2011-07-29

天賦

頭のいい人間は多くのことを考えることができる。
考えることができることは、恐怖、不安を知るということになる。
それゆえ、消極的、後ろ向きになりかねない。

逆に何も知らないからこそ、
恐れなく、全力投球できるという事実もあり
成功と知識が反比例するのではないかと思うこともしばしばである。

そう思うといつも頭をよぎる方がいた。
以前のクライアントの一人で、めちゃくちゃ頭が切れる。
僕がいうくらいなんだからと思ってほしい。
そして、めちゃくちゃ明るい。

そのキャラクターゆえに、上の人間に疎まれて、飛ばされることが多かったそうだ。
飛ばされたら、反省という後ろ向きな気持ち、行動になると思うが

「飛ばされてきてもすることがなかったので
 机にこの業務の法務規定があったんだ。
 読んでみたら、いろいろとそうなんだって思うことが多くてねえ。
 まさか、機械学科あがりの自分が法律の理解が面白いなんてねえ、
 それでだいたいそこの業務の全体がすぐに分かってしまい、、、
 今回の業務統括担当で来たってわけだよ。」

って言われたら、すごいの一言しかない。

「知っていること、みなさんに楽しく説明するのが楽しくてしょうがない」
「おいおい、むちゃくちゃっていうより、楽しくない進め方じゃ無理だろう」

っていつも口にしているし、いつ勉強しているのかわからないくらい調べているし、、
本当にすごいと思った。

憧れるだけではよくないのに
今、当時の彼と同い年くらいになったので
そう振る舞うように努めているが、、、、
知ってしまう不安を隠すこと
明るく振る舞うけど、バカじゃないと思わせること
は本当に難しいと感じてならない。

それこそ、、天賦なのかと思ってならない。

2011-07-28

霹靂

へきれき、雷のこと、

雷という言葉は実に面白い。
日本語だけでも

霹靂

稲妻

とどう見ても同じ意味に感じられない言葉を当てられたり、

thunder
lightning
eclair

と英語でもいろいろな多様な読み方をもち

ゼウス
インドラ(帝釈天)
トール

と雷を司る神が多く存在する。

確かに
青天の霹靂
の言葉通り、雷は日常茶飯事な自然現象ではない。


そして、この自然現象は瞬間的に物事を奮い立たせる。
・光
・音
・破壊活動
が恐怖の要素を持っている。

それゆえ、神の仕事、各地でいろいろな表現で描写されるものとなったのであろう。

現代では科学的な立証である程度は解明されているが
それでも、未だ人間が自由に扱えるものではないし
自然現象の中で予測出来ないもののひとつである。

かなうなら、雷を制して、有効利用したいものだ。
兵器
エネルギー
建設器具
と、可能性があるのだから、、

でも、今のままでは、、、、雷親父になれるくらい、、すでに、、、か、、、、

2011-07-27

孤独

現在社会において、孤独であることは自己責任だと僕は考える。
自治体やNGO等が孤独にならないようにいろいろと策を練っているに
それに参加しないには、自己責任だといえる。
僕の場合、だからこそ、自立できるところは行い、できるだけ孤独を愉しむようにしている。

現在の無自覚な孤独を苦しむ人は、愚かとしか言いようがない。
高齢、
社会の和に飛び込めない、
人が信じられない
ことは、個人の問題であり、それに対して社会が支援を差し延べること自体、無駄遣いである。

高齢であっても、活発に動く人や多くの友人を持つ人
飛び込む勇気で自分の壁を打ち破る
猜疑心を解いてこそ新たな人間関係

であり、それを強制させることは当人も変わらないし
それに関わる人の多くが不快な思いをするだけである。

孤独であることに、社会が関与することは
たとえその人の生命に関わるとしてもそれは介入すべきではないと言いたい。
孤独は行き方、病と同じで自ら変えようとしないものへ働きかけるべきではないし
その働きかけが、相手に伝わらない以上、
無理に社会に入れるべきではない。
それが現代社会の自然淘汰であり、全体幸福である条件である自覚を持とう。

2011-07-26

模型

木片やプラスティック板からフルスクラッチで、
造形する工程はすごいと思う。

伯父が趣味で、鉄道をそう行っていることを
幼少期にみていたからこそ、その工程を行う人を
尊敬の念で見てしまう。

そして、また思った。
プラモデルの型を考えた人、それを量産してしまう技術もすごいなあ。

フルスクラッチで作る工程は頭の中のイデア、、理想を現実化させる能力だが、
プラモデルの型は理想を生み出すだけでなく、
その造形を部品化、合成樹脂等の最適化を狙い、組みあがったものを再分解して
いくつかのプラスチック板にしてしまうのだから。

組み合わせの接合
造形物の可動性
などを考慮してことであり、
その発想には脱帽である。

だから、僕も思う。
あるべき姿をビジネスに持っていくことは、スクラッチで重要だが
そのあるべき姿を備品に再分解して、誰でも組み立てられるような仕組みを
作ることが顧客の満足度にもつながるのではないかと。

模型は作ることへの愉しみがあるというのだから
ビジネスも組み立てる愉しみがあるべきと感じてならない。
何も出来上がったものを出し続けることだけが、
ビジネスではないということを、プラモデルで痛感した。

2011-07-25

店舗

今、実店舗の売り上げはどんどん低迷している。
愚かなアナリストが、
社会的購買意欲の低下って言っていたが、
何をアナリスト?と、検討の’穴’を’リスト’化しているだけじゃんって思うくらいだ。

購買意欲はどんどん上がっている、
人間の欲はつきることはない、
その購買欲に、実店舗が対応できなくなってきているのだ。

ネット等、通信販売が実店舗購買を上回ってきているだけである。

この事象は、何も今に始まったことではない。
購買意欲を満たす品数と在庫が潤沢にあるところに流れるのは市場の理。

小売店よりほしいものが比較できる専門店
専門店より、いろいろなものをコーディネイトできる、百貨店
百貨店より、敷居が低く選べる、スーパー
スーパーよりも、いつでも手早く変えるコンビニエンス群
そして、、、いろいろなものが自宅で変えて届く、、、通信販売
と購買チャネルが進化しているだけであり、

店舗という概念も、物理チャネルという切り口では今までのすべての販売チャネルを包括する表現だが
チャネルの総称に過ぎない。

今は実店舗に固執する時代でもないだろう。
実際のものを触ってみないという人もいるだろうが
そういう人に限って
実際に買ったものと触ったものが違うからと騒ぎ
触っても触らなくても結果同じに感じる時代である。

制度におけるクーリングオフ、pptなどで
もう時代は実物より仮想からの実現化でこと足りる。
この先、もっと進み、実物さえも、、、これ以上空想になるから控えるが、
購買のカタチや現代の進化を憂うより
前を向いて、新しい展開に目を向けるべきと常に思う。

だから、低迷、衰退って言葉を聞くと
代替は何が登場したか、それはこの先どうなるかを
意識するこそ、今の僕のビジネスアイになっている。

2011-07-22

均衡

均衡を保つということは、、、実は後ろ向きなことといえる。
「万物は流転する」
「時代はめぐる」
「風化する」
という言葉があるように、世の中は不変なことはない。

「だから、均衡を保つということは不断の努力の結果である!」

と力説をする人もいるが、努力をしているものだろうか?
ルーティン的な要素を欠かさず行うことを努力というのだろうが、
僕からすれば、条件反射行動を繰り返すだけであり、
それを努力というのは、寝坊しないように努力しているという
当然できることを自慢している低レベルな話に感じてしまう。
そして、新たな試みをするゆとりがなく、世の中の進みに
取り残されてしまう感が否めない。

均衡を保つ行動は今を維持するというより
世の中の流れに合わせた新しい基軸を常に求め、
そちらに変えていくことで、本当の意味での均衡に’見える’といえる。
実際にその均衡に携わる人たちの視点では
とても、現状維持とは言えない新規活動の繰り返しであり
ルーティン的な努力ではなく、
アイデア的な企画が出せるかどうかの次元になっているのである。

2011-07-21

合同

合同作業とかいうものは得てして結果を出さない、、出せない。
それは、日本ではなく人間である以上無理な話である。
人は個々である。
同じではない。
身長体重、腕力、俊敏性
それぞれ差が出る。

だから、同じことはできないのである。
みんなでも同じことを求めると
有利なものが、不利に合わせると、期待値に満たないし
不利なものが、有利なものと同基準で動くと、故障、欠員を招く。

協働はあっても合同という概念をありえないと悟るべきだ。

合同では必要ないが
役割定義や連動判定をすることが求められる協働には
管理、監督が必要であり、そのために
管理職、監督業、マネージャーが求められる。

だから、
合同作業の管理職と
協働活動の定義、判断をしない管理監督者は
存在意義、そもそも価値はないと言えるのだが
合同作業も管理監督者も無駄に発生する世の中だこと、、、

2011-07-20

株式

手短に、、
株式会社とは、
株主への利益配当を目指すために
自社の価値および自社製品、サービスを
社会に多く購買してもらうことを追及する存在といえる。

表現の差異はあれ、この趣旨は世界共通であること
それが現在の株式市場の存在意義といえる。

だから思う。
自社サービスの使用抑止や制限を公然といういう企業は
株式会社であるべきだろうか?

根本的な考えて
株式会社の定義をこの国は見直すべきではないだろうか?
社員のため
社会貢献を第一とした
という言葉を掲げる会社が株式を発行すべきではないことを。

2011-07-19

紛物

まがいものは世間的にさげすまれることが多い。
便乗
2匹めのどじょう
廉価品
などと。

しかし、まがいものこそ、進化発展の入り口ではないかと思う。

何もない中に、いきなり登場するものは
進化、発展ではなく、創造、発生である。

すでにあるものを前提として、
それを展開していくことが
進化、発展かもしれない。

日本製品の大半が
まがいものと言われても仕方がない。
日本人は想像より、
進化、発展活動に優れるからだ。

そして、進化発展は必ずしも正当でなくてもいいし、
本物を凌駕していく。

日本の自動車、家電しかり、
視点を変えれば、がんもどき
そして、ラーメンもそうだろう。


紛い物精神はさげすむより誇るべきではないかと思う。
ただし、、、どっかの国みたいに
紛い物としての自覚がないのは愚なのだが、、

2011-07-15

注文

主に依頼を受けて物事を調査する際に控えもしくは明細などの
副進文書として作成されるもの
から、
特定の物品の調達を依頼する
(結果として依頼した相手によって依頼に関する注文を作成される)ことに
現代、商業社会では変わってきた。

この言葉で忘れてはならないのは’文’の字である。
文という、、文章、書が伴うことがなくてはならない。
注文するときには、その書面がなくてはならない。

日本人はとりわけ契約を口頭、不文律の商慣習に重きを置くが
それは国際的にも通じない。

時間がかかっても、その証書たるもので
注文行為を成り立たせなくてはならない。

昨今の商業不祥事の多くは
商慣習ゆえの齟齬、甘えだと思ってなない。
めんどくさい。
他人行儀
という人が多いが、所詮他人度同士なのだから
その時の取り交わしを持って、
ことに当たるべきといえる。

文章は人の言葉、心情と違い、
時間が経っても心変わり、表記変貌をしないのだから、
定点として定めることができるのだから。

2011-07-14

自習

直接の指導を受けずに、自分の力で学習すること
・・・・ありえないといえる。

学ぶということは、先人の行為を倣い、それを自ら実施、実践することであり、
他人の力を借りることは必定な社会である。
そんな現代社会において直接指導、間接指導の区別はできるだろうか?

テレビ電話で確認する行為は直接指導そしたら、
ネットのチャットで質問することも直接指導のカテゴリに入るべきだろうし
時間的な感覚でとらえれば、
誰かが答えてくれている回答を時間をあけて閲覧するのも
直接指導といえよう。

そうなると、、本を読むことすら、、作者の意図解説の
直接指導とみなせるものとなる。

自習という概念はすでに崩壊している。
逆にいえば、学ぶこと=自習であるべきで、
物理的に接触するかどうかにこだわる発想が
すでに自習行為の弊害ではないだろうか?

現在の登校等の行為
教育勅語以来変わっていないが
家にいても、家事手伝いを強要されなくなった社会においては
学ぶという行為においては、いらないといえるのでは?

2011-07-13

参加

日本の悪い習慣なのだが、
多くの人を一つに集め、出席させる。
参加することが必ず意味があるとは思わない。

組織人の連帯意識の向上というが
集めている側の優越感でしかないと思わない。

その会に参加、発言することがなければわざわざ出席せずとも
後で集約した情報を収集すればいいのでは?と思う。

現実問題、テレビ会議が外国で流行るのは
その思想があってのこと、
参加するという行為に価値はないとみなしていることが多い。
物事を決めるときに多くの人がいるということは
誰も責任を取らないと言う意味でもあることに
日本人は未だに理解できないのは、、国民性なのか?

2011-07-12

予約

僕は特定のほしいものは店舗での購買はしないようにしている。
基本、ネットによる事前予約で自宅搬送を心がけている。

「心がけている」というように、
店舗での購買をできるだけ避けている。
店舗で購買するものは
量産品、生鮮品、だけに努めている。
年寄りたちは、
「触ってみなくては解らない」
というが、原価コストの厳しい現代市場において、
多くの人が触るサンプル品をそう多く用意はしない。
まして、
「触っても買わない」
「誰かが触ったかもしれない」
と言う理由で廃棄になる商品をよしとする経営者は少ない。
できるだけ、店頭に並べるものは、モックアップ(代替品)になりつつある。
また、在庫を残したくないから、
店舗も贔屓客に向けての現定数受注をするから
在庫が見えているのに、それを買えない自体が多くなっているし
老人と販売員が
「それを売りなさいよ」
「売約済みです」
「今買うって言っているのに、なにさまよ!!」
という会話を本当に多く見て
見苦しく、見たくないという気持ちもある。

そんな、欲しくても買えない可能性を孕んだ商取引より
確実な購買と搬送が見込めるネットでの予約購買を選ぶのは
当然の帰着だといえる。
そして、社会は対面販売は限定されていくだろう。
人間はすでに、他人を許さない
出来れば会いたくないという精神状態になってきていると確信している。
人よりも安定した受注システムを信頼したくなる時代において
予約購買がこれからの通常購買に変わっていくだろう。
なんせ、対面販売には伝家の宝刀、コストの代名詞、人件費がかかるからだ。
人件費をコストと言えてしまう社会において、
人権、労働権利なんて形骸化しているに等しいのだから。

2011-07-11

醤油

日本の調味料なのだが、、
油という言葉あるのに、油分は皆無。
また、作り方も同じ成分である、味噌と違いは少ない。
でも、味噌と同じようにこの調味料が日本の味といえる。

特徴として
・液体
・大豆からのアミノ酸
・塩分
が共通していたとしても
その他の部分に、家庭、地域、食生活で変わるアレンジがある。

日本らしさは、そのアレンジであるといえる。
・細長い地形
・藩という極めて狭い世界で長く閉じこもってきた
・四季による気温差
により、差が出ている。

手前味噌という言葉があるように自分の味を持つといえる。

醤油はもっと差が出ていたのだが、
ブランド、生産性で
味噌以上に集約されてきているので、
ある程度の味の統制はできてているが、
それでも、、、地域性はあるようだ。

僕はこの味噌と醤油に
ダーウィンの進化論、ガラパゴス進化を感じる。。
携帯電話機能のガラパゴスっていうけど、、、

中国の醤(大豆発酵調味料)を
それぞれの味の味噌
そして、醤油への変えてしまうことから
日本のガラパゴス精神は今に始まったことではないとうかがえる。

2011-07-08

九九

九九は数学というより、暗記である。
数式を解き明かすという概念とは全く異なるかもしれないが、
世界的な学力の象徴といえる。

国際的な世界共通のコミュニケーション概念は言語ではなく
10進法だといえる。
言葉が違っても、
数え方が違っても   、、フランス語では「90」は「(4×20)+10」で,「quatre(4)-vingt(20)-dix(10)(キャトル・ヴァン・ディス)」
も計算上は10進法が中心である。

数えられるということ、
それも四則演算で高速に行えることは
ビジネスにおいて強みだ。
基本、お金は数えるものだから。

計算が早いということは、頭の回転というより
テンプレートを応用できることである。
九九がそのテンプレートの基礎であり、
日本においては、テンプレートの勉強方法、公文式が国民学力を高めたといえ、
バブルまでの日本経済を誘引した結論付けてもいいくらいだ。

それゆえ、
インドでは20の段までの九九、、十九十九ができると聞いて
脅威だなあって、感じてならない。

2011-07-07

命令

命令口調だったことで、大臣が辞任に追い込まれた。。。

全くもって、この国は統治機能が機能しなくなっていると言い切れる。
昔、子供に
「すえは博士か大臣か」
という言葉があったくらい、大臣という地位は偉い象徴であった。

偉いこと、
人を導く存在が命令してはいけないのだろうか?!

命令を出すからこそ、責任も生まれる。
お願いばかりの社会に責任や実行が伴うだろうか?

僕は真に思う。
命令出来ない組織は混沌、無秩序と等しい。
多少、人格がおかしくても
命令に責任をもって、それに追随することのほうが
目標達成に繋がると思う。

今のあげ足とりの国民性では
達成感なき復興、
気づかぬうちに国際的衰退
を導くだろう。

命令をだして、その責任をとる。
そんな組織こそ、達成感と充実感を持つと確信している。
そして、、統制(ガバナンス)があると国際的に説明できると言えよう。

2011-07-06

謙譲

相対的に相手や話中の人に対して敬意を表すためのへりくだった言葉。
最近の現代人は謙譲行為、尊敬行為の違いだけではなく、
謙譲してくえていることを
当たり前、当然と額面通り受け取っている愚かしさに気づく。

僕はうわべだけの尊敬、敬語表現ならしないほうがいいと思っている。
それは、真の敬意の気持ちが相対的低下することはよくないという
計算しつくしての思いがあるからだ。

だから、無駄な敬語表現はよくないと思っているのだが、
社会はどうやら逆というか、レベルが低いというか、、、、

相手が謙譲行為を示していると平気で額面通りに受け取って
結果相手を怒らせているのに、
「なぜ怒るの?」
っていうことを多く垣間見る。

尊敬、謙譲表現が国際的ではないかもしれないが、、、
日本人なら気づけよって言いたいものだ。
もっとも、尊敬、謙譲の歴史は御恩と奉公の封建関係があってのことで
現代社会ではそのかけらもなくなってきているので
体で覚えることができなくなってきているのも事実かもしれないけど。

2011-07-05

農耕

日本における秩序であり、この崩壊が日本的な美徳の陰りが来たと言える。

村八分
我田引水

などの言葉が示すように、集団行動をしないことが悪徳とされる。
それは、田植えや稲刈りという行為が集団行動であり、
他人の労働力があてにしないと成り立たない社会構造で会ったからだ。
それゆえ、近所から信頼を失うことが本当に収穫量に影響してまさに致命的な問題になりかねないのであった。
だから、近所付き合いが重要であり、その秩序があった。

現代は、狩猟民族のような生活が多くなり、
能力主義=個人の優位性が何よりも尊ばれる。
近所の人たちはあてにする労働力どころか、権利掠奪者になりかねない訴訟相手になる場合もある。

それゆえに、農耕時代の秩序は難しいものとなっていた。

しかし、ある意味、農耕は所有、占有しない、共有前提であり、
みんなで使い、みんなで享受するという概念であり、
今のクラウド、フリー、シェアと似ている。
温故知新、もしかしたら、この先、この農耕的秩序が復権するのではないか?
いや、させるべきだろうと思うのは僕だけだろうか?

2011-07-04

楽器

楽器という和訳を当てた人は
ある意味、センスがある雅な人だと思う。

演奏行為は必ずしも、楽しい者とは限らない。
レクイエムや行進曲のようなものもあり、
そして、オーケストラ、オペラは、興じるものであり、楽しむものではないといえる。

しかし、すべてをひっくるめて
楽しいとして、楽曲、楽器と総称している。
楽曲、楽器とまとめて表現するもの日本独特の言い回しでもある。

僕自身楽器を奏でる素養は薄いが、
本当に楽しんで、触れることはしている。
日本語でいえば、芸ではなく、趣味、お遊び程度にね。
そもそも、楽しむものだという気持ちをもって、楽器に触れられるのはある意味、幸せかも。
とかく、お稽古ごとになった時点、
楽器は苦器だった人も多い時代の育ちゆえ。

2011-07-01

指針

僕は
物事を導くことは得意だと自負できる。
その分、既存維持運営は苦手なのかもしれない。

導くという行動に重要なのは、指針である。
どうしたいのか、
何のために行うのか、
それを明言出来れば、対外の人間は理解はできる。

そして、大きく現代の管理職が見失っているのは
人間は
どうなりたい、どこを目指す と言う思いより
今、何をやりたい、どうしたい という方が目先にたつということだ。

出来上がってしまった社会人をみればわかると思うが
社内査定において、将来、目標設定したところで
多くの人は、自分の得意分野、今までやってきたことに固執し続けるものなのだから。

自信のなさ、不安、などでそうさせてしまうことへ管理職は配慮が足りない。

だからこそ、人を導く人は
起こってほしい行動が例え、不得意、未経験でも
この先何があり、それがあるべき、なかった時の方が不安である説明という指針を求められているのである。

人によっては、
「上から言われたから、自分はそんなに先のことは見えていないから無理」
と恥じらいなくこたえるが、
それは、人の上に立つべきではない。
その人、その属する組織の弱さをであり、
ある意味、そこに属する多くのメンバは可哀そうであることを憐れみたくなる。

もっとも、そう言う環境が、ある意味反面教師になって、
指針を力説できる存在が生まれたりするものだが、、、、、そう僕のようにね。