2013-08-30

臣下

君主に仕えるもの、家来、
今では、まず使わない。
しかし、今から400年前以前は
誰の臣下であるかどうかがその人の存在意義であった。
臣下であることが誇りであった。

そして、今、部下という言葉も使わなくなった。
平等やフラットという言葉で
上司、部下という関係を持たないことを是とする傾向が強い。

社会構造が高等化しているからだという人は言う。
しかし、僕は臣下から部下そして、その関係がなくなることは
秩序の崩壊、混沌化、つまり退化だと考える。

上司としての責任性という秩序がないから
今までありえなかったことが犯罪にまで昇華しているこの現代社会は
紛れも無く秩序崩壊である。

僕は主従関係を肯定している。
それは哲学者ヘーゲルの弁証法にもあるように
互いが互いを認識して初めて成り立つ関係であり、
現代社会のフラット、能力主義は
他人より自分という認識が強すぎて、社会性が失われているからだ。

臣下制度のある社会が復活されることは今のところは無いだろう。
されど、臣下あっての君主の責任感、君主のための忠誠心は
現代社会が目指している絆の過去事例だと思い、
それをもっと学ぶべきだと思ってならない。

2013-08-29

青物

野菜を青物という。
しかし、青いものはなく、緑だ。
また、緑も青信号という。
これは、色に対しての識別が厳密になっていない時期からの名残だ。

現在、技術の進化でいろいろな色を表現することができる。
同じような色に見えても、何十、何百の亜種の色が存在する。
それだけ、技術が進化しているからだ。

しかし、考えてみれば、色が違うことにどういう理由があるのか?
一昔前、緑も青も一緒に考えていた日本人がなぜ、色を識別する必要があるのか?

それは、個性、自己主張の現れである。
色違いを求める大きなポイントは
他人と同じものではない、
自分だけという発想である。
ちょっとでも違う色で自分をアピールする。

これは自然界とは異なる。
まわりに溶け込む肌の色を求める。
集団生活をするため、個性をださずにまわりと同じ形状に近づく。
という安全性をえている。

今の日本人の考えは
ある意味、
毒をもった存在ですという独特の生物と同じ発想で
色違いで溢れている。
文字通り、<いろいろ>な人間で溢れている。
そして、上記の通り、個性という毒で周りと溶け込めない状況になっていることも
また事実だ。

2013-08-28

思考

予備校の先生の言った発言が僕を開眼させた。

「現代人というものは、思考を行うときに
 必ず言語を用いて行う、言語を使わないで考えるということは
 もはや人間には不可能だ、
 だから、言語、とりわけ母国語について出来るだけの理解をすことが
 考えるという行為の礎になる」

この言葉で、英語より国語の理解、、小論文などの学習を多くした。
そのため、、現代教育では開花できなかったと言い訳になってしまうが、、

考えることが出来るということは
言語理解が深まっているということになる。
人によっては、
言葉なんかよりも自然科学に基づいたという発想と言い出すが、
その自然科学についていくら理解しても
それを他人や文章で説明できる表現ができないということは
認められないというか、理解していないということになる。

考えるということは
ある意味、自分自身に向かって説明するということであり、
その考えたことを自分から他人に説明するということが
考えたことが初めて、考えているとみなされる。

だから思う。
現代人は詰込みし過ぎた教育ゆえ
考えていないとしかみなせない。
多くの人と話してみて
考えていないなあって思うことが多い。

概念の言語化があって初めて考えているわけで
知っている、そうなっているということはどうでもいいはずなのだが、、
そこがなんかおかしく感じる。

2013-08-27

界隈

そのあたりとか
付近、一辺。

本当に曖昧な表現で、他国の方々にはなかなか伝わらない。
日本人でも
銀座界隈
銀座エリア
銀座周辺
という言葉の違いを理解できるかどうか?
とはいえ、同等なことは
area
space
field
という英語の意味も辞書的にかかれていても
母国語圏の人々はかなり曖昧といえる。

場所の定義も
言語の定義も
そんなもの、
結局は他人に正しく伝えるということは無理であり、
どうやっても伝わらないって思うべきだといえる。

ある意味、
真意の界隈レベルでしか伝わらないってことだなあ。

2013-08-26

販促

販売促進、、
プロモーションのほうが耳障りはいいかな?

ネットやテレビのニュースで

「○○の番組効果で☓☓が大ヒット」

なんてことをあげる。

バカなんじゃないかと思う。
根本的に現代の日本の番組、、もっと言えば、メディアそのものは
販促そのものであり、ニュースで取り上げる事自体も販促であり、
それをわざわざくだらないことで盛り上がるなって思う。

海外と違い、日本の民放地上波は基本無料だ。
それは、企業がスポンサードしているからであり、
その目的は販促である。
その流れはネットにも普及していることが多い。

だから、日本の販促費の多くがメディア戦略にあてられていることも
ここから伺える。

だから、テレビ番組、、古い有名な例は
とんま天狗の名前がスポンサーの商品名だったことなどが挙げられる。

製作サイドのメッセージ性の個性、風営法やイメージ戦略で
あえて企業の販促を番組内でしなくなっていることが多いが
根本的に、誰がその番組を作らせてくれているのか、
それは見てくれる視聴者という考え方が僕からすれば愚かしい。
その番組の制作費を出してくれるスポンサー企業であり、
観ている人がそのスポンサーの商品を買わないのであれば
結果的に製作費は賄えなくなるということが現代人はあまりにも疎い。

無料慣れしているからこそ、
販促費用に意識が及ばないが
そこが国際社会で戦う上での必要最低限の知識レベルということをもっと自覚すべきと感じる。

誰が何のために、支払うのか、
その市場論理がかけているから、
支払、未払いで日本人はトラブルを起こしやすいのだから。

2013-08-23

対談

冷静に考えよう、
ただ単に話し合いで解決する、、
そんなことは絶対ないということを。
無血革命
平和解決
と言われるものも、舞台裏にはひどい惨劇がある。

日本における
下関条約も
春帆楼の窓から見える軍艦の行き来を清の高官に見せつけ
脅してなりたった条約であり、
話し合いそのもので成り立っていない。

現代社会においても
個々人、組織、国家での
話し合い解決といいながら、
武、財力をちらつかせての交渉ばかりである。

現在の日本人の発想を逆転させる時期だと思う。
話し合いでの解決をいう以上
それに見合う武、財力はあるべきある。
相手をつぶす力がなくては、
文字通り、話にならない。

胸に手を当てて素直になってほしい。
ものすごく弱い輩が
「暴力反対、暴力なんて俺の足元に及ばない」
って偉そうに言いつづけてうるさいのであれば、その口、行動を押えることをするだろう。
それが人間の本性なのだから。
戦争反対、、いうのは簡単だが
今の日本が言えばいうほど、上記になる。
なら、いっそ言わないで強いのに恭順するか、、それとも武装を高めるか、
話し合いでの決着なんて、バカな発想は相手を怒らせるだけという事実に気づこう。

2013-08-22

保障

ある状態がそこなわれることのないように、保護し守ること

根本的に考えよう。
保障っていう概念があってはならないということを。

あるべき状態。
世界は流転する。
今ある価値は直ぐに移ろう。
さっきまで高い価値だった権利書が一瞬で紙になる。
そんな時代だからこそ、あるべき状態というものは、、認めてはならない。
自分でその価値を守るべきである。
そして、守れないことも自己責任である。

また、あるべき状態という概念も人それぞれ。
自分の思っている状態が他人のそれと一致することなんてなりえない。
だから、保障されることなんてことはいつもトラブルのタネだ。

保険、私産の個人的な保障から始まり、、
僕は
安全保障
社会保障
という概念は、20世紀、、、社会主義の破綻で終わったと思っている。
社会主義を打倒するために
国家や市場経済が無理、、いや嘘の保障概念を打ち出した。
それゆえ、目的を失った今
保障はこの先、、新たな抗争の火種になると思っている。
民族問題、格差問題、、
それ以上に、社会、、地球規模で保障問題が今後の戦争の火種になると確信している。
保障という概念を信じていればいるほど、
当事者、、いや加害者当人になりかねないと考えるべきだといえる。

2013-08-21

押付

日本の
おもてなし
ものづくり
を海外に展開させる。

今の日本のグルーバル戦略といわれる。
うーーん、それって押し付けの転嫁ではないか?
現在の日本の成長の多くは
欧米企業が日本市場を狙ってきてそこでブランディングをしてきて
付加価値を生み出してきた経緯がある。

欧米企業の論理も
自分たちのビジネスモデルを日本に根付かせようとして来ていた。
現在、その気持ちに対して、
自国のアイデンティティをむき出しに
おもてなし
ものづくり
を打ち出し、欧米ではなく、途上国にその思いをぶつける。

なんか、いじめの構造のようだ。
強い奴にやられたことをより弱い奴にする。
日本のグローバルってそんないじめの押し付けレベルでしかない。
出て行くなら、欧米人を(攻)責める発想がない以上は
真のグローバルとはいえないな。
押し付け先を見誤りすぎだ。

2013-08-20

気圧

天気予報の番組で気圧について説明される。
中学生の理科の時間に気圧の説明はされているので
国民的に常識レベルの知識なのだが、
実際問題、多くの国民は
「そんなことより、明日晴れるの、雨なの、気温は?」
という思いだと思われる。

天気予報で説明される気圧は
気象条件であり、明日の天気、気温の根拠である。
中学校で習ったレベルを前提に
天気予報士たちのもつ、知識と過去データから
気圧の状態から天気予報を行う。

結果ではなく、根拠のために
気圧の説明をするだが、
ゲリラ豪雨のように、過去事例が当たらないケース
どうせ、根拠を聞いていないで、結果を責める国民性
から考えて、気圧についてはもういいんじゃない?!
わざわざ説明するほうが無駄な社会なんだから。

2013-08-19

無力

力がないこと、、
これってなんだろうか?

力とは
知力
財力
学力
筋力
権力
と挙げればいろいろとある。

それだけ、力のカテゴリがある社会なのだが、、
だからこそ、無力を感じるのだろう。
カテゴリごとに力の序列が形成されて
その中で何もできない、蔑まされることから
無力感を味わう。

社会はそうやって成り立っている。
いろいろな経験をしてきた悟りきった僕からすると
力を持っている存在は
そのカテゴリにおいて、意固地というか独占的になりやすい。
自分のカテゴリを守るために
他のカテゴリへの干渉を避けて
自分のカテゴリ内の統制を自分で執ることに執着する。

多くの人間がそうであり、
昔からこれは変わらず、
この論理がギルド、少国家、縄張りの形成根拠でもあるのから、
無力感を味わうことは
ゼロサム的に、
そのカテゴリの有力者の自尊心を高める糧となり、
より強固なカテゴリを序列を固めることになるのだから。

2013-08-16

新品

新しい商品のこと。
新しい定義が現物を誰も使っていないものという認識だとした場合、
現在の市場は新品について二極化しているといえる。

本当に誰も使っていないことに徹底した商品の取り扱い

今まで多くの人がその同種品を使ってきたからこそ信頼できるもの
となる。

精密機械のようなものでは
納品時にあたかも真空状態で精製したような梱包で届けられ
あなたが初めて開封するということにこだわる。
対して、
リサイクル、廉価耐久財、そしてサービスは
誰かの使用実績がその商品保証につながるので
使われていることへの説明が必要になる。

市場は矛盾している。
誰にも使われていないことを求めながら
誰かが使ってみた情報がないと不安になる。
モノを慎重に売買するということが実に難しい時代なのだが、、
言うが易し、やるが難し。
自分がやらされる側になると出来ないと言い出す輩で
支えられている市場もまた矛盾していると感じてしまう。

2013-08-15

先達

先達とは
先輩
先人
とどう違うのか?

いろいろと違いをあげようと挙げられる。
そもそもは、熊野参拝をするときに先に修行をしている修験者のことを指していた。
が、、、
はっきり言えば、先達、先輩、先人は同じで構わないといえる。
逆にそこにこだわる人間がいたら、
その人が違う、、人とのコミュニケーションが取りづらい面倒な存在ではないだろうか?

最近、若者の言葉が乱れていると指摘する先達が多い。
しかし、そういう人に限って
「超うざい」って言葉を使っていることが多い。
そんな輩だから、先輩、先人、先達、どれを使っても構わないとも言えるだろうね。

2013-08-14

真相

噂・エピソードなどある物事に対する真実の姿、実状。
しかし、それが真実の姿といえるだろうか?
つまりは、今までと視点を変えてみた、新たな一面ということではないだろうか?

情報は送り手の思いでいろいろと脚色できる。
時の人の過去を悪く言うことを真相と表現したりする。
人生なのだから、いろいろとあるだろう。
だから、真相ということを局面でとらえることは
真相とは言えないのでは?

人間の真相、、、あるようでないものだといえる。

2013-08-13

有識

学問があり、見識が高い人。
つまり、、バカである。

情報化社会、
つまり、情報はあふれている。
知っていることは間接的に実現できる。
知識を持っている、それでは何もならない。
その知識をどう活用している、
それでどう食べているかが、人の価値になっている。

有識者といわれる存在、
そのカテゴリでは無能である。
その知識で、どう成果を上げたことで
その成果からの肩書き呼称にかわる。
有識者というカテゴリから脱却されることになる。

有識者のコメント、、
なんてクダリ、、
信じるほうが足をすくわれるから、読むに値しないと思ってならない。

2013-08-12

駐在

この言葉の意味が辞書などが曖昧になっている。

一定の場所に相当の期間とどまっていること。
官吏・商社員などが任務のために派遣された地にとどまること。

なんか、意味が伝わらない。
赴任、異動、転居、でもその意味がかぶるのではと思う。

駐在とは、駐車の`駐`、存在の’在’での熟語である。
駐車と停車との違いは運転免許の試験であるように、
駐車は運転手が席にいて、いつでも動けることである。
存在とは、そのものがその定点に置かれていることが
他人が認識できることである。

つまり、駐在とは

事があれば直ぐに動ける人が
動きやすい場所に配置されていること

である。

漢字の意味を考えず、
ただ単にそう使っているというレベルで
辞書や人の知識に蔓延している言葉が多い気がする。

正しい日本語というが、
辞書レベルでも正しさを感じとれないので
そもそも現代人の正しさってどうんだろう。

2013-08-09

渾身

案外、本来の意味をわかっていない言葉だといえる。
渾身の力
渾身の一手
なんて使われるが、渾身って、、、
答えは、体全体という意味。
それが転じて、自分の限界値というような使い方になっている。

僕はこの渾身という表現に違和感、、いや馬鹿らしさを感じる。
自分の体全体、限界までという表現を使うとき
だいたい、そんなものか、、それが限界、
という思いが強い。
また、渾身を使ったから、他ができないという言い訳の前置きのようでもあり、
人間の怠惰の現れとしか受け取れない。

そもそも、渾身という概念を出す事自体
自分が追い詰められているということであり、
そんな状況にする自己管理、責任がないのではと感じるほうが強い。

2013-08-08

琥珀

英語で言えば、amber であり
一種の宝石といえる。

樹脂が地下で長い年月で固まったものである。
なぜ、琥珀という文字になのか
上記のような科学的立証がされてない中国では色合いから
虎が死んで石になった姿、、ゆえに、琥珀だそうだ。
本当の意味ではないが、漢字故に間違っているが、それが名称といういい例である。

、、、
間違っているから、、という論点から考えると、
樹脂が地下で固まって琥珀、、
では、石油って古代生物の脂って説明してよな。現代教育。
琥珀と石油の成分全然違うぞ。
いい加減に、間違った説を広めてすみませんって言えないか?

2013-08-07

習熟

そのことに十分に慣れ、じょうずになること。
が、その認識は世代において異なる。
On The Job Training (OJT)で生きて人間は
「習うより慣れろ」
と言い出す。それが正しいと思っているのも事実。

しかし、現代社会はマニュアルが存在する。
何気なく、マニュアルと思っているかもしれないが
マニュアルが存在する=OJT否定
であることを理解しなくてはならない。

マニュアルがあるときに習熟度は
マニュアルに書いていることをいかに忠実に効率よく行うかであり、
慣れろ、、には価値はない。
「マニュアルに書いてないことはどうするんだ!」
って職人気質の人が自分の習熟度を誇るためか発言するが
「マニュアルを読んでいないのではないか、それとも読み方が間違っているのでは?」
と言われるのが本当の現実である。

OJTの習熟度は
属人的なスキル依存を生み、労働者に支配される職場になりかねない。
それで、ボイコット、サボタージュをやられたら、、
という思いで、マニュアル化を進めてきた背景がある。
誰でもできるようになり、そしてそれをこなすことが経営者が求めている。

我流、自己流でできている、、それで現場が回っている。
それを見て、昔の人はその人のもとでOJTで習熟を高めたいという発想だろうが、
その我流、自己流の人が現場に居続けるかどうかわからない以上、
現場としての習熟度は、転職すること、定年することのないマニュアルになっていくことは
時代の流れ、生き残りのための判断に他ならないといえる。

2013-08-06

署名

現代の署名活動に対して
すごく懐疑的かつ悪意を感じてならない。

署名活動はいろいろな社会問題に異議、改善を求めるものとされ、
民主’的’な動きに扱われるが、、あくまでも’的’であり、
法治、民主主義の遵法活動ではない。

そして、現在の多くの署名活動は
民主主義の手続ききまったことへの反対論であり、
社会を後退させる活動が多い。

民主主義、
多数決で決まったものに対して
自分は納得出来ないから、同じ思いの人と反対運動をしよう。
という論理は、ある意味民主主義ではない。
もっといえば、ある意味、署名活動という名のワガママでしかない。

署名した人の数の多さを武器に民意というが、
その数で選挙運動などをしないのは
なんかある意味、自分の都合を押し付ける活動でしかなく、
やはり、僕の持論のすでに民主主義は破綻しているを確信付けるものといえる。

2013-08-05

糖質

昨今、糖質、、つまり炭水化物ダイエットというものが横行している。
その成功者といわれる人が
炭水化物などの糖質を全面否定している発言があった。

、、それって人間としてどうかな?
ダイエットによって、人の尊厳を失ったと感じる。

人間の歴史は糖質、穀物の歴史。
古今東西、
穀物があって人は反映してきた。



トウモロコシ
に代表される穀物をどう生産して、そしてそれを通貨代わりにしてきた。
逆に穀物を使わない文明は
あったとしても、歴史上消されているに等しい。
穀物の糖質ありきで人は存在してきた。
逆に穀物だけで摂取してきても今に至っている。
もしかしたら、糖質が命に近い食糧なのかもって感じた。

僕はふと思った。
炭水化物ダイエット、
確かにそれで理想の体型になったかもしれない。
でも、その理想の体型って
長寿、健康体型ではないよね。
日本人の思う理想の体型って
短命な外国人体型だもんね。

理想の体型を得るために、命を削っているかもしれない。
なんか、からだを絞ったけど
人生はある意味’太く’’短く’なったんじゃないの?

2013-08-02

敬語

よってたかって、人はいつの時代も
敬語ができていないって口にする。
日本語の
尊敬語
謙譲語
丁寧語
は実に面倒である。

そしてこの論理矛盾を指摘しよう。

「あなたは敬語を正しく使えるか?」

これに対して、
○、☓、どっちで回答しても敬語ができていないことになる。

☓つまり、「いいえ」であれば
自らはまだ敬語がが使いこなせていないと自証したことになり
○つまり、「もちろん」と答えれば
その人は敬語、、謙譲の意味を正しく理解できていないことになる。

僕からすれば
日本人が自己表現が下手なのは
この敬語の存在が大きいといえる。
相手を敬い
自分は謙る
ここに自己主張が良くないという社会構造が成り立っているからだ。

また、時代とともに
正しい敬語についても変わる。
以前、このブログでも書いたが
「ありがとう」
はそもそも、敬語ではなく、、ある意味現代語の「超~」「すげ^ー」と変わらない言葉である。
それを正しい敬語と盲信している事自体
日本の敬語表現の底の薄さ、表面的な取り繕い文化が
滲み出ていることがよく分かる。

敬語で騒ぐときは
得てして、自分の脳力が他人に蔑まれている時であるのだから
自分を磨くか、他人と接しないことに注力するほうがあるべき姿といえるがね。

2013-08-01

組合

何らかの目的で設立された団体。
民法上は、複数の当事者が出資をして
共同事業を営む契約をいい、また、その共同事業体。
現在において、
<組合>という言葉、存在、役割が
意味を成してい、、いや逆に虚無感を抱かせることになっている。

一歩引いて考えればそうなる。
個々の意見が多様化した結果、
共有する目的意識が希薄化する。
また、コミュニケーションとしての大義として組織活動が
IT,SNSで仮想空間で好きな時にできるようになっている。

ここまではよく言われる話であるが
もっと重要な現代人の特性が
所属意識、帰属意識の倦厭する傾向がこと強くなっているということだ。

今までの日本人は
どこかに所属したいという恐怖観念が強かった。
そのために、就職、地域組織ということが常識だった。
しかし、現在はその意識どころか
「自分は染まりたくない、縛られたくない」
と言いだし、他人には
「あんなところにお前は言えるのか?!」
なんて言い出す。

組合の低迷はある意味
氷山の一角であり、
基本的に集団行動、そのものがなくなる過程のさなかかもしれない。
「そんなわけはない、だって人間は、、」
そういう思い込みが大きな事故になることは今の社会では一番危険リスクなことを忘れずに、、