2011-10-31

手引

手引き=マニュアルが本当の意味での取扱説明書ではなくなってきている。
今は、責任、免責の根拠でしかない。

この実態には、技術の高度化があり、
一概に誰が悪いとは言えない社会問題ともいえる。

製品が高性能、多機能になればなるほど、
その使用方法を製造物責任法のもと
その説明を出さなくてはならない。
そうなると、説明資料が分厚く、説明をみたいものに行きつくまで
相当の労力を使用者に求めてしまう。

しかし、多機能になっているので
使用者、、、消費者は自分の使いたい機能さえわければいいし、
その機能がわかるのであれば、わざわざ分厚い本になっている手引きをみたりしない。
将来の使えるという可能性があれば、担保されていると錯覚してしまうレベルである。

いくら説明を作っても読んでもらえない手引きだが書かないと企業として損しかねない企業
自分が使いたい機能がない、不具合がある場合、手引きに書いてないことで文句を挙げたい消費者

その関係性が今の手引きになっているといえる。

製品をよりよく使いたい、使って幸せになりたいという気持ちは
高度技術社会では薄れてきていることは、
実感できる幸せも薄れてきているなあって感じてならない。

2011-10-28

混乱

ある情報番組で

前回は「衣類汚れ」
今回は「節電」

を放送していた。

観ていてあれって気づいた。

前回の「衣類汚れ」では
~汚れを早速洗いましょう、汚れ物は都度都度、洗濯機を回しましょう~

そして、次回である今回の「節電」では
~洗濯機を使うときは、まとめ洗いをすべきです、たまってから洗うことを心がけましょう~

といっていた。

情報のポイントが違うということがわかっても
情報番組が一貫した情報どころか、
毎回180度かわる情報を流しすぎるのは、
もはや情報というより風説、、混乱要素でしかない。

情報配信側として、責任、意思が希薄な時代と感じてならない。
もっとも、情報番組を見ている視聴者層も何とも感じないレベルだからいいのだ!
と割り切っているところがあれば、、、それほそれで、別の問題がでてくるのだが。

2011-10-27

濃縮

日本語では
濃く、縮める、と表記するが
英語だと、enrich つまり、より豊かにという字をあてる。

濃縮するという物理行為は確かに
絞る等の行為から、必要要素密度を高めるが
論理行為においては絞るという表現に近い濃縮は的を得ていない。

対して、enrich という表現は実に的を得ている。
対象としているものを強制的に集中させるというポイントは実に妙といえる。

当たり前の日本語ほど、案外漢字と意味が乖離していることが多く
英語との対比で本来の意味を再認識できる。

「濃縮された人生」とか論理概念的な会話では
enrichというほうが、それらしく感じるものだ。

その観点で外国語をとらえると
なんとなく、理解しやすくなったり、、、しないか!?

2011-10-26

故事

極めて嘘に近い話と思う。
というより、実際には故事成語の意味ありきで、
その故事を加工したといえる。

確かに、その故事に近いことはあったかもしれない。
しかし、本当にそのとおりだったとはいえないことが多いことが
歴史の事実でわかってくる。

”虎の威を借る狐”
こんな狐がいるなら見てみたい!

”洞ヶ峠を決め込む”
など、実際にはそうではなかった文献が登場!

故事の多くは口伝承なために、
伝言ゲームや面白おかしく話して場を盛り上げたい、
類似した話と混同が起きた結果として成り立っている。

つまり、真実ではない話なのだが、、、、
その故事成語が知識人の教養になっていることに
人間という動物のご都合主義に強く感じる点といえる。
そう、、嘘から出たマコト という言葉がそれのように。

2011-10-25

科目

専門性、膨大な情報量のせいか
教育の場で、選択科目という概念が成り立っているが
これが専門性どころか、無知の促進を促していると結論づけられるといえる。

国民全体として、一定水準のことを
知らないことや無知であることは恥ずべきこと、
だから、一定水準の教育と躾を先進国は推進してきた。
教育という前提条件、共有情報があるからこそ
高度なコミュニケーションが成り立っているし、
それに見合う知識をもって、足りなければそれを恥じて補う行動をとる機運があった。

しかし、この選択科目の登場により、
「自分はこっちをやっているから、それじゃないところは知らなくてもいい」
「自分はこっちさえやれば、知らなくて当然」
という高度コミュニケーションの断絶を促進する結果になってきている。
専門科目=高い理解、というのは理想幻想であり、
専門科目=それ以外の科目を学ばなくてもかまわない権利
となっているといえる。

選択の自由、高い専門性を求めるより
詰め込みといわれようが、
洗脳といわれようが、
統制、均一性のある教育科目の履修を徹底させないと、
社会全体として
最終的には他人と意思疎通を行い、
高付加価値創設活動ができなくなるといえるだろう。

2011-10-24

重畳

重畳、、意味がわかるだろうか、、
この上なく喜ばしいこと。

重畳、、チョウジョウと読むのだが
超上機嫌、、チョウジョウキゲンという意味。
くしくも、チョウジョウという音は重なっているが、漢字は全く異なる。

なかなか使わない語彙、漢字でかつ漢字のそれぞれの文字から意味も憶測できない。
この手の言葉は、たぶん消えて行ってしまうのだろうと感じる。

僕としては、古語として趣があるので、使っていきたい言葉だが、
相手に伝わらなく、奇妙に思われてしまうだろう。

????って考えると、、なぜ教育に古文の科目があるのだろうか?
現代人、現代社会において、古文を読むことなければ、その言葉もって教養どころか
奇異の目で見られる事実から考えると、、
僕のように古風を趣と感じない現代人に
半ば強制的点数を取らせる教育科目に入れる理由があるのか
ふと感じてしまう。

2011-10-21

品質

品質を口にしだす企業は、、、衰退に入った証拠といえる。
品質について、わざわざ口にすることは既存製品、サービスが
完成形か粗悪品である自覚とこの水準が自社である証となるからである。

多くの伸びている企業は
品質という表現より、新たな製品、サービスを打ち出してきて
その上で、既存製品、サービスを維持し続ける責務に負われる。

新製品ゆえの不具合や既存製品への改善要求は
品質と捉えずに、新開発商品というカタチで反映される。

品質という言葉になると、
瑕疵担保や原状回復義務を出されて
儲かるより、失うことへの対策が始まる。

経営において、
品質という言葉を使うことに気をつけようと思った。
品質という言葉が出てくる会社は先がないという
覚悟をもって挑まないとならないだから。

2011-10-20

師匠

男女雇用平等の影響で、
看護師、美容師 となってきているが、
これって日本人の日本語知らずの現われに感じて成らないし、
よりによって、師の字の扱いがこれではと思ってならない。

師匠とは
師:後進に道を示す技術に長けている者
匠:その道の活動が常人を逸脱している
本物のprofessinal に用いる字である。

身の回りにいると思うが、
とても教え方がうまく多くの若手の先生になる人もいれば
誰にも真似できない、教えてもらっても到底できない業を持っている人、
教える技術≠卓越した技術であるゆえに
師と匠とはわけて考えるくらいの存在である。

看護師、美容師、、、男女平等の意味を持たせるため使っているが
それ以前に、新人と熟練者をくくってしまう表記になっていて
<ものづくり大国 日本>
と言い張る、この国のレベルが伺える。

男女の差異なんかより、技巧を考えれば
おのずと性差などに気にならない事実に気づかないものか?

2011-10-19

矩形

くけい  って読むし、これが長方形のことは、、
案外知られていない。

現在のキーボード、入力ディバイスで一番困るのは
この漢字の読みは?ということだろう。
漢字の意味がわからなくても、
その漢字を入力すればその漢字の意味は検索できてしまう。

だから、その漢字が書けなくても大丈夫ともいえる。

問題はその漢字の読みがわからないと、入力できないという問題だ。
どこかに電子データがあれば、コピー&ペーストが成り立つが
紙等の筆跡などからたどるということに現在のITは弱いといえる。

「その漢字、認識できるのに、、読みも意味もつかめない」

という事実が多く発生する。

国語辞典はなくなりつつあるが、
漢和辞典はそのレベルで役に立つかもしれない。

もっとも、文字を紙に書き取るという行為を
これ以上蔑ろにするのはどうかと思ってならないが、

2011-10-18

迂闊

うっかりしていて心の行き届かないこと
実際の役に立たないこと
と二つの意味があるが、自動詞、他動詞の違いとなる。

自分への迂闊は上記で
他人からみての迂闊は、下記といったところか。

迂闊という表現に値する事象は現代社会ではなかなか出てこなくなった。
すべてを網羅するということが不可能なくらいの社会情勢、情報の氾濫があり、
自分自身の把握量が足りていないから引き起される問題より
知らなくても無理はないことが多くなってきている。

だからこそ、迂闊という表現ではなく、今、現時点で私が把握している事実での
想定、提案が生きてくると思う。

迂闊という言葉の前提としての当たり前がない以上、
自分は知りえている情報の中でできることという前提で提案活動をすることが
現代人の付加価値活動の起点だといえる。

2011-10-17

買替

最近の物の物理寿命は延びた。
・壊れない
・障害からのリカバリーが容易
になっている。

しかし思った。
昔より買い替え需要は高くなっているということに。

理由は、壊れる時が買替時期ではなく
現行機が社会的に求めに耐えられなくなっていることに、
本来の機能としては十分機能していても
・拡張互換
・燃料消費(省エネ)
・制御ロジック等が過去の技術
という社会の変動に取り残されるだけでなく
・リサイクル引き取り
・買替政策
という仕組みからして、その物を手放すような誘導を起こしている。

物を大切にする思想を声高に言うが、
現代社会は消費しないと経済が回らないゆえに
物を大切にすることを求めていない。

物を大切にすることをいっそ否定して、
物を買いかえることをもっと礼賛するくらいの社会であることを
認めないのはなぜだろうか?

2011-10-14

刀剣

日本と西洋では刃物の使い方の認識が違う。
日本の刃物の使い方は、引く
西洋は、割る
と言い切れる。

刃物の代表格は刀剣だが、
日本刀は刃を当てて引ききることで斬るが
西洋のswordは斬るのでは、割る使い方になる。
割るゆえに刃こぼれがしやすいから、
両刃=剣になったのであり、
刃こぼれを起こしにくく、引く際に自ら傷つけないように
片刃=刀と進化してきた。

だから、日本の剣(本来は刀)の達人は
引く器用さをもつ体型なのに対して、
西洋の剣の達人というと割る力ゆえに
コナンザグレートのような筋骨隆々な体型になる。

鋭利な接点で引き裂くという刃物の本質は同じでも
扱い方が大きく違うのだなあって感じる。

2011-10-13

仕合

言葉が変わっていくそのさなかの文字だろう。

シアイ

現在は<試合>になっているが

殺しあう、<死合>から始まり
仕事をなす、<仕合>になり
物騒な言葉、表現を取り去って、
互いを試算、研鑽する意味で、<試合>になっている。

人間が実力発揮でいるのは、、生命をかけた闘争心であり、
死合がもっとも能力を高めてきた。

その行為に準じて、現在の試合になっているのだが
所詮、試合は<ごっこ>でしかない。だから試合といわれるものがつまらなくなり、
死合、、少なくても仕合を人間は求めはじまる。

古代のコロシアム
現代社会のバーリートゥード
なんてものは、その現れである。
本物の生死をかけた仕合、、死合への追求である。

2000年以上前の古代ローマも現代社会も
口では、「平和」「安全」って唱えながら
心の中では「殺戮」を奏でている、
人間ってそんなものって感じてならない。

2011-10-12

画面

戦後の日本人が一番目にしているものといいきれる。
街頭TVに始まり、家庭のTVに普及して、お茶の間という言葉に表れるように
家族で観るものなり、
TVゲームやPCの個人使用、、、そして携帯電話、スマートフォンのように
個人専用、すべて画面 Graphical User Interface といえる。

表現技術
録画、配信技術の進化は止まらない。

僕が創業時に掲げた
「PCを意識しないITビジネス」
を具象する際に、キーボード、内蔵ストレージを否定できても
画面を否定できないのは事実だ。

この先、人間は画面を通して社会、人間関係を作る時代になると
予測しても間違いとは言い切れないだろう。
直接会って話しより、画面のほうが伝わることの多いといえる。

目は口ほどにものを言う、、
画面は目よりすべて見通す
といわれるかも?

2011-10-11

馬鈴

馬鈴薯と書くと、博学な読者は、ジャガイモのことか!ってわかるだろうが、
馬鈴薯の薯は簡略で書くと薯、、芋(イモ)の意味であり、馬鈴薯とは馬鈴のイモ、、馬鈴とは、、、
答えは、
中国のほうでつけられた字をそのまま持ってきたため、
マレーの当て字、、マレー半島から来たイモとか、
放牧馬につけた識別鈴に似てる形のイモ、といろいろと説がある。

漢字にある当て字論理、、、
これもまた、日本の国際化の足かせだろう。
なぜ、こういう意味なのかを説明できないどころか、
他国からの外来語であるのに、その漢字一文字にも意味があるから
到底語源の憶測が立たない。

日本独特の漢字文化も悪くはないが
こういう意味の言葉を正しく理解して、使い説明できる人間がいないのに
正しい日本語なんてものを議論すべきなのだろうか?って感じる。

2011-10-07

観察

観察とは長期的な視点が必要である。
その分、長い目でみた計画が必要になる。
小学校の植物の観察を理科の時間という
1年間の履修行為にあわせて行われてきた。

はっきり言えば、現代社会においては理科の授業ではなくなっている。
植物の生育などは、ネットで無料配信の早送り動画や他の植物のことは
容易に知りえてしまうのであり、1年間、観察し続けることの意味につながらない。

僕はこれは理科ではなく、洞察力の観点の訓練と捉えるべきといいたい。

長期的にものの移り変わりをみることは
なにが変わったのか
なぜそうなったのか
いつそうなるのか
を読み解くこと、、洞察力につながるといえる。

具体的には
・朝顔のツルが、手前の支柱に巻きつきはじめた
・これは手前のほうが日陰になりにくい
・伸びるタイミングは日の出から数時間のようだ
ということを読み取り考えることこそ、観察の真髄といえる。

ITの繁栄で知っていることは武器にならない。
なぜそうなるのかを
長期的な視点による観察という視点で
知っていることより、こうなるという予測、法則を導くことがこれからの
社会で生きていく武器といえる。

詰め込み教育より観察、洞察、考察の時代になってきたといえる。

2011-10-06

指標

市場経済では、類似したものが多く出回る。
消費者側はその類似したもののよしあしについて
明確な基準を求めたがる。
強いては、その基準、指標がないから商取引で損をするまで言い出す。

ではその声にこたえて、公の機関が、指標を出せばどうなるだろうか?
類似品メーカーサイドからすれば
自分の製品こそいいものと思っているのに
低い評価を受けると
製品を熟知していない公の機関による、虚偽、捏造と騒ぎ
営業妨害といい始める。

一般消費者は指標をもとめ、
メーカーサイドは自分こそと思う状況下において
第三者が介入するのはどうだろうか?
どんどん泥沼化するだけのような気がしてきた。

指標なんてものを求めたり
その指標への絶対評価というものに従うことは
結果的に不幸の連鎖になるだけだろう。

自分で判断するのであって、
市場にものがあふれている以上に
もっと情報収集、製品分析をこなすべきある。
そしてその情報はあまり他人に共有すべきではない。

指標軸を他人にみせることは、
盲信者と責任転嫁の無能者を育成する温床になるだけだから。

自分で自分の責任を取れる環境づくりのために
他人に思いをいうべきではない。

2011-10-05

歳時

歳時とは、一年のうち、その時々、つまり四季折々というほどの意味。
日本の四季を前提にした言葉であり、
歳時記というと俳句の季語をまとめたものである。

最近思うのだが、四季って現代成り立つのか?
猛暑、冷夏、暖冬、厳寒、という言葉が飛び交うこの状況において
四季折々という意味がもはやないと言い切りたい。

さらに、空調器具が発達したために
部屋内温度の一定化、対しての外気によるヒートアイランド現象という
自然的
人工的
にすでに歳時の概念は薄れていると思っている。

暦上の季節があっても、生きている今がその四季のそれに当てはまるのか
よくわからなくなっているのではないだろうか?

、、、、でも考えてみれば
季語自身も怪しく、

天の川       秋の季語
陽炎(かげろう)  春の季語

という風に、昔の四季も今のように狂っていたでは?
と感じとれるふうはあるのだが、、  

2011-10-04

台頭

ITの先端技術のひとつでもあるウィルスソフト。
ある技術者と話して、
僕の観点からすれば、結局、自然の摂理に近づくと感じた。

ウィルスソフトは
ライオンのボスが変わったときと同じ行動をとるように組み込まれている。
どういう意味かというと、
自分の領域内に前のボス、その遺伝子を有するものを排除することから始まる。
ウィルスソフトであれば、
そのコンピュータにインストールされたときに一番初めに
ウィルス認定のロジックを通過するのは
これまでインストールされていた他社のウィルスソフト、その派生ソフトであり、
そこ排除から処理が始まる。

ライオンであれば、
ボスの地位を新しく手に入れたオスは
前のボスを追い出す、、場合によっては殺すだけでなく
そのボスの血を引く仔ライオンをも殺すそうだ。
一般人の価値観からすれば、残酷かもしれないが
仔ライオンが新しいボスに殺されることで
母ライオンはすぐに排卵を促されるそうだ、
より強い遺伝子を残すための摂理のようだ。

新たな力の台頭にとって、
一番初めの敵は
自分の旧世代であること、
それは地球上すべてのもの(creature)にとっての運命と感じた。

2011-10-03

国旗

多くの国の国旗で三色を採用している。
それぞれの色に意味を持たせている。

人間 3 という数には思い入れがある。
数学的には、多角形の基礎である、三角形
政治学的には、三権分立
など、安定、バランスの象徴とされる。

また色は人の感情、思いの暗喩が隠れているので
1つに傾倒せず
2つに分裂しない
3つでバランスさせる意味という意味になるだろう。

国という存在を象徴する代表は国旗であり、
この国旗が国民の思いの象徴だといえる。

政治家が国旗に一礼したかどうか
教職が国旗掲揚を許さない
とか、問題になっているが、
その本質は
日本国民にいられること
日本国土に住んでいること
を国旗というという具象に敬意をもつことだと思うのだが、
本質的な思いをなんか、日本人は履き違えていないのか??って思ってならない。

国粋主義というより、
この土地に住まわせてもらっている先人、土地神への謝意の念は
日本古来からで誰にもあるべきだと思うのだが。