2011-05-13

判決

司法という概念が揺らいでると言える。
司法判断がされるということが
ある意味、物事の最終決着であることが
近代法治国家の有るべき姿であり、その判断に国家構成員は従うことが前提である。

とはいえ、
価値、概念の創設が加速度的な現代において
法律がその統制に間に合っていなく、
判決をすべき裁判官たちも、自らの専門性にのみ特化して
社会事情に疎いことが往々にしてある。
この状況下で、納得のいく判決は難しいと言わざる負えない。
そして、メディアの自由化により、
その判決を容易に批判や社会的圧力で
裁判行為自身を否定する活動も無視できなくなってきている。

近代以前は村長、長老等のコミュニティー内の一切を経験してきた者がその判決を司り
そして、そのコミュニティーの経験からの判決だから、それに従うことも納得のレベルであっただけに、
現代社会の人口爆発、仮想空間、伝播速度の超加速化は
もはや判決を言い渡すだけの統制力を持てないと思うべきである。

判決を使用するな!というより
判決を求めること自体、
価値の時間的変異、
拘束による停滞時間が
結果的に不利益をもたらすことが想定されるだけに、
判決の万能性に期待しない、そうではない選択肢を持つことを意識したい。

そもそも、判決とて裁判官の一価値観にすぎないのだから
他人の意見に従うこと、現代人には納得のいくものではなくなってきているといえる。

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