2010-04-30

収納

物を所定の位置に納めること。
収納の仕方こそ、仕事の仕方ではないかって思う。
収納行為において
・目的
・手法
・その後の維持
をどう見出すかで、その人の仕事ぶりがうかがえる。

目的を現在の活動空間を拡張させるためとすれば、
手法は、空いている格納スペースに突っ込む
維持なんて概念はない。

対して、
目的を再帰使用のしやすいようにするためとすれば
手法は、物の使用頻度、環境に合わせた格納と
使い終わった後にルールに則って同じ場所に格納することの徹底になる。

人間はあたかも、後述のほうを褒めるが、
一概に正しいとはいえない。
前述の内容には
・格納を支援するサービス
・格納をしやすくする新技術
・そもそもその空間自身を新しくする不動産活用
といろいろと経済を活性するタネが転がっているのである。

きちっとすると言うことは
新しいチャレンジを始めないという
経済効果が薄い側面もあり、
出来ていない人がいることも市場経済には必要なのである。

2010-04-28

流動

人間社会は流動であると言い切れる。



価値
すべてが一つにとどまらずにある目的、指針に基づいて動くからこそ
市場や組織が成り立つといえる。

逆にいうと、とどまっている行為は
とどまることに意義はなく、
適切な時に動くことを待っていると捉えないとならない。

いつまでも待っている、貯めている行為は
結果的には人間社会においては
いい結果を導かないといえる。

日本人の価値観として、
貯蓄をよしとしてきたが、
考え方によっては、
その貯蓄をさせてくれた欧米諸国への経済負担で貿易摩擦を招いたり
流動行為と貯蓄行為を軽視したゆえに不動産バブルということにより
貯蓄の資産価値が目減りしたことも否定できない。

次の流動に向かっての
一時休止をいかに効果的に行うかが
社会活性化になると確信している。

2010-04-27

修練

修の字は、修めると言う物事の達成の意味。
練の字は、練ると言う訓読みは繰り返すという意味。

あることを達成することを繰り返すことをさす。
この行為は、繰り返すことに意味はない。
繰り返しの中で、その行為の真意、真髄を見極めて
その行動の最効率化、最大効果を導きだすことである。

多くの人間は物事繰り返し行っているだけに感じる。
繰り返し行っている行為に対して、
その真意を見出して、それを極めることをしなくては意味がない。

真意を会得することをせずにただ勉強のためという大義で
成果と時間に無駄にすることをしてはいけないと強く思う。

2010-04-26

書斎

子供にとっては勉強部屋とされているかもしれないが、
僕は書斎を重視していた。
中学校時代に自分の部屋を与えられたが
リフォームの関係上、部屋が2区切りに合わせたようになっていて、
机と寝具が別々におかれた。
それゆえ、机のあるほうを勉強小部屋、書斎として
切り分けて生活してきた。
家の占有や
マンションと移ったが
いつも、書斎を意識していた。
PCを叩くのは自分の部屋というより、
書斎になっている自分に気づく。

勉強は親と一緒にした方が、成績がいいそうだ。
だから勉強部屋より親の近くですべきだというが、
勉強ができても仕事ができない人間が多いとされるこの時代。
親と一緒で物事を相談してインプットの知識が身についても
孤独に考え、自ら決めていく活動は
勉強部屋、書斎で静寂、自らの世界で養わないとならないと思う。

勉強ができても自立ができない存在に
自分がならなかったのは、書斎のおかげかもしれない。

2010-04-23

普通

会話で登場する’普通’という発言。
この単語の意味は、有権力者からの強制を意味する接頭語に近い。
「普通は、、、、ではないか?」
「普通、、そんな、、、、するものか?」
という使われ方をするのである。

だから、目下の存在が気づかずに普通という単語を使い、
「普通は、、、です」
というの言葉を口にすると不愉快に感じるではことがある。
まして、これは会話の口語であり、
公の場で、普通という表現を使うことはタブーに近い。

はっきり言えば、
普通という言葉、現代社会では普通という意味はない。
社会への強制力を行使したいのに、
決断力のない愚者が、大衆の多くが指示しているように
感じさせたいがための逃げ表現でしかない。

僕は普通という表現を使う必要性より
それから発生する悪影響のほうが強く感じるので
使わない。

だいたい、普通なんてことは何も意味がない。
顧客志向、個人オーダー、個性なんて言葉が横行している現代で
普通というものはむしろ付加価値がないということに近いのだから。

2010-04-22

作法

物事の形式と捉えられがちだが、
本来は目的を達成させるために、
一番効率的な動きの手本のことを指している。

作法を覚えることが
時間的、機能的に目的達成に適しているとされるべきである。

現代では、作法を形式ばったルールの塊とされてきているが
それは、効率的に行わずに目的達成を著しく阻害した行為への
戒めからルールを徹底してきた経緯からだ。

もっとも僕自身もその作法について
異化した見方をしているところもある。
その作法がなぜ効率的とされてきた作法になったのか?
その行動が作法とみなされた時代、環境背景は何だったのか?
作法から導ける行動の歴史がとても興味深い。
行動の歴史は人間の嗜好、価値観に強く結びつき
この先、人間がどういう傾向をたどり、どうなるかも
予測できてしまうからである。

2010-04-21

勝手

かなりの多義語。
台所から便宜、暮らしぶりといろいろな意味に使われる。

勝手口
勝手にしやがれ
使い勝手のいい道具

と日常的にもいろいろな思いで使われている。

では、基幹となる語幹はなんだろうか?

漢字のままである。
勝ち手、、必勝パターン。
つまり、自分の思うような行動になり
常に期待通りの結果が得られるあり様のことである。

自分の思うように出来るというポイントから、使い勝手を導いた。
自分の思うよう行動をとるということは
他人からすれば、わがままであるから、勝手にしなさいとなる。
正門は来賓やご主人の出入りで厳かだから、
裏口のほうが気軽で思いのまま、、だから裏口を勝手口に、
その勝手口は食材の運搬に使われるので
調理場にあることになっていたので、勝手口の派生が台所になる。

上記のように
多義語には語幹からの理由と歴史がある。
これは多義語に限らず、マルチユースされる万物に言えること。

万能ナイフである10徳ナイフは、
それが用いられた環境から機能が付加され続けられた。
オールマイティーと言われる人材の過去の多くは
労務の影があったりする。

勝手のいいものにはそれなりの理由と過去があるのである。

2010-04-20

湿気

少し湿っているほうが何かといい。
乾燥していると、摩擦熱が出てきて物質の形状を変えたり、
あまり濡れていると、物質そのものの性能がでなかったりと
自然界の適正な気候に湿度は重要とされる。

精神においても湿度は重要とされる。
あまり、ドライな対応も問題だし、
甘やかして過ぎてもよくない。
適当なところを求められる。

とはいえ、社会は湿度を要求していない。
限りなくドライな結果主義である。
いくら組織内外で湿度を保っていたとしても
対外的なところでは、0か1か、
結果が出たか、でなかったか、
そこに焦点を集めざる負えない。

多くの人間は結果が出ないときに
過程のいいところを褒めあうが、
そんな湿った感覚より、僕は
結果が出た後での過程の悪いところを徹底したい。

高い品質を求めるには、
湿った環境なんかより、
より一層湿り気をとることである。

そんなに張りつめてどうする?
と思うかもしれないが、
もっと緊張感を持ってほしいっていいたい。

湿っているところはそのままにしておくと
カビの温床であるということを!

2010-04-19

悪行

時代と世相の捉え方そのものと言える。
行為自体が同じでも、
当時
後世
他の地域の人たちからは
悪行とみなされたり、
偉業とみなされたりする。

勝てば官軍の論理の逆でもあり
今後自分を含めて誰のために人間は行動を起こす。
その結果が他の他人とのパワーゲームで負ける
悪行とみなされるのである。

「悪いことをせずに、いいことをしよう!」

っていうが実際には
いいことと思っても悪いことにされてしまうかもしれない。

自分の行う行為に
多数派工作、
正当性の立証を
意識しつづけることが現代社会には求められていると言わざる負えない。

2010-04-16

見聞

見聞を広げる、という行為自体には何も問題はない。
新しい刺激を視覚、聴覚から得ることはとても重要だ。
でも、その前提として、常にその刺激をこれからの人生、事業にどう役立てようとする
考え、気概を持っているかがなくてはならない。

「すごかった」
「たのしかった」
「びっくりした」
という感嘆表現ではなく、
その見聞から、新たな思考の着眼点、自分の悩みのヒント、生きる指針等を
見つけることを意識しないと、見聞を広げる意味になっていない。

世の中にはいろいろなことがあふれている。
その事象をどれだけ自分の行動に取り込めるかという視点が
見聞を広げると言う意味だと思う。
旅行や研修等の場所の変動は
移動を開始すること自体から新たな視点を呼び覚まさせてくれるものだといえる。

「そんなこと考えていたら楽しめない!」
って声には
「何を持って楽しむのか?それも考えずに行動しているのか!」
って言いたいがね。

2010-04-15

個性

個性を大切に!っと教育してきた時代をうけて現在にいたっている。
個性という言葉で甘やかされていることも多く見受けられる。

個性は他の同種と見分けられる特性と定義できる。
それをもっと細分化すれば、
蓄積情報量である、専門性
行動発動力である、主体性
と、現代企業の求める求人要綱に当てはまる。

しかし、個性を持っているとして、上記、専門性、主体性の片鱗があるとしても、
自分の好きなことしか覚えない、行わない、ことが多くの場合だろう。

専門的な分野に明るい場合、周りの人間がこの人間に期待するのはその応用だとしても
「自分はそのことについては、専門ではないから知らない」

積極性をアピールするから、主体的な行動に期待を募らせて任せると
「自分にはよくわからないし、だれが責任をとるのですか?」

と期待を裏切られた感を得る。

個性に基づく、個々人の評価は評定の軸にはならないだろう。
比べるべき対象がない個人の言い分でしかない。
個性をみるとしたら、
難しい課題に対してのどのような行動プロセスを取るかで
その人間の行動パターン、よみとれると僕は踏んでいる。

個性そのものは評価するものではなく、
個性に基づく行動結果が組織、社会に役立つかどうか、
そこが重要である。

2010-04-14

反骨

反骨精神とは
不当な権力や世俗的風習に反抗する気概として
体制へのチャレンジャーとみなされることがある。
僕に対して反骨的といわれるが、、僕自身むしろ逆と感じることが多い。

どう逆か?
僕が父母から育てられた統治すべき観点での帝王学からすれば
今の現代人の行動は無駄で非生産、目的性の現れにしか見えない。
・社会的道徳
・ノブレスオブリュージュ
・悪行を正すために行動する
当の僕からすれば当たり前の行動なのだが、
現代社会の世俗風習が無気力になっているので、
行動することが体制批判に見えるのであろう。

温故知新ではないが、
古風な善行を目指して行動していることが
斬新的かつ反体制的に映る今時代そのものが
後世からすれば、
人間としての本分を忘れた反骨の時代とみなされることになるかもしれない。

2010-04-13

奇策

普通の人には思いつきにくいはかりごと、企画。
面白いことに、多くの一般人が他人に奇策を求めてくる。
そのくせ、一般人はその奇策の意味を理解できないことが多い。

普通の人には思いつきにくいことで、一般人が理解できる企画。
そんなことを求めることが一般人なのかもしれない。
企画、アイデアについて、僕はいつも考えているし
それを実行するように努めている。
しかし、その実行時にいろいろと課題問題がおきて修正、挫折の連続だ。

奇策を求めるのではなく、
奇策がどう実現させるかにしか興味がない段階で
自分は一般人には理解されないんだろうなって感じている。

考えて考えても、なかなか学やタイミングが悪くて実行結果がでないものだ。

2010-04-12

余暇

仕事から解放されて自由に使える時間のことをさすが、
余暇を余暇として捉えているうちは、プロフェッショナルとは言えない。

仕事から解放されるという概念は
仕事をいやいや、もしくは不本意に行っているということになる。
本腰を入れていないで取り組む姿勢では
真髄、プロへの道はありえない。
その場しのぎとして、出来ているにすぎないのである。

例え、稼働時間でなくても自分の仕事のことが常に頭にあるような人間でないと
本物は作れないし、いい品質は導けない。
その結果、現在の日本、強いては産業の多くは商品、製品に本物というか、
魂のこもったものを見受けられない。

悲しいかな。
当人にとっての余暇は
食事にしろ、
鑑賞にしろ、
戯れるにしろ、
相手の成果を楽しむことが多い。
本気で仕事をしていないからこそ、
自分もまた余暇を本気で楽しめないのかもしれない。

2010-04-09

品質

品質が高いから売れる。
だから、いいものを作る。

それは結果論による、捻じ曲げられた論理だと思う。

いいものが売れる、
優秀だから高い評価を得る。
そんな一義的な評価を得られることはない。
もっと言えば、
売れたものは品質が市場にマッチしていた
品質が最適だったというべきである。

いくら高性能であっても
その性能が十分に発揮できない
一般的使いこなせないものは
品質が高いとは言えないだろう。

そして、はたから見て品質が悪いものでも
サービス体制で不良品を即時交換してくれるサービスが
あれば、製品というよりサービスとしての品質を評価するだろう。

品質が高いという言葉は
提供側がいかに消費者に受け入れられる企画を持っているかということなのである。

2010-04-08

応用

ゆとり教育だけでなく、
受験戦争世代も含めて、
いや、現代日本人の多くは応用力がない。
だから、提案力が薄いのではないかと感じる。

「いわれたことを覚え、実践する」
この能力は日本人は群を抜いている才能を持っているし、
その進化系の雄が、カイゼンという言葉だろう。
いわれたことをどんどん昇華させる論理だからである。
しかし、いわれていないこと、あえて言わないことの
背景に内在している根本的な問題について、
踏み込み、それを抜本的に変えるという試みはまずはない。

リスクかもしれないが、
その根本的な問題を今までの行動から応用して対処もしくは
行動の組み合わせで全く新しいケミストリーこそ
ゴールドラッシュの種なんだが、、

2010-04-07

世襲

いろいろな意味で世襲はなくなりつつあるとされている。
でも、そんなことはないだろう。
結局、自分の存在意義は親からの因果になる。
自分の価値観、生き方は親の影響になる。
親と同じ道を進むものもいれば、親と違う道に進む。
これは両方とも世襲に関わる。
親の積み上げたいろいろな有形無形資産を継承して自らの存在をえる。
親のような惨め、その生き様に反感する遺伝子を持っていたからこその違う道を選ぶ。
前提条件として、親からの因果によるものであり、それこそ世代に渡り襲う概念。
世襲になると思う。

だから、当人の気概とその親の生き様をみれば
その人間の進みたい道もおのずと僕には見える。
あとは僕自身にその気概にどれだけ関与できるのかというポイントが
今の僕のジレンマでもある。

2010-04-06

初歩

はじめの一歩であり、
この初歩で実は人生の多くのことは決まってしまう。
南に踏み出せば、
東、西に行くためにはそれなりの道のりがいるし
北に行くのは南に踏み出しているのであるのだから
スタート位置に戻るくらい、今までの道のりを捨てることになる。
多くの人間は、スタート位置に戻ることは決して認めたくない。
なぜなら、今までの自分の行ってきたものを総否定することになるからだ。

実はここが人間の負の遺産の始まりである。
否定しないように取り繕う思考に基づく改修、理論武装が
あるべき姿ゆがめていく。
初歩の踏み出しを間違えたために
結果としてゴールすら捻じ曲げてしまうことになる。

人の歴史の多くのパターンはこんなものだとつくづく感じる。
初歩だから未来がわからない、ゆえに間違えた。
それはそれで間違えたのなら、潔くスタート位置に戻ろうよ。

2010-04-05

残念

念が残ること。
念とは、漢字を分解すれば、今の心、
現時点における願望と言えるだろう。
今時点で心残りの願望があり、満たされていない状況といえよう。

後悔と似ているようで、残念が違うとことは
自分ではないものへの心残りというところであり、
自分ではどうしようもなくただその結果を甘んじて受けなくてはならない
気持ちの現れである。

社会において、多くの場合は残念の塊と思うべきだと思う。
社会である以上、他人の行動に左右されることになり、
その行動の多くは、自分の思うとおりではないと思っている、
そう残念そのものである。
いかに残念をなくすか、それが社会をうまく生きていく方法かも知れない。
思い通り、社会を動かす力を得る?
それとも、人間に期待しなければ残念に思うことはない?
人それぞれの選択肢になると思うが、、、

2010-04-02

破壊

言葉の意味は暴力、非平和、を連想させるものかもしれない。
しかし、破壊こそ進化、発展である。
破壊という言葉の前提条件には既存の事象がなくてはならない。
その既存事象が何らかの要因を受けたから破壊されるのであり、
既存事象として普遍的な要素を持ち得なかった結果である。

破壊は行為であり、属性はないのである。
その善悪はその後の権利者の一存である。

例えば、
建物への破壊は
建物の所有者が権利者であれば、器物損害を受けたとなるが、
建物の破壊者が権利者になれば、社会保全による強制排斥と言い切れる。

これは社会そのものが顕著で
既存社会構造への破壊活動は
既存政権が権利者になれば、テロ、クーデター
破壊者が権利者になれば、革命、自由解放
となる。

勝てば官軍、まさにそれは破壊そのものを示している。

2010-04-01

参画

社会ということは
いろいろな人の集まり、組織に参画、離脱を繰り返すことである。
いろいろな節目にその参画行為が行われ始まる。
多くの人間がそこで
「早く仲間に溶け込もう」
「組織のルールを理解しよう」
とすると思う。

でも思う。
それっておかしくない?
なぜ新しくその人材が参画しなくてはならないのか?
そこの命題を問い詰めれば、
組織、集団の刷新を狙って、
もしくはその個性をその組織、集団で
発揮させることであり、
今までと同じである必要はないのである。
逆に社会である以上
集団活動は前提として向上的な活動を求められるものであり、
欠員補充という概念ではなく、新たな価値の創設でなくてはならない。
そのためには、既存の構成員の意識改革、組織の新たな方向性を見出すことが
重要だと思う。

組織の仲間と仲良くなったけど
組織としての生産性が下がった。
そんな組織ならば、すぐに解散されるのがこの社会であるのだから。