2012-07-31

改良


改善と改良の違いは?

ある辞書をみたら

改善 改良のこと
改良 改善のこと

となっていて、、、今はやりの賞を取った長編小説のように
作られた辞書ではないんだろうなって思ってならない。

とはいえ、
善と良の違いはなんだろう?

僕が調べたところでは

善は悪に対しての更生
良はより効果的な付加価値の追求

と読み取れた。

例えば、ライフルの銃を例に挙げれば

・銃弾が銃内で暴発する箇所をよくすることは、改善
・銃の命中精度を高めることをするは、改良

といえる。

言葉は進化する、、
実は改善と改良の定義を今のようにあいまいにしたのは、、
どうやら、、トヨタカンバン方式からのカイゼンによるものということまでわかった。
改良を繰り返すことを、カイゼンと言い出している。

正しい日本語を正しく伝えること vs 日本の経済成長に沿った印象的な使い方

その用途でのぶつかりあい

正しい日本語?
良しと善し?
はいったいどうなるんだろうね。

それこそ、日本語の改良、改善は?どうなるんだ、、かな。

2012-07-30

掌握


自分の思いどおりにすること。全面的に自分の支配下に置くこと

掌の字は、まさしく支配権の象徴であり、
この字で、てのひら と読むことをすら知らない大人すらいる。

僕はこの掌という言葉への理解が足りないことが
現代人の弱さとも思っている。

掌握した人は絶対であり、それについていく。
批判しない。
それが組織団結力であった時代の日本が経済大国になったが、
その要素が薄れているから、弱い。

誰が掌握しているかわからないくせに
わけのわからない人が「責任者が責任取れ」なんて平気言えてしまう。

掌握している存在は絶対的に強い、
その事実と実績を再構築しないと
強い力は出てこないといえる。

掌握したいから、無理できる。
掌握しているから、自信をもって大胆にこうどうできる。
それが、ビジネス活動と僕は確信しているから
そうできないところのビジネスは弱く、そして価値が薄く見えてしょうがない。

2012-07-27

甲斐


かい と読むけど、
・読み
・意義
について、漢字から全くも読み取れないといえる。

地名としての当て字だから
という発想もあるが、

「この甲斐性なし」

という言葉もまた甲斐である。

確かに当て字であり、
・山の峡(カヒ=間)
・行政・交通上の「交ひ」
・「効(かひ)」
の意味を連想させることで、意味を成しているそうだ。

確かに日本語らしいといえるが
これを伝承、電波させることは実に難しい。
まして、外国の方に理解をしてもらうことは、、、、
理解しづらい日本、、でも、
ある意味こういう読めない文字があるから
神秘の国ともいえるのでは?

2012-07-26

震撼


人をふるえあがらせること
僕の感性では震撼の’撼’の字が面白いと思った。

手偏がついている。
つまりは、人の手が加わる前提、
人為的なものであるというわかる。

ゆえに

<自然の脅威に震撼させられた>

は用例としては、誤りになるべきといえる。

言語において、あっている間違っているということは
時代とともに変わるので、正しいと言い切れないところはあるが、
このように、熟語の漢字ひとつひとつの意義を見ることにより
その言葉の成り立ちの経緯を読み取れる気がしている。

僕がこのブログを続けているのも、
熟語の今の意義の正しさよりは
この言葉の成り立ち、その経緯、そして自らの使い方としての経験を
照らして考える場として最適と思ってならないからと再認識した。

2012-07-25

商売

利益をあげる目的で物を売り買いすること。
日本は朱子学の影響で、商売を悪いことという感覚が根強い。
実際に汗水流して得た利益と至上として、
需要と供給の狭間で利益をあげることはずるがしこいとしてきた。


僕が思うに、この根強い感覚が
日本人の
・討論力、交渉力
・投資意識
が伸びない理由の大きな要因だと思っている。


相手から利益を得ること、相手に損をさせることを
当たり前じゃん、と言い切れること、
それがある意味、商売といえる。

上記のことを
・当然
・ひどい
と思うところが、もしかしたら日本人感覚の分水嶺かもしれないと感じてしまうのは
僕が達観している感覚持ちだから??

2012-07-24

着眼


目をつけることや目利きをさすなのだが、
諸刃の刃な能力だと思う。

時代や需要の時流に乗っていれば、その着眼点は賞賛されるが
そうでなければ、話が分からない奴とみなされる。

時流に乗っているからこそ、評価されるという輩がいるが
それは勝ち馬便乗の見解にしか聞こえない。

最近の感じるのは着眼については作為的に感じている。
実際は流行っていないものがブームと言ったり、
既に広まっていることに対して、自分が第一人者と後付で言い出す。

誰が着眼したか、、というより
自分が着眼したんだと言い出すことに
なんか社会全体の価値の薄さと次の発見、発展がない土壌と思ってならない。

2012-07-23

検索


自分の知りたい情報を探すこと。
今では、ネット等で当たり前のように行っている行為だが
前提条件として、その情報について
・定義
・寄稿
・提供
というものがないと検索行為そのもの成り立たない。

知りたい事を知るということは
案外手間がかかるということだ。

昔は提供の難しさ
つまり、知りたいと思われる情報をどのように必要な人に提供するか
というポイントで、メディア媒体そのものの発展が注力されていた。
今でも、提供にはいろいろな手段が講じられて、ビジネスが起きているが
ある意味、飽和状態になっていると思われる。
提供手段が多くなりすぎて、どれで調べればいいかというレベルになっている。

検索すべき内容のために
検索すべき手段を検索しなくてはならない状況になっているのはなんか変な時代に感じる。

それだけ、情報提供が豊かになったと思うべきか
それとも、無駄な検索手段が蔓延しているのか、、
それはその先の検査性の淘汰が結論付けてくれるのかなあ。

2012-07-20

初物


季節の変わり目で出てくる初物。
初物は栄養価が高いという意見もあれば
当たりやすいという見解もある。

ものには旬というものがあると言われる。
その旬がいちばんよい状態とされる。

でも、これは時系列で考えるとなかなか難しい。
旬はある意味、瞬なのか期なのか、
一瞬が旬とされれば、初物は栄養価が高いとか、評価できるのだが
期間が旬とされると、その旬の時期が個体差でづれている可能性があり、
評価できるどころかの状態かもしれない。

まーー、これは人の才を見抜くときも同じあり、
過去の実績もそうだが、
その人材の旬を初物としてうまく活用できたかどうかが
先見があるといえるかなあ。

2012-07-19

神前


お参りする際にちょっと気になった。

参拝者が列を作っている。
そのときに横から割り込んでくる老人集団がいた。
並んでいる人が、並ぶように注意をすると
老人集団は

「なによ!神様の前では平等でしょ、
 争いごとを起こすような言わないで!」

と言い出した。

僕は逆だろう、神様の前でそんなことを行って思ったが、、
それは僕の解釈かもしれない。

日本の諺になる
「困ったときの神頼み」
が象徴するように、自分の都合のいいように神を解釈できる民族である日本人。

敬虔な信者のみなさんの信仰心は今生きていることへの感謝であることに対して
現代日本の初詣などを考えたら、ご利益期待をすること自体、
功利的に神を信じている、、いや信じていない表れだろうな。

divine、 
bless、

という英語の真意は、
概念的に理解は無理ではないかと思う。

神の認識は言語、概念理解に影響するという事実という側面で
信仰のという行い、神前ということに敬意を感じてしまう。

2012-07-18

事象


事象というより、’象’の字が気になる。

象は、動物のゾウと同じ字を当てているのに
全く、象とは関係ないところに使われたりする。

象徴
象形文字
現象

、、、、
象は文字通り、獣の象の象形文字である。
その絶妙な象形のカタチ、ありさまの妙が、
現在の多くの熟語に反映されていると言えよう。

はっきり言えば、
熟語中の象という字は強調表現でしかない。

事象も 事というものを強調するために、象を使っている。
現象も、現実のありのままを強調するために、象を、、である。

絶妙な象形性が
結果的に象形性と全く異なる使い方になるという
言語的に皮肉な文字だと言えよう。

象は象にして、象に非ず、、
パオーーンっとは関係ないんだなあ、この文字には、、

2012-07-17

詐欺


あなたは相手に欺かれたときは、悔しさ、怒りを覚えるだろうか?
それは人間としてあるべき感情だと思う。

そして、欺いた側が本当に欺いた意識を持っていれば
それはある意味、こっちも報われることがある。
なぜなら、欺いた、欺かれたという関係が成り立つからだ。

しかし、現代社会は無情だ。
自分は欺かれたと思っていても、
相手は、なんと、勝手に失敗したのにへんな言いがかり、あたかもこっちを悪者にするのか!
って逆に被害者意識を持つことが多い。

つまり、欺かれたという感情で自分自身は被害者のつもりでも
相手が被害者である自分を加害者、
自分は何も悪くないと言い出すことがある。

この事実が多くの不幸な事件やストレスの要因でもある。

「だますより、だまされる人間になりなさい」

この格言はだます意識がある前提で、
現代社会では成り立たないことがよくわかる。

いっそ
「人を見たら泥棒と思え」
こそ、現代社会の護身的な思想と思ってならない。

だますつもりはなかった。
こう言ってしまえば、なんでも許される社会なのだから。

2012-07-13

担当


「担当ではあるが、責任はない」
と発言する輩が多い。

担当の定義、
責任の意義、
を曖昧に自分の中での解釈を平然とできるのは現代人の強みか。。。

担当=受け持つこと。引き受ける、という行為

受け持つ以上、その行為の始終を把握するものだと思う。
確かに、その範囲が曖昧かもしれない中での担当になることは
この時代では多いが、担当という言葉の定義に従えば
ある程度その行為に関わることへの知る権利、義務があるべきと思う。

言葉の意味が個々人での解釈により異なる時代、
そして、個々人がそれぞれの我を押し通せる時代、
だからこそ、担当の意義を強く理解して
自分の役割の明確化があるべきと思って
自分なり模索していくことが、自己の確立と思うなあ。

2012-07-12

薬膳


中医学理論に基づいて食材、中薬と組合せた料理のこと。
食事=回復の意味といえる。

気付かないところで面白いのは
怪我したときにご飯をいっぱい食べても回復しないし、
食べる気がしないことが多いが、
TVゲームとかだと、
ダメージ、体力の回復は食べ物であることに違和感がない。

ある意味、薬膳的な思い込みといえる。

食べたものは体の一部になるから
失ったものを回復させることができるという、、思いだろう。

僕としては、薬膳料理を含めて、
医学そのものは思い込み、、
イワシの頭と変わらないと思うことが多い。

医学的説明で信じ込ませて、
当人の回復意識を高めていると感じる。

ネガティブに考える一面で
逆に思えば、
どんな食事でも
ありがたい薬膳料理ではないかと思う。


口にできるものありがたさ、
それで元気にならないわけがない。


要は気持ちの問題ではないだろうか!?

2012-07-11

空虚


飽食、飽物のときほど、空虚論は盛んになる。
社会的、
人生観的、
空虚と言い出すことは歴史が証明している。

ローマの哲学
ルネサンスのアイデンティティー
アメリカの近代思想
そして、現代の日本においても、、、

空虚
実質的な内容や価値がないこと。むなしいこと
の意味なのだが、実はこういう概念は
そうでないときにしか感じられない。

本当に何もない、価値がないときって
空虚ではなく、必死にそこから抜け出そうと活動して
空虚の概念など持つ暇がないはず。

空虚とは、案外満たされて、次にすることが見当たらない
満足された瞬間ではないだろうか。

2012-07-10

粗食


粗末な食事とされるが、
今は見直されている、それ自体で粗末な食事と言えなくなっている。

なんか、日本人は貧乏を見直そうというきらいがある。
しかし、上を見れば、下を見ればというレベルで
もう少し、上昇志向、いつかはお金持ちになってやろうという気概を
もっと賞賛すべきではないだろうか、

ある意味、自分の力量を悟るということは
できることをしない不作為で悪いこと、
お金持ちが粗末な生活をすることが悪いこと、
という価値観を出さないと、経済は回らない。

粗食は体にいい、
そんなに苦労して無駄に長生きするより、
楽しくピンコロのほうがいいと思うがね。

2012-07-09

酔狂


好奇心から人と異なる行動をとること。物好きなこと。また、そのさま。

スイキョウという字は

酔狂
粋狂
酔興

といくつもあり、
今は、酔狂に統一されているようだが、
僕は粋狂、、いや

粋興

ってこれがあるべき表現ではないかと思う。

イキな興しをすること、、、
興しとは、、盛んにさせるという意味、、


現在人は他人の視線や中傷を意識しすぎ、
僕みたいに、その視線や中傷を無視したり、立ち向かうと
なぜか、社会から敵になることが多い、、、

酔っているわけでもなく
狂っているわけでもない

イキな興し は現代社会では通じないとは情けないなあって思ってしまう。

2012-07-06

架橋


橋を架けるという意味だと思っていたが、
高分子化学においてポリマー同士を連結し、物理的、化学的性質を変化させる反応
の意味でつかわれるようで、
実際の架橋工事は
橋を架ける架設工事といわれることが多いそうだ。

橋を架けるという意味は
本当に両岸から橋を架けるから、
相手と心情のやり取りをする暗喩
そして、化学反応へと意味がいろいろと変わっている。

日本に住んでいても
そうなんだ!と思うこれらの異化されていく言葉がある日本語
外国人には相当理解が難しい言語なんだろうなとつくづく思う。

2012-07-05

治水


日本は治水技術が歴史的に観て最高水準だった。
日本の河川の起伏は世界規模でみて、かなりきつい。
他国の大河からみれば、小さな滝の集まりに相対的に感じられる。
だから、雨が降れば、その滝のような河川は氾濫しやすい。

対して、日本の主食穀物は米で、稲作は大量の水が必要な植物である。

起伏が激しく氾濫しやすい河川から適切な水を引いて米を作る。
この条件があったから、日本の土木工事の主軸は治水だった。
治水を制したものが、権力者だったともいえる。

だった。
今では、治水技術は陳腐化されている。
氾濫する河川が減ったからだと言われてきた。
しかし、近年の豪雨、ゲリラ的な集中雨など
今までにないレベルで水が脅威に浮上してきたし、
河川ではなく、用水路、そして水道管という新たな水路が問題になってきている。

この先の時代を考えると、
また治水を制する者が権力を握るという時代がくる気がする。
今の僕には治水の意味を理解しても、
それを制する技術がないが、この機にそのあたりを独学で学ぼうと思っている。

2012-07-04

石礫


いしつぶて と読む。
小さな石ころのことではあるが、、

石は、、石でイメージできると思うが
礫とは、、、レキと読み、、実は砂より小さい鉱物粒単位だったりする。

熟語だけみると、なんか論理矛盾だなあって感じてしまう。
石なのに、砂より小さい、、、

しかし、言語なんてものは
学識ではなく、社会運用の賜物であるから、
使い方なんていうものはその時の時流によって決まり、
今日に至るものである。

そして、石礫は、、、戦国時代では弓矢に次ぐ飛び道具、、武器の意味でもあった。

実際の意味、
それにあてられた呼称
時代における用途意義

本当に日本語は難しいといえるなあ。

2012-07-03

待合


待合せという行為を
停止条件とみなすか、
目標条件とみなすか、、、
その人の性分、力量が図られる。

待合せに向けて
・時間
・場所
に行くという認識であれば、それは目標であり、
目標通りにうまくいかないのは
自分ではしょうがないととらえるタイプであり、、
僕としてはあまり評価しない人種だ。

対して、
待合せに向けて
その時間、場所に定刻、定時に留まらなくてはならないという
停止条件で考える認識のタイプは使い勝手がいい。
停止条件であるということは
次のアクションを停止している認識で
待合せを一種のマイルストーンに考えていて、
その条件がクリアできるから、目的が達成できると分かっているといえる。

待合せ、、
「時間通りについた!」
「交通機関が遅れていて、しょうがなかった」
という認識の人間ではなく、

相手を待たせていて、
自分がいくことで結果が得られるという気持ちで
どんどん行動する人材を育成することがある意味、、ビジネスマナーの最低条件と僕は考えているが、
なかなか理解されそうもないな、、甘ったれたこの社会では、

2012-07-02

青図


青写真、
blue print

完成予想図とでもいおうか、
人によっては夢を語っているというレベルのことかもしれないが
こういう、青図を思い抱けることが、希望や将来を考えていると言えると僕は思う。

青図が書けるから、自分の方向性がわかる。
逆に考えれば、青図であり、完成でないのだからいくらでも改修してもいいのでは?と思う。
現代社会は
昭和初期と違い、夢を語り、それに向かってという話をすると、
・夢みがち
・現実逃避
と揶揄されるようになっているが、
それがこの日本の成長をダメにした。
経済成長期はもっとバカみたいな夢を真剣に語り、
その夢の青図をまじめに書いていた。

経済成長があるから、青図も許されたというが、
そんなの鶏卵論、青図をいっぱい描き行動することができれば
経済成長がはじまるのではないか?!と感じている。