2010-09-30

人好

お人好しであること。

社会構造的に好意的思われる人材のようだが
実際には、損をしてしまう存在。

実際問題、お人よしとは
自分の意思がなく、
相手の言われるまま受け入れてしまう気質とみなさせる。

古来日本は
「どっしり構えて」
「男は黙って」
という風に
相手に何を言われても、動じないということへの美学や
出来るだけ、相手を尊重して波風を立てないことの美学があった。

これは多くの人民がその美学に賛同していて時代である
古来日本はそれなり、というかか人類史上、類稀なる集団生活社会だった思う。
有史以来、人間はだいたい戦争のときくらいしか
一致団結しないことは、訴訟、紛争の歴史を見ればわかる。

でも、国際化、日本人気質の変動により
自己主張することが当たり前、当然と思われる中では
お人よしであることは、一方的にやられてしまう結果になる。

古き良き時代の日本に思いをはせて
昔はよかったと思うことは個々人の自由だが
現代社会を生きることになると
どうやら、人に好かれる、お人好しは
好かれるというより、利用されるだけなので、
嫌われてもいいから、
自己主張を体よくしなくてはならないといえる。

人に好かれてから、お人好し。
でも好かれるからと言って、
その人が幸福になれるかは別問題である。

2010-09-29

王佐

王佐の器。

名参謀、名懐刀、女房役なんていわれる
優秀な人材のことだろう。
TOPを支え、組織を大きくする存在として扱われる。
現代社会で、もっとも求められる才能かもしれない。

しかし、王佐の器は皮肉なもので
・年功序列
・能力主義
の現代日本社会では開花、発生しづらいのである。

年功序列であれば、
先輩、上司を支えたとしても
時間とともに、自分が支えられる存在になる可能性があり、
その才能を開花させることができても、
いざ決断者になってしまっては、
その王佐の器は本領発揮できないし、
低い評価を甘んじて受けることになる。

対して、能力主義では
自分の手柄を主張する世界ゆえに
支える存在に自分の手柄を持っていかれる以上、
支えた事実に脚光を浴びるような評価はしない。

王佐の器は、名宰相という扱われていたように
絶対普遍的な存在である王あってのもの。
評価を下してくる普遍的な存在があるからこそ
支えがいがあるというものだ。

企業における名参謀とされる王佐の器は、
創業家、ワンマン社長あってのもの。

僕は一生で何人の王佐の器を見出せるか、
それが使命と思っている。
まず隗から初めていくつもりだ。

2010-09-28

買収

企業が企業を買い吸収する意味合いで捉えよう。
日本において、
買収=MBOはなんとなくイメージが悪いような気がしてならないが、
MBOはある意味救済してくれたという概念が国際的な見解に近い。

このままでは、事業として成り立たず、
従業員の失業になりかねないものを買収して
存続させることにもなる。
また、劣悪な経営をしている経営陣を退陣させるという意味合いあり、
必ずしも悪いこととは思わない。

日本においては
基本、性善説で考える傾向ゆえに
既存の人たちを悪く言うことはなく、
外部を敵とみなしてしまうから、
MBOがよくないとみなされるのだろう。

とはいえ、MBOはいろいろな問題を抱えていることは事実。
例えば、
今まで評価されてきたことが全く逆になり、評価されなくなる。
これはある意味当然であり、その評価ゆえにMBO対象になってしまったからこそ
その評価を辞めてしまうという論理の帰着でもあるのだから。
それゆえ、MBOを成功させて事業が成り立たなくなるということもある。

つまり、
自分は会社に残りたいのに、評価されずに解雇されるか
会社の評価が自分の思うとおりでなく、自ら会社を去る決断をするか
ということで、どちらに転んでも既存社員の社員の流出は防げないことに、、

その他にも多くの問題をMBOは抱えているが、
すべての人の意見が通ることはMBO行為にはない。
なぜなら、買収されるために経営、事業運営しているわけでなく、
仕方なく、買収という行為にさらされているのだからだ。

2010-09-27

公開

公に情報を示すこと。
日本人の多くは
自社のノウハウ、ビジネスロジックをコツとして
社内秘なところがあるのに、
それを一般的に後悔することに懸念を感じていることが多い。

できるだけ、曖昧にそれを示すことにして
他人の真似を抑止しようとしている。
なぜなら、真似されて自分たちが築き上げた商圏、既得権益を
侵害されたくないからである。

この思いは
経営者としてとても切に感じるとともに
その域を超えないと、ビジネスの広がりがなくなってしまう。
その商圏、既得権益は案外、広がらないものである。
既に出来上がったものに多くの人々は
面白さと有償価値をあまり感じないからである。

FREEに記述があったのだが、
自分たちの行っている行為を細かくそしてどのようにしているかを
すべて公開してしまう。
その内容が簡単ならば、同業者の登場を容認してしまうが、
その内容がそれなりの価値であれば、
公開した情報をもとに、
自分たちが行う時間、リスクよりお金を払ってでもやってもらおう。
自分たちの時間をお金で清算しようという話になる。

公開することで
時間的規模がわかり、
時は金なり
の論理に繋がる。

真似されてしまうのは
その時の価値がより安価になること
それに伴い行為の品質劣化をいとまない社会的価値
という市場分析、自社技術の低さに他ならないのである。

Only One
No.1
で企業があるべき根拠もここである。
ある特定の行為は
公開情報により、難しく、時間がかかるからこそ
当企業にお願いするほかないと思わせることが
企業発展の要素である。

2010-09-24

二兎

二兎追うものは一兎も得ず。

この言葉はどういう意味の諺だろうか?
ひとつのことに集中してわき目も振らずに行えっと捉えるのが
一般的かもしれない。

でもそれではまずいのが現代社会ではないか?
1つのことに集中し続けることは、
はっきり言えば、いけないことと言い切れる。
社会情勢、
プロダクトライフサイクルの短期化、
により、今行うべきことがすぐに価値を喪失しかねないのである。

集中することは重要としても
短い時間内での集中にして成果につなげ
成果に至らない場合は
それ以外は周りの情勢を把握して
場合によっては今集中していたことをきっぱり捨てる覚悟がいる。

そして、もう一方、もしくは未だ見ていないものへ
気持ちをスライドさせる柔軟な方向展開が求められる。

二兎追うものは一兎も得ず
はすでになく、
百兎を視野にいれ、一兎を即時確実に
そして、それ以外は捨てさる。
これが現代の諺にあたるだろう。

2010-09-22

入門

本当に求道精神での入門の意味より
物事の基礎理解をする入門書が
現代社会の入門にあたると思うゆえに感じる。

過ちの伝播の根源といえる。

多くの入門書は
素人だましのような表現で物事を伝えようとしているきらいがある。
そのため、真にその事実を理解するときに
その入門書の記述内容が先入観ゆえの間違いであり
その訂正理解と言う二度手間を踏むことになる。

これは社会的知的レベル、市場意識の弊害の一例だろう。

筆者サイドとしては
その内容をできるだけ理解、、いや興味を持ってもらうために
言葉を変えて伝えている感、嫌味に言い方をすれば
庶民にわかるようなレベルに降りてきて書いているのである。
ある意味、不本意に書いているかもしれない。

対して、読者サイドは
この書を読むだけで、自分の知識は十分理解できたはず
その内容であるべきという思いでその入門書を手にしているのである。

書き手と読み手の思いが違うからこそ、
理解の乖離が発生するのである。

多くの人々に売りたい内容であるべきという市場論理
ちょっと知れば、自分ができると勘違いしてしまう日本の知的レベル
これが日本の入門の実態だろう。

検索する環境が容易になったこの時代からこそ
正しい理解や深い自己の考察が求められているという自覚をもって
新しい知識、概念に触れる思いをもつべきだと思う。

2010-09-21

寛大

「これくらいいいじゃないか!」
と寛大な処置を求めてくる輩が多い。

寛大とは、つまりは違法幇助に他ならない。
つまり、悪いことを見逃しているのである。

細かいことまで、いちいちルールの話をするな!っと開き直る世相。
これ自体が無法化真っ只中である。
法やルールは守られ、守らせてこそ、法治であり、
規範を知っているだけではなんの意味もない。
ただ存在する規範の社会は無法地帯以外何者でもない。

学校運営において、
紙飛行機が飛ぶと校内暴力が始まるとされる。
たった紙飛行機が飛ぶだけでそう話を飛躍させるなと
思いやがる輩が一番危ないとされる。
飛躍させるなと騒ぐ人間ほど
これがいいなら、これもありだろうと
自分の行動規範を飛躍させてくる自覚がないからだ。

現代社会において寛大なことはあってはならない。
窮屈な発想だと思うかもしれないが、
今までが自由無法すぎている。

ダムという巨大で堅固な建造物の決壊は
いきなりではない。
ほんの数ミリのヒビ
ほんの針先程度の穴
に力が加わり、そこを起点に決壊するのである。
些細なことを寛大にするということは
破綻の因子を多く生み出すということである。

2010-09-17

面倒

相手の好意に対して
「面倒くさい」
と思うことは、人道的という概念を無視して
ビジネスの観点から致命的だ。

ビジネスをするということは
基本的に敵作りなことに通じる。
利害、
コンペティション、
瑕疵、
といろいろな認識要素で相手と対峙することになる。
自分としては正当と思っていても
相手の思い、思い込みでそれは不当なものとなってしまう。
それぞれ各位が善であるのが、自由主義の社会なのだから。

だからこそ、善悪で人は区別できない。
そうなると自分の正しさやよりどころを得ようとしたら
それは好意に行き着く。

どんな些細な好意、、、いや些細な好意で有ればあるほど
その好意に感謝の念を持つべきだろう。
人間は認めてもらうことに喜びを感じる社会動物ゆえに
些細なことにも認めてもらうことは、
「まず隗からはじめよ」
のようにそれがこの先、大きくなるのである。

向けられた好意に対して
まして、裏のない素の気持ちに対して
「面倒くさい」
という表現をするのは
それはビジネスにおける失敗の根本要因と思うべきと
心得るべきである。

2010-09-16

型破

歌舞伎役者の言葉に感銘したことがある。

 基本の型をしっかり理解しなさい。
 その理解があっての自己表現の追及を、’型破り’
 理解なく、自分勝手の表現を、’形(型)無し’

という内容である。実に奥が深い。
それゆえ、この言葉があってからの僕の考え方の基軸でもある。

僕は歌舞伎の型については無知だが
この思想はすべてに役立つ。
とりわけ、人間の理解についてもだ。

人間は物事を理解するときに、言語を介して理解する動物である。
それゆえに、言語の多義性により、正しく定義されている内容で
理解しているかはいささか疑問が起きたりする。
そして、それが伝言ゲームのようにいろいろな多義性で伝播する。
確かに、言語は変化する、意味定義が変わるのはいいのだが、
その一方で、他人との共通認識の前提である
コミュニケーションが成り立たなくなることにもある。
言語は進化してもいいのだが、共通認識の意味も一緒に変革させなくてはならない。

だから僕は、歌舞伎役者の言葉を受けてから
表現について、
思い込みの勝手な新語はただの’形無し’にすぎず
本来の意味を知った上でそれを派生させることを宣言して使う’型破り’
を意識して他人と接するようにしている。
まー、これは僕の内なるルールであるにすぎないのだが、、
この思いだと相手にインパクトを与え、
伝わりやすいのが確かなのでね。

2010-09-15

時場

「時と場所を理解して行動しろ。」
という言葉に対して果たしてそうだろうか?と思うことがある。

時と場合についての感覚は人それぞれだと思うし、
言った人間の感覚と
言われた人間の感覚に
相違があるから、こんな発言に繋がっているわけである。

まして、日本人、現代人の既存概念、既成価値について
否定、改善が求められ、認められるこのchaosな時代に
時と場所の感覚を強制することは必要だろうか?

時と場所について
理由なく言及している時点でその人間は
ただ他人の作った既成概念に操られているにすぎないのである。
もし、時と場所について僕自身が他人に言うのであれば
自分の価値観を述べて、それを強制執行させる意思の表れで
他人の意思については認めない状態でしかないと感じる。

それだけ、時と場所についての言及は
意味があると感じている。

2010-09-14

二番

会社の経営者として、
二番煎じというか、
2番手の製品に興味を感じる。

新規開発の新製品はそれはそれで魅力で
消費者としての興味津々なのだが、
その新規開発を受けた2番手について、
・同一社からの2番手の付加価値
・他社が追随して発売する新製品
それぞれに興味がわく。

このご時世、だいたい二番目の付加価値は価格低下を求められる。
需要と供給の見せざる手の調整でそのなることは必然なのだが、
僕は価格より、考え込まれた付加価値に興味がある。
価格低下で得られるものは、大量生産大量消費の構図であり、
確かにものによっては品質も上がっているかもしれないが、
商品への思い入れは減っている感が否めない。

だからこそ、
新規製品の問題点、顧客ニーズを取り込んだ
2番手製品の宣伝広告を見ると
まだまだエンジニア魂はあるんだなあって感じる。
1番だからできることもあれば
2番だからこそ、できる可能になる、
やらなくてはならない使命感が欲しい。

廉価版になり、かえって使い勝手が悪くなる製品には
ものすごく嫌悪を感じるのもこの思いゆえである。

2010-09-13

良心

良心の呵責でいう、良心とはなんだろう?
清い心とは?

自分は正しいと思っていることが相手から批判されたとき
自分が悪いのか?
相手が間違っているのか?
もし自分が間違っていたのなら、
今まで自分が思ってきた良心とは?
逆に相手が間違っているのならば、
相手の良心=悪意=悪人なのだろうか?

哲学的に考えると深みにはまる内容だろう。

基本、正義と同じで良心は個々人の基準。
つまり、自分の思いが良心である。
集団的、組織的な高度成長時期の日本ならば
周りの活動に合わせて、フレキシブルに良心を変えられた。
逆に言えば、個々人の良心というものがなかったのかもしれない。
個人主義が台頭したからこそ、
個人の良心が目覚め、それに対して自分の良心以外を
悪意とみなす気持ちも生まれたのだろう。

光あるところ闇あり

良心といういい面を出すということは
その反対なイメージも浮き彫りにさせるということなのだろう。

2010-09-10

畏敬

秩序を考えるに置いて
畏敬は十分条件ではなく必須条件と僕は考える。
確かに畏れがあると気持ちが窮屈になり、違和感を持つとの声があがる。
それがどうした?

親しき仲にも礼儀あり
鋼は鋳造なくして生まれない

一定の緊張感をもって人と接することで
人間の身を引き締めて、
それにより活動、成果のリセット、仕切りなおしが起きるといえる。
だらだらとした関係、
口先だけの敬語での対峙関係、
これでは敬いは生まれない。

相手を畏れ敬うことで、
自分のなすべきことの使命感、責任感
そんな相手からのギャップのような謝辞による昂揚
逆の叱責の恐ろしさ。

これらの起伏、緩急が人間に深みを与える。
ただ生きている、思いのままに生きるそんな存在は
社会的にも淘汰対象になりつつあるのが実状だ。

2010-09-09

迷信

根拠のない噂とされる伝承、慣行。
しかし、本当にそうだろうか?とつくづく思う。
昔の人といえども人間。
思慮分別はあり、それなりの判断基準を持っていたはず。
何も言われるだけの事実を盲目的に信じていたとは思えない。
迷信には何かそれを信じさせる事象があったのではないか?
と思う。

そう考えると
あながち、迷信は温故知新。
調べ調査することで、何か新しい発見、ビジネスチャンスになるのではないか?
と思いをはせてしまう。

迷信だけではなく
身の回りで起きている当たり前のことも
自らの意思を持って紐解くことが
人生、視野を広げていくきっかけではないだろうか?

2010-09-08

共感

相手と同じ感覚、感情を持てるかどうかであるが、
最近の心理学では、その欠如が犯罪誘発性に繋がるような見解がある。
確かにそうかもしれないし、その真っ只中に自分がいる自覚はある。

相手と共感できないから、社会に適合できない。
それにより社会不適合な行為つまり違法行為を行うと言う論理であり
つじつまは合っている。
しかし、社会が必ず正しいのだろうか?
心理学ではなく社会学の見地からすればそれもありであり、
今の価値観が常に正しいのではなく、いや今の価値観が総否定されることもある。
社会とはそういうものである。

それ以上に他人と共感できることはあるのだろうか?
ある人は、自分が不幸だっていうが、
もう一人は、自分のほうが不幸だという。
人間は自分の尺度で物事を見ている以上、
共感するというはなく、
相手の言っていることを鵜呑みに捉えることを共感と思うのではないか?

共感能力の欠如は時として犯罪者を生むというならば
人間はすべて犯罪者予備軍かもしれない。

僕はそう考えるとともに
共感能力の欠如があるからこそ
新しい価値観の創設が行われて、社会が変わり続けていくのではとも思う。

2010-09-07

曜日

日本では日曜~土曜日
それは、欧米のSunday ~ Saturdayに対応しているが
中国では
星期一~星期日で月曜日始まりで数え方も異なるが
一応7日間で一週間にしている。

太陽暦、太陰暦の違いから始まる暦と
それを区切る年月週曜日。

国際標準という考え方でグリニッジ天文時間を採用し、
国際経済の観点から7日間の週間が好まれそれを採用している。

しかし、それは日本が欧米に従ってきただけであり、
中国の些細な違いから始まり、
全世界的に必ずしもそうではない。

そう、人間それぞれ時の感じ方が違うといえる。
曜日のように7日間という周期性が人にリズムを与えているかもしれないが
人によってはそれは納期に追われる日常に感じたりする。
人と曜日ついて確認する際に、
ちょっとその感覚に違いを伺ってみるとその人の価値観が再発見できるかもしれない。

2010-09-06

失敗

過ちの繰り返し
「自分は違う」の思い込み

これに尽きる。

失敗であるという認識は
成功例、成功イメージを過去の事例から憶測して
あるべき姿になっていない状態への他人の評価である。

自分で失敗と宣言できるときは
ある意味、失敗ではなく、発見に近い。
なぜなら、失敗と言いきれる成功イメージを見出したからである。

失敗から人は学ぶと言うが
それは嘘だと思う。
失敗を自覚できる人間には失敗と言う概念はなく
失敗を自覚していないから評価が失敗になるわけである。

失敗を恐れるなという言葉より
失敗を自覚して、それを是正する気持ちを持ち続けろ。
という言いたい。

どうも最近の庶民の発想は責任感も達成感が感じられない。
失敗は悪いことであり、
それを二度としない、
それを是正する努力と智恵を絞りだすべきだ。

2010-09-03

書道

アジア大陸系の独特のアートだといえる。
文章内容ではなく
黒色一辺倒ゆえの色彩表現もなく
ただ、文字そのもので毛筆で自己表現することは
文字が象形文字派生ゆえの概念といいえるだろう。

僕の場合、書道はある意味違った一面を見出す機会だった。
僕は左利きである。
そのため、日常生活では左手で行動するので
文字を書くのも左手である。

左利きの人しかわからないと思うが、
文字を書くとき、
右手の人は横画は筆を引くのだが、
左手の人は横画を押して書いているのである。

日常生活を左で行っている僕も書道を行うときは右手で書く。
そうなると、同じ文字でも書き方が全く違うことになり、
筆跡が異なる文字が現れる。

書道を通して思ったのは、
いつもの文字を読み書きのコミュニケーションツールから
アートに感じされる契機だったりして、
当たり前のものが全く違うものに感じられた。

物事を多角的に捉えることが幼いときに自覚させてくれた活動だった。
実用と芸術
押すと引く
案外身近なことの中にいろいろな発見はあるものだなあっと。

2010-09-02

覇道

大義名分に裏づけされた順当なやり方を王道というのに対して
自らの意思で突き進み他を圧巻させることを覇道とされる。

この発想は、万国共通ではなく、
司馬遷の史記に由来した、
大陸系の思想である。

王道をよしとして、覇道をよしとしない論理だが
市場経済、競争社会において、覇道こそ成功の筋道である。

大義名分という歴史的な発想は
過去=いいものという認識だが、
成長経済、向上心を求める生活を旨としたら
過去=悪いものとすべきであり、
王道は悪しき踏襲でしかない。

国際的に言えば
他の事例に倣わない行為こそ
価値のある行動であり、そのために
大義名分の否定も辞さないことは当たり前になりつつある。

日本においても電通鬼十則にあるように
成功するには他を押しのけるくらい行為
覇道を貫くことが必要であり、
それが成長を示しているのも実績として伺える。

大義名分という御旗を信じず、
己の覇道を貫く気持ちをもってあたる覚悟が
これから生きる人間には必要だと思う。

2010-09-01

手紙

手紙とは何だろう?
この問いかけに多くの人は??って感じるだろう。

では、
・漢字発祥地である中国では、手紙とはトイレットペーパーなのに
 なぜ日本では手紙?

・手紙は、葉書、封書、おたより、どれにあたるの?その違いは?

・英語でletter mail とあるけど、日本語の手紙はどっちにあたる?

と多くの人が当たり前と思っていても
実際には答えられないことの代表例である。

手紙について言及すれば、説になってしまうので
あまり言及しないでおこう。

基本、日本語は定義をしない言語なんで、
人によって意味が違ってもそれがすべて正解な多義語は多い言語ともいえる。
あれも正解、
これも正解、
とすることで、他人を批判しないようにしてきたのかもしれない。
その多義の容認が論理性の弱い言語たる要因のひとつになっているといえる。

そもそも日本人の手紙の多くは
世辞から始まり、世辞で終わることを旨としていて
本来重視すべき、内容のことについては言及しないことが多い。
そんな言語体質だから、
伝えることがうまく伝わらないのだろうなってつくづく感じることが多い。