2009-06-30

代謝

外界から取り入れた物質をもとにした合成と分解とからなる物質の交代と、
その物質の変化に伴って起こるエネルギーの生産や
消費からなるエネルギー交代とが密接に結びついていることである。

基本的は、生体活動の意味だが、
社会、経済活動にも往々にあてはまる。

組織活動において、代謝が進まないと衰退がおきうる。
プロジェクトチームはいざ知らず、
ルーティンワークの組織ならそれは少ないって思われるが、
それは逆である。

人は老いる。そして人は進化を求める。
できれば、前向き、次につながる活動を指向する。
そうなると、今行っている活動も恒久ではなく、時限的と捉えるべきある。
対して、仕事は進化しないし、基本必須活動事項である。
だから、誰かがその仕事を引き継がなくてはならない。
前向きの前提ならば、若く未熟なものに引き継ぐことが定石といえる。

そう考えると、仕事を受け持つ組織の前提条件は
引継ぎという人材の代謝ありきでみるべきだと思う。

「誰かさんがいるから、大丈夫」
という属人主義ではなく、引継ぎのスキーム、引継ぎを意識した効率化を
をいかに日常業務に取り入れるかが、組織の代謝促進といえる。

引継ぎというものは
ある意味、組織のデトックス活動ともいえる。
優秀な人材を毒素に例えるというのも弊害があるかもしれないが、
たんぱく質とて、代謝の過程でアンモニアに変わり、排出されるように、
優秀な人材をいくら囲っていても、そのひとのモチベーションや性格で
組織を悪い方向に持っていく可能性を考えたら、、
デトックスといって差し支えないといえる。

常に自分も組織も代謝を意識することが、健全な生活活動だといえる。

2009-06-29

猛暑

夏は暑いものだ。
日本には四季があり、そういう時期があるものだって説明を受けてきた。。
でも思う、英語だけでなく、フランス語等の多言語にも四季の季節表現は存在する。
つまり、四季は日本だけの風情ではないということだ。
そして思うのだが、四季は本当に存在しているのか?
黄道の推移で、太陽の角度による南中角度の差はわかるが、
4つのカテゴリに明確に分けづらいどころか、
太陽どおりの四季は味わえなくなってきている。

冷夏、暖冬という言葉や梅雨のあいまいさなど、
季節の感覚がづれつつある。

猛暑のように、夏を示すという気象状況の意味は
今はその事実をもとにした、経済活動の購買動機の説明になっている。
・暑いから、冷たいビールを
・熱帯夜に安眠を得られる、クーラー
・こんな暑さに滞欧した、衣類
季節を示すことは、今では経済、、購買を促す一事象になっていると思う。
風情という言葉もあるが、花より団子、
現在社会を回すためには、季節すらその活動に取り入れていることが
まさに市場経済だと言い切れるだろう。

2009-06-26

睡眠

周期的に生じ、
感覚や反射機能その他種々の生理機能が低下し、
意識は喪失しているが容易に覚醒しうる状態
を言うらしい。

睡眠については、いろいろな効果、憶測が研究されているが、
その代替、つまり睡眠をしないで済むような活動については
あまり大きく表明されていないことに気付く。

僕の価値観からすれば、
無防備かつ非生産性の時間を持つことはあまり好きではなく、
できれば睡眠時間、、睡眠そのものを無くすということをできないかと
考えてしまう、、、、、、、っと考えていると眠れなくなるので
睡眠時間は相対的に少ないようだ。

でもこれは結果的に少ないだけで、
身体的にはよくないのではないかと思うこともあり、
それを考えるとまた瞼が冴えてくる。

ただこの覚醒状態は決して生産性のあるものではなく、
ただ起きているに過ぎないのだから、無駄な時間といえる。

睡眠時間を無くして、生産時間を!って考えるより、
何も考えずに寝て、
すっきり朝目が覚めることが、
本当に効率的で生産性の高いということに
論理の帰着を得てしまい、自分の思考の危うさをまじまじと感じてしまう。

2009-06-25

引用

古人の言や他人の文章、
また他人の説や事例などを自分の文章の中に引いて説明に用いること

引用が巧みになると説得力が増す。
しかし、引用を間違えると、
自分の意見がなく、受け売りになってしまい逆効果になることもある。
この違いはなんだろうか?

答えを言えば、理解における消化不良といえる。
引用しようとしている文章内容を自分なりに解釈して
自分の言葉で説明できている、つまり引用といえでも
結局は自分の説明の一節でしかないのだから。
それをとり間違えて、引用文自体に自分の責任をしつける
「・・・・にあるように、これが正解!」
では、過去の事例がすべてであり、今あることは否定でしかなく
とても前向きではない。

引用するということは、
過去の事例の成否の理由をもとに、
自分としては、その活動に賛成か、、
もしくは、否定ではなく、引用を元にした代替案の提案が求められる。

引用される側にたてば、
過去の事実をもとにされるだから、
反対というだけの現状停滞よりも、
何らかの進展の礎になりたいものだと思う。

2009-06-24

階層

上下に層をなしたかさなりのこと。
この概念が人間を人間たらしめるものといえる。
確かに、動物には一義の階層、偉いとそうではないの判断はあるが、
生きている同一時間において、
複数かつ条件をもつ階層をもって生きることは人間以外にはいない。

物理階層  建物、ページ、引き出し
論理階層  話の章立て
時間階層  スケジュール、見積もり、見立て
社会階層  立場、役割


を常に意識、無意識にそれをこなしている。
そして、出来る人間と判断される条件の要素はずばり
階層管理のうまさだろう。

今自分はどの階層に存在していて、
相手はどの階層に向っているいるのか
また、どの階層まで戻れば、
内容や事象を復旧できるのか
それを意識して、自らの行動をおこせば、概ね間違いはない。
というよりも、間違いを正しやすいし、間違いとわかる。

そう、逆に言えば、
自分がどの階層に存在しているかを理解できないことが
出来ないという証拠といえる。

2009-06-23

価格

物の価値の貨幣による表示、
市場経済における統一時価基準評価とされる。

とても難しいものである。
重要と供給できまるとされてきた適正価格。
それはあり得ないのではないか?

適正価格だから買うとことではなく、
高いからこそ買う価値があるもの
安いからこそ買う価値があるもの
の2極化でしかないと思える。

高いからこそというものには
それだけのステータスとブランドがあり、
それを安く買うことはそのプライドを傷つける行為として
好まれない。

対して、安いものはその安さ自身に価値があり
1円でも安いものにとびつく。
なんせ、5円安いからって買い物に自動車で出かける話を聞くと
ガソリン代のことを考えていないくらい
その5円安いという価値にとびつくんだろうと思ってしまう。

適正価格を模索していることが多いと思うが
弊社は少なくても品質、オリジナリティを掲げている以上
安い側に飛びつくくらいならば、
会社をたたむ覚悟で価格に挑む意気込みで経営し続ける。

2009-06-22

理想

自分の思いを実現させる、その目的のカタチ。
多くの人間が追い求めるものだが、
それは自分以外の障害であることが多い。

理想の多くが実現できない理由は
他人が求める理想
もしくは、他人が今享受している安泰
を否定することに他ならない。

ならば、みんなで理想をあわせていこうというのが
民主主義と捉えられるが、
そんなこと出来るわけがない。
「みんなのため」
「君の将来を思って」
なんて言葉は、その言葉が当人に理解できていない以上
理想とはかけ離れたものでしかない。

結局、理想は他人の否定、相手からの搾取
それをどれだけ積み重ねた
業の上でしか成り立たない。

2009-06-19

職位

権利ではなく、義務の大きさだと思う。
一般的に、職位があがれば権限が与えられて好きなことができるようになる。
と若いときは思う。
考えてみれば、その好きなことって実際に職位による権限を与えられたら
それを実行するだろうか?
多くの人間は、NOの回答になるだろう。

若いときと価値観が変わったり
管理業務等のやることが増えたり、
と物事の見方、捉え方が変わっているからだ。

では、逆に職位を実行できる権限ではなく、
若い者たちへの奉仕の義務と捉えることはどうだろうか?

自分が若いときにやりたくても出来なかったことをやらしてあげる。
確かに時代が違い、価値観や思惑は違えども、
若者には若者の独特の価値観はいつの時代も存在するはずだ。
その感情に積極的に触れて、今、自分の持っている権限でどこまで
出来るかを奉仕する、それが職位の本当の意味だと思う。

~「権限があっても何をやっていいかわからない」
~「別に、、やりたいことなんてない」
そんな存在が我が前に来ることはない、、、、故に、、

2009-06-18

指向

ある目的を目指して向かうこと。
新しい言葉では、
オブジェクト指向、
指向性アンテナ、
という、外来語に当てたりしているので、
意味が多義化していることようではある。

根本的な意味では、結果、目的に突き進んでいる状態といえる。
この指向の意味は現代社会においては、
かなり難しく、そして定義を一義化できないといえる。
多様化する価値
秒進分歩の社会変動
において、一度定めた目的を時間的推移のなか、
変えずに邁進するのは本当に至難だといえる。

しかし、だからこそ、指向を意識した行動に
正当性、論理性が見出せるし、その結果、自信、確信が得られると思う。

常に自分は何を指向しているのか
を意識することが、ある意味、自分の存在の確認なのかもしれない。

2009-06-17

強制

力によって他人を従わせることだが、
実は、従わせた者の得るものによって、そのイメージが変わる。

そもそも人間は怠惰な動物だ。
自然淘汰の世界ならば、自ら食を得ないものはすぐに息絶えてしまう。
人間以外に社会性をもつ動物がいて、その中では
助け合っているっていう見解もいうだろうが、
実際のその動物の社会性は残酷なことが多い。
少しでも怪我を負ったものやボスの機嫌を損ねたものは
得てして、見捨てられて死を迎える。
だから、その死への拒絶から社会集団性を本能的に従うのである。

しかし、人間は社会制度の高度化により
死を意識することは少なく、選択の自由を得ている。
その自由の反対に、強制を意識していると見受けられるが、
怠惰な活動を強制しないと、その自由すら得られないと捉えるべきではないか?
物理的、心理的に強制を受けても
それにより、従った者が高い技術や行動実績を身につけることが
その者にとって、この先の選択、自由のよりどころになるのではないか?

強制から逃げているものに、与える享楽は、、あってはならない。

2009-06-16

複雑

いろいろな要素がからみ合ってわかりにくいことをさしている。
、、、だから、この言葉からも複雑の解消方法は導ける。
「いろいろな」 から、1つではなく複数の事象が存在し
「要素」から、それぞれ個別の原点単位に捉えることができ
「からむ」から、それぞれに何かしらの接点をもつということだ。

複雑のポイントは
ひとつひとつは単純に近い要素なのに
いくつかの集まりが、
多くの接点をもって結合している様子といえる。

だから、
・そもそも要素は何か定義
・いくつかの要素が存在するのか
・どういうところが接点になっているのか
を把握すれば、複雑の難題から、各個個別の検討事項に分解できる。

複雑なものほど、
人間が恣意的にそうしているものだ。
・機械構造
・組織体系
・人間関係
その複雑を解析すればするほど
複雑さを引き起こした、人の思考、傾向、思惑が
おのずと見えてくる。
複雑=人の思考回路の具象そのものなのだから。

2009-06-15

継続

継続は力なり、
この言葉、僕の人生行動において、確証の出ていることだ。
しかし、多くの人々との継続について、認識が違うのではないか?
って感じることがある。

僕の思う一般人の継続の意味は
・決められた行動
・決められたタイミング
を繰り返すという意味と思えるし、
そのように行動していることが目に映る。

しかし、僕の思う継続の意味は
・目的に向って、毎回違うことを
・目的達成のために出来るタイミング
を行うことである。

同じことを繰り返すのであれば、
それは継続ではなく、プログラムであり、
人の行動ではない。
日々、変わり行く環境の中で
目的達成のためにどう動くかだといえる。

だから、
継続につながる定期活動について思うのだが、
その活動をすることが目的になってはいけない。
その活動をとおして、人間がどうなっていくべきか?
次に何を企てていくかを意識することを
活動を開始する前に検討する必要もまた重要である。

「そんなことを考えていたら、定期活動なんでできない!」
って言う意見には、、、、その意見を持つ時点でその人間に価値はない!

2009-06-12

経済

経世済民の略語。
文字通り、世を經(おさ)め、民を濟(すく)う、という意味で
本来の意味は為政者の行為であった。
しかし、日本においては
・貨幣の流通が国民の生活を潤すと学者や著述者が言い始めた。
・外来語のecomonyに当てる訳語にこの言葉を当てた
ことから、経済は現在の意義になったようだ。

確かにそうだろう。
為政者が民を救う行為は
・防犯(立法、裁判、警邏)
・国防(軍事)
・財政(利益の再分配)
であり、近代国家において、一番、生活を潤すものは財政活動だろう。
そして、だからこそ為政者が一番評価を落とすのも経済活動だろう。

為政者といわず、経営者にも財政の扱いは同じだ。
利益の再分配といえば、給与、賞与の扱いが等しい。
活動必須なものだが儲からない仕事に従事しているからこそ
低い評価に出来ないし、
顧客から高い評価を得ている者にはそれ相応の評価をしないと
モチベーションを維持できない。

この感覚、経済感覚が経営者には必要、、、、
人の上に建つ者にはこの経済感覚、、才能が器だと思う。
能力主義、、本当にその経営者が行っている活動が
能力、役割に納得した<経済>になっているのだろうか??

2009-06-11

謝辞

感謝、謝罪の言葉。
一見、+と-の反対の意味を持っているように見えるが、
根本は
相手に対して、敬いの気持ちを伝えすること
という意味であり、自分の気持ちが+か-かは重要視されるものではない。

欧米から
日本の謝罪会見の意味がわからない。
誰に向って謝罪をしているのか?
謝る必要のないところに謝って意味がない。
という発言を耳にした。

この発言に関して、僕として肯定、否定の両方の見解を示せる。

肯定の見解では
謝罪という謝辞を述べる以上、
対象となる相手を不特定にした会見では
相手を敬っていないと見えてしまう。
そして、その敬いの気持ちを持っていれば
会見よりその救済、復旧行為を優先させるべきだ。

対して、否定の見解は
相手というものを、自分に見えているステークホルダーだけというわけでなく、
自分の見えていない関係各位、社会への影響を考えれば
社会全体が相手であり、もし自分の謝辞が伝わらない可能性があるならば
それを踏まえて、会見という場を開いて、謝罪を述べておきたい。

謝辞を述べる行為としては、どっちの意味でもとれる。
どっちも正論といえば、正論といえる。
では、どっちをとるべきか、、、、
謝辞の根本の意味をもう一度見て欲しい。
自分の気持ちが+か-かは重要視されるものではない
相手にとってどうして欲しいかのかを考え、行動する
それこそが謝辞である。

2009-06-10

更新

新しいものに改めること、
更新行為は記録という観点で「点」で扱われることが常だ。
スポーツの世界記録、
行為達成の最年少記録
が例として挙げられる。

しかし、ビジネスにおいては、「線」で捉えなくてはならない。
一回きりではビジネスとしての可用性を満たさないから
できるだけ、定期的、定量的、効果的なものを
常に意識しなくてはならない。

顧客心理からすれば
更新行為、内容もそうだが、
更新頻度が顧客からみた
既存顧客志向かどうかのポイントにもなる。

これは顧客心理といいながら、
「釣った魚に餌をやらない」
っていう古来の表現があるように、
既存とされる人たちに対しての配慮がないと足元を救われることになると
昔から理解されていることだ。

全くの新規ではなく
既存のものへの新しい価値の提供が更新であり、
それを怠れば、自分自身の存在すらなくなることを意識しなくてはならない。

2009-06-09

体力

継続的に物事を行うことができる、からだ全体の能力。
特に、病気に対する抵抗力や疲労に対する回復力。

って言われるものだ。
日本語において、この言葉の真意は体の力というより
生命力そのものに近い。

確かに体を鍛えれば、
その生命力が高まるといえるが、
生命力の源は、、、使命感ではないだろうか?
・自分しか出来ない仕事、活動
・自分を必要としている人が待っている
・まだ自分には行いたいことがある
そんな思いが人の生命力を高めている。

体を鍛えていなくても、
仕事が忙しいときは、風邪を引く暇がないってこともあるし、
その逆で、仕事が終わるといきなり寝込むことがある。
また、やたら体を鍛えている人がよく風邪で休むのも見てきた。
体を鍛えても、その鍛えることが目的になって
社会活動たる仕事に集中できないのならば、、
経営者たる僕は、無駄な時間だなあって思うしかない。

2009-06-08

民話

子供の童話に代表される口伝の話。
内容が伝言ゲームにより空想上の存在が登場するが、、
実は民話はその地域の価値観、正義感を表し、
その地域の不文律だったりする。

今の民話、童話は
イソップ、国木田独歩のような研究者により厳選、編集されたうえ
政府や出版業者によって、国家の求める理想的な善人育成のツールと化している。

みなは知っているだろうか?
白雪姫の継母女王は白雪姫の指示で、油風呂に投げ込まれることを
ありとキリギリスの最後は、凍死しそうなキリギリスを蔑むありを
かちかち山の狸は捕まったときに、やさしさで逃がしてあげようとした婆を
殺し鍋で食ったが、のちに泥の船で沈むときにウサギと爺に石を投げつけられて
沈んでいったという話であったことを。

子供には残酷だから、話をマイルドに再編集しているというが、
今の子供たちのほうがもっと残忍なことをしている。
それは残忍というものを見聞きするとことで
自分では出来ないものと認識させる、古来の不文律の民話のほうが
犯罪抑止効果が高かったのではないか。

ただならない国策、施策が人を愚かに誘っているといわざる終えない。

2009-06-05

書面

紙に書いた文。文書のこと。
PCの普及、IT化の潮流で、ペーパーレスになりつつあるので
書面というより、画面になりつつあるとされる。
では、紙のもつ役割はすべて画面になっていくのか?

そうはならないというのが、世間の意見だと思う。
契約書等の今まで紙面での管理してきたものは変わらないとか、
メモ等の気軽に書けるものは紙でなくてはとか、
紙を尊重する意見は数多ある。

僕の見解としては、いつかは紙はなくなるだろうって言い切れる。
そして、PC等の画面という概念もいつかは駆逐されるだろう。

人の歴史を思い出して欲しい。
書面は紙で始まったわけではない。
壁画や地上絵のように、周囲の構造物に記載して
それをわざわざ見に出向いていたことにより、
意思の継承、伝達を行っていた。

その後、木簡、パピルスの普及で
現在の紙に至っている。

紙の有用性は今までの伝達手段に対して
・軽くて、折りたためるので運びやすい
・紙に適した筆記具の普及で記入しやすい
・とても廉価で入手できる
というポイントが大きく上げられる。

対して、
ペーパーレスにおける画面の有用性は紙に対して
・紙やインク等がおこしやすい物理劣化を抑止
・電子送信による、即時伝達
・情報のデータによる、物理保存容積の軽減
となっている。

伝達手段は、人の技術進化、生活方法の変化により変わりつつある。
いつかは、紙の書面はなくなると思う。

その兆しは身近にある。
現在、”メール”っていう”日本語表現”は
便箋や葉書ではなく、携帯、PCのeMail であることは
若者だけではなく、ご年配者も暗黙の了解だろう。
このような認識の変化で、書面の意味は変わっていくといえる。

2009-06-04

珠玉

美しいもの、すぐれたもの、尊いもののたとえで使われる。
珠、玉、ともに球体を示しているが、球とは表さない。
古来中国において、丸いもの、真球こそ高貴、神聖なものとされてきた。

球体の特徴は丸いことであるというだけでは十分ではない。
球の特徴は中心から等距離にある点の集合体であることだ。
点で面とは言いがたい表層を作り出している。
その点が無限大にされる存在。
だから、無限大を人民に例えて、
すべての人民から等距離で触ることができない存在だからこそ
珠、玉は高貴かつ権力の象徴とされてきた。

理論的はとても考えられたものだと思うが
たぶん、この手のものは後付け理論だといえる。

理論があるから、権力者が珠玉を手にしたのではなく、
権力者が珠玉を持っていたから、理論が作り出された。

逆に言えば、珠玉という価値観も当時の権力者の好みが
そうでなければ、生まれなかった価値観といえる。

高貴なものが権力者に装飾されているのではなく
権力者に装飾されたからこそ、高貴な扱いをうけるのだ。

言葉も価値も、権力を握ったものにより
定まることを再認識しなくては。

2009-06-03

訪問

訪問の’問’であり、’門’ではない。
つまり、相手の拠点となる場所の入り口’門’をたたくのではなく、
相手に会い、問いを行うことをいう。
重きをおくべきポイントは、問いを行うということだ。

相手に会うときに、どんな問いを用意していくかを
事前に考えないでいくことは、僕のとしては訪問とみなさない。
確かに、ただ会いにくるだけなら、相手も会えばいいので
気持ちは楽だと思う。

でも、それでは会う目的やその後のアクションになんら影響を示さない。
どんな行動も月のアクションへの予備動作と思うべきであり、
せっかく、相手とのインターフェイスが行われるだから、
それに会った準備はあるべきである。

問いかけとは、考えかたを返せば、自分自身を見つめるポイントでもある。
自分の理解、説明力でしか問いは成立しないから、
どんな問いを行いたいかにより、自分自身の力量も測れる。
相手に訪問するということは、相手に会い行動を引き起こす問いを行うという一面と
自分確認を確かめるという裏の一面も意識しなくてはならない。

2009-06-02

立地

建物が建っている位置における行動優位性とでも言おうか。
いわゆる、地の利ということ表現にも該当する。
駅前、
都心、
徒歩nn分、
高台にあるので眺望がいい、
とかが、具体的な意義になるだろう。

ITの発達、
交通網の発達、
物流機構の高度技術革新、
により、生活立地における格差は10年前に比べれば
大きく緩和してきているといえる。
しかし、だからといって立地における優位性という意味が
失われたわけではない。

とりわけ、ビジネスにおいては都心回帰を強まってきている。
立地の根本は人の所在であり、
その人がどこでどうしようとしているかが
仕事における大きな判断基準だといわれる。

例をあげれば、
ヘッジファンドなどの大口口座の金融取引業は
このITによる受発注が主たる業務なので
都市の中心になくてもかまわない。
しかし、大口口座を成約させるためには
都市の中心にオフィスを構えているという安心感が
投資家の信任を得られやすいから、都心を求まる。
また、新興産業で世間的に知名度が低い業種業態の
旗手となる企業の目指す立地は都心にオフィスを構えることだ
っていう経営者の話も聞く。

行動を楽にさせるための立地は現在
精神や社会的地位という形而上の楽を求める立地になってきている。

2009-06-01

将来

これからやってくる時
未来より現在に近い時をいうという意味らしい。

将の意味には、率いる意味の 将る(いる)という意味があり、
来の意味には、未来でわかるように、くるべきものの意味がある。

くるべきものを率いる

と言う意味が将来といえる。

???これって、自発性を求めるではないか!
つまり、将来と言うものは自分で持ってくるものと意味である。
「なんとなく、将来は」という意味ではどうも使うべきではない。

将来とは、自分で定めて、導いてくるものと言える。

人生の目標、、それ自体が実は、将来について考えていることであり、
自分を動機付けて動かす初動って捉えるべきである。