2011-01-31

乾燥

あまり意識していなかったが
乾燥のせいで病んでいることがわかった。
それも、生活環境を改善したことによるということだ。

生家からマンションに引越して、生活環境を良くした。
古い木造の生家より
気密性の高い先端技術マンション
これにより、生活環境は良くなったと思っていたが、
代償があった。

引越してから、
すぐ鼻血がでたり、喉が渇く。
なぜか解らなかったが、病院で言われたのは

「気密性が高いからこそ、乾燥しやすい。
 まして、木造で通気性の高い住まいからの移住では
 その差が大きいのでは?」

すぐには気付かなかったことだが、数年してやっと気付いた。
認識なくても、体に症状がでているのか。

そう考えると、
自分の生業としている、業務改善行為。
見た目や目的達成により成功に見えても
成功ゆえに起きる弊害が、認識しないうちに忍び寄っていることもあるんだなあって
身をもって感じた次第である。

2011-01-28

統帥

指導、
指揮、
管理、
等の言葉でマネージメントを説く話は
僕にとってはもう飽きた。
この先、10年は’統帥’だと僕は悟り、確信している。

軍事思想かよ?
って思っている輩は自分が使っている横文字の意味を理解しているだろうか?
プロジェクト
WBS
タスク
ミッション
それらの言葉はすべて軍事用語からの、、いわば天下り言語である。
現代社会の多くの組織管理用語は軍事管理から降りてきている。
人間が一番組織立てて動き、結果を出すのは軍事行為であることに
日本人は気づかな過ぎの感がある。

個性を尊重して、組織を大きくする。
という標語を聞くけど、
そんなのできるわけがない。
もし成功したと豪語する企業をよくみてみよう。
それは、統帥の結果である。

トップが決めたことを忠実にしたの人間が行った結果であり、
自分の個性=トップからのミッション遂行が
すり替わってきているからである。
いろいろと反論もあるだろうが、
これがこの先もとめられる、人材管理といえる。

現に、目的をもって組織に入る存在は本当にいるだろうか?
そんな存在ならば、この個人主義の時代
独立したほうが遥かに個人主義を尊重しているのであるから。
組織に入る理由は、トップの指示を忠実に達成し
その統帥状況で陶酔できる人材が
充実感を覚えるはず、考えている。

逆に自分の意見を前面に出してくる人材を
どうにかして使いこなすという労力より
切り捨てて、指示通りの行動に喜びをもつ人材に入れ替えるほうが
かなり建設的だと思う。

トップは自分の意思を組織に浸透させる統帥力をいかに持つか
組織のものたちはその意思にどれだけ応えて、その達成感を得られるのか
それがこの先の組織運営のあり方と思う。

2011-01-27

権能

僕は権能こそ能力主義の要だと思っている。
逆に言えば、権能がはっきり機能していない組織に
能力主義は成立していないと言い切れる。

多くの庶民レベルだと
「自分は評価されていないから、何もできない」
「もっと権能をもらえれば、できるはずだ」
という発想だと思うが、こう思っている庶民には
大したことはない。

権能の不一致で一番問題なのは、
組織そのものを崩壊させることだ。

権能をもらう発想の人間レベルだと出来る抵抗は
サボタージュ、ボイコットレベルといえるが、
本当に不一致と自覚している存在は
賛同者を集めて、離反や対抗勢力になりかねない。

評価する権能を持っていると思っている側が
逆に追い落とされることになることだ。

評価する側でその人間に支えられている自覚を持っているならば
その人間に権限委譲をすべきである。
委譲を受けた人間側に問題があれば、
当人、もしくはその周りが委譲したものに陳情してくるはずである。
それにより、能力主義、委譲側の尊厳が担保されるというもの。

そもそも、能力主義を謳っている組織のトップが
いつもまでも権限を委譲しないでいることが
本当に能力主義なのかって思ってならない。

2011-01-26

時金

時は金なり
time is money.

僕はこの概念、信念、本質と捉えてならない。

訳のわからない管理職が
「時給いくらのバイトじゃないんだから、、全く、、」
という言葉を聞くが、その認識の甘さが管理職としての自覚がないといえる。

自分の報酬から、自分の時間は1時間単位でいくらなのかを
強く意識して行動すべきである。
その時給を考えれば、その行動はそれに見合うものかを
意識すれば価値観、金銭感覚が出てくる。

市場価値を意識したプロ意識とはここに尽きる。
その意識なく、
・全体として
・高い技術力
とか口にする人間は市場から淘汰、排斥される
そういう時代と感じ、行動改革を促したい。

何度も言うが、
自分はいくらなのかは、時給軸で考えて自覚してみよう。

2011-01-25

体験

身をもって経験する。
科学技術の進化、発展により
疑似体験がどんどんリアリティーを持ってきているので
本当の意味での体験が減りつつあるかもしれない。

それでは意味がない
そんなの体験ではない

という批判もあるだろう。
しかし、科学技術の進化で得られるものはそれはそれでいいことだと思う。
より人間を高みに導いていくことと肯定したい。

僕が体験について言及するとしたら
疑似でも構わないが、
体験することに積極的になれということだ。

想像がつく
わざわざ行う必要がない

と高飛車に構えることは、、、、、いや
いや、逆に、、体験をしないその人間に存在意義があるのだろうか?
体験をした、してくる意思、行動にその人間の存在意義がるというべきだろう。

体を持っているのだからこそ、
その体での感覚を体験せずして、存在意義があろうのだろうかと問いかけたい。

2011-01-24

注意

真の意味の頭の良さではないかっと思っている。
学力、博識があっても
必ず生き残ることは証明できない。
それは人間界の基準であり、
必ずしも生存、至福に直接結びつかないからだ。

しかし、注意という行為、考察は
その生存に関わる重要な要素であることは
生物全般にいえる。

天災、天敵、生命維持、物理的論理的範囲内抗争など、
自らの生命に関わることを事前に察知して
それへの対抗手段を行うこと、
逃避、対抗、防衛壁などのアクションを行う。

この注意のしかたがそれぞれの種の進化の方向性であり、
注意力のある生物が反映してきたといえる。

人類は特徴がないゆえに
注意の塊ゆえに、今日の進化があると確信しているが、
現代社会のように
安全平和、武力否定のような社会から
注意力の育成、それによる進化が導けるとは到底思えない。

危険、不安があるから
生物は注意の結果、新しい能力、進化を得られるという事実を
再認識すべきと思う。

2011-01-21

自我

環境問題っていかにも
超人間的、自然的な観点で正しいことを行っているように感じる。
しかし、環境問題って本当に必要だろうか?

僕がよく口にするのだが

環境問題であるの真ん中に一本筋を通すとわがままを通すだけなのである。

エコが繰り返されると、、エコ” エコ”  エゴになる。

エコ、エコって言っているが
それは言っている側の論理であって、
それが本当に環境に合っているのだろうか?と思えてならない。

地球規模という表現だが、
未来の地球のために
今の多くの貧困層を抑圧することが
本当にエコなんだろうか?
つい最近まで、自分たちがその活動を行い
利益を搾取し続けた側が
エコ、エコって騒ぎててて、これから利益を上げようとしている人たちを迫害、抑制することが
本当にエコなのだろうか?

どう考えても、強者のエゴである。

地球規模っていうけど、
未来の地球を語るほど、
人間ってこれから繁栄できるとは僕は思っていない。
今のあるがまま、その結果滅びるのも人間として
自業自得でいいのでは?って思えてならないのだが、、、

2011-01-20

虫歯

親の愛情が少ない子供ほど虫歯にならないそうだ。

可愛くないと思うから、親が甘いものを与えない
親の愛への憎悪から噛締める行為が歯茎を強くする

なんて心情レベルで思ってしまうが、
実際は、科学的根拠があり、

生まれたての子供の口内は無菌状態。
飲食することで、その口内細菌が決まる。
親が咀嚼したものを子供に口移しするときに
親の口内細菌であるミュータンス菌が移り
虫歯の可能性が発生するということ。

親の愛が薄くても
成長してから他人が飲食したものをもらうと感染しないのか?
って思われるが、聞くところによると
口内細菌の生まれてからある程度すると
菌のすみわけができて、新たな菌がそこで繁殖できるエリアがなくなるそうだ。
だから、成長してから虫歯菌であるミュータンス菌が移ることはないとの見解だった。

最近わかったことらしいのだが、
この事実からすると、
子供時代に親と一緒に会食することや
大きくなって一生懸命は歯を磨いて虫歯予防は
親の愛の結果と考えると、必ずしも子供のためになっていない親の愛と思える。

これも悲しいかな。
日本人が米食文化ゆえに
日本人の口内がミュータンス菌の温床になっているからである。
アフリカの原住民の皆さんは虫歯という概念も無かったりするのだから。

虫歯というものを考えると
親の愛
米食
日本人
というところに行き着くことは実に面白い。

2011-01-19

哲学

大学受験において、
マニアックな、政治経済を選択したために
当時のセンター試験では、
政治経済だけなく倫理も学ばなくてはならなかった。
しかし、
高校の履修が政治経済 or 倫理 という
なぜか二者択一という
教育制度の破綻に苛まれてしまい、
独学で倫理を学んだ次第である。

しかし、皮肉なことに、
現時点での文章更新の
源泉はこの倫理の哲学の知識であり、
未だに役に立っていることになるとは
思いもよらなかった。

哲学というと崇高なものと思うが
僕はそう感じなかった。
小学校1年のときに
父から
「1たす1がなぜ2になるか、それを説明してみろ!」
という大きな命題をずっと考えさせられてきたからかもしれない。

物事、その心理、背理を常に意識して考えることは
僕にとっては日常茶飯事であり、
いつもの何かを考えている。

そう考え続けることが
ある意味ソフィア、哲学なのだろう。

2011-01-18

割引

巷で広がっている
XX% OFF
XX% ポイント付与
という割引販売方法。

事業的、会計処理的にすでに既成事実とみなされてきている。
ただし、このマインドが当たり前になっていることが
この先の商取引において問題になると思えてならない。

当たり前ゆえに、、
表示価格どおり販売することがある意味
社会悪になっている。

「定価どおり売るなんて、顧客志向ではない売り方だ!」

なんて平気で庶民は口にするだろう。
しかし、ならば定価って何のためにあるの?
割引率を求める基準値ならば
あえて、高価に設定しておいて
その割引率の高さを売りにすればいいのではないか?
と思うし、その定価の存在すらなくせばいいのでは?

定価販売については、景品表示法で
定価概念については、オープンプライスマーケティングで
定価の概念について検討はされているだが、
それは高次元、いわば一般消費者の視線とはほど遠い。

割引率の高さで勝負する市場は
供給側の体力勝負により寡占化を導き
市場に関わる消費者側を無知にする。
数字に踊らされ続けるからだ。

割引については
その割引根拠を説明することを義務付けることをしないと
粗悪品によるクレームが増えるというより、
購買行為自身がその割引率が購買基準という
市場縮小を誘引させることになってしまう。

割引をするということは
消費者のためという発想を間違っている。

本来定価で販売させてもらうことが
正しい商取引なのだが、
品物に傷がある、仕入先側で過剰にあまり処分したい
という、消費者側に無理して買っていただくために
値を下げて販売させてもらうこと

という認識になるべきだと考える。

2011-01-17

信頼

現代社会、、、
非戦闘状態、個人能力主義、ITの台頭において
信頼という意味は有名無実なものになっているのだが
多くの人間はその事実を認識することも認めることもできないだろう。

信頼は交友、好意とは同義に扱うことはできない。
信頼の前提条件として、
自らの存在意義、理由と
信頼する相手の存在意義、信頼たる根拠が必要である。

自らの存在を認めてもらい
相手の信頼根拠が自らの存在に不可欠な要因があり、
相手に委ねることが信頼である。

だから、信頼関係は補填的、対峙的な関係でなくてはならない。
同じ行為はできない、
相手の行為に自らを委ねる覚悟がいる。

戦時中だとその信頼で自らの作戦遂行をすることになる。
一般人が読むことが少ない、隊長手引き(captain note)にも
信頼=trustの定義に、そう言及されている。
自分の背中、もしくは銃撃の中の援護射撃には
その生命を守ってくれる関係がないとならない。
本当に必死の世界である。

しかし、現代社会において
とりわけの個人能力主義においては
信頼という言葉が逆に相手を不快にさせる。

仕事を丸投げしておいて
「信頼しているから、全部やっておけ!」

自分としては能力を証明するために
必死で行った行為をにべもなく、ITの力等で
すべて再チェック、上書きしてしまう。

頼る側、頼られた側としての思いはどこになるだろうか?

2011-01-14

予測

期の変わりめになると
・今年のトレンド予測
・この夏、はやるものはズバリ
という言葉がマスメディアにならぶ。

どう考えて、
予測という言葉を使った詐欺ではないかって思う。

はっきり言おう、
個々で挙げられた予測は決して流行らないと言い切れる。
なぜなら、そのいくつかが流行ろうとすると
それを特集したメディアがよりフォーカスするのに対して
他のメディアが必ず、その流行りは偽物という記事にして
鎮静化を図るという、よくできた報道の自由があるからだ。

今社会に蔓延している予測は
ほぼ恣意的、商業的な匂いのするものであり、
傾向分析に基づいているものではない。

人間は噂、風説、希望的観測という曖昧な情報で
行動できる動物であり、予測という言葉はとても行動根拠になりやすい。

しかしその分、
その予測が予測の域から確信になるにつれて
あきはじめたり、批判、否定するのもまた人間の特徴である。

だからあえて、みてみたい。
期の変わりめにあえて、
前回の予測は、こういう理由で外しました!
というメディアの特集を。

配信側は、
「読者はそんなことに興味がない!」
って言い張るだろうけど、
読み手側は
他人を批判、否定するところに愉しみを見出すものだから
かなり、読者志向の発想だと思うがね。

2011-01-13

交渉

交渉とはなんだろうか?
話し合いで本当に結論がでるのだろうか?

自分が関わっていない現代人の行っている交渉がすべて
小田原評定に見えてならない。

交渉をする時点で交渉ごとの結論を準備していない交渉は
行う価値が無いのではないか?
つまり、交渉はいわば儀式でしかないはずだと考えている。

話し合って決める。
多くの成功交渉は
交渉前に会議の進行係が事前活動で結論を導いているものである。
その事前活動が
・武力的
・金銭的
・伝統的
等のいわば力の行為であるときが多い。
いや、そのパワーゲームこそ交渉という行為の本質である。

主義主張を交渉の場で論じるという行為は
一見、正しく、清いイメージがあるが、
それは、場を乱し、混沌を導く愚の行為であることに
庶民はいつ理解できるのだろうか?

2011-01-12

温床

言葉としては
温かい床
となんともやさしいニュアンスに感じるが
温床という言葉が使われるのはだいたい、悪、不義の接頭語だといえる。

意味合いからして、
最適な環境下では、どんなものでもぬくぬくと萌芽、成長をしてしまう。
その成長に監視する目が届かなかったのではないか
ということを匂わせている。

こういう発想だからこそ、逆説的に考えることもできて、
育ちやすい環境にいるから、よくない成長をしてしまう。
逆に逆境のほうが、求められるカタチになるのではないか?

現代社会のよりよい暮らし。
それはある意味、怠惰の温床であり、
もっと困難な生活のほうがいいのでは?

それもそうだろう。
失われた10年
ゆとり教育の弊害
は好景気という温床で多くの人々が
考えること、行動すること、決めることを
怠った結果となったと思える。

逆に考えれば、この不況という結果が
新たなカタチを導いてくれると覗えるし
僕も弊社もいい経験をしてきたからこそ、これからの攻勢に転じられると思えてならない。

2011-01-11

懸命

命を懸けるという言葉は
平和な現時点ではあまり使わないし、、、

一生懸命という言葉はもともと封建武家社会の
一所懸命から転換されてきた。

ご恩と奉公の封建で手に入れた土地を
命を懸けて守るという発想。
優先順位は、土地 > 自分の生命 であり、
仮に自分が亡くなっても、
その土地があるから、子孫がそれを守り繁栄させてくれる
その礎に自分はなれるという思想である。

その土地ゆえの子孫感がのちの名籍、血統の意義を導いている。
「命を捨てて、名を惜しめ!」
なんて言葉につながる。

歴史的にこのようは背景、言葉があっても
現代には適用できないのが事実である。
生存権、個人主義の台頭が対峙することになるからである。

「命より大切なものはない」
これが現代、アメリカ的な発想である。
現代日本人は当たり前のように洗脳を受けているが本当にそうだろうか?

これは自由の国つまりはchaoticな無秩序な国ゆえに
自分の命は自分で守れという発想にすぎない。
それも19世紀の南北戦争以降のはやり物にすぎないともいえる。
古代文明からの4000年くらいの間は
ここの命の尊重なんてことより、地域、王座の繁栄こそが重要だったのだから。

僕の個人的な歴史観になるだが、
現在のような個人主義が台頭して個々人の尊厳を説いたことは
人間の歴史において、何度あったのだが、
それが長く続いてはいないではないかって考える。
そして、現代もまたその短い期間なのではないか。
じきにまた個人の尊厳より大切の概念が出てくると確信している。
なぜなら、
古今東西、人間の創作する物語において
自分の命を懸けて、何か守る趣旨の話が
多くの民衆の心を捉える傾向が強く感じるし
それを美談として扱われているところに
人間の性を感じるからだ。

2011-01-07

地道

地道な努力とは振り返って初めてそうだったと思うべきものであって
当人は行っている最中はそう感じてはいないことが多い。

地道なこととは
言葉を変えれば、網羅的に行っていることであり帰納行為といえる。
現代社会は、効率化、短縮化を求めるゆえに演繹法的な決断を迫られる。
すべての想定された対応を可能にするために
すべてのパターンを行うことことが求められ
そのパターン実施はかなり手間と労力を必要とする。

現代人は
労力をできるだけ軽減、皆無にさせることに
価値を感じているし、その労力を軽視する傾向がある。
場合によっては、
そういう地道な努力行為そのものを
違う世界のような論調で述べる輩もいる。

しかし、
現在有名ブランドとなっている
フェラガモ
ルイヴィトン
などはその製法が相当地道で
妥協の無い手間と工数をかけて仕上げている。
だからこそ、
その製品品質に妥協無く安心して使えるのである。
そして、その分がコストになっているといえる。

庶民はないものねだり。
地道な作業を知らない輩こそ
気づかぬうちにその成果物を渇望するものである。
地道な作業を行っている人の思いを
感じてその成果物を使っているとは限らない。
もっとも、地道な作業を行っている人も
実際にはどんな人が使っているかはわからないからこそ
その作業に没頭できるような世の中になっているのだが、、

2011-01-06

学説

ビジネスに注力する僕からすれば
学説は屁理屈と同等であり、評価に値しない。
理論をいくら述べても、
人の生活や裕福感と直接結びつかないからである。

だから、
純粋な学術機関と
企業の研究所と
では雲泥の差を感じてならない。

「純粋な研究に市場介入すべきではない。」
と言い切った学者がいるが、
それに意味があるのか?
その研究開発にかかる費用は市場から調達するしか
現代社会ではありえない。

そもそも純粋な研究と言いながら、
学者の興味のあるものという偏見から起因している自覚に欠けている。

研究における副産物があるにせよ、
学説という机上の空論を声高にいうことは
市場経済の現代においては愚者の戯言と変わらない。

2011-01-05

容量

Capacityとして、納められる量のことであるが、
国際単位基準で考えることができるものは
定量的に数値化できるので、問題はない。

現代において、問題なのは人としての容量のほうである。

人間はじつにやっかいなものである。

同一人物に対して
あるものは
「自分自身の器を知れ!」
あるものは
「勝手に自分の容量を決めるな!」
なんて言われる。

こういう不毛な会話をみると
人間というものが愚かであること
言われている人間の劣勢度が一目でわかる。

上記問題は僕からすれば至極簡単である。
言っている側の愚民の器が小さく、
そしてその自分の決めた容量以上を認められなく
それを転嫁しているだけのこと。

自分の領域に入ってきてほしくない人
自分がやりたくないことを押し付けたい人

それぞれの狭量が導く結果がこれである。

つまりは
「お前は私の考える狭いテリトリに入ってくるな」
「お前は私の考えるつまらない領域で活動しろ」
と何とも器の小さい話なのである。

表向きは人間の上昇志向は称賛しながら、
実際には相手への上昇志向を抑止する。

それが現代人の器、容量といえる。

「そう思っていない」
「そんなことを言えたら、苦労しない」
という反論もまた、、、器が小さい現代人そのものと感じてならない。

2011-01-04

本懐

あまり使わなくなった言葉の一つだろう。

本懐を遂げる

真の願いという言葉で尊きものであるがゆえ、
武家がこの言葉を使う時には
概ね、死に際に使われることが多く、
言葉の真意と反して忌み嫌うところになっている。

言霊志向の強い日本においては禁忌に近い要素の言葉は
なるべく私生活から遠ざけるゆえに
使われなくなる言葉となりつつあるが、
そうでなくても、現代人に本懐という要素
真の願いというものが本当にあるのだろうか?
と思うことがある。

飽食、
物質的豊かさ
等で目指すものやなりたいものがなくなりつつあるなか、
何を目標に何を人生のマイルストーンにしていくのか
まして、本懐という概念すら
疎んじてバカにする輩の多いこの日本において
目的意識、達成感はないのでは?と感じる。

ただし、いやだからこそ
僕自身は周りの人々に目的意識を徹底させて
それに基づく行動を行わせる。
そう使役する。
その使役に従順、反感どっちでも
気持ちを持ってくれてそれで、個々人としての
本懐を見いだせる礎になれるなら
それも僕の本懐ともいえるからだ。

2011-01-03

発想

新年なので、僕から読者に新たな視点のご提案として。

人間の発想は必ずしも同じではない。
もっと言えば、自分と逆だと考えることこそ
相手の発想かもしれない。

例えば、
ある傷害事件が起きた場合、
多くの人は、
殴ったほうが加害者であり、
殴られたほうが被害者と思ってしまうことが多い。

でも、僕は常に思っているのは
逆に考えることだ。
殴ったほうは、なぜ殴らせることに至ったのか?
殴られた側こそ、本当にワルでなかったのか?

多くの人間の発想はevent-driven
事象が発生してからその事実をもとに考え、行動を起す。
それも伝聞先入観である。

しかし、物事の本質は
事象が起きる前に予兆や別の事象とのlinkageでしかない。
その関連性で物事を眺めるとなかなか新たな視点、そして発想を導ける。

テレビのニュースを見たときに
あえて犯人とされる人は逆に被害者であるとして
その人の立場で自分の正当性、苦痛を考えてみると、、、
案外、自分と同じ境遇だったり、近隣の人にそっくりだったり思えて
だからそういう発想から事件を起したのか!
って納得できることもみえてくる。

今まで、自分の考え、発想に疑問を抱いたことがなかったかもしれないが
その自分の発想力そのものすら否定できる思考を考察し始めるのも
今年、変わりたい自分を見出すいい契機になるかもしれない。