2011-03-31

自粛

日本の美徳であり、国際的な迷惑。

他人の気持ちになってあげることは
日本人の建前としては善行だが、
それで自らの行動を辞めては愚行だ。

人それぞれには役割がある。
まず自分がすべきことをしてこそである。
本当に苦しんでいる自分の気持ちは他人には決して理解できない。
だからこそ、今自分のすべきこと、いつもしていることを行うべきである。

自粛をしていますは責任放棄でしかない。
自粛して経済活動をしないことは巡り巡って
今苦しんでいる人が戻ってくる市場を小さくすることであり
本当に相手の気持ちになっていないといえる。

もう少し俯瞰的に物事を観て、
今自分のすべきことを確実にしていこうといいたい。

2011-03-30

便乗

「便乗しやがって!」
「この機会に便乗値上げとは」

多くの場合、便乗と言う言葉、悪いイメージで使われることが多い日本。
しかし、便乗とは時節をうまく捉えた行為であり、
便乗することこそ、付加価値を効率よく生み出す要因である。

人間の経済活動のほとんどは便乗である。
何かの起因をもとにして、その便乗でビジネスが立ちあがる。
人は関心があることに自らを投じるものであるから。

はっきり言おう。
人間は一握りの人の企画によってたかって便乗することが人間である。
そして、日本人のイメージ論の多くは、僻み妬みで成り立っていることで
それが国際社会で通じない論理でもある。

ビジネスにおいての成功は
便乗させるルールを作り覇権をとるか
その便乗する波にうまく乗ることであり、
その成功は判断は、、、日本人に上記の「」のセリフを言われたかどうかだといえる。

2011-03-28

散財

貯蓄は善
散財は悪

これは日本の常識のようになっているが、
これを改めないと経済はよくはならない。

何かのためにと、、貯蓄をするが、
そうやってためている人ほど何かが起こらないし
何かをいうことの多くは自分ではない他人からの迷惑でその貯蓄が使われることが多いということに
気づいているだろうか?

そして貯蓄は経済活動を止めているということもできる。
買い物をして支払った金額がもとになり、
拡大再生産がうまれるのであり、使わなくてはそのサイクルは生まれない。

浪費、散財という行為は
あるべき財が広く市場にいきわたることであり
それは持つべきものの責務 noblesse oblige だと僕は思っている。

だから、
持っているものがものを買わないこと
持っていないものが無用な借金をしてしまうこと
はともに罪だと思っている。

倹約、ケチを礼賛していた日本の考え方を大きく変えないと、
貯蓄することが目的になる money eater になるだけだろう。

安定

多くの人は安定したことを望む。
しかし、安定していると他人から批判されることになる。
全くもって、世の中に普遍はない。

例えば、
日本は長期政権でじっくりと将来を見据えて政治をしてほしい願う声があるが、
長期政権でそれなりに将来対応してきたリビア政権には批判の声があがる。
経営陣がころころ変わるかわる会社には責任もって当たっていないというが、
長く経営権を持っている会社には独裁だの罵る。

庶民において、
安定とはイデア、、つまり求めるのだが、決してその通りにならない存在と
言えないだろうか?
根本的は、人は欲を持ち、妬み、そして老いる。
安定するという定点固定は、精神、肉体的に人間としての生存意義の否定と感じる。

2011-03-25

生贄

非人道的、、、、いや近代までので崇高な行為。

生贄を野蛮と決めつけたのは、
欧州の思想であり、その他の国家はそれに従っているだけで
基本、どんな地域でも行ってきた。

南米の先住民からすれば
災害が起きると、生贄をささげる。
生贄になることはその民族内自己犠牲で誇りある行動だが、
欧州の人々はそれを野蛮、少数民族行為と批判した。

しかし、南米から遠い日本でも
古事記等に荒波等の自然災害を鎮めるために
処女巫女が海や神々に身をささげる<人身御供>という言葉あるように
逸話が数多存在することから行為が社会認識されていたことはわかる。

また中国三国志時代の
神事といえども
人を神にささげることは国力低下につながるから、
その変わりにという意味で、
かの天才、諸葛(亮)孔明が発明したのが
饅頭 (人の頭に似せて、中に肉がある)であり、
饅頭は人身御供がなければ誕生しなかったものである。

多くの宗教にある自己犠牲の尊さは美徳に挙げられる。
その意味で生贄を出すこと、なることに誇りがあったと思われる。

欧州の編み出した個人主義、、
その個人尊厳ゆえに
多くの訴訟、社会的抗争を導いて、治安を悪化させている言いきれるくらいだ。

自らの危険を顧みない
自己犠牲を尊く敬うことする気持ちを復古させることが
相互信頼、社会秩序回復になると思うし
そう統治、経営していくことが僕がすべきことと思っている。

2011-03-24

相談

傷口に塩

みなさんも経験があるのではないだろうか?
自分の過失、不幸について

先輩
警察
に相談してみて得られることの多くは
その事実への追い打ちだと言うことを

「そう思っていたのよ」
「だから言っただろう」
「なぜそんなことになったのですか!」

おまえに言われなくてもそう思っているから相談したのに!
って思うことが多いだろう。

はっきり言えば、
他人は他人で相手のことを思うより
自分の主観が正しいことを相手に押し付けるものということだ。

もし悩みごとがあれば
それは他人に相談しないほうがいいと思う。
より一層あなたが傷つく可能性が高いと言える。

悩みは自分の問題と思った方がいい。

真の意味の相談とは
簡単かつ冷たく言えば
相談相手に責任を押し付けるくらいの気持ちと覚悟をもってあたること

僕自身、相談をうけるということは
「問題を投げられ、それが出来ると見込んできているんだな」
と感じあたるようにしている。

もっとも、それに見合う相談と認めればだが、、

2011-03-23

復刻

オールディーズ、リバイバルとか言われ、
昨年のヒット曲もそうだが、最近多くの歌謡において行われている。
懐メロというより、新たな曲にして売り出す。

この行為はリバイバルとかいう外来語でなくても
日本は万葉集から行ってきている。
読み人しらずの歌が口伝から編集して一躍有名な詩にしたり、
ものによっては、本歌取り(意味は読者で調べましょう)の使われることで
原詩に再度の注目が上がったりと。

基本、民族の心情は幾世変わったとしても思うところは同じだと思う。
温故知新、古きものでもいいものはいいということを。

ちなみに日本人の多くは勘違いしているのだが
classic とは古典という意味ではない。
最高峰という意味であり、いい音楽を後世に残したいという意味でクラシック音楽である。
趣味は、古典音楽鑑賞ではないぞ。
古典落語と同じカテゴリ、、、、まー古典落語もclassicではあるか。

ゆえに野球の世界大会は、World Baseball Classic になるわけである。

2011-03-22

良識

健全な判断を行うことであるが、
それはもう出来ないと言い切れる。

判断をする素材は脳へのインプットである。
良識の識とは知識の識であるように情報をさすものであり、
日本のような現代教育が整備されている国家では
教諭から倣うものことが多い。

とりわけ、この良識、道徳にあたるものは
教材が少なく、担当する教諭、その教師陣環境の思いによって決まる。

ひとつお話をしよう。

僕は自動車を持っていたが
引越しの兼ね合い、
維持費
当時創業ままならない資金不足
により手放すことを考えた。
それなりの車だったので、
下取り見積もりも悪くはなかった。

そのときに、親戚の叔父が
「自分に乗せてほしい、大切にするし、婆さんの面倒を看るから」
と言いだした。
お金 VS 身内の思い
の天秤において、良識での判断と思い
その叔父に渡した。

手に入るはずの下取り金がなく、借金して経営したものだった。

で、今その車はどうなったか?
僕に一切連絡、報告せず、
そんな状況ゆえ、つまりは口にした婆さんの面倒をみていない事実のなか
叔父は車に乗らずに金に変えたのである。
「もらったんだからいいじゃん!
 自分の孫を乗せられないんだもの!孫ののためなんだから仕方ないだろう!」
って言い出した。

彼にとっては、
僕の直系親族である祖母を面倒看ることを条件に車を譲ってもらっ認識ではなく
甥っ子が車をプレゼントしてくれた
という認識でしかない。

親子くらい離れた若い甥御から車をもらうという感覚が
僕の良識的では極めて稀かつそれなりの対応があるべきである。、
そのうえ、それを車として使用せずに譲渡者に確認なく、
現金化してしまうのも良識的な判断とは思えない。
あくまでも、僕の認識では
「僕の車が欲しい、かわりに祖母の面倒をみる」
であって、
「僕が数百万円を叔父にプレゼント」ではないはずである。

僕は良識ゆえに
結果として
叔父に数百万円以上の金額をカツアゲされて、
その足りない費用、生活費を借金したのである。
という事実しかないのである。

そして、その叔父は、

県立高校の校長

で偉そうに日本の良識について朝礼をしているそうだ。

この国において良識は成り立たないと言い切れよう。

2011-03-18

一般

偏見な論拠のこと。
一般論や一般的なという見解は
当人の人生観から導かれるものであり、
他人と共有している錯覚を生み出しやすいものである。

一般的な定義というものはあるようでないのである。
そんなわけはないという反論もあるが、
自分が思っていることへの反対論は必ず存在する。

1+1=2は一般的だというかもしれないが
数字の概念もない民族もいれば
英語圏における水のように不加算名詞は
1+1の概念でカウントすることはない認識が優勢である。
また殺人はいけないという概念も
戦時下では殺人こそが生きる術であったり
カルバニズム信仰では殺人という概念ではなく人を殺めている。

人間は自分の基準で物事を測る。
それは否定することは絶対できない。
自分の生きてきた事実でしか物事を判断できないからだ。
しかし、それが一般的とは決していえない。
もっと言えば、一般的という発想自体を人は持ってはいけない。

自分が存在すること=一般的から外れているという自覚が
個性、オリジナル、付加価値を生み出すことでもあるのだから。

2011-03-17

区切

現代人が不得意になりつつあることは区切ることだといえる。
これは個人の自己管理能力の低下も要因のひとつだが、
社会進化、豊かさがそれを導いている。

区切るとは、一定のことを断面をいえることになるのだが、
現代を否定することが進化だった。
暗い夜を明るくする照明の登場。
暗いから誘眠をもたらすのだが、明るいから活動と睡眠の時間の区切りがなくなり、
日が昇っているときに出来ることも
深夜でもできるようになった。

また学問の専門化、仕事の詳細化は
一見区別しているようにしているが、
それは自分の思い込みであり、
他人からすれば誰に問い合わせればいいのか全くわからない
区切りのないカテゴリになっている。

区切りとは
共通認識において、自他共に認める判断基準である。
個々人が自分の考えを主張して範囲を決めることが出来る現代、
区切り行為自身が形骸、無力化している。

結果として現代の子供たちが
テレビを見ているのか
掃除をしているのか
携帯をみているか
全くわからないという親がいる。

僕からすると、
親の区切りに見合わない存在が子供を作ったとしか見えないのだが、、

2011-03-16

最高

最高のものが最良とは限らない。

過去で言えば
VHSはベータ規格においてすべて劣っていたくらいなのだが、
ビデオテープ界の盟主になり、ベータを駆逐した。
その前で言えば、カセットテープの次は
性能面、利便性でDATと言われていたが、
実際には
割れやすく、持ち運びにかさばるCDが普及したりした。

よくマーケティングに従事している人は
消費者マインドを捉えるものがあったと
後付け論理で展開して、次の予想をそのポイントにおいて
最高のものを示すが、まずあたらない。

人間の行動は最高への追求だが、
人間の心情は最良なものを求めるという
二律背反があると僕は思っている。

どれだけいいものを提供しても
それは自分の思う最高であって
他人の思う最良ではないことが多い。

逆にいえば、自分からすれば対したことがないものでも
他人にとっては最良だったりするものもある。
厨房のマカナイ飯のメニュー化などが挙げられる。

ついつい自分の最高のものを他人に提供する気持ちになるのが
人の善意だと思うが、その善意は自分の最高なものを相手の最良と思わせる
悪意かもしれないことがある。

あまり、自分の最高のものを他人に共感させることなく
適当なほうに肩の力を抜いたほうが
相手もリラックスして最良なものを引き当ててくるかもしれないと感じてならない。

2011-03-15

伝達

相手に伝えるときに

状況
相手の知的レベル
自分の表現力

に合わせて、説明する方法を変えなくてはならない。

例えば、
10個中1つ例外があるパターンを伝えるときに
「ほとんどOKです」
というか
「1つ例外があります」
というかがあるが、
現代日本では、後者を選びたがる。

しかし、では9つの例外ではない説明理解や
その情報を知りたい緊急性において
その1つの例外に言及する知的レベルも判断力にも欠けていると言わざる負えない。

ありのままを伝えることに細かくしないこと
自分の無知、判断力のなさを自覚すること
が現代社会の伝達力を高めるといえる。
無駄に頭がいい、もっと知りたいは
現代社会に社会活動におけるマイナス要素になりつつある。

2011-03-14

事後

システム系の仕事をしていると
どうしても計画系の処理や自分の行動も見積もりベースで判断したくなる。
しかし、今のように大きな災害レベルのイベントに対応しきれていないと思うことがある。
それでも、リスク、コンティンジェンシーをもって
多角的に判断しているところや自社規模の小ささから
現段階では自社レベルにおいては業務活動に支障はないといえる。

しかし、考えてみれば
効率化を進めて、安全対策費を削ってきただけに
企業規模でのリカバリが大変だと思う。
何よりも僕が思うには、
今日の天災について、
安全対策費を削ってきた人材を魔女狩りにしないと
収まりがつかない企業が多くあると想像できる。

企業のために行ってきた経費削減が
会社を危なくしたって言われることがあるだろう。
削減しなくても、経費過多で問い詰められ
それで削減しても今回の天災を想定していなかったことで問い詰められる。
結局事後裁判において
担当者はいいスケープゴートにされるものである。

僕は今回のような事象を含めて
事後裁判において、
意味のないスケープゴートを作らないように経営しなくてはって思う次第である。

2011-03-11

更新

英語で言えば、update renewal あたる。
更(さら)に新しくという意味である。

update の意味ならば、今時点の状態にするであり、
renewalの意味ならば、新品のようにするの意味となるだろう。

現代市場を考えると
更新するほうが、新品でそろえるより簡単のようにみえる。
今あるものをそのままより長く使えるようにするからである。

しかし、
コンピュータの世界で考えてみると
更新命令は

原本コピー    →
変更箇所改訂   →
原本削除     →
変更を新規登録

という流れであり、
新規登録と比べるとかなり処理が多く行われていることになる。

実際問題、現代社会においても同じ、それ以上かもしれない。
今のままであり続けるには
機能保全保守
新しい外部要素からの影響分析
逆に用途に合わせての改修
が発生している。

実際問題、今の生産状況からすれば
保全修理よりも
新規購買のほうが安く上がることが多い。

更新することは今までどおりという思いかもしれないが
時計は止まらない、時代は進むのであり、
更新する、、更に新しくするという思いで
すべて新しくするというほうが
精神的、経済活動的に前向きではないだろうかと思う。

2011-03-10

出馬

現在は、選挙等の民意によって選ばれる立候補する意味になるが、
この言葉がある以上、
日本の民主主義、、いや
事業継承や組織運営は今のまま衰退するだろう。

出馬って戦に赴く言葉である。
戦うという意味である。

実際に考えてほしい。
互いに出馬という意味で選挙に挑んだ後に
勝った側
負けた側
が心から手をとって、民主主義に行動できるだろうか?

もし出来るなら、、、そもそも
初めから選挙のために出馬する必要はないといえるのではないだろうか?

過去の民主主義で
リンカーンが執ったチームライバルというやり方はある。
対抗馬に要職を与える
反対分子を取り込んでいく
として、結果をだしただろうが、、、
それは稀な成功例であるから、後世に語り継がれるのであって、
その前後のアメリカの治世は同じことをしていたのだが劣悪だったことは
なかなか伝わらない。同じことをしても失敗のほうが多いと言うことを。

出馬という表現を変えるのではなく
民主主義、立候補ということすら
すでに時代にあわなくなっていると感じてならない。

やりたい奴がやりたいところで治めたい人たちだけを
対象にすることも今のグローバルは可能になっている。
大手国際企業の多くは、CEOを立候補で選ばないし、その企業の帰属意識も
国家より会社と感じて各国を飛び回るのだから。

2011-03-09

同類

数学でいう、同類項。
同じ因数を持つものでくくる。

この発想が
僕の対人観察の基本である。

個々人はオリジナルである。
これは否定できないが、
いろいろな要素で特定の人たちと同じものを持っている。
その組み合わせのパターンの妙が個人だと思っている。

だから、ある人をおもう時は
・地域カテゴリ
・容姿カテゴリ
・嗜好カテゴリ
・性格、、、怒るポイント
と多岐な要素のマトリックスで特定認識を持つようにしている。

一義に相手を決めつけることではなく
要素要素でいろいろなパターンに見えてしまうし、
そう自分の中で位置付けている。

人間は自分の偏見でしか評価できないと開き直れば
その多岐な要素をどれだけ持つかで、
その評価が相手を納得させたり、新境地を見いだせたりすると言える。

2011-03-08

疑念

みなさんはどっちのパターンだろうか?

初めから疑ってかかって、案の定って思うか、それとも案外って思うか
それとも
信頼してみて、思った通りと思うか、裏切られたって思うか

面白いもので
社会道徳的は後述を勧めて博愛を説く癖に
リスクマネージメントの世界では前述こそ正解としている。

疑うことを悪か善かと考えると悪のように捉えるが
疑うからこそ、不意の事故を未然に防げる。
それは、運転免許取得時の、かもしれない注意指導がその具象である。

疑うことをしなくていい世界を目指すとみんな幸せって理想を掲げるが
実際問題、疑うことを生業として、警備会社、ウィルス対策ソフトハウスは
失業してしまうことになり、一概に幸せとは思えない。

思うに、どうして疑うことこそ人間の真実って教えないのだろうか?
技術、科学の発展も
事業改革も
不正捜査も
すべて、今あることを疑うことから、社会貢献しているのに、、、

人によっては、
「そんなに疑っていたら、ギスギスした社会になる?」
と言うが、
だったら、今はそうじゃないっていえるのか?と問い返したいくらいだ。

2011-03-07

復古

失敗しても再びチャンスがある社会を!

って日本の善意な思想はいうが、
実際問題、それは無理どころか、あってはならないと読み取れる。

多くの場合は前科者に対して
世間はチャンスどころか批難を浴びせる。

また一度嫌疑がかかったものには
チャンスが回ってくることはないし、
チャンスを回せば、民意という愚評により
「なぜ、あんな人間に任せるんだ!」
という言葉がマスメディアを通じて上がってくる。

一度でも失敗したら、日本においては駄目なのである。

では失敗できないし、再起ができない社会ではないか!
っていうが、実際そうである。

だから今重要なのは、発想を逆にして
失敗を失敗をしていなかったことにする力
再起では新規であるとする動き
これが求められる。

再起を図るという思いではなく、
再起はない
すべてのことは一期一会と思って行動することが正しいと言える。

2011-03-04

造反

体制に逆らうことと言う意味だが、、
現実問題、本当に造反だろうか?

今の国会議員というレベルではなくともみなさんの周りでも起きているし、
そうさせているかもしれない。

自分の例であげれば
転職する際に、入社条件をコミットして入社してきたいのだが、
いざ入社すれば、そのコミットが蔑ろにされるどころか
「社員なんだから従え!」
って言われてきた。これに抗議することは造反なのだろうか?

逆に、経営者になれば
社員の思いと自分の思いが異なり、
言うことを聞かない者を責める口実は結果的に造反ということになる。

造反をした経験、使った経験から
造反とは力ある者が下の者を屈服させる口実にすぎないと悟っている。
造反するにはそれなりの思い、理由がある。
多くの場合は
下の者が自分の思っていたことに対しての「君子は豹変し」になるということだ。

情勢や気運で豹変せざる負えない立場だけに
いかに造反させないように運営するかがリーダーの務め、、、
いやリーダーという小さい存在ではなく
統制者として責務というべきだろう。

2011-03-03

立直

業務、事業、組織において
うまくいっていないところを立て直すということをする。
そこで僕は感じているのだが、
立て直す際に、
その目的の専門家を招へいするのは立て直しではないといえる。
なぜなら、専門家が行うのは
自分の経験の反映、コピーをするのである。
もし、それで結果立て直せたのであれば、
そもそも、業務、事業、組織として成り立っていないかったといえる。
初めて成り立ったのだから、立て直しではない。

だからこそいえる。
多くの場合、専門家を招へいでも
立て直しができないのは、
専門家では出来ないからである。
専門家の知識、力量レベルことはしてきているのであり、
それ以上のことは専門性を超えた
新しい付加価値の創設であり、
固定概念に固執した専門家はかえって足枷になりかねないのである。

立て直しが求めれることが多い社会だが、
その行為が
そもそも、立て直しなのか
行為そのものを見直すべきではないのか
を考えてあたるべきだと思う。

2011-03-02

比興

読めましょうか?
現代の言葉だと、、卑怯となる。

僕の祖母の流れが、表裏比興の者であるために
この比興、卑怯という言葉に敏感かもしれない。

卑怯って言われることはどうだろうか?
僕は、言う側を負け犬の遠吠えに感じてしまう。
卑怯と言われる場合、えてして実益をとっていて
それを手入れられなかったものからの罵声といえる。

卑怯の反対語の正々堂々と言う言葉は
世の中では絶対平等と同じで存在しないのである。
今ある事実を受入、
その事実をもとに実益をえるために試行錯誤することが生き抜くことと感じる。

それが出来ない者が
出来るものを卑怯というのではないかと思う。

最近ある政治家が
自分の作った政治団体から離れ国政についた。
その際に、
「自分のことはいい、今の政治団体の代表のことを悪い言わないでほしい」
と語った。
政治団体の代表は憤りを示していたが、、

僕はその政治家について好感を抱いていないが
じつにいい比興だと感服した。

日本人は正々堂々が好きだが
実際問題、歴史を動かしたり、狂わしたのは
この比興だということはなかなか理解できない、、したくないんだなあって感じてならない。
そう感じるもの、、、血のせいなのかな??

2011-03-01

目下

僕は年下、目下の人間に対して
畏敬の念で持たれるよう努めている。
あえてそうしている。

これは
中学時代
愚かな先輩たちの長幼の序への反感
高校時代
自らに能力がなく鳴り物入りの後輩たちへの引け目
が根底にあるからだ。

能力、立場、風格的に
いきなり見ず知らずの存在に指揮する立場になることが多く
自分の目下についた人たちに
・自らのできること
・目下の存在が僕に従わなくてはならないこと
・従うことで得られる庇護とスキル
を示すことで統治を図ることになる。

それゆえに、チームガバナンスには自信があるのだが、
その分、メンバとの気持ちの乖離は必定である。
それは見えないカタチとして、
憧れ、目指すべき存在から真っ先に外されるという
シンパシーが芽生えず、組織内孤立を弊害として導くことになるが。、
僕の孤独感で目的達成になるのであれば、、と思う次第である。