2014-06-30

間違

真実と違うこと。
しかし、間違いって本当に間違いだろうか?

例えば、鎌倉幕府の開幕は
1192年
ではなく
1185年
となっている。

もし試験で1192年と書いたら、間違いとされる。
しかし、僕ら世代は1192年が正解とされてきた。
では、過去すべてが間違っていたから、
それらをすべて訂正できるものだろうか?
それが入試試験の問題だったり
それを間違えたことでいじめにあったり
をなかったことにできるか!

正解って正しいのではなく
その時点での権力者の意向でしかない。
1185年だと言いはった人が
今権力をもっているだけで、それに従っていることが正解でしかない。
また、1190年とかに変更されることも充分、
いや、過去の文献を権力者が勝手に解釈して
そもそも鎌倉幕府というものはなかった、機能していなかった
とか言うかもしれない。

それだけ、正解というものがあやふやであり、
間違いこと真実かもしれない。

とりわけ、
育ち方、考え方って正解がないはずだが、
最近はやたら、その点にも間違いとか言い出す傾向にある現代社会。
自分こそ正解で、相手が間違っているって根拠が
自分のそう考えるからでまかり通ることから、
何か混沌めいて来ているなあって思ってしまう。

2014-06-27

吉祥

よい前兆。めでたいきざし。
でも、あまりこんな表現を使わない現代。
読みも実は難しい。

吉祥寺  は きちじょうじ
吉祥天  は きっしょうてん(ラクシュミのこと)

そもそも、吉祥天を祀っている寺があるから吉祥寺。
その吉祥天の旦那が多聞天こと毘沙門天。
ゆえに、、めでたい人を妻に持つから毘沙門天は七福神に、、、

そういう流れも組んでいるのだが、
吉祥の意味は、、、どんどん廃れ、地名になるだけか、、
日本語の今後ってどうなんだろうな。



2014-06-26

選手

競技会・試合などに選ばれて出場する人。
あれ?では 日本人が口にする
代表選手
っておかしくない。頭痛で痛い と同じレベルではないか!

そもそも、選手という概念も日本独特。
それぞれの競技のプレイヤーにすぎないことを
選手と一区切りにまとめた表現、あたかも敬称になっているのは
僕としては言語性、多言語との翻訳を考えたら見直すべきだと思う。

これに対して日本語の伝統というバカにいうと
選手 っていう概念こそ
国際的な競技、試合に使われるものであって
相撲取りとか選手って呼ばないのだから、
伝統もあったものではないという理解をすべきだと思う。

正しい日本語というより、
相手に伝わりやすい言語機能に重きをおくべきだと僕は考えてならない。

2014-06-25

年貢

日本史上の租税の一形態。
年貢の取り立て、というとかなりメイナスイメージ。

しかし、年貢を英語で言うと、、tribute トリビュート。
よく耳にする
トリビュート・アルバムって年貢の歌集?

そもそも、年貢とは捧げ物、貢物であり
その偉大な存在に自分から進んで捧げるという意味。

年貢は取り立てるものではなく
自ら進んで出すものだったのに、
権力を使って、
「お前が進んで捧げるものだぞ!」
という黒歴史を連想させることがよく分かる。

2014-06-24

薀蓄

蓄えた深い学問や知識のことであり、
それは結果ではなく、手段であるべき。

知っていることは武器ではあるが、武器を持つことが目的ではなく、
武器を使って、勝ち取ることが結果である。

昨今は、ネットで知識を得ることが容易になっているのに、
ものを知っていることを未だに自慢して自分の優位を保とうとするが
薀蓄を披露することはただの布石であり、それから得られるものがないのに
薀蓄を披露することを恥と分からないことこそ、
薀蓄がないとしか言いようがない。

2014-06-23

連結

つなぎ合わせること、またはつなぎ合わさっている性質。
個々が連なっていることで
鉄道や会社のつながりによく使うのが今の一般だろう。

思うに、連結という概念が現代社会では希薄になっているといえる。
個人主義、能力主義、結果的に、その連結を否定することになっている。

必ずしも連結していることがいいこととは思わない。
逆に重要なのは、連結しなくなっているからこそ今まで当たり前だったことなどが
なくなっているのに、それが当たり前のように話す感覚、教育を戒めることだと僕は思うね。

2014-06-20

欣快

非常にうれしいこと、キンカイと読む。
でも、もし、あなたが、

「欣快に存じます」

って言われたら、貴方自身は不快になってしまうのかな?
正しい古来からの言葉を使えば使うほど、
コミュニケーションの問題を作ってしまうなんて、
日本って、なんか歴史や愛国精神が軽薄な国って思ってしまう。

2014-06-19

徒然

徒然草 の つれづれ。

意味は多岐に渡る。

・することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた。
・つくづくと物思いにふけること。
・しんみりと寂しいさま
・長々と。そのままずっと

いろいろな意味があるが、、、真意は
意味が無いこと
という意味。

目的意識なく、ただ時間が過ぎているだけ。

その目的がない時の狭間で
筆を走らせたのが、徒然草。いわゆるフリーライティング、随筆ともいえる。

今は効率化、生産性にこだわる時代だけど
チカラを抜いて、目的も持たずに行う行動に案外、いいものが会ったりするかも、

徒然なるままに~
現代社会が思い出すべき、温故知新の一つかもね。

2014-06-18

土台

建築物を立てる際に、
基礎の上に、しっかりと建築物を支えられる構造、材質を入れること。

が、現代社会では
建築工法、建築の専門性、安全基準の徹底が増して
一般人が基礎や土台作りに関われないことになっている。
それゆえ、基礎も土台も人間のコアスキルに言われるようになっている。

コアスキルとされるが
土台とみなされるものの習得に関しては面白いことが見受けられる。
多くのスキルは自発的にそして、習得結果が自分でもある程度感じられるが
土台となるものは、その習得度、習熟度が自覚できないことが多い。
色々な場面で、他人から
「基礎がしっかりしている。」
「土台があるからできる。」
と他人の評価で自覚する事が多い。

それゆえ、現代社会では目に見えないこのような基礎、土台の鍛錬に
需要が認められないから怠る習熟が求められる側と
いろいろとあと付けに近い理論をぶつけて習得を促す側との
知恵比べが見えることができて、金額ではない需給バランスが垣間見れて面白い。

2014-06-17

境界

事物や領域などを分ける境目。
その境界をどうか使うが、世の中のビジネスだと僕は思う。

境界そのものをなくしていくこと
境界を作ること
境界を監視すること

自分の仕事がどうやって境界に接しているかを
考えると、自分たちの付加価値がどういうものかよく分かる。

すこし、自分の関わる境界を考えてみてはどうかな?

2014-06-16

実務

実際の具体的な仕事。
実際のところ、実務って何か?

自分の行っている業務に対して
自分自身は雑務、本務ではないが
会社側の認識としては、それが実務だとみなされていることが多い。

自分はもって違うこと、もっと優秀な仕事ができると思っていても
使う側としては、それが一番、それ以上させることは意味が無いと思っている
事実は否定出来ないし、それが現実といえる。

こういう状態を
スキルアンマッチと言い張ることが多い気がする。
それは、ただの労働者の責任のないワガママに他ならず
もしもっと優秀であれば、自分で環境を変えるべきで
他力本願で人のせいにし続けることはもうやめるべきだろう。

2014-06-13

多感

ちょっとしたことにも感情を動かされること。感じやすいこと。
それって、’神経質’とどう違うのか?

用例として
~多感な時期だから
~彼は神経質だから
となり、状態と性質という使い分けが感じられる。

でも、この手のことって、辞書に書いてないし、
なんとなくの世界。

日本語のなんとなくは中庸で良い所って言われるが、
提出書類をだす立場として、
教育する立場からして
なんとなくの文章で、相手もなんとなく嫌だがまかり通ることは
果たして、社会的有用なのだろうか?

2014-06-12

入魂

 ある事に全精神を傾注すること。
頭の悪い者には理解できないだろうが、
入魂を行うということは
効率性、生産性を失うと同義であり、
現代社会の大量生産に入魂という概念があってはならない。
生産品質の均一を考えれば、当然のことだが、
精神論を口にする愚かな人ほど入魂を口にする。

ワンオフの唯一価値のものだからこそ
入魂の概念があるという事実とそれに伴う
大量生産の区別をしっかり出来ない輩が市場に多くて困る。

精神論、言葉遊びで社会、経済を歪めるな。
それこそ、社会構造という唯一の価値への冒涜と言わざる負えない。

2014-06-11

掃除

ある対象からゴミや汚れを取って
綺麗にする事で清掃とも言われる家事労働のうちの一つ。
でも、ここでは不要な存在を滅殺するほうも含めて考える。

掃除をすることになる前提は
必ずしも汚すことを目的としてるわけではない。
何かを有意義な活動をした結果、
次の行動をするためには、過去の遺物を消去しなくてはならない。
その活動が掃除である。

だから、掃除で除去されるものは
もともと有意義な存在だったが、
今では次の障害になる存在。
ということで、次の行動が明確であればあるほど、
掃除すべきものは、ものではなく、人ではないか、
そんなことを思ってしまうのは、たぶん多くの社会人の心情を表したにすぎないのかも?

2014-06-10

序数

物の順序を表す数。
1,2,3,4~

当たり前のようなになっている連番認識だが、
それって本当に連番管理されていているのか?
ということが現代社会になっている。

例えば、
同時に大量なデータ受信したときの優先度
複数の作業を行うときの処理の順番
能力主義とされる場合の優秀な人材ランキング

本来ならば
一定のルールに対して、その序数的順番が振られるが、
その一定のルールが、人間としてできないことが多い。
出来ない理由は
・目視、可視化できないくらいの高速、マイクロの差異
・複雑な依存関係からどこがどこに影響するかの因果把握
そして
・人間としての好き嫌い、自己判断による社会的地位の脅威
が挙げられる。

順番通りにすべきだが、
人間というものは、
自分の思っている順番こそという思い込みや
その順番にせざる負えない社会制度がある以上
正しい序数管理は無理といえる。

2014-06-09

運営

団体などの機能を発揮させることができるように、組織をまとめて動かしていくこと。
では、
経営
運用
との違いは?

日本語においては、ニュアンスの違い、
文脈上、なんとなくで使わることになると思う。

基本的に、営利、非営利、であっても
組織を機能として動かすことは、
人の運営であり
財の経営であり
仕事の運用であるからだ。

人、金、物、の管理は
人間社会が存在する以上永久な課題だ。
貨幣ない社会という発想もあるが、
金というのは、交渉をスムーズにする手段であり、
組織を回すのはその交渉そのものといえる。

運営、経営、運用は
一言でいえば、他人との交渉を上手く方向づけていること。
その一言で言いきれよう。

2014-06-06

大胆

思い切りよくやってのけること。
しかし、世間ではやり過ぎといわれる。

この世は何をやっても批判される。
繊細に行動するれば、意味が無い。
適切に行なっても、もっと効果的にできる
大胆にやれば、やり過ぎだ。
実に他人の評価は馬鹿らしい。

でもそこを逆手にとって、
自分の管轄下にはその逆を感じ取ってほしく思う。

どんな行動にも意味がある。
そして、その勢いの強弱でどうなっていたかの考察を教えてやることだ、
大胆な行動に批判することは実に愚かだ。
だって、大胆な鼓動も出来ない愚民がやらないことを正当化させるだけの
実に非生産性なことだからだ。

2014-06-05

雛壇

雛祭りに、雛人形や調度品などを並べて飾る壇。
一番上が、お内裏様とお雛様。
それから、下位に行けば行くほど身分が低くなる。

しかし、時代は変わり、雛壇の意味が全く変わっている。
映画館の席
集合写真の台座
そして、
芸人が座る大道具
となっている。

核家族、集合住宅住まい、習慣の非継承から
雛祭で雛壇をだす家庭が激減しているので
子供によっては雛壇という存在すら知らない家もあるそうだ。

だから、雛壇の定義も崩れ
お内裏様ではなく、
一番下の手前が一番重要な席となっている。

映画館においても、プレミアシートがそこだったり
集合写真の中心人物の位置
雛壇芸人で人気のある人の席

は一番手前の席だから。

時代は変わる、これもその一つかもしれない。
ゆくゆくは
雛壇というものを飾る奇妙な行為
お内裏様って誰?
となっていくのかなあ。

2014-06-04

猟奇

奇怪・異常なものに強く興味をひかれ、それを捜し求めること。
現代社会では、殺人事件の接頭語のように使われる。
が、
そもそも、猟奇って定義自体おかしいのではと思う。

殺人と行為自身、それだけで既に猟奇的という言うべきだろう。
それをあえて、猟奇的とつけること、
それを猟奇とするかしないかの明確な判断がないといえるのに、

また、考えてみれば、個性、価値の多様化で
他人の嗜好を認める認めないすら、
勝手に思い込んでいる時代なのだから、
他人がすべて、猟奇と感じるかもしれない。

例えば、
小魚の踊り食いをする人を
「生き物を丸呑みするなんて猟奇的」
と言い出す人間がいて、
その人間はステーキをレアで食べている。

踊り食いをする人からすれば
「血が滴るような肉を食べるほうが猟奇的」
と反論することもある。

第三者からすれば
ただの食事、調理の問題だと流す事もあれば
そんな食べ方すべて猟奇的だと言い切って騒ぐ人もいるし
その騒いでいる人に対して、また、必要以上に騒ぐなんて、狂っている、猟奇だ。
とまで派生する。

つまりは
自分からみて他人はすべて猟奇とみなせてしまうそんな社会なのであると。

2014-06-03

公準

一般には,証明はされないが,証明の前提として要請される基礎的な命題。
、、なんと曖昧な言葉なんだろう。
この言葉を使うのは、、経済学の世界くらいだろう。
それゆえ、、公準という言葉自体、
社会として認めてもいないかもしれない。

そう考えると、
日本語の熟語の中でどれくらいが使われているいるのか、
いや、どれだけ使われずに消えていくかのことをまとめて
’公準’化させてもいいのでは?

2014-06-02

住民

そこに住んでいる人々、、
僕が思うに住民って概念が狂っていると思う。

一般的な学生、社会人の生活の多くは
校舎
職場
であり、住んでいると言われる場所、住所は
衣食住の拠点といわれるが、そこに時間的に長くいたりしない。
ある意味、
純粋に住んでいるのは、通勤通学先と言えないか?

そして、気になるのはその地域への自治だ。
ただ寝ているだけのところに納税、選挙権を持っているが
実際に改善されてほしいのは勤め先の方ではないだろうか?

とりわけ納税は
納税している企業より
住んでいる人のほうが、納税額以上に受益を得ているのではないか?
受益者負担が間違ってきている。

この矛盾にそろそろ気づくべきで
社会制度の根幹がすでに変わっているので
仕組みもそれにあわせるべきと考えることを
これからの政治制度の検討ではないだろうか?

自己権利だけの政権奪取、分党とかはもうどうでもいいので。