2013-04-30

報告


報告、報復、
同じ報の字を使っているが
相手に行うアクションは全くことなる。

また今頃、新人のみなさんは
報連相で悩んでいるはず、
相談はわかるが、
連絡と報告の違いは??

報の字とは?
基本 re-action という意味。
何かを受けて、それに応じるということ、

報復であれば、
相手に受けたマイナス行為を仇としてかえる意味である。

なので、報告は
上司から、明確な命令をうけて、そのアクション顛末の言伝になる。
ある意味
報告は return messeage
連絡は imformation
という意味である。

、、、、気づいていると思うが
若手の上司たち、、
何も命令していないのに
「報告がないぞ!」
って言っていること、、それ自体恥ずかしいことということだからね。

若手のふりみて、我が振り直せ。
新人がくるときは、初心に戻って
報連相をまた追求してみてはどうだろうか?!

2013-04-26

空調


人間にとって快適であったり、
作業や工業に適当なように、
温度・湿度・気流・空気清浄度・室内物品の放射、伝導などの室内環境を調整する事。
エアコンなど機械、設備があげられるが、
本当の意味での空調って、、
雰囲気、、そう人と人との空気をどうにかすることではないのかなあって思ってしまう。

空調技術が進化しても
人と人との空気、雰囲気への調整って
いつの時代も同じレベルで扱われているなあって思う。
物質的な進化があったとしても
精神的な進化って人は難しい、、、
退化という進化を繰り返すような気がする。

2013-04-25

忠義


主君や国家に対し真心を尽くして仕えること
日本では美徳とされるが、
現代としては、、結構悪徳である。
世の中の善悪は相対的である。
今までOKだったことが、時代とともに悪になることもある。
そのことに対して、忠義を貫き尽くすことは
見方によっては、悪への幇助になりかねない。
自分としては信念を貫くとしても
相手にはそうは映らない。
日本人の美徳って、、本当になんだろうね。

2013-04-24

真髄

そのものの本質。
とはいえ、真髄というものが理解できるものだろうか?

その言葉通りに真髄の髄というものを骨髄、
つまり骨の中ということになる。
それを理解するということは、痛み、、いや死を伴うであろう。
自分の骨髄を見ることなど、死と隣り合わせの状況であり、
他の骨髄であれば、それは基本、死んでいる状態であろう。

死んだもので本質?
生きていてこそ、その存在があるのではないかと思う。
という論理であれば、真髄というものを理解するということは
ある意味無理なことと割り切って考えること、
その上での他と接することが最善ではないだろうかと、、

2013-04-23

網羅


すべてのことを網羅するということは難しい。
網羅できるということは
その限界値を把握しているということであり、
この効率化社会において、限界値を把握している、する段階では
違うステップ、次の職についていることが多く、
そうなっていないと効率的ではないというレッテルを
組織として貼られることが多いからだ。

またその時点での網羅性は
次の時点では穴が多いということなりやすい。

網羅の定義をどこに置き
その網羅をどう伝え
そしてどう担保するかを決めるてあげるのが
年長者、責任者の務めと僕は常に思う。

逆に言えば、
網羅かどうか
その人の匙加減でしかないということでもあるのだから。

2013-04-22

折衝


利害関係が一致しない相手と問題を解決するために、
かけひきをすること。

現代社会って本当におかしい。
なんだかんで、折衝、つまり非暴力での交渉で解決しようとする。
多くのことはあまり解決していない。
結局は強いものが勝つというのに、、、

それだけではない、
今までの担当者が何人も交渉に失敗していることを
ある担当者が折衝に成功した場合。
褒められるどころか
なぜ成功したか、その折衝に不正はないかという
足の引っ張り合いが平気で起きている。
これが非暴力だから正しいといえるのか??

成功することへの妬み、そねみ、
そして、非暴力ゆえのおかしい判断や足の引っ張り合いは
健全と言えるのか、、、

折衝と非暴力、、
少し現代人の感覚が治らないと
折衝、非暴力の反動からの大きな混沌が見えてならない。

2013-04-19

危惧

あやぶまれること、
現代社会、実際は簡単なことほど、
この危惧の概念で難しくなっている。

簡単なことを簡単に行おうとすると
いろいろなことを危惧していないとされて批判される。
簡単なことほど、簡単であることの立証が難しい。

もっとも、その危惧をビジネスにしていることが多いからこそ
その発想が成り立つ。リスク回避、安全ビジネスの基本は
危惧の精神からである。

でも面白いのは
その危惧の精神で、いろいろと対処を講じると
その分の対応策のコストが積まれる。
ビジネス側は付加価値というが、
支払側はコストという新しい危惧でそれを責める。

危惧って、
必要悪か、それとも、詭弁か、、
現代社会が現代社会である永遠の課題かも??

2013-04-18

交友


過去の文献、女性週刊誌を紐解くと面白い。

「電話なんかではダメ、丁寧にお手紙を認めて、気持ちを伝えるの!」
「ポケベルでの会話は会話ではない、ちゃんと言葉で伝えて、電話で」
「メールでは読み飛ばされることが多い、電話で相手と直接声をかわして」
「今この瞬間を、、それには、メールや電話ではだめ、SNSこそ」

となっている。
時代とともに、交友をつながる技術は進化し、それ以前の技術の否定は始まる。
それと相まって、既存技術を擁護して、新技術での交友は真の交友とみなさない流れも生まれる。

根本的な交友の要件は過去からずっと
<他人と繋がりたい>
という思いであることは変わらない。

直接会えないから、媒体技術を介してその要件を満たそうとする。
その要求にいろいろと応えるために
技術はいろいろと進化してきた。

その反面から考えると、
その技術がなくなった場合、
交友は成り立たなくなるのではないだろうか?

現在の交友でどの技術上で成り立っているか
その技術前提でしか、交友は発生しないのではないかと思う。

現に、今現在ペンパルという存在はかなり薄れている。
もっと手頃に繋がるようになったから、
では、ペンパルのときの交友がそのまま、次の媒体技術上で、、
必ずしもそうではないということがある。

人間は気づかずにうちに
要件より条件で交友するようになっている。
あたかも、昭和初期のSF物語で出てくる
機械に支配された社会かのようにね。

2013-04-17

羞恥


恥の概念は人それぞれのようだ、、
だが、多くの人は自分の恥の概念が正しいと思っている。

愚伯父が
「もっと稼いで、俺を養え!」
と僕に言った。

「よくそんな恥ずかしいことを言えるなあ」
って言い返したら、
「その不孝の発言こそ、恥ずかしいのがわからないのか!」
と憤慨してきた。

僕からすれば
自分より若いものに縋る(すがる)発言こそ
尊厳を失った恥と思うが
伯父からすれば
年長者をいたわらないほうが恥だそうだ。

このような身近なことからもわかるように
この価値の多様化の時代、
恥のレベルはある意味ボーダーレス。
地べたに座り込むことは、ある人は普通、ある人は恥
奇抜なファッション、ある人はかっこいい、ある人は恥
思うのは人それぞれである。

今の社会で重要なのは
恥ずかしいと思うことではなく
他人に対して恥ずかしくない?と責めることが危く、抗争を導く。
他人に対して無関心こそ、一番の社会安全なんだろうな。

2013-04-16

割譲


実質的な意味で
割譲とは当事者意識の薄い生贄論理で成り立っている。

歴史的に見ての国の割譲をしかり、
個々人レベルでの所有権の割譲しかり、
だいたい割譲するのは、その当事者、現場に関係の薄い存在が
第三者、、他人事のように行うから
割譲した事後処理は紛争しか招かない。
・領土問題
・民族紛争
・親族間の骨肉の争い
・境界線認識の祖語
は本当によく、、というかその手の事件ばかりだ。

はっきりいえば、
割譲は当事者のためではなく
そこに入ってきた権力者のエゴかつ責任回避でしかなく
その後の紛争に権力者は関係ないといわせるだけの口実作り以外何物でもない。

僕は本当に思う。
現場を知らないで下す平和的な解決とされる割譲より
現場の人たちが命、血と汗で勝ち取る結果が本来あるべき姿だと。
下手な上辺だけの判断がいろいろなものをゆがめているであれば
それが今の価値でよくないものでも、
将来からすればそれが最善とみなされる行動にでるべきだ。

2013-04-15

経理


中国の経理責任者の評価は
いかに期日を守らないか
いかに金額を額面通り払わないで済むか
要は、どれだけ金を払わずに済ませられるか?
だそうだ。

日本の経理担当者は
・コンプライアンス
・社会的責任
・経済的信頼
などから、期日を守り、指定額通り、きちっと振り込むことが
当たり前になっている。

ある視点から真逆であり、
日本からすれば、中国の価値観を批判するだろう。

でもそれは中国の立場からすれば、
日本はバカではないかと当たり前に思うかもしれない。

日本の認識のほうがグローバルと思っているかもしれないが
これからの市場における人口、
そして、払わないで済むならその分蓄えられるロジックからすると
パワーゲーム的に、中国の考え方のほうがこれからのグローバルかもしれない。

歴史的、地球規模、、いわゆる神の視点で見れば
今の国際経済はたまたま、欧米的な論理が支配している時期に過ぎないかもしれない。
過去の帝国主義、重商主義、ブロック経済の起きた時代のひとつに過ぎず、
もしかしたら、この先、中国的、あるいは全く違う経済、経理の仕方が
地球規模のグローバルスタンダードになるのかもしれないといえる。

今の自分達の経済、経理の価値観は
法的に正しいのではなく、たまたま今の時代、それが最善と思い込んでいるだけ
ということを忘れてはいけない。

2013-04-12

塩基


酸に対応して働く物質のこと。
高校時代に習った概念かもしれないが、
多くの大人はこの言葉の意味、言葉自体も忘却の彼方かも知れない。

塩=食塩=しょっぱい

という定義であり、塩化ナトリウムが、、とか概念はまず出てこないが

ポリフェノール
抗酸化
コエンザイム

という、商業化された専門用語は
意味が分からないが、知っているということが多い。

要は化学の知識って、
健康食品のCMに劣るレベルということで、
その理解が全くなくても許され、保護されるようだ。
だって
酸、塩基の概念で化学反応を起こす成分の化粧水を気づかずに使っても
皮膚障害が起こした場合、使った側ではなく売った側が責任を問われるこの時代。
下手に勉強していたら、保護されないことということだもの。

無知が最強の権利になっている今の社会ってどうも、疑問を感じる。

2013-04-11

取戻


以前のカタチに取り戻す。

僕は、取り戻すという見解、思想は危険思想だと断言する。
時や潮流は鴨長明の方丈記で示されている通り
止まっていないし、戻らない。
そう戻るという発想はないのである。

凋落した流れには
必ず凋落した原因というより
新しい価値の到来が存在する。
その価値が反映している結果であり、
その価値を今享受している存在がいる。

取り戻すという考え方は
以前の自分たちの反映に戻すという思想で
自分たちの今までの存在を正当だと主張して
現在を無視していると捉えられるし、
他人のそこに戻りたくないとの思いは軽視される。

取り戻す、再挑戦という感じの表現は
結果的に、今までの自分たちの正当化、現在の否定が
根幹に見受けられる。

ある意味、前向きでもなければ、
現在の価値との対立を招く危険が高い。

取り戻すという事より、
新しく、ゼロからという考え方が
本来推奨される考え方ではないだろうか?

2013-04-10

後援


現在社会では、芸術は育たない。
効率化という言葉で
利益につながらないものを排除するからだ。

はっきり言えば、
現在、美術館にある多くの美術品は
王侯貴族、公家武家、資産家の後援という
ある意味、拡大再生産とは真逆の活動の賜物である。
今、彼らのような芸術家に後援するときは
株主だけでなく、ステークホルダーに成り上がった社会の庶民にも
お伺いをしなくてはならない状況になっている。

芸術ももはやビジネスという考えかたもあるだろう。
ならそれを社会投資とみなして活動させる
後援活動をもっと認めるべきではないだろうか?

効率化といっている割りには
大した結果に結びついていない社会構造になっているからそこ
価値観の変容が求められるのではないだろうか?

2013-04-09

三食


朝食
昼食
夕食

三食を規則正しく食べることが健康的だと言われる。
それは人間の培ってきた経験知恵のようなことまで言われるが、
政治的、ビジネス的なこじつけにほかならない。

日本人が三食を意識したのは
江戸幕府を開く直前、関が原の時である。
それまでは、二食だ。

関が原で勝ちたい東軍は
今まで主食だった玄米を美味しい白米を支給
白米は玄米より腹持ちが悪いから三食
と触れ込んで、兵を集めたことに由来している。

外国も三食と思い込んでいるが
それは欧米など食料的に豊かな国だから日に三食もとれるし、
場合によっては2食を何時間もかけて食べている国もあるが、
途上国は食べられるときに食べるというのが本当の姿だ。

そして、この三食前提で
ビジネスタイムテーブル
食糧ビジネス
が成り立っているので、これを否定出来ないのも事実。

健康のためとはとても言えない。

最近、健康な有名人は
一日一食という人が多く見受けられる。

規則正しく三食ねえ、、
その発想が縛られた社会ストレスにも感じて
健康阻害要因にも感じられる。

2013-04-08

割箸


僕が学生時代、
お弁当の箸を忘れたときは結構悩ましい事態だった。

思春期の友人同士だけに洗って貸し借りが気むずかしかったり
鉛筆2本を、、
スーパーに行楽セットコーナーで何十本も買うことに、
気の利く人は、机に割箸を置き箸しておいてくれているなどが
とても嬉しかったものだ。

しかし、今は
コンビニがどこにでもあり、声をかければ気軽にくれる
それどころか、お弁当を忘れても気軽に手に入る状況になっている。

便利になるということは本当にすごいことだ。

今まで、気恥ずかしく、そしてとてもつらい思いが
今では、何が問題かすらわからなくなるようになるんだもの。

2013-04-05

冗談


ついこの間のApril Fools' Day.
いろいろと嗜好を凝らしたものが多く出ていた。
でもここ最近、本当のバカが増えて困る。

そういうものだという認識できずに
信じこんでしまった者が
誤認させて迷惑したとして賠償を口にしている。

僕からすれば
以前、自分自身も信じこんでしまうほどうまいものがあり、
それを第三者に口にして恥をかいた。
あとでそこまで信じこませる技巧を称賛したものだった。

冗談レベルを信じるかどうかは受け手である当人の能力の問題であり、
その冗談で利益をあげようとしている毛ではないのだから
詐欺でもなんでもないのだが、、

冗談は知的遊戯である。
そう知的遊戯である。
だから、生兵法は怪我の素。
そう頭がいいわけではない者が干渉するなといえる。

市場開放のせいで、
恥じらいもなく、自分を誇示することが多く嫌になる。

まーー、これは江戸から明治にかわる変動期にも
身分平等で同じ事象がおき、
結果的に、そういう冗談レベルの機知のある人のみへの対応
<一見さんお断り>
が生まれたという歴史的なこともあり、
歴史から学べるなあって思うところもあるけどね。

2013-04-04

疑惑


本当かどうか、不正があるのではないかなどと疑いをもつこと。また、その気持ち。

日本語においては、何か悪いイメージになっているが、
逆に常にこの精神で生きることが正しいと言い切れる。

相手の言っていることは、本当だろうか?
この結果に不正はないのか?

と思うべきだ。

高い品質を謳うということは、
ある意味、製品すべてに疑惑の目で確認するということだ。
それゆえ、厳しいチェックをしているといえる。

疑惑に悪いイメージをもっているがために
いざ品質問題が起こった場合
「相手を信じていた」
「今まで疑惑をもつことなんて考えられない」
など、コメントする輩がいるが、それは、、、内輪揉めにすぎない。
聞いている側からすれば
「お前らの信頼より、自分らからの信頼を軽視しやがって!」
となる。

他人の行いに、常に疑惑の目で接することが
結果的に第三者からの信頼になるこの時代を強く意識しることは
もはや世界的常識と思うべきだろう。

2013-04-03

洗練


以前、
Leader
Manager
Director
について言及した。

現場責任者はLeader から Manager になれないジレンマなどを列挙したが
これはどうも、Director になろうと徹しても Management を評価されることになる
ということを実感して、次のステップを意識してこそ、今の活動が洗練されると思った。

考えてみればそうだろう。
上の立場の視点になって、今どうすべきかと考える。
そうした場合、今までの自分の経験のうえで気になるポイントがあがる。
そのポイントに対して迅速かつ自分の考えに賛同して実施できるのは
結果的にそのスキル持った、、自分になり、
自分が動いたほうが速い結論になってしまう。

上の視点に立つこと
それがある意味、今の自分の能力をより洗練させるなんて
複雑だけど、、、ある意味、、それが本当のキャリアアップと思っている。
今の自分の視点では今以上にはなれない、、ということ!

2013-04-02

義経


源義経、
判官贔屓の語源であり、
平安、鎌倉のヒーローとされる。

が、それは現代人の思い込みである。
結果の美化がとても多い。
彼は無慈悲なジェノサイダーに他ならない。

平安、鎌倉時代において
争いでの損害を最小限にする暗黙の了解が
一騎打ち
武士道
であった。

しかし、源義経は

・一騎打ちの名乗り中に、相手武将を射て殺し
・まずは馬の足を狙い、落馬した隙に殺傷
・船においては、非戦闘員である船頭狙う

ということを繰り返して、壇ノ浦に平家を沈めた。

当時の平家の思い上がりが
琵琶法師の平家物語に伝わっているので
それに基づき、義経が美化されているが、
ある意味、結構えげつないやり方だった。
今の現代人なら
「そこまでして勝ちたいか」
と問うくらいだが
義経としては
「何か問題でも?ならお前も殺そうか?」
のスタンスである意味ヒーローより、ヒールではないか!?

ヒーローがなぜヒーローなのか
その殺戮性は、、勝てばどうでもいいことというのは
人間の歴史認識なんだろうな。
これは別に源義経だけではないがね、、、

2013-04-01

証言


現代社会、証言の証拠の信憑性が失われてきている。
もっとも物的証拠とされていたものも
映像、画像も電子化、高精細より
あたかもあったの如く加工できることが容易にできる。
録音も電子化でいくらでも、、
というように技術面においての物的証拠があまりにも
価値が希薄すぎる。

そして、技術よりも危ないのは人の発言、証言だ。
最近は、個人情報保護で情報が取りづらいことと
集団心理のような思い込み推測があたかも当然のようにまかり通る。
みんなが言っているからそれは正しいという時代である。

冤罪を起こさないという社会目標を掲げながら、
みんながそういうからという理由が平気で根拠になったり、
君の言うことなんて信じられないで証拠性が失われるこの時代。

確実な証拠って実際にはなんだろうか?
というより、どんなことでも証拠にならないのであれば、、
と混沌な思いに至ったりしてしまうなあ。