2009-12-31

歳末

今年最後の更新なので、この言葉でしめたいと思う。

歳末と年末の区別はつくだろうか?
似たようなことで、年齢については
歳、才、どう使い分け、強いて言えば適切なのか?
を理解しているだろうか。

歳という言葉は、時間的な節目、次の流転への折り目と言う意味がある。
人間の大きな節目は
暦が発生して以来、太陽暦、太陰暦、に関わらず
1年というところが節目、歳になたるだろう。
だから、暦が刷新される年末は多くの人間の歳末である。

歳に深い意味があるのだが、
この漢字を書くにあたり、自覚が多い。
意味深いだけに多用するにも、、、
そこで、古人は同音の才をあてた。
それだけのことらしい。
才は誤用に近い、本来は歳である。

この深い意味で言えば、
学校ならば、3学期の終業式
起業ならば、決算月末が
本来の歳末にあたるといえる。
だから弊社は本来は年末であり歳末ではない。
しかし、あえて歳末と思っていくつもりだ。

今年と言う時間的連続から解放されて
新しい事業展開を2010年から開始するという
気持ちを込めて、折り目として、
明日からの新年を迎えていきたいと思う。

芽吹く新企画、
積み上げたものの開花
を2010年に起こす準備はできているからこそ
今日を歳末として次の展開に移ることとする。

我々の真価、明日より示したり。

この言葉でもって、2009年をここにしめる。

2009-12-30

復讐

復讐心は本当に悪いことだろうか?
かなり悪いものと認識されているが、
戦後の日本は、復讐心そのものではなかったが、
今の生活水準の高さは復讐心で成り立っているのではないか?

敗戦した日本はアメリカの占領をうけた。
その占領下で日本人の記した記録、文書の多くは
戦勝国を見返す、復讐心の塊だったと言い切れるくらい内容ばかりだ。
そして、それを戦争ではなく、経済活動で見事にやってのけたといえる。

僕は復讐心こそ、人間ではないかって確信している。
多くの動物は天敵が存在している場合、
その天敵に対して逃げるという行為しか芽生えない。
逃げられなければ、捕食という死しかないからだ。
仮に逃げ切れたとしても、襲った天敵の個体への復讐心は芽生えないだろう。

しかし、襲った者に対して個体識別を持ち、
その個体に対して仕返しをしようとする。
場合によっては、その仕返し行為を血族伝承させることも
容易に出来てしまうそんな動物だ。
そして、その復讐活動によって脳は活性化されて
進化していくものではないだろうか?
多くの技術革新は復讐への探求心が原動力になっているといえる。
日本人は調和を求めるが、西洋人は自然と言うものに対しても
挑みやぶれ、それを克服するという復讐行為が科学といえる。

復讐行為をつまり

敗れたからこそ、見返して相手に対峙してやる!

という気持ちは、悪ではない。
その気持ちがもっとあからさまにしてでも
生き残ろうとする熱意が今の社会に求められると僕は悟っている。

2009-12-29

正当

正当とは何だろうか?
道理になっている、正しいというが
正しいと言い切れること自体が悪意に満ちていると感じる。

例えば、正しいと思われることを厳格に行っている人は
周りから、「あの人は固い、融通が利かない」と正当という評価とは
かけ離れた評価をうける。

またかたくなに既存の価値観を守り続けている人に対して、
大衆の民意と言うことで、その既存の価値観を悪意とみなされることも
多々見受けられる。

すべての人間の心になる正しさが
正当の根拠というが、文化、思想、宗教、教育、言語、に少しでも相違があれば、
その正しさは十人十色となる。
命の大切さで捕鯨を反対している団体の常食が牛であることに
僕の中では全く正当性を感じないが、彼らは確固たる正当性を主張している。

正当であること、
それは悪意に満々と満ちた自信であるといえる。
逆にいえば、自信がないものには正当と言い切れる根拠はない。
それが、現代社会の正当と言えるだろう。

2009-12-28

電脳

久しく聞かなくなった言葉といえる。
ほんの数年前まではかなりメディア等に乱舞して言葉なのだが、

そもそもこの言葉は、日本語ではない
中国語のコンピュータという意味である。
日本人は面白いもので
コンピュータを表現する言葉はいくつもある。
・コンピュータ
・computer
・計算機
・電脳
・マイコン
・パソコン
と数多の表現をもっている。
一つの事象にいくつもの表現をあてることに寛容な人種である。

この事実はある意味、+と-をもっている。
コンピュータにたいして、多くの表現を許すから
機能が異なっていても
「あれもコンピュータ」
「それも電脳って言えなくもない」
ということで、多くの事象を同一基準で並べることがその特徴の組み合わせで
新しい価値観を生み出せる。いわゆる加工行為が得意である。
しかし、その反面物事を一義で捉えられないために
組織内で決まった認識共有や方向性を固定できないので
論理性、研究方向性は定まらない。
ゆえに、加工をする原材料的な発見は皆無に等しい。

電脳やコンピュータという言葉で解ると思うが
自国発祥の概念ではなく、他国からのもの受け入れて
それを自国で加工している。
でもそれにより、加工の結果、その分野でトップシェアを取れるのも
日本の強みである。

日本いや自分自身の強みの多くが
誰かが作ったものを加工することに優れている
という評価を受けて、誰かが存在しないと加工もできないと
揶揄されることもあるだろう。
しかし、その加工がコンピュータ、電脳と言われていた
庶民からちょっと離れていた発見、発明を
身近なものにする価値観の創設になっているだから、
ある意味、加工は第二の民意による発明といえると感じる。

2009-12-25

許容

受け入れられる限界と捉えるべきだろう。
多くの人間は許容を考えるときに
受け入れる側の規模を中心に考える。
つまり、どこまで詰め込めるかを視点に置く。

しかし、その認識は間違っているというべきだろう。
受け入れる側の規模や送り側の規模よりも重要なのは
その2つの間にあるバス、送り手法の性能が一番重要である。

そのバスとなす手法の性能が高ければ高いほど、
許容はいくらでも修正、補完できるものである。

物理的に見れば、
プールの水をすべて近隣の池に移す際に
スポイトで行っていたら、永遠に終わらないだろう。
スポイトよりバケツリレー、そして、給水車のポンプのように
送り方法の性能を向上させられれば、仮に池が満水になっても
その水の活用方法は消火や噴水に転用できる。
スポイトではそこまでにいたらない。

これは、人間の理解にもいえるものだが、
理解の場合は、少なすぎても多すぎても理解にとっては弊害で
ちょうどいい適量を見出さなくてはならない。
少ないということは、簡単すぎて飽きてしまう。
多いということは、理解する行為の難しさから逃げてしまいかねない。
相手の許容に対する適切なバスを見出すことが求められ、
その汎用テンプレートが教育カリキュラムともいえる。
汎用テンプレートだからこそ、
その個々人の許容量、バスに合わせて加工していかなくてはならないといえるが、
ついつい、人間はその行為を怠り、
許容に対して、なぜできないのかって責め立ててしまう。
なかなか大きな課題といえる、人間間のバスの育成は。

2009-12-24

委任

人に任せること、、、
僕が思うに人間関係の良化、悪化はこの行為にかかっていると思う。
任せるということにはいろいろな意味がある。
自分がある事情で出来ないので、自分が期待するようにしてほしいという意味に対して
・相手の理想どおり
・自分に任されたということへの自分なりの付加価値
・相手の事情と自分の事情の抵触で結果出来ない要素
ということで、委任を出した側の歓び、そして裏切り感を煽ることになる。

委任をうけるということ、
現代社会ではまさに、仕事を請けるということに他ならない。
自分が委任先に選ばれた理由
委任側の意図
等を考えながら、行動することを常に意識したい。

なぜ、自分を?
もし自分が委任先の立場ならば?

こう思うだけでも、かなり自律したことを得られるはずだ。

2009-12-22

記述

書き記すこと。
多くの学生が嫌いな記述問題。
どうして嫌いなのだろうか?

・書くことが多い
・一文字でも間違えると減点されそう
・書いている時間がかかる

等あるけど、やはりメイン

・確信をもった正解がないに等しい

ということだろう。
記述とは、その語族における人間そのもの具象といえる。
自分という存在を他人からの問いかけに対して
文字を記して表現するものだから。

記述なくて個人の尊厳は保たれないが
それは現在では逆になっている。
表現を記せば、その履歴が残り
自分が特定されてしまう。

万人が自由であるがゆえ、個人として注目されることを
多くの人間は嫌がる。
自分は目立ちたくない、できれば周りと同化していたい。
だから、○×という二択のような決断でどちらかを選ぶというよりは
どちらかに帰属するということを願う。

それを記述と帰属できない個人の選択にゆだねることを嫌う。

確かに記述はリスクを伴うことは重々承知だ。
このブログ更新においてもそれなりの迫害を受けてきている。
でも、それでも記述はしていくことは重要だと思っている。
今の自分の思いを残せるのであれば、
それはそれで自己の存在を証明してきたと
自負できるといえるから。

2009-12-21

軍事

戦闘のために兵士、兵器を活用すること。
現代社会においては悪、少なくても必要悪とまでされる。
非戦闘が望ましいとされるからだ。

戦闘行為とは
言い換えれば、究極の競争行為だ。
動物の進化はその競争で成り立っている。
オス同士のメスの取り合い
捕食者からの逃げ会い
捕食のための行為の変化
これらは自然界の中ではごく当然
いやそれが自然そのものと言える。

人間のように捕食者からほぼ解放された存在の場合、
進化を行うためには、同士での争いが主になる。
身体能力競争
経済競争
そして、究極の軍事戦争となっている。

一概に軍事と否定はできない。
身の回りの科学技術の多くのものは
その軍事行為から進化しかしたものだ。
これを更新しているPCであるコンピュータや
現在の企業活動の大きな役割を占めている
プロジェクト志向の行動管理も
すべて軍事からの転用だ。

軍備を配備するおかげで
現在の豊かな生活が支えられている。
とても皮肉なことかもしれないが、
上記のようにとても自然なことではないだろうか?
地球上の生物である限りは。

2009-12-18

手際

処理の仕方だと言える。
今回、とりわけ焦点を当てたい言葉は、際、、いや音である’キワ’である。
キワとは、ぎりぎりという意味の音感をもつ。
瀬戸際
きわもの
そして、極める
すべて、ある領域のぎりぎりの位置を示している。
ぎりぎり、すれすれ、という表現こそ、
ものごとの限界域を示している。

手際もそれにあたり、
自らの手が他のモノにぶつかるぎりぎりのところで
作業をこなしているからこそ、処理の効率が高いとみなされる。

あとちょっとですべてが水泡になってしまう。
その限界での行為こそが、キワであり、
そこでの行動は他人からすれば危険であり、
それを見事こなぜば、称賛になるといえる。

2009-12-17

質疑

疑問に対して質問すること、、、
つまり、自分が知らないことを聞くことだろうか?
答えは否といえる。

質疑を行う前提として、
その質疑の背景に、
大きな達成目的、
今後行う活動の障害回避の必要性
等の自らのアクションを前提とした確認でなくてはならない。

それゆえ、質疑にはある程度の仮説前提で行う必要がある。
自分が行動した場合を想定すると気になるからこその
質疑でなくてはならない。

知的好奇心による
自己満足を得るために質疑をすることも多々見受けられるが
それに答える必要はないと思う。

天は自ら助くものを助く

自分で何かしようとするゆえに発生する疑念、不安からの
質疑こそ、本当に答える価値があるといえる。
その質疑への回答が助けになった場合、
質疑を行った者が今度は質疑を他人から受け
それに真摯に回答できるといえる。

2009-12-16

武装

戦闘の準備をすること、
日本においては実際に武器を手に取るという行為はまずないが
理論武装という言葉はよくつかわれる。

理論武装とは日本独特の表現だと思う。
多くの武装は攻撃手段が主軸になるのだが、
理論武装の目的は、相手からの理攻めに耐えられるように
身構える事前分析の専守行為である。

どんな質問攻めにも耐えられるという姿勢を
武装という言葉で示すには、
何とも日本的な言葉だと思う。

では武装には解除があるべきだが、
理論武装解除って呆けることなのかなあ?
なんて思ってしまう。

2009-12-15

昇進

現代社会において、
新入社員で入社した企業にずっと在籍して、
その会社の社長に上り詰めることはまずあり得ないといえるだろう。

日本的に考えれば、
一つのところに腰を据えて、じっくり仕事をした結果
上り詰めるという発想になるが、
それはレアケース、国際的に非常識にあたる。

多くの国際企業のトップを見てほしい。
ほぼ100%の企業が
CEOクラスを他社から招致している。

これは所有と経営の分離が徹底されているからであり、
CEOは経営者であって、会社の所有者は株主だから
有能な人材を株主が選んでくるからだ。

会社にずっと在籍して
会社のありとあらゆることを知っている存在
だから、社長に昇進するという日本的な昇進基準は
非常識であり、

欧米人の諺にあるように

A rolling stone gathers no moss.

一つのことしかわからない存在は
固定概念しかないからいろいろな経験をもっているものが求められる。
だから、ずっと一つの企業に属している人間は尊重されないのである。

現に日本においても
影では貸付金融機関の管理職が社長になり
その企業を乗っ取ってきているが
その事実をあまり一般公開せずに進めてきている。
実際はそうなのに、それを声高に言うべきではないという
秘密主義なので日本であり、情報公開の国際基準とも外れているといえる。

すでに、日本においても
終身雇用から能力主義の到来は
昇進という行為をを
権限の拡大、社長へ一歩近づいたというものから
所得の増減、職務経歴に一行追加
という行為の目的も変えていると認識すべきである。

2009-12-14

帰属

ある集団、組織の傘下にいることであり、
社会に属しているということといえる。

現在社会はまさに帰属すべき組織の数が多すぎて
個々人が自由になりすぎているのではないだろうか。

例えば、
会社では
・所属部署
・案件ごとのプロジェクト
・委員会
・同友会
私生活では
・町内会
・サークル
とあるように
一人の人間が複数、いや10くらいの組織に属しているということになっている。

理論上は、
属する組織とすれば
数人で組織は構成されるので
人間 > 組織
となるが、たぶん現代社会は
人間 < 組織
となっていると騒動がつく。

理由をもって組織化しているはずだが、
その理由からくる個々人の役割が希薄、形骸化しているので
その帰属意識がとても弱い。
だから、個々人は自分中心に考えるようになる。
なぜなら、どの組織に対しても個人の存在を訴えることが可能でもあるからだ。

同じ目標、課題に対応するために組織を形成し、
進化発展してきた社会的動物、その長たる人間。

しかし、組織の多岐化、再分化の結果、
社会での行動より自分の行動という
一匹狼を作りだしているという皮肉なことになっているようだ。

2009-12-11

植樹

樹を植えることは、総ての達成と同じことといえる。
成長するまで、長い年月をかけて成長し、
枝葉を切り落とし、優良な幹だけに選定して、
花が咲き、実がなるまで手間がかかる。

何事も一朝一夕ではない。
木を植えたから必ずしも実を結ぶとは限らないが、
どの樹が実を結ぶかわからないが、
その実を結ぶ可能性にかけて今行動をしていく。

農耕民族のよくも悪くもあるのは
この植樹の気概だと思う。
狩猟民族が0か1かの結果しかないが、
植樹の結果は長い時間、互い1年かけて結果をだすことになる。
短期的取引よりも長期投資に耐えられる。
日本の貯蓄率の高さの現れは
この植樹行為、結果が出るまで時間がかかるから
今のものを貯めておこうという民族文化の名残を感じてならない。

2009-12-10

識別

物事の相違を元に見分けることである。
日本人は差別という言葉を忌み嫌い、
区別と差別は違うという言葉のあやレベルまでの争点になったりする。

区別、差別、という言葉を分けること自体に
全く意味を感じない。

元来、社会性の高い動物の本能は識別能力である。
個体を自分の思考と照らし合わせて
それが自分に対して、プラスマイナスかどうかを判定し、
行動に移すことが社会性の高い動物といえる。

多くの場合、
識別の次の行動は生死を分けることが多いのが
本来の自然界である。
天敵ならば、逃げる
捕食ならば、襲う
ボスならば、へつらう
同性ならば、縄張りから追い出す
異性ならば、求愛
と生死をかけた判断をするのが、自然そのものである。

識別の要素をより細かくして、
いろいろな選択と生死のリスクを極限まで下げた人間社会ゆえに
その識別の本来の有り様を忘れているにすぎない。

識別の上、選択的行動で生き方がかわる。
失敗は許されない。
その前提での緊張感は常に生物としてはもっていないとならない。
自我をもち、社会性を帯びた動物である以上は。

2009-12-09

添削

他人の文章に追記、削除をすること。
形而下の行為としてはその通りだが、
形而上では、相手の表現そのものを洗脳、使役すること。

人間は言葉を使い他人に意思の伝達をする。
その言葉を即時、刹那で伝えるときは
音声である口と聞き入れる耳にて交信をするが、
意思を長期に残し、多くの人々に伝えるために
文字を記述して、目で見て理解してもらうことが
人間という動物の大きな特徴である。

その自己表現である記述行為に対して
他人が添削をすることは、表現自体を他人に否定されていることになる。

それゆえ、添削において重視しなくてはならないことは
伝えるべき意思を表現者以上に理解して
多くの人に等しく理解してもらえるために行わなければならない。
添削という行為において、表現者の意図を曲げているかもしれないが
それ以上に、伝えるべき内容の重みが多いときとわかって添削をしなくてはならない。

それゆえ、添削をするときに
表現者に嫌われるからというためらいがあってはならない。
目指すべきものは、表現者ではなく、それをみて理解する人に対しての意味での
添削なのだから。

2009-12-08

満足

満足というものは下記3つのうち2つは見せても、残る一つは失うのが常である。

品質
価格
維持

品質と価格を追求すれば、売り切りによる保証なし
品質と維持を追求すれば、製品ブランドの高価
価格と維持を追求すれば、劣悪品の横行

現在という断面でとらえれば、
価格と維持をしても、品質維持を目指そうと社会は動いているが、
その中では、希少性や製品ブランド力の向上にはなかなかつながらない。

でも老舗ブランドの多くは価格を下げないからこそ
存在価値があったりする。
仮に価格を下げれば、今まで維持を信頼してきた既存客の満足を失うからである。

満足というものは一瞬の代物である。
ずっと満足してもらえることはない。
だから、潮流、価値観において、
その一瞬での満足を勝ち得たもの、
そして、その満足に対して、次の満足の準備があるものが
当代の時の人になるのだろうと思う。

2009-12-07

座標

存在を点であるとした場合、その点が相対的にどこに位置するかを
数字の組み合わせ等で示すもの。

人間は自分の地理的位置は建造物等をもとに特定するのに対して、
社会的位置の位置づけは、社会だけに他人との関係で行う。
あたかも、それは自分の存在を座標とみなしての位置づけともいえる。

人間の多くはその座標=その人になることが多い。
・お父さん
・○○課長
・××に住んでいるだんなさん
と呼ばれることに多くの人間は納得しているが、
それは、そう呼んでいる人間からみた座標にすぎないとも言い切れる。
本来ならば、姓名をもつ存在がその人そのものなのだが、
その呼称をせず、あえて自分からみた存在定義で呼びかける。
これこそ、社会生活の表れと言える。

言葉を持たない動物の行動を人間が解釈するとき
その個体の集団における役割、座標を導ければ
その生物は社会性を持っていると認識している。
人間からみて、社会性なのか
人間がその自然の営みを社会性とみなしているのか
は哲学的になるので言及はしないが、
他の個体との関係、距離感で自分の座標を認識するしているかどうかを
人間は強く意識する。

座標という言葉で難しく感じさせてしまっているが
孤独や責任というものは、
他者との依存、距離によって心情が動く
それが自分の属する他人からの座標そのものといえる。

寂しさ、プレッシャーも他人がいればこその感情ってことだ。

2009-12-04

丁寧

熟語にした漢字の意味と
現実社会での運用がかけ離れた言葉だと思う。

少しこの言葉の説明からしていこう。

丁寧とは、もともと古代中国の楽器。
楽器というよりは、軍隊のラッパと同じ扱いの
警告や注意を促す軍事用具。
そこから派生して、丁寧は注意をするという意味に変わった。

注意をするという意味が
多種に活用されて、注意を払った尊いものという認識から
モノに対しては、細部にこだわった仕事
ヒトに対しては、敬意を払った慎ましい行い
で丁寧という現在の語彙に至る。

言葉は進化、変容するものである。
この丁寧は中国の楽器という固有名詞が
今では事象の形容表現になっているのである。
日本語自体でも、
ありがとうは感謝ではなく、
有難う=存在することが稀有であること。
から派生している。

言うなれば
「こんなサービス滅多にしないんだから、言うべき言葉は?」
という意味の内在を感じる。

身近に存在して
当たり前のように使用している多くの事象。
でもそれは、進化、変容の過程をえてたまたま今、
周りに現在の意味で存在しているにすぎない。

今一度、そのものが持つ本来の意味は?
そしてなぜ現在の用途になったなのかを考えることで
新しい価値観、視点を見いだせるかもしれない。

2009-12-03

断言

言い切ることであり、
現代社会において、とても勇気ある行動である。
正しい内容であっても
これだけ社会情勢、技術革新の早い世の中において
いつまで正しいと言い続けることができるか?
間違っていた場合
自分でどこまで責任をとればいいのか
どんな仕打ちをうけるのか?

というリスク要素が気になり
断言するということは多くの人間には難しいことになる。

だからこそ、
断言することを重視すべきだと思う。
責任を感じてそのうえで断言した人間の行動は
褒めてさせてあげるべきだと。
その覚悟を持っているのだから、
それがいろいろな要素で必ずとも断言したとおりの結果でなくなることは多い。
それを断言と違うと責めるより、
変わった状況を分析、対応することが全体最適だと思う。

断言して行動した人間と
何もせず批判している人間の価値が
批判してリスクをとらないほうが高いというのは
社会行動の原理からして後退の一途になる予兆とみるべきだ。

2009-12-02

研磨

物質を磨くこと
個人スキルの向上をはかること
の意味をもつ。

能力を磨くということはとても重要なことだと思う。
個々人というものは、何もしなければ他人の物理的精神的成長とを
相対比較すると能力的に劣化するものである。
自分自身はまだまだと思っても、人間社会である以上
相対的な価値観からすれば価値は落ちているのだからである。

だから、自己を意識して高めるという行為はとても重要である。
そして、研磨という言葉をあえて、人間のスキルにあてた古人の粋を称賛したい。
磨くということは、摩耗が発生する。
能力を磨くということは別の見方をすれば、
自分自身のないかを失っているといえる。
その何かを自他ともに意識しておかないと
磨いた能力もただの奇行になりかねない

例えるならば
鉄で斬れるものをつくるときに
出来上がるもの包丁かもしれないし、刀かもしれない。
その求めている環境、時代に合うかどうかを
見極めて、どこを摩耗させて磨きあげるかは
その匠の腕次第。
そう人間自身の判断である。

研磨は研磨する方向性ですでに決まっているのかもしれない。

2009-12-01

挑戦

英語ではchallengeの意味で、
必ずしも、戦闘行為に及ぶものではなく、
現時点では難しいとされる行為にあたる宣言と言う意味である。

東洋系では困難=戦争とみなすことは多い。
それは農耕民族ゆえに、危険を伴う行為は
他の動物、他の民族からの略奪からの自衛が旨であったからだともいえる。
それゆえ、現状ではない困難を’戦(いくさ)’とみなすことと言える。

対して、
challengeの意味には戦闘という限定はない。
自分自身を高みに動かすイメージをも醸し出している。

僕は戦闘と言う緊張状態を否定することはしない。
人間は平和主義と言っているが、
生物の成長には生存競争、生死をかけて行動が必要であり、
それにより生物は進化することは、地球上で生きるものの宿命ともいえる。

現代社会で命がけということは少ないといわれるが、
社会生活を困難にさせる可能性を伴うものであっても
挑むことが真の成長につながると切に感じる。