2009-09-30

候補

人に質問する際に準備しなくてはならないもの。
多くの人間は、事象が捉えきれていないときに<what>で質問する。
しかし、これはおかしい。

事象が捉えられていないどころが
質問者自身がどうとらえているかを理解しないと
回答者はそれなりの回答はできないことが常だ。

新生児が社会にさらの状態で生まれた状態での質問ではなく
現時点に自分が存在し、質問しなくてはならない状況になっているということであれば
質問する際には<what>ではなく、自分なりの見解を問いかける<which>で
自分なりの正解の選択肢を持つべきだ。

その<which>の選択肢も思いつかないという意見があるが、
それは本末転倒で、質問する内容自身が間違っているのである。
自分がどこまで、理解していて、その選択肢をどうとらえているか?
それをひとつひとつ確認して、次のステップに進まないと理解できていないことになる。

自分の質問の多くが<what>の人間の多くは
その質問の回答をもらったところで、理解はしていなく、
また同じことで<what>の質問になるだろう?

僕から言わせていもらえば
<what>の質問をする輩、その存在自身がwhat is ○○ ?

2009-09-29

志向

人生におけるアウトプットのカタチではないだろうか。
いろいろと学び、いろいろと行動、活動をする。
その際に人間はどんな人間になりたいか、
その目標を持って生きていくことを求められる。

そのなりたい姿とは、
ある意味、人生における結果の産物、アウトプットといえると感じる。

志向自体はその目標になるためのプロセスのひとつ
と捉えることもできなくはないが
なりたい姿に対して志向しているといえるので、
結果そのものと感じる。

最近、多くの人間、とりわけ社会人は志向を持たなくなっているって感じる。
人の器の悟り
業種業態、組織論による抑圧
があげられるが、
それでも、自分はどうなってみたいかを
他人に言わずとも、内に秘め、そのために行動をとるべきと思う。
その思いが
今の仕事が嫌なものでも、希望としての逃げ口に
行っている仕事が将来の自分の目指すものの礎に
ということで、モチベーションに変換され、自らの気持ちを整理できるのではないか。

2009-09-28

批判

批判を多く受けていることが、歴史上の成功になっているといえる。
批判=成功とは必ずしも言えないが、
成功された側からすれば、そう感じると思う。
・行動を起こせば、それはダメだという偏見
・少しでもうまくいきはじめれば、成り上がりという陰口
批判をどの時期でも受ける要因をもっている。

人間の多くは
批判に対する耐性はないが、
批判の論理を組み立てることは容易にできてしまう。
することは得意でされることは嫌だということである。

でもこれは発想の逆転に使えることもある。
批判の論理を受けて、その組み立てを解析すれば
その批判をうける内容こそ、いろいろな起点になるのではないか?

起点から、改善案、躍進案を見いだせることが、次の成功を呼ぶともいえる。
成功の裏に批判あり。
その意味は、批判に耐性があるという意味ではなく
その批判をどれだけ、次の一手に変えられるか等の
他人には気付かない視点を行動力があるということだろう。

2009-09-25

改善

改めて善くする、、、
本当にそうだろうか?

業務において、改善という言葉が飛び交うが
「改めて」という表現のように、今の業務を批判できるだろうか?
「善くする」という表現のように、どう善くなると明言できて行っているだろうか?

最近多く見るのは、
改善策への改善策がある。
こうなると、何を改善させているのか、わからない。
強いて言えば、今の社会が何を行っているのかわかっていない縮図みたいなものだ。

改善には、必ず対象と目的が明確になる必要がある。
そして、その対象と目的を関わる人間全員の理解、認識がないとならない。
それをどれだけ意識できるか、
もしくはその改善が目的と異なるならば、
その異なることを明確化、その軌道修正が求められる。

軌道修正をしないで、改善をすすめるから
改善がいつの間にか、
ルーティン化そして、
そのルーティンと化した改善への改善というおかしな事象を導くのである。

改めて善くする

言葉の意味を理解、そして則した行動が必要である。

2009-09-24

鉛筆

電子化、画面の高精細化の発達により
ペーパーレスが進み、それに伴い、ペンの活躍することも少なくなってきている。
ペンよりも需要が少ない、鉛筆はもっと出番が少なく
教育、試験、製図という限定状況での使用になりつつある。

だが、IT化に身を寄せる僕だが
ことのほか、鉛筆(僕の場合はシャープペンシルだが)での記述にこだわりを持っている。
鉛筆類に対して言われる、硬筆がもつ表現力が好きだからである。

電子化、そこからアウトプットされる印刷物は結果しか表わせない。
確かに結果が重要であるが、
対人的な場面や検討経緯を重要視する場面においては
硬筆の持つ味わいは効果的である。

筆圧による思いの勢いの現れ
消した跡からくる推敲の様子

は見せる相手というより、
後になって自分が見返した時に
その当時の感覚をも呼び覚ますことができる。

結果が個別具体的に相手に提出されるが
過程は汎用的、永続的に自分の財産になる。
その過程は、案外忘れやすいものであるからこそ
硬筆のかたちで残すことは重要と思っている。

2009-09-18

思込

人間が対象物と関係が悪化する根本。
無生物への一方向なら、好き嫌い嗜好のレベルであるが、
生物に対しては、双方向になり、人生そのものを決定する原因になりやすい。

とかく、人間間の思い込みというもの、、
もっと言えば、他人への/からの思い込みがその人間の社会生活そのものである。
思い込みの方向性と度合いが
双方一致の場合は、強い絆になるだろう、
しかし、
思い込みの方向性が違えば、不審、険悪
度合いが強ければ、裏切り、失望
を導くものとなる。

また思い込みは永続的ところが、
刹那で大きく変動するものであり、
今までの方向性、度合いにより、
その相対差で激しく動揺するといえる。

一般的には、それを恋愛等に例えるだろうが、
僕のような存在だと、人間関係の一つが恋愛であり、
主従、アライアンス、敵対、共闘、すべてにおいて、
この思い込みを制しなくては、対応できないと思う次第である。

2009-09-17

誘因

ある作用をひき起こす原因のことであり、
人間が問題を起こす大本と考える。

多くの問題の反省、更生、対策にふれているが、
多くの場合はこの誘因に対して触れていないことが多い。
根本的に考えれば、誘因に手を加えれば、
問題そのものの発生がなくなるはずなのだが、
そこへの対策はあまり行われない。

理由はいろいろあるが、
誘因を導きだすには、それ相当の器がいる。
・経緯把握
・行動洞察
・心理分析
・社会権力
に長けて、それを見極め、対応するのは難しいとされる。

しかし、、、これができて、
初めて優秀とされるのではないか?
偏った知識と偏った対策を多くの人間が行うが
それは、反作用になるとしか思えない。

結局、問題への対策自体が次の問題への誘因であり、
その対策を講じた行為、人材に対策を施すことがとても重要と感じている。

2009-09-16

魅了

大衆を魅了するということはとても高度なスキルである。
そんな大衆を魅了するスキルが長けている職業は対照的に
政治家と映画スターである。

この両方の職業の目的は
「不特定多数をある特定の時期、もよりに建造物に行かせる」
という点で共通している。投票所と映画館。

そのために、
世間的にいう本業活動と
売り込み活動であるプロモーションを両立させているその魅了スキルを巧み
磨いている。

しかし、思った。
世間で言う本業とされる行為は実は本業ではなく
プロモーション活動、そしてそのプロモーション活動で
いかに魅了できるかこそ、彼らの価値であり、
本業なのではないかと。

いくら本業とされるスキルが高くても
自分を支援してくれる人に有益行為を施してもらわない限り
自分は存在しない、、できない。

この点は多くの人間、社会人に共通することだ。
本業とされる、職能技術だけでは相手は魅了できない。
魅了して、有益行為を施してもらうプロモーション活動を
意識しなくてはならないことを常に意識しなくてはならない。

2009-09-15

弱者

弱いから弱者である。
そして、弱いという事実を認めなくては弱者ではない。
能力主義、市場経済は弱者を生み出す論理である。
決まった富を平等ではなく、分配することはその根本主旨だからである。
それなのに、負け組が弱者救済を訴える。
僕の中ではありえない。

弱者は弱者と強者にみなされて救済を受ける立場であるから
弱者であり、能力、市場に負けたのだ。
それなのに偉そうに、救済の声をあげるのでは、
能力があってもなくても、変わらないことになる。

弊社は弱者だ。
その自覚があるから、
なぜ負け組なのか、これからどう勝ち組に変わっていくのか
を常に試行錯誤を繰り返すことで、この能力主義、市場経済に
立ち向かおうと思う。
その考えに、救済を勝ち取ろうという気持ちはない。
弱者が強者に脅迫したら、
それこそ、ルール無用のChaosな社会になってしまう、、、、
もっとも、今はChaosそのものとしか僕の目には映らないが、
それでは、自分たちが強者になりたいという目標がぶれてしまうからこそ、
あえて、Chaosに触れないようしている。

2009-09-14

演技

他人とともに生きていくこと。
人間、本当の自分というものはないのだろうと感じる。
ある環境、ある集団、ある人物に合わせて
常に自分という存在を演じているのだと思う。

意識無意識のレベルはあるが、
気持ちの問題や表層行為で示せば、
敬語なんてものはその演じている立証とも言えよう。
自分の立場というロールを演じているのだから。

そして、一人でいるときは演じていないのではないか
って思うかもしれないが。
myself 自分自身に対しても演じていることになる。
「なんで自分はダメなんだろう」
「不幸な自分がいや。」
「こんな一人でいる自分はなんてさびしいだろう」
なんて心情はあたかも自分自身との対話だったりする。

本当の自分、演じていない自分を見つけることを求める人が多いが
仮説的に考えれば、見つかった本当の自分自身で何をするのか?
それがゴールならば、そこで人生の終わり、死滅か?
ならば、死滅するために自分自身を探すのかって思ってしまう。

ならば、いろいろな演じ方を学び、
演じている自分をどんどん多くすれば、
他人から気付かなかった演じ方という新しい自分を見出してもらえないのか?
他人に合わせて演じる目的は
自分自身がそうしたいという思いがあるということ、
それが本当の自分ではないかと思う。

2009-09-11

不眠

年をとればとるほど、マイナス要素で起きる健康障害。
幼少期は、翌日に控えるイベントで興奮して睡眠にはいれないことが多い。
でも、年をとり、いろいろと事象が理解、憶測できるようになればなるほど
不安と恐れで熟睡できない。

眠ることは、
脳内、体内のあらゆる機能の初期化再起動とみなされる。
それが不眠により、抑止されれば、PCと同じように
いろいろと弊害もでるのだろうと思う。

最近のPCは
スリープという機能で復帰を早くできるために、
落として、再起動ということは少ないかもしれない。

このスリープという機能と人間のスリープは
文字通り同一の機能とみなせるかどうかは
未だ僕の中では未解決事項であり、、
こんなことを考えるから、、、、、眠れないのかな?

2009-09-10

無知

たぶん、幸せなこと。

知るということは、
法律上は悪意であり、
哲学的には不安の種が増えること。

僕のように、いろいろと物事を理解してしまうと
知的好奇心の充実の代償に
知ったがための不安が累積してしまう。

知識と知識がリンクして、より不安になるということもある。

無知そして無謀なほうがいいときもある。
おもいっきりできるし、何も考えていないから
得られる結果は、文字通り、想像以上だといえる。

しかし、その無知の存在を身内にいるとした場合、
僕は、また’知ってしまう’から、
結局不安は尽きないのだろう。

2009-09-09

納品

この行為はゴールではない、
これから新しいことへのスタートである。
納品相手によりよい追加の提案を行う縦展開。
納品したものを、もっと多くの顧客へ勧める横展開。

こられの行為は、納品をもって次のステップとして始めるのである。
だから、納品すればいいではなく、
納品する行為を
いつ
どのように
するかを次のアクションと連動させて考えることが重要である。

納品して一息つく。
もっと後ろ向きに、
瑕疵担保責任からどれだけ逃げきれいるかという発想で
仕事をしていたら、品質が上がる訳ないのである。
既存製品、サービスの向上は
納品行為の後ろに隠れていると思うべきだ。

2009-09-08

基礎

事象の根幹となる要因、要素であり、
一番重要でもあり、そして学ぶものではなく、捉えるべきもの。

「基礎をしっかり」
という言葉がいたるところで耳にするが、
その発言がでていること自体、
すでに多くのことで傾いているというということで
行う活動は、基礎ではなく、補強、取り繕いの活動である。

基礎となることは、
座学や講義では理解できないものである。
多くの人間は基礎を学びたいって思っているが
基礎とは、その物質、思想、そして、それを捉える人間のしぐさそのものであり、
自らが自分の手や頭を使うって、納得するものであり、
基礎を俗の言葉でいえば、コツとも言えよう。

コツを知らずに、無理やり行動するから後遺症がでるのではないか?
そう感じてならない。
まして、多くの場合、人間は勘違いしている。
自分がコツをつかんでいなくても、
技術、社会制度、がその人材の無能さを隠すようにしているから、
結局、その人材は何も掴んでいないのである。

不祥事や障害時をよく見ていてほしい。
本当に動ける人材は、基礎を自分でつかんできた人間であり、
基礎を知らない人材は、責任転嫁だけになるという人間模様が見えるから。

2009-09-07

負担

権利搾取そのもののことになっている。
受益者負担という建前は、、、もうはや、、いや、
そもそも、受益者負担ということは存在しないのである。

負担というものの実際の使用例をもとに考えれば、
本来すべき人間が他人にかけてしまっているときに使われる。
・親の負担を子供に
・国の負担を国民に
という風に使われるが、その使用例の結果は
その負担への見返りが全くないということである。
つまり、負担は責任転嫁そのものである。

古来からそうであり、
臣下、臣民は王の負担を下げるためにという名目で
納税等を強いられてきたが、王はそれを当然のように受け入れている。
そして、現代は
老人は年金、介護の負担を
子持は育児、養育の負担を
国税に投げかけているが、その負担意識はほとんどが責任転嫁といえよう。

自助努力をせずに責任転嫁に走る行為はみていてあさましい。
少なくても、弊社は自助努力をしない社風は決して作る気はない。

2009-09-04

使用

「そのものは君に合わない」
「お前がそれを使うなんて」
という罵声?を聞くことがある。

ある製品を使用する際に、
その物の価値とその人材の今までの実績をみて
物>人材と思ったときに言われるとされる。

その発言からわかるように
物の価値を前提に、人材の適正を判断していることが多い。
しかし、その認識こそ庶民化された愚者の思想だ。

選ぶのは、物ではなく人間のほうである。
その物を選ぶ際に、少なからずそれを使える
財力
コネクション
があったわけであり、現時点その物を手にしている時点で
その物を使ってもいいはずである。
その物の価値は今までの先人たちの使われ方の結果であり、
常に変動していくものである。

そして、思う。
罵声?を口にする人材に限り、
その物を使用していない、、、使用する器にないから
そのような言葉がひがみとして出ているにすぎない。
もし、使用している人なら
「お前もそれを使うんだから、自らを高めろよ」
くらいに、物よりも当人の価値向上を使用行為に求めることになるからだ。

逆にいえば、
人の価値は使うものに合わせて、上がるものであり、
上がったからその物を使用するのではないとも言える。
いい物を知らず、まがい物、劣化物を使っていると
人間自身もまがい物のような
模倣行為しかできてないと現代社会を俯瞰してしまう。

本物を味わってこそ、本物を使いこなせるそれが
正しい使用方法と言い切れる。

2009-09-03

完璧

すべてを織り込んだ完全な状態、、、であるが、
森羅万象、なってはならない状態。

個別の事象として、完璧になることはできるが、
時間、環境は相対的に変化、流転する。
完璧ということはそれ自体で完成されているので、変更はない。
時代や社会についていけないということにつながる。

「完璧を目指せ!」
とものづくりに関わる人間は口にするが
完璧なものを作ってしまったら、
自分自身のこれからの仕事、そして技術的な成長がなくなってしまう。
完璧を目指すものであっても、達成する極みではないといえる。

顧客の立場からすれば、
完璧なものというオーダーになると思うが、
重要なのは、現時点で必要な要素を押さえていて、
この先想定されることへの準備対応の礎になるかどうかだと思う。


市場分析の資料によれば
「これさえあればOK」
というキャッチコピーの商品ほど、
毎年のようにバージョンアップしているそうだ。
なんとなく、矛盾に感じるがそれが市場であるし、
人の心情かもしれない。

個人、組織、会社として
常に完璧ではないという自覚を持ちたい。
何が完璧ではないのか
現時点で完璧に一番近づく手立ては何か
を常に意識すること、、、、成長と言い換えられると確信している。

2009-09-02

火消

火災を食い止めるという意味だが
現代では、悪化した仕事を片付けるために人的投入されることだろう。

火消しは能力が高い人材に白羽の矢が立つことが多い。
そして、これが日本において能力主義を逆転させている温床である。

日本は連帯責任を重視する、いわゆる無責任国家だ。
そのため、火消しを行う際に、
原因である人材への糾弾より先に
有能な人材を火消し要員として集めることが多い。
実はそれが問題である。

火消し要員がくると、
悪化させた人材は居場所を失う。
その人材は、そこから抜けていくのだが、
その人材にも原価がかかるので、
売上を上げようと新しい仕事につけてしまう。
新しい仕事だから、
今までと違うという認識で、仕事に当たるが
結局、反省や禊ぎをしてない人材ゆえ結果
また仕事を悪化させてしまう。

そして、また、火消しを終わらせた人材が
その悪化をまた
今までの火消しの実績をもとにされて
火消しを行うということになる。

仕事は無限ループになるのである。

有能だから、ステップアップするという夢は
その会社のビジネスのやり方ひとつで、
夢に人偏がつく、、、儚(はかな)いものになる。

「あの会社は社員に優しい」
という会社はえてして、有能な人材には冷たい、
なぜなら、無能な社員を甘やかす温床を維持するために
有能な人材を生贄にしているからだといえる。

少なくても、賞罰必須、
無能な結果に対しては必ず罰を与えないとならない。
これが、人材を確保する経営だと思う。

2009-09-01

確認

この意味は、現在においては、伝言ゲームの意に落ちているだろう。
「専門家に確認してきます」
「上司に確認します」
「一度確認してから、折り返し連絡します」
この言葉を受けたものとして、思うのは

「君はなんのために存在するんだ!」

当人たちは間違えないようにという思いだろうが、
間違えない=責任を他人に振っているだけ
にすぎないということだ。

職務分掌や業務の専門性が高まっているので、
自分の責任範囲という観点があいまいかつ限定的になってきている。
それはそれで業務の高度化ということで重要だが
それに対となる、個々人の専門化、総括化があまりにも低いなあって感じる。
確認という行為を繰り返していると、
結局は誰も責任を負わないという事実になることは明白だが
イメージがわかないと思うので実例をだせば

部下「それは上司に確認します」
上司「自分は管理職だから、現場は現場に任せている」


という会話は日常茶飯事で行われ、結果無責任体質になっている。
これは見ていて、情けなくかつ腹立たしい。

僕としては、専門性のかぶりが生じる非効率を容認しても
責任という行動実施義務と確認する際の主体的見解を示してからの行動を求めたい。