肉体に健全な精神が宿る
とか言っていたりしていたが、
健全な肉体ってなんだ?
健全な精神って今の成人、社会人はどうなんだ?

まして、顧客志向やカスタマイズ展開っていうことは
個人主義に偏っている証拠であり、
健全の定義と大きく異なるが、それが現在の有りようである。

身近な社会事象を挙げれば
学校教育で、健全な男女交際とか騒ぎ、PTAが無駄に活躍しまくった結果が
現在のソリタリー、晩婚化、少子化の一因になっているという自覚はあるのだろうか?

健全という大義名分のような言葉が今の社会を苦しめているのだが、
その事実とつけは、引き起こした者たちに自覚がないときているから、
日本の因果律の論証は困ったものだ。。。
これこそ責任が健全ではないといいたい。

2011-06-14

正直

真の意味で、正直とは結構迷惑な存在のことのはずだ。
正直者はいい人という暗黙の了解があるが、
正直とは、正しく嘘いつわりのないことであり、
現代社会で嘘偽りがないということは、
自分の思ったことを口にできる、社会調和を乱す存在になることが多い。

現在社会において、嘘偽りなく生きているという人がいるとしたら
「俺、今まで嘘ついたことないんだぜ!」という嘘ツキ小僧と同等のレベルであり
決してあり得ない。

正直ではなく嘘をつくことは、
私利私欲の嘘もあれば、相手を労わっての嘘もあり、
嘘つくと言う行為自身は否定できない。

ゆえに、正直であることは本当に美徳なのだろうか?

これもまた、古来からのインプリンティングではないだろうか?
統治者からすれば正直であれば、あるほど統治が容易になるからであり、
支配される側に押し付けられた統治者論理の美徳であることに気づいてもいい時期ではないだろうか?

まーー、小さい単位の統治は家庭であり、
子供が素直で正直だと、親は育てやすいということもあるが、
そういうことを願う親に限って、自分自身が正直ではなかった事実が往々にしてあり、
なかなか正直な子供に育たない。そんな子供ほど、親になってまた正直ではない子供が、、、

案外、正直とはありそうでないし、あってもまじめな存在には損なものと感じてならない。

2011-06-13

投薬

「あまり薬を飲まずに治したい」

という言葉が
健康ブームや自然治癒の流れかもしれないが
多く言われるようになっている昨今、
医療の最前線にいる妹からは

「じゃあ、死んでよ」

とあるまじき言葉を受けたが
それもそうだと思うことがある。

薬がその患者を楽にさせるために、開発させたものである。
薬によって、看病コストや悪化予防に貢献している。
人間の英知の結晶である。

その薬の投薬を拒否するということは
その恩恵どころか、看病、診療という他人に迷惑をかけることを当然という
図々しい表れそのものである。

まして、治したいということから、
既に病や怪我に冒されている状態であり
健康体を維持できなかった、生活管理能力の者の自覚がないとしか言いようがない。

投薬に対して、がたがた言う前に
自らを薬と関係ない生活に自分を持っていくことこそ考えずに
自らのわがままの発想で、他人様の思いを踏みにじるな

とのこと。
この発言に
本当に健康医療への思いを感じてならない。

自分さえよければとなっている健康ブームの現代社会。
そこまで健康になって社会の役の何の役に立つのか?
果たしたいこと、実現させたいことを持つ者は
自らの健康なんかより、刹那の小康への劇薬への投薬を辞さない過去の事例をみると
現在人の無駄な行為に首をかしげる。

2011-06-10

排気

この夏は、節電で冷房器具はなかなか使えない。
そんな話をしているなか、自分しか解らない暑さ、熱さがある。

みなさんのPCはノートパソコンだろうか?
最近はノートブック型が多くなってきている。
小さくまとめて、部品配置を効率よくしている
それにより、高性能、長時間稼働、コンパクトを実現している。

そんなPCは日々進化している。
しかし、進化しすぎて、僕は困ることがある。
多くの人は気づかない、いや気づくこともないこの問題。

条件は、
それは、高性能ノートPCなのにマウスを使いそして左利き
ゆえに起こること。

最近のPCは高性能を維持するために、小型で強力なファンで
CPUを空冷する。
その排熱を一番効率の良い場所、、PCの左側に送りだす。
日本製のPCならず、多くのPCが左側に排熱口を持っている。
マウスは必然的に、PCサイド、利き手側であり、右手が多い。
だから、排熱口はそちらではなく、左になっている。

その状況下で
左側にマウスを置いて使うと、、、、火傷になる。
本当に熱い。まして、この夏の空調では、、、、
僕の左手はいつも熱を持っている状態だ。

god finger かよって感じに、、

左利きゆえの悲しさか、、、

2011-06-09

旨味

うまみのあること、
うまいって言葉は実に多くの意味がある。

上手い
旨い
巧い
美味い
甘い

と漢字を使っただけでもこれだけあり、
味覚、臭覚だけでなく、
人間の五感すべてにうまいという表現が用いられることになっている。
いや、感覚だけでなく、社会、人間関係でもうまいという表現を使えるから
どこでも使える言葉になっていると言えよう。

適当に、相手に、「うまいねえ」って言っているだけで、
円満になる可能性すらある。

とりわけ味覚における旨味成分について言えば
実際問題、西洋人は気づかなかったものを
1913年に小玉新太郎が発見しなければ気づかなかったものである。
初めは一笑されていたが、実際に発見されて初めてうまいとわかった。
(余談だが、西洋人の多くは未だに旨味を認めるどころか、、、、味音痴なアジアとみなしているそうだ。)

っで、僕は思った。
うまいの真意は
当たり前、もしくは存在を気づいていない些細なことに
うまいは隠れているのではないかって。

旨味を求めるのではなく、
みのまわりにそのうまみをどう気付くかではないか。
案外、自分の身の周りにはうまいがあるかもね。

2011-06-08

信用

信用とは、虎の威をかる、、、と言い切れる。
自分自身の信用と言う表現も考え方によっては
過去の実績を持っている自分と言う人格の威を借りているのであって、
今の自分の能力ではないことが多い。

そう。信用という表現が出てきている時点で
当事者間において、責任能力、、力が認められていない状況になっているのである。
信用という言葉にこそ、信用がない事実に多くの人は気づいてないようだが、、

相手の信用を勝ち取るこということを
実のところ、いろいろな意味で妄想、騙しのレベルになっている。
相手への信用は、第三者評価からするとえてして、
なぜだろう?どうだましたら?って言われることばかりである。

でも、だからこそ、
信用と言うモノは他人との間では重要である。
互いが共有できる、言ってみれば当事者間の’世界(world))'を構成できるのだから、
互いが互いを認めあう、その塊が社会であって、互いが互いへの妄想が社会の結びつきといえる。

山に独りで住む、きこりの爺さん。
信用も社会もないが、
その分、現実と自然を色眼鏡なく素直に向き合っている。
どっちがうらやましいか??悩むところであるねえ。

2011-06-07

特別

日本人は特別という言葉を自分に有利な特権的に捉えることが見受けられる。
「あの人は特別だから、、、」
「特別扱いをしておかないと、、、」
という表現から、特別がつけれる者を有利にさせることが暗黙の了解になっている。

が、しかしそれは日本という地域のローカルルールにすぎない。
特別は、いい方ではなく悪い方に使われることが多い。
ラテン系言語だと特別とは例外処理と同じであり、
通常ではない蔑みの意味が見え隠れする。
「特別な存在だから、なにをされても構わない」
「権力者から特別な扱いを受けているから、殺されてもいたしかたない」
と言う表現が多々見受けられる。

だから、英語が出来ない日本人は英語の言語だけではなく文化の理解が弱い自覚がないままで
海外に招待されて
「自分は特別な存在だから、、、」
って表現してしまったために、殺されても仕方がない結果になる可能性もある。

この表現をレアケースと思っている日本人が多いと思うが、これは身内におきた事実である。
そんな甘い認識でグローバル展開を口にする日本人こそある意味、’特別’だと思ってならない。

2011-06-06

仲良

教育の現場と市場社会とのギャップの一つといえる。
仲良しであることはいいこととされるが、
決してそうではない。
武者小路実篤の言葉と真っ向からぶつかるが真実は僕にあると言い切れる。

「仲良きことは、、、疑わしきかな」

ビジネスにおいて、仲が良いとされると
癒着や違法性の温床になりかねない。
また、そのような疑いをもたれ、ブランド性に影響を与えることにもなる。

互いを切磋琢磨できる関係こそ、って思うだろうが
真剣にビジネスを行えば、そう簡単に仲良くなんかできないだろう。
互いの存在が大きくなればなるほど、紐づくものの利害関係も大きくなるのだから。

仲良くなろうという幻想より
今の自分において、相手と自分の最大公約数たる利益を常に考えられること
ビジネスライクで示されるように、自分の役割を満たしていくようにしていくべきこと
これがある意味、能力主義、市場主義と確信している。

2011-06-03

製品

自分の組織の責任で製造した物が製品であり、
外から仕入れて売るものは商品である。

おかげさまで、弊社として社会にアプリを公開できた。
製品として自負できるが、必ずしも金銭対価だけが製品の評価ではないので
無料での提供とさせてもらった。

目的意識、使用による費用対効果がないものに価値が見いだせないうちは
使ってもらってこそと思い、製品を提供させてもらった。

対価をもらうには、それ相当に目的達成があってこそ、
製品としての本分は弊社とともに価値を見出してくれる人たちの手元にあってこそ
今後もこの気持ちで多くのモノをリリース出来たらなあって思っている。

2011-06-02

扇動

現在の民主主義、、国家レベルではなく小さな組織レベルでも
多くの場合はメディア扇動が意思決定になりつつある。

自分がやりたいという意思ではなく、
「周りに押されたから」、
「責任のない声が高まってきたのでやらざる負えない」
ということがみえる。

多くの庶民レベルはメディア扇動と民意を混同しているが
独裁を悪だという思想よりメディア扇動を民意と思いこむ民衆心理のほうが
治安悪化を導くのではないかっと思ってならない。

メディアは責任のない発言で煽っているだけだから。
その言葉を鵜呑みにする民意もまたしかりであり、
結局、誰がどういう意思で、思いの力を無にする。
これは、夢を実現させるや努力の結果という今までの人間の目標意識を阻害するといえる。

既存の価値観をいつまでも維持することは
僕の本意ではないが、
責任なく、他人の思いを踏みにじることを第三者に扇動する発言については、、、
僕の統括する組織においては決して許さない。

2011-06-01

手当

本来は応急処置の意味だったが、
今では追加報酬分の意味合いが強くなっている。
それどころか、もらって当然にという計上の仕方になっているところもある。

このもらって当然は大きな問題だと思っている。
手当の特別に手を当てたことへの報酬であり、
当然という意味であっては手当を出す意義がない。

現在では手当の上にまた手当のように、
特別の特別が積み重なる。

基本人間はシンプルに考えたいというが、
実際問題、特別に特別という相手への敬意行為が
世の中を複雑かつ悪くしているのが実情といえる。

弊社は手当の概念がないから、賞与の基軸がぶれないで助かる。