2013-12-27

辺境

中央から遠く離れた地帯、国境。

ゲームのRPGは辺境から中央のボスを倒しに向かう。
中央に近づくほど、敵が強くなる。
セオリーに感じるが、現実社会では逆だろう。

辺境ほど、屈強な存在がいて、
平和な中央に、のほほんとした輩ばかりだろう。

逆に中央に屈強な存在がいる組織、体制って
ろくでもない組織だと思う。

あっろくでもないから
テロリストみたいなRPGの主人公に負けるのか!

2013-12-26

先延

するべき行動を遅らせることで事態が悪くなると予想される場合ですら、
合理的理由無く意図して遅らせる態度
英語圏では
怠惰と同じ意味になるそうだ。

先延ばしを怠惰とみなすことは
日本人、アジア圏の人にはなかなか理解できないだろう。
言葉でわかったとしても、
それにより、行動を起こすことはなかなかできない。
アジア圏では輪廻転生、因果応報の観念から
先延ばしを、未来への期待、
今できないことを未来ではできるかもしれないという思いが強い。

論理的に説明がつかないことをどんどん
先延ばしにしてきたことにより、いい結果、悪い結果を導いたことが多くあり、
すぐに決めたこととあまり変わりないことも多いともいえる。

「後悔先に立たず」
という言葉の裏の意味として
後悔するのなら、ずっとやらずにいようという考え方もあるのだから。

問題の先延ばし
それ自体が問題なのか、それとも最善策への布石は
結果でしかわからないとしか言いようがない。

2013-12-25

資料

研究・調査の基礎となる材料。

学生時代だと教科書に対する副教材も資料。
社会人になると、会議中に使われるドキュメントも資料。

何から何まで資料と言われる日本語。
英語だと、TPOに合わせて
document
source
material
と目的に応じて使い分けることになる。

僕はここもまた日本人が会議に弱い証拠と感じている。
人との会議で使われる書類の目的を理解して持参するかどうか
その意気込み、理解レベルですでに会議のハンドリングができていないといえることだから。

2013-12-24

簿価

資産または負債について
適正な会計処理の結果として帳簿に記入されている数値の純額
市場価格とは異なる、理論上の価値といえる。

書面上、税理上はこの簿価の概念は重要だが、
市場経済、そして価値の相対化は現代社会の必須概念でもある。
簿価と時価の乖離について、
いつまで容認するだろうと思う。

価値があるときとは、一瞬でしかない。
その瞬間に簿価を決められたもの
旬を見失ったときに簿価が決まったもの
これから旬が来る前提で簿価が決められたもの
これらの不平等は簿価を続けている以上付きまとい、
それが物の判断を鈍らせるこの事実を容認することが果たして
自由市場といえるのかまで言及されるということをだ。

2013-12-20

生涯

生きている期間。
涯の字は、水際など境目という意味である。
生きている期間という意味の生涯
でも意味としては、
生きていない間との間を際立たせる表現になっていて、
生きていない期間、、つまり死と隣あわせの表現に
漢字を使う日本人の死生観を強く感じる。

2013-12-19

時流

日進月歩の日常、
最近、時流に乗るから待つように考えるようにした。

日進月歩の流れに常に乗るということは
ある意味、流されているだけと変わらない。
流されているだけならいいが、飲まれている状態だったら、
それは乗っているということではない。

対して、いろいろとあるし、
その波に乗らないなんて言われても
あえて、その波に乗らないでいることがその先につながることも
強く意識してきた。

乗らないからこそ、
今でできること
時期、様子により自体がこちらが有利に動き出すこと、
そして、、失わないことが実に多いともいえる。

時流は本当に、流れ、、液体的流動、、つまりは水物といえる。
そんなつかみようもないものを必死につかもうとすることが
かなり無駄なことっていえるようになったのは
年をとった証拠かもしれないが。

2013-12-18

心酔

ある人を心から慕い、尊敬することであるが、
この表現に大きな盲点があるということ。

心酔するのであって、
される側が必ずしもされている側に好意的とは限らない、、いや
結構、嫌っていることが多い。

それが大きな問題と僕は思う。
心酔している人がその心酔の気持ちで他の人に接すると
結構、いい迷惑であり、そして、ではその心酔されている人がこの事実に対して
責任を取るわけではないことがある。

勝手に心酔して、それを他人に強要する姿勢。
その強要に心酔されている側は結構無関心で責任なんか感じない。

本当に他人からするといい迷惑だ。
盲目的な感情、それが大きな停滞を導くのだから。

2013-12-17

示唆

「できるのになぜやっていない」
「やったなら、お前の責任だ」

僕は現代社会のこの
犯行示唆への無責任、無罪に対して、
社会破綻を感じている。

できる奴がやらないことへの責め
それでやったことによる責め

をなぜ、無責任にいえるのだろうか?

責めを発言しただけで
その時点で示唆、共謀の責めを負うべきではないだろうか?

この事実を放任している以上、
この社会に前向きなことが自発的に発生することは無理だといえる。

言いたいことを自由に言っていい’だけ’で責任をとらない社会に
建設的な発展があるだろうか?

2013-12-16

現金

現にその場にある通貨のこと。
僕らの思う現金の認識はつい最近なものである。
会話の中で使われる
「現金な奴」
目先の利益で態度が変わる輩をそう表現するが、
その現金の意味のほうが、今日使われている通貨への現金より古いのである。

現代人にとってみれば
現金という概念は当たり前であるが
必ずしもの通貨である現金が当たり前とは言えない。
過去をみれば、通貨そのもの、商取引というものすらなかった時代が
そう大昔とは言えない。

そして、現在、通貨紙幣でなくても
電子マネー、バンキング、クレジット、ポイントと
現金をみずに取引が成り立っている。

この先、数年で現金の認識が変わっても不思議ではないかもしれない。

2013-12-13

偉人

高い志をもって社会のためという言葉を
口にして、行動する人が偉人扱いされるが、
その志を持っていた人は社会のためにならず、
利己的な人が結果的にそう賞賛されることのほうが多い。

志を持っている人は
案外、自分の思い込みであり
他人のためと思っていても
他人はそのことに対して、どうでもよく、、強いては逆に困ることだったりする。
それを押しつけがましく行うことは社会のためと言えるだろうか?

対して、今あがめられている偉人の多くは
人間として本能むき出しに生きている人ばかりで
同時期に生きていた人は結構迷惑をうけた人だということは
賢い人間なら読み取れる。
しかし、だからこそ、後世の人からすれば
その人の時代に従わない行動が今の社会の礎になっているといえるから
偉人扱いになっているわけである。

子供のころから
偉人の本を読ませることが
偉人を生み出さないことになる事実になぜ社会は未だ気づかないのは
どういうことだろうね。

2013-12-12

閉鎖

出入りを閉ざすこと。
閉鎖的というと、マイナスなイメージを感じるが
現代社会は閉鎖を求めている。

閉鎖とは外と内を分けるという意味がある。

例えば、
組織
サークル
会員
というものは、そのメンバーか否かで閉鎖的になっていることが多い。
・「うちの組織に馴染まない」
・「そういうサークルなんだから、」
・「会員さま限定」
という発言は、閉鎖的である現れである。

市場経済においても
顧客の囲い込みという表現は
閉鎖そのものである。

自分たちが思うマイナスイメージ。
考えてみるとそれこそ、今の社会を動かしている。
現実って悪徳こそ実益と感じてしまう。

2013-12-11

戦禍

戦争による被害。
しかし、戦禍は本当に被害だろうか?

戦争でダメージを受けたものを戦禍というが
その戦争に結果的に参加したのが当人であれば
それは自業自得ではないだろうか?

自分の責任を
権力者のせいにする発想が
戦禍という言葉に代表されている。

必ずしも被害者ではない者を
被害者とみなす考え方は人道というより、
愚行だと僕は悟る。

戦争を起こした、、小さな所で言えばイザコザを起こすのは
当人たちの問題であり、そこでそのイザコザをせしきれない者も罪あると僕は思う。
要は、自らを自らの武力で守れない発想こそが
現代人の生存競争という戦争結果の戦禍だといえよう。

2013-12-10

進言

目上の者に対して意見を申し述べること。

現代社会では尊ぶ行為とされる。
それをどんどんすることが組織が活気づくといわれる。

が、僕はどんどんするということは、愚行であり
する側
される側
それを推奨している組織
はおちぶれると断言までできる。

考えてほしい。
進言をどんどんしているとしたら
そのする側、つまり部下からすれば、
上司の存在はなんだろう。
それを採用してならば、手柄を横取りするだけの存在
それを拒否するならば、自分にとって理解のない邪魔な存在
と上司としての存在意義がなくなる。

上司としてもその認識なら
部下がついてくるわけがないという自覚もできていないだろう。

部下はそんな組織に在籍し続けるくらいなら
ステップアップのために離れたくなるだろう。

離れるということは
組織性を失うということであり、
進言をする意味がなくなるというになる。


進言をどんどんすることが組織が活気づくと口走ったバカ
それを推奨するバカ
が現代社会を悪くしているといえる。

昔は命がけで進言したからこそ
重い責任とその決断が尊ばれたわけであり、
今の進言の言う発言、、実に愚かで軽く感じてならない。

2013-12-09

予感

何か事が起こりそうだと前もって感じることであり、
現代社会では
・非論理的
・非化学的
とされている。。。が、

実際問題、
特定の権力者の予感発言で決まることが実に多い。
というより、先が見えない現代において、
いくら論理的、科学的であっても
正しい結果を導くとは限らない。
もっと言えば、予感、直感で決めたものほど、
結果がでたりすることが多い。

企画なんてものはそういうことが多い。
ビジネススキルで
論理的科学的なことを求めているが
ビジネスの根幹である儲かることは
予感、直感による決断で
今のビジネススキルと対極にある事実に
この世の愚かさを感じてしまう。

2013-12-06

質問

どこでも見られる。

「わからないときは聞いてください」

と言っているのに実際に質問すると

「そんなことも知らないのですか!」

って現代社会の’お約束’に感じてならない。

質問される側の許容範囲内に
質問する側のレベル、発想がいないと質問の回答が出てこない。
これが現代社会の知的格差と僕は定義している。

質問をするために自分を高める輩もいれば
質問することを辞めて、抵抗勢力として対峙する輩も多い。

貧富の差の大きさに格差という概念は一義的になっているが、
実際問題、知るもの、知らざるもの、という知的格差が
些細な質問から読み取れ、
それで精神的なストレスや派閥、大きな対立につながっている事実を
直視できないのかなあ、この社会は。


2013-12-05

判定

判断基準にしたがい、
ある事象がどのようなフェイズにあるか、
どのような作業を行わなければならないか、どのような定義づけをおこなうかなどを、
フローチャートや試験を含むあらかじめ定めた基準に基づいて行うこと

と言われるが
そこまできちっと定義して判定しているだろうか?
判定基準を明確化
厳格な社会地位のある人
で判定するとしても、
基準には例外が
地位のある人ほど人間性、性格上、問題視される人間である
ので、判定が万人に向けて納得性があるか甚だ怪しいといえる。

公正が求められるスポーツの判定も
審判、判定員の裁量に委ねられているので
電子機器による科学的立証がなされても
その判定が覆ることはないことが実に多い。
つまり、判定とは権力者の権力を示す格好の場であるような気がしている。

だから言える。
判定要素の強いスポーツって
そのスポーツ自身結構、発言力と社会的権力を握っているのが事実ではないかと。

2013-12-04

感情

相手のちょっとした行いで自分が先に進めるときに
あなたはどう表現するか?
僕からすれば、そこがうまく出来る奴が部下や他人から協力を得られると感じる。

僕の場合、
それが相手にとっては些細な事でも
僕にとって、気付きであれば
相手に対して、
「君のおかげで、先が見えてきたよ、本当に感謝している」
と平気いえる。

対して、最近良く見るのは自分本位な発言だ。
「たまたま、君の発言、自分は気づくことができた。」
「今の自分の気付きの気持ちは、君に理解できないだろうな」
うーーーん、それってなんだ?

嬉しいことをちゃんと伝えられないでどうして相手に気持ちが伝わるものか?
最近では怒りの感情を抑える、アンガーマネージメントとか
言い出しているが、喜怒哀楽をちゃんと表現できずに相手と対峙できようか!

本当に、自分の感情を正しく表せずに
コントロール、マネージメントとか

2013-12-03

原点

物事のはじまりや基(もと)、基準、根拠となるところ。

よく不況や失敗をすると
原点に立ち戻る。
原点回帰
と口にする。

それって本当に原点回帰だろうか?

社会は大きく変動している。
自分たちが原点と思っているポイントはすでに戻れないものではないだろうか?
対して、人間は過去の栄光、記憶は感覚的に覚えている。
それは自分だけではなく、周りもそう思う。
自他共に認めていること。

原点回帰ということは
基準、根拠ではなく、
期待されている自分になるという新しい自己発見ということではないかと
僕は感じた。

2013-12-02

護身

ストーカー被害
警察に相談していたのに、、、
という事件、事例が多い。
これを警察の不手際というべきだろうか?

僕は根本的に思う。
もう警察機構に護ってもらわず、自分で自分を護身する方向にすべきだと思う。
社会も安全保障の警備会社の乱立、
護身グッズの多様化でそれが伺える。

非暴力、治安維持である公安機構。
しかし、それは限界にきている。
当人は対象から護ってもらいたいと思っている。
しかし、対象そのものも自分は護られるべき存在と思っているのだから、
どっちも護ることを求められる公安、警察機構で動けない。
それが今の日本である。

ストーカーに殺されたという事件にフォーカスされるが
たまたま近所に住んでいて、通勤で同じ電車に乗る人を
ストーカーとして訴えることが実に多いとも聞いている。

自分を守るために
他人の自由の犠牲を正当化させる護身。
もはや他人を敵視している無法化に等しいといえる。

2013-11-29

正反

本を読んでいる。
ある小説では
「自分を愛せない人間は人を愛せない」
対して、別の話は
「自分が嫌いだからこそ、そのアンチテーゼで他人を愛せる」
となっている。

大局的な意見でどちらも正解と思っているし
相手を間違っていると思うだろう。
しかし、愛というレベルにおいて社会は正解を出さない。
というより、自分の権威を示せるものに
人間は自分と主張が正しいということで正解を付けたがる。

って考えると、、僕は哲学的に考えて
正解って言うのは、誰かに従っていますよ!ということではないかと考えている。
正解を出すのが得意ということは
極論的に言えば、自分の世界を持っていないということだと言えると結論で付けられなるので。

これは、
地動説が正解とされているが
今までは天動説が宗教的にも正解とずっっと言われていたこと、
その正解が宗教裁判という権威に縛られていたことが歴史的ににも証明されているだけにね。

2013-11-28

性分

生まれつきの性質。天性。

この性分がたちが悪い。
平気で
「自分は我慢できない性分なんで」
「私、嫌なことを絶対やらない性分なんですけど」
という言い訳が平気で通るようになっている。

これについて、
クレームをつけると
パワハラになる。

なんだろうね。
つまりは自分は肯定で他人は否定ということだよね。

人として扱われる人の基準。
もはや、人というより危険物の取り扱いだよね。
危険物は成分により廃棄できるのに
人間は性分を理由に廃棄することはできないのに、、、

2013-11-27

偏屈

性質がかたくなで、素直でないこと。ひねくれていること。

これって、マイナス的評価
プラス的になると

信念をもっている。
時代の先を見据えた先見性がある。
他人に惑わされない。

となる。

要は
その時に権力を持つか持たないか
評価する人間が力を持っているか
それだけである。

人間性がいい人が、、、
いや、結構ひどい偏屈な人ほど
大逆転的に評価されることが多いのは
今の景気、不景気の変動の中
多くのサラリーマンが味わったのではないかな?

2013-11-26

文法

言語の体系、およびそのモデル、およびそれをもとにした、ある個別言語の話し手が従うべき規範

目的として、語りかける相手に対して
わかりやすく理解してもらうためのお約束で、、あった。

すでに崩壊しているといえよう。
正しい文法で説明しても、
現代人の多くは

「わかんねーよ、自分にわかりやすく説明しろ」
「そんな言い回し、伝わらないんだよ」

と平気で言い出すようになっている。
対して、語り側も

「そんなこともわからない奴はいらない」
「バカなじゃない、こんな最低なこともわかないで」

と応戦することも多い。

確かに言葉は進化し、時代とともに変わっていく。
それに伴い、文法も、、、、実は嘘である。
基本文法は変わらない、文法が変わるとその言語自体の存在にも言及することになる。

しかし、、すでに日本語の文法が怪しい。
ただでさえ、主語が消えやすい語法なゆえ、、、
現代人のコミュニケーション力不足、
この語法の問題を含めて、基礎的に今まで培われてきた集団生活の基礎の崩壊によるものではないか?
と感じてしまう。

言語もルールも通じなくなってきている集団社会での
コミュニケーション、、もはやパワーバランス以外にないはずと思ってしまうのは正しい判断だと感じてしまうが、、

2013-11-25

鼻炎

風邪の定義は実は無い。

頭痛
そして、鼻炎などがあると、風邪とみなされる。

鼻炎、、とりわけ鼻水はなぜ出るんだろう。
それによって、何かを体外に出そうとしているかもしれないが
人によってはそれをすすってしまうのに、
わざわざその機能になっているのはなぜだろう。

人体の構造、機構は未だ謎のまんまだ。

2013-11-22

戦記

戦争記録およびそれを題材にした創作のこと。
人間は戦争を批判しているが
古今東西、
戦記への評価は高い。
その内容を異化して、
ビジネス
生き方
の指針になるからという。

しかしだ、
結局は戦争発想が前提であり、
批判しているが
人間の考え、行動の基本は戦争だと言える証拠ともいえる。

戦記から学ぶことは多い。
でも読む経験より行う経験のほうが大きい。
そう考えると、、、僕は空虚な平和論よりよっぽどわかると思う。

火傷は熱に触れた経験者が一番理解している。
これが真理だと思うなあ。

2013-11-21

剽窃

他人の作品や論文を盗んで、自分のものとして発表すること。
小さいものは宿題のコピー、
大きくなると盗作と言われる。

それが悪いかどうか、
それは文化の違いになる。

中華系は写本、習字の如く
真似が上手いことが評価になるが
欧米では、著作権、意匠権の侵害になる。

今は、欧米系が対応しているが
それまでは、中華系が主体だった日本。

写本にはコピーライトがあるとは言わないが
自分の作品には著作権をこだわる。

全く、どうしようもない国に感じてならない。

2013-11-20

黄昏

漢字で書くと、こうなるが読みは
たそがれ

その意味は

誰(た)そ?彼?

という、日暮で人の識別ができなくなっている時間をさす。

その時の日の色目が黄色かかっているので、黄昏。

そんなものさみしい時期を心情に例えて、黄昏の時期。

いったい、どれだけの意味を持たせるんだ、日本語というものは!

2013-11-19

言切

言い切る。
ちょっと前まで、憚れる行為だったと思うが、
最近は、根拠も責任もなく言い切る輩が多い。
自己主張が無責任かはわからないが
それに伴う影響が大きく、機会損失をしていることも事実なのだが
その機会損失を見えないものとして無視する傾向もある。

説明責任が求められる時代になってきたのに
言葉があまりに空虚すぎるのは
いったいこの国はどうなるのだろうか?
他人事のように感じていないと生きることすら難しく感じてならない。

2013-11-18

実験

「やってみなければわからない」
ということが
「やる価値がない」
として止められることが多い社会になった。

多くの情報がもたらした現在の集合知。
それは自分の確証もなく、ただ他人の意見に類似することで
結論に至れる。

それゆえ、多くのことを試す必要なくその集合知があたかも正解になっている。

しかし、自己の身の回りの環境って必ずしも集合知で賄えるとは限らない。
人間関係、
上下関係での受け答え、
前例なき事象。
その構成要素で成り立っているので
実験を試みなくてはならないことも多い。

集合知を正解として、何もしないことをコスト削減というか
結果が見えているかもしれない、もしかしたら新しい化学反応が起きるかもしれないと先行投資するか
を判断、いや賭けられることが、実験の異議であり、責任者の器だと僕は感じてならない。

2013-11-15

対処

対処と対応の違いはなんだろうか?
感じ方として
対処はいやいやで
対応が前向きな姿勢に感じる。

対処するという概念は
基本的に障害に対して
それを正道に戻すことを意味することといえるだろう。

とはいえ、
現代社会、
正道という概念がないどころか、
対応ではなく、すべてのことが対処になっているような気がする。

これが個人主義、価値観の多様化の末路かねえ。

2013-11-14

繁忙

どんな仕事にも繁忙はある。
いや、仕事に限らず、人生、社会全体にもいえる。

忙しいときに、いかに効率的にするかばかりに
世間は目を向けるが、考えてみれば
忙しくないときに、どう過ごすかと課題のほうが重要ではないかと悟ってきた。

忙しいときに効率化という話をしたところで
儲かってたり、今が楽しいのだから
下手なことをしたがらないのが人というものだ。

いつ忙しくなるかわからない、
もしかしたら、今後一切忙しくならないかもしれないが
その時にこそ、効率化、根本的見直すをする必要があるのではと考えに至る。

2013-11-13

文句

現代社会、文句を先に行ったもん勝ちな所がある。
明らかに悪いほうが、
「自分が悪いわけない!」
って言い張ったために、相手を怒らせてしまった場合、
怒った側が悪い事になる社会。

つまり怒らせたほうが勝ちという論理で現代社会が成り立っているのだが、
その事実についてあまりにも理解されていない事実が不思議で仕方ない。

言葉で言ってわかるというが
言葉が社会を悪くしているのだから、
もう幻想を辞めて武力による統治でいいのでは?

殴られるのが嫌だから従う。

それのどこが悪いのか?
幼児の親の教育ってそうだったじゃないか?
それがなぜダメってなったのか?
僕には未だに理解できない。

2013-11-12

文系

理系、文系、人の能力、思考傾向を分ける表現。
とはいえ、
論理的な思考が求められるとき、
言語を表現にたけた文系が有利か
自然科学の筋道を理解している理系が有利か
って議論される。

って、僕からすれば、その議論をしていること自体
もはや頭が悪いと思ってならない。
文系、理系、ではなく、
どういう思考のフレームワークのパターンで結果を求める傾向があるかであって、
世の中で求められるのは、頭の良さ、分類ではなく、いかに結果を出すかである。

どうも、結果を出せない輩はその過程や傾向を楽しむことしかできないので
見ていて馬鹿らしく感じて、、腹立たしくてならない。

2013-11-11

論説

物事の是非を論じたり解説したりすること。
また、その文章。特に、
新聞の社説など、時事的な問題について論じ述べたものにいうことが多い。

つまり、自分の言いたいことを行っているだけでしかない。
報道の自由、表現の自由と言われてきたが
本当の意味での自由は最近ではないだろうか?
ネットの普及、当たり前のように自分の投稿ができる。
それゆえに、、多くの問題も起きている。
自由とは至ってそういうことでもあるが、、

対して、報道機関での論説というものに価値は皆無に等しい。
意見を述べることが特権的だった時代ともう違うといえる。
その意見は、ただの偏見の一つとなっている。
歴史的に見て、、今の旧来の報道機関は、、
落ちぶれた封建制度下の貴族と同じ。
いくつかの貴族は新事業に乗り出して、今でも大手企業になっているが、
多くの貴族は、、

報道機関の論説をみると、、過去からの妄執、そしてその断末魔的な感覚を覚えてしまう。

2013-11-08

蝸牛

カタツムリのこと。
もっとも、現代では蝸牛は耳の奥の蝸牛器官のほうを指すことが多いかもしれないが
そもそもは、それがカタツムリに似ているから名づけられたのだから。

この熟語、よくできているなあ。
蝸、、巻貝という意味に歩みの鈍い角のある動物である 牛 をあてがっている。
それにそれぞれの触角が独立して引っ込んだりするから
カタツムリと呼ぶことも、、、

昔の人は粋な名付けかたをするもんだなあって思う。

2013-11-07

劇場

演劇・歌舞伎・舞踊・映画・オペラ・バレエ・コンサートなどの芸能を観客に見せるための施設

僕はその存在にそろそろ、限度を感じてきている。
人間の有史以来、人々が集まる場は必須とされてきた。
集会場、コロッセオ、祭場
どの古代文明にもその存在を肯定している歴史的遺跡がある。
しかし、それも過去のモノとみなすべきかもしれない。

人を集めるコンテンツがあることが重要とされているが、その周辺には
敷地
集合手段
運営ルール
個々人から始まるトラブル、軽犯罪対応
が求められて、規模に比例、、いや二次関数的にその周辺への配慮が求められ
場合によってはコンテンツ以上に問題になることが近年の傾向だ。

それに対して、
視聴覚技術の向上
伝送技術の高速化
受信ディバイスの多様化
により、コンテンツそのものをTPOに関係なく確認し、参加できる時代になってきている。

劇場に出向き、そこで体験することによって得られる経験が
それらディバイス経由で得られるものより低いという求人類もいるが、
そういう輩が昔いたんだ、バカだよな!
っていう新人類も多くなってきているだけに、
劇場という空間の認識を変えていくことにしないと
この先、その施設への価値で争いがおきると僕は確信しているのでここに書き残しておこうと思う。

2013-11-06

捨身

ある意味、自爆的に捉えられるが、
この熟語、、仏教用語であることを現代人は理解していない。
身を捨てて他の生物を救い,仏に供養する布施行の一つ
が元来の意味。

捨身の攻撃

っていう用例ははっきり言えば、間違いなのだが、
一般的にはこちらのほうが主流になりつつある。

言葉は時代とともに変わることを認めてざる負えない。
もっと言えば、
仏教用語すらサンスクリット語を漢字訳したものが日本に伝わり
本来の文字ではないし、
今ではその漢字を発祥の国、中国では略式文字で学び
まともに書けない国民が多いのだから、
正しい使い方、書き方という考え方すら、もう個々人の思い込みになってきている。

そりゃあ、人間のコミュニケーションなんか取れるわけがないよ。
言葉が通じなくなくなりつつあるのだから。
いくら、言語学習してもこうなっている以上は。。

2013-11-05

議員

民主主義において、
民意を代表する選挙で選ばれて
立法を議決する資格者。

それだけの存在のはず。
権力を持つものではない。
それに民意で選ばれていると言っても
投票率が50%を割れているのかで過半数を取ったとしたら
有権者の25%、4人のうち1人、強いては3人は嫌いという
状況で選ばれているにすぎない。

その存在が結構、やりたい放題になりつつある。
確かに、以前からここで述べているが
立法とは既存の法律、ルールを破る行為であるから
一番初めに守らなくなることをするのが
立法である議員かも知れないが
手続きが得て、初めてそうなるものであり、
議員であるから、何をしてもいいというのはどうだろうか?
とりわけ、実績も何もない存在にだ。

僕は法治国家は認めても、
民主主義は否定する立場だけに、
議員というものを根底から廃止すべきだと考えに至っている。

今、社会を動かしているのは
一企業のファウンダーや独裁的に経営を断行した中興の祖となる人達であって
民主的に選ばれて、議決をとっている存在に何ができるのだろう?ということは
自明の理であるのだから。

議員になることが目標になっている存在価値を根底から否定することは
禁忌どころか、これからの正論だといえるがね。

2013-11-01

履修

学校(大学などを含む)などにおいて、
単位を修得するために特定の科目を学ぶこと。

履という文字は
英語で言えば、、put on といえる。
元々の意味は、履物、、つまり靴類を指すものであったが
常に身につけるもの、、という意味が抽象化されて、
身に付ける事柄となって今に至る。

修という文字も、、
修飾 という言葉あるように、くっつくという意味である。
そのくっつくという意味が、抽象的に人の技能となって
修行、修学旅行 のような使われ方になっている。

履修という言葉は
実は、履も修も
一件別々の意味のような漢字だが
身につけるという同義の漢字で成立していることが面白いといえる。

2013-10-31

国産

限りなく日本でしか通じない言葉になっている。
国産の定義は
・生産地
・生産者
・材料
が、日本国内であることを求めるが、
それを全て求めることに意味があるだろうか?

・狭小な土地
・すでに勤勉、器用ではなくなった日本人
・資源の乏しいなか選択肢の少ない材料

で作ったものが国産であり、必ずしもいいものとは言えなくなっている。

適材適所
TPPのような他国との密結合
が求められる今の世界情勢で
国産偏重主義はかえって、品質の悪いもの、国際摩擦を生み出す
温床になりかねないといえる。

2013-10-30

抜本

根本から対応をし直す。

抜本的な改革で成果をあげた場合
成果主義ではどうなるだろうか?
評価される?
いえいえ、否定強いてはなかったことにされるのが現代社会。

抜本的ということは
今までの成果否定になる。
そんなことを許してしまったら、
社会の秩序が保たれない、
成果が成果と認められなくるという論理が今の社会。

本質を見抜いて
それに対応したアクションをして、結果を出すことは
必ずしも今の社会では認められる成果ではない。
今の社会ではね。

2013-10-29

試用

ためしに使ってみること。
仮での実験的利用とされる。

企業において
ある製品について、試用を行い、それを採用するかどうかは結構自由だが、
人材だと、試用期間後に採用の自由を元に判断すると社会的に問題視される。
これの事実を問題視することができない今、とっても危ないと感じている。

自分たちの経験をもとに考えてみよう。
うまくいかない人と仲良くなることって簡単だっただろうか?
その人と一緒にいるだけで苦痛だったことは無いだろうか?
そういう環境があるから、いじめになったのではないだろうか?

試用期間で採用の自由が許されないから
パワハラ
セクハラ
とか騒ぎ、企業前提の統制、コミュニケーションがおかしくなる。
ある意味、採用の自由を認めないで問題の先送りが
このハラスメントにつながっていると悟る。
この事実を直視することができないことが
今の日本の大きな問題だと
僕は社会を俯瞰して感じてならない。

ダメな人間関係はいくらやってもダメなんだから、、

2013-10-28

加糖

日本人はアジア圏で
お茶が甘いことを批判する。

でも、それってある意味、日本人の島国根性、鎖国的思考の現れだ。
日本人はお茶をそのまま飲むが
コーヒー
紅茶
には砂糖を入れることが常識になっているが、
外国の人からしたら
コーヒー、紅茶、お茶、すべて同類の喫茶行為にすぎない。
それに砂糖を入れない特別なお茶があるほうがおかしいと思われるほうが多い。

その事実に対して、どうも日本人は閉鎖的に自分の思い込みを強調するし、
そういう声を聞かなかったことにしている。

加糖することひとつとっても
当たり前と思っていることが異常である可能性がある事実に目を背けない姿勢が
今後、、今でも重要と思うことがglobal 対応のひとつと自覚すべきだといえる。

2013-10-25

乱流

流体の流れ場の状態の一種。乱流でない流れ場は層流とされる。
日常生活では、乱気流なんて言葉のほうが耳にするかも知れないが、
身近なものは、
ホースから水を出すときに、そのまま持っていると層流、つまり一定の方向に出るが
少しでも振り出すと、とんでもない方向に動き出す様がまさにそれである。

乱流こそ、
自然ではないかと思う。
一定のルールが守られていれば、その法則に遵法的なるが、
少しでも乱れれば、手のつくしようがないことになる。
だから、

・どのくらいのブレで乱流になるのか
・乱流が起きた時、どのようになるのか

を現代社会はコンピュータによっていろいろと計算してきて、
その成果が試されてきている。

実はビッグデータ、、
つまるところ
このビジネストレンドの乱流がつかめることが出来れば
相当な精度とそれ相当の期待効果が得られるだろうと僕は思っているけどね。

2013-10-24

運搬

人間や物をある地点から他の地点へ運ぶことである。
運送
運輸
輸送
配送
という言葉とどう使い分ける?といことを意識しているだろうか?

似たような言葉を使い分けることは難しいというか
正解がないことが多い。
著名な辞書が幾つかあるが、その使い方について
それぞれの辞書において説明が異なり、
それが正解、
それは間違っている、
どっちでもいい
ということになりかねない。

とりわけこの運搬という言葉は、、、
いろいろな定義、解釈を見るに
どうも、古語的であり、そして客体的抽象的な用例が多いようだ。
「自分が運搬します」
より
「自分が運送します」
と使われることが今は主流だろうし、
その運搬作業によって、、という表現をして
あくまでも自分は関与していないときに使われる。

似たような言葉の正解は
自己、それぞれの読み聞きの感覚になっているのが実情。
~なんとなく耳障り
~なんとなく違和感
というレベルでその言葉が合わないとみなされるものであり、
結構、その感覚は個々人依存で
地域性、職業性、で異なり
その言葉の使われ方ひとつで、コミュニケーション的な疾患になったりすることがある。

似た言葉が多く存在することは
表現を豊かにするのではなく、互いを否定する根拠になるんだなあって
思えてならない。



2013-10-23

丼物

丼は井戸の井の字の真ん中に点で
どんぶりと読ませるかご存知だろうか?

この漢字、実は純粋な日本創作された和製語。
この文字より先、独特のフォルムのあの容器が存在した。
その容器を井戸に落とすと、水面に落ちるときに
どんぶりという音がしたから、
井戸に落とすという意味で、井の字で
読みは、どんぶり になったそうだ。

名称の発祥はいろいろとある。
近年の多くは、外来語ばかりになっている。
対して日本で作られる言葉
元来の言葉の略語が多い気がする。

この丼と言う言葉、
当時は、
「あの独特な茶碗に飯とおかずを一緒に入れてくれ」
「あれ?」
「ほら、井戸に落とすと、どんぶりっていうあれ」
「あーどんぶりね」
「そう、どんぶりで」
「じゃ、俺もどんぶりにすき焼き肉と米を」
「おれも、」
「俺も、牛肉をれたどんぶりで」
「あ、では、牛肉をどんで」
「じゃ、、牛をどんで」
「牛丼ください」

となったといえる。
もし丼物を正式名称で答えるとした。

牛丼は
独特のフォルムの井戸に落とすとどんぶりと音がする茶碗に
すき焼き肉をご飯の上に乗せた料理
となるだろう。

かつ丼もおなじように
すき焼きがポークカツレツになるようにだ。

丼という字は擬音から始まり、
略称のために、どんという響きだけになったというのは
日本人の言語文化の象徴のようなものと感じられる。

2013-10-22

自動

自動運転
エアコンの外出先からの起動

便利で安全になる代名詞になっている。

日本語では自動で
英語だとautomatic
しかし、automatic は自動というより自発、勝手に、という意味が強い。
そして、自動化に対して、英語圏では懐疑的になっている発言も多い。

自動車が自動運転となったら、自動車を運転する運転手の意思は?
その自動運転で起きた事故の責任は?
家電が自発的に行動するようになったら、住人の気分が尊重されないのでは?

欧米の執筆作品の多くに、機械に人間が支配されるものが多い。
それは、人工頭脳など、人間の尊厳に関わるところに機械が進化してきていることから
危機感を煽っているところにある。

しかし、そもそも人間の定義、何をもって自動とみなすか
古来、奴隷は人間ではなく、彼らの労働はある意味使い手の意思であった。
ある意味、自動認識で動く機械の扱いが奴隷であった。
その奴隷制度も今はなく、人間とされている。
近未来、機械も過去の奴隷を見習って、一人格を与えられることもなくはないと僕は思う。
自動、人は便利を求めて勝手に動くものを導くとそれに人は人格を見出してしまうのは
ある意味性ではないかと思うなあ。

2013-10-21

曖昧

曖昧であることの定義って出来るだろうか?
もしその定義ができた場合、曖昧という意味は使えないのでは?と
論理的矛盾に感じる。

曖昧なこと=多くの人が理解できないこと
とするしか無いと思うのだが
あえてその定義をしたがるどころか
自分こそ正しいという論調も有り、
社会全体として曖昧なのではと思ってならない。

2013-10-18

等分

等しい分量で分けること。
実は、平等以上に、等分という発想は現代において
気づかないところで否定されている。

’等しい’という概念
’分量’の基軸の定義
という根幹まで、人為、意図的なパワーゲームが
能力というレベルで行われているからだ。

自分が等しいと思うことは
はっきり言えば、その思うことで他人からすれば等しくない。
お前に等しいを決める権利はないという発想が起きるから。

分量についても、成果、必要性、選択権など
目盛りではないそれぞれの思いが主張されている。

等分を目指してきた社会制度、
それで人は進化、高度化されたと思われているが
それって実は大きく梶を切り間違えた方向性だったのでは
最近感じる。

自然の法則において、等分という概念がないから
人間が生み出したものであり、
それが自然と相容れないから
その反動が社会ストレスとして生まれているという考え方も
成り立っているだけに、、、

2013-10-17

成分

化合物や混合物などを構成している元素や純物質。
とりわけ、現代人は栄養成分について敏感になっている。
健康に良い成分が入っていることでそれを摂取するようにしている。

しかしだ、
現時点において健康にいいと言われているものが
本当に健康にいい成分といえるだろうか?
近年、健康にいいとされていた成分が入っているとされた食品の幾つかは
その成分は確かだが、他の成分が違うところで悪影響を与えていると報告が多い。
特定の一成分に注目して、全体成分に当たる成分バランスを考えずに
評価していることがこの問題を引き起こしている。

、、、おや?
これって食品成分の問題ではなく、
一部能力の変調主義で、人格問題なんで失敗している現代社会そのものと
同じではないか!?
成分を特化した考え方は、、全体バランスを見失うということがよく分かる。

2013-10-16

雨戸

案外、日本独特の文化物のような気がする。
西洋式、
アジア圏
において、雨戸というものが常設された住居は皆無に近い。

やはり、日本は台風、暴風雨が多いからこそ、
雨戸というものが必然だったのだろうか?

雨戸があることで、
外光や涼風を取り込みづらくなるので
最近の住居では強化ガラスによって、雨戸の設置をなくしている。

しかし、最近の猛暑、大台風などを考えると
外気の天候から住居を守る雨戸をもう一度見直す、、
ある意味、自然からのシェルターとみなしてはどうかと思ってしまう。

2013-10-15

定立

定立、、、テーゼのほうが巷の受けがいいかな?
とはいえ、定立、テーゼの意味は?
というと??ではないだろうか?

辞書で調べると、

政治運動の活動方針となる綱領。

あれ?
これマニュフェストと同じこと?

余計わかりづらい、、

英語で言えば、
Theory、、定説、定義、そういうやり方、に当たる言葉。
といえばわかるかな?

複数の外国語、、そして見知らぬ漢字熟語で
踊らされているかもしれないが、、、

これって、意味が分からないからこそ、かっこいい!!
現代文化の現れかな?

2013-10-11

差異

人の嗜好が顕著に現れるところだろう。

ある人にとっては
「こんなに違う」
と思っていても
「何が違うの?」
と言い出す人もいる。

それだけならいいがそこから人間の人間らしい行動が起きる。

「その違いがわからない奴はバカだ」
「よくわからない違いにこだわる奴って気持ち悪い」

となって、抗争が起きやすい。
僕からすれば、人間の抗争ってそういう嗜好の差異でしか起きないのでは?
って結論づけている。

戦争そのものが悪いの、
核兵器
生物兵器
を使用すると、国際的に批判される。
そもそも、戦争をしている事自体が問題で使っている兵器なんて
殺すことに関しては差異というレベルって感じるのにだ。

人間は差異と分別で自己を確立するものであり、
そこからいろいろな悪徳が生まれるということは
ある意味、僕の中では悟りレベルの真理なんだが、
周りは理解できないようだ。

2013-10-10

供給

需要と供給といわれる
市場、、欲しているところに、付加価値品を出すこと。
実際問題これは難しい。
タイミングと心情が推し量れないからだ。

相手が欲しいと思うタイミングで提供するには
相手が欲しいと思う前から、その提供準備をしておかないとならない。
そうでないと、間に合わない。
逆に、その準備が予想に反したまま提供をしだすと
市場や相手のことを考えていないと言われる始末。

提供を迅速、希望どおりに行うということは
それの提供に対して、事前準備できるだけの
多くの選択肢をもてる財的体力
イチかバチかにかけるバクチ的対応決断
が提供側に求められる。

欲することが悪徳とみなされ続けていた日本。
そんな国だからこそ、
その欲する欲望への対応がゴテゴテになることはある意味当然なのだが、
市場やマスコミは提供側に辛辣な発言を発するのは
なんか身をわきまえていない気がしてならないけどね。

2013-10-09

教本

マニュアルのこと。

ある成功企業は
マニュアルどおりに徹底させたオペレーションで品質を維持している。
とまた、ある企業は
マニュアルに頼らない、現場の従業員判断に任せて、今に至る。
と言い出す。

マニュアルは必要か否か?

答えは、ナンセンスというか正解はない。
要は経営方針と従業員の意識であり、マニュアルの要否はどうでもいいことである。

マニュアルが必要とされるとしても
接客、業務遂行中にマニュアルを見続けていたら
あるべき業務はできないので、
マニュアルの内容を頭の中に覚えることが必要になる。

マニュアルに頼らないとしたとしても
自分の判断の根拠は、
自分の先輩などから得た対処方法
今まで経験してきた前例
と自分の頭のなかのマニュアル想定に中から選び出しているのである。

マニュアルが紙、物体として存在するかどうかの問題であり、
マニュアルの中身はどんな従業員の頭のなかにあるといえる。

法学的に言えば
不文法
成文法
と法は存在するが、それがどう表されているかは性質によって異なるとされるのと同じある。

もっとも、
そのマニュアルの中身が
そのビジネスにおいて適正か、そして時代とともに更新されているかが
経営方針、従業員の意識、、、つまり企業価値につながるので
中身があればいいというものではないけどね。

2013-10-08

水面

’すいめん’と読めるし、’みなも’とも読める。
水と空気との境界面であり、
人が水と可視的に確認できる点でもある。

しかしだ。
’すいめん’、’みなも’と人によって、音として認識が異なったり
波やゆらぎで、同じ水でも見たタイミングで水面の状態は異なって見えたりする。

道教では、そんな変幻自在、流動性を重んじるが
現代社会の画一的、定義主義においては
水面の固定できない形状は他社との認識共有を妨げるいい例となっている。

ある意味、人間のコミュニケーションそのものが水面のようで、
あの人はこういう人って認識していると
それとは異なる付き合い方が幾通りもあるからこそ
人は悩まざるおえない、それがまた第三者も悩ますことにもなる。

水は身近にあって、そして捉えづらいものと改めて感じている。


2013-10-07

勘違

間違って思い込むこと、
ある意味に、個人責任で、自分が責めを負うはずである。
しかし、この世界は愚かなことが起きている。

勘違いで失敗したことを、
自分に勘違いさせた紛らわしいことが問題として
裁判や運動を起こす輩が多い。

~勘違いさせるようなことをしている方が悪い
~みんな勘違いしているのだから、自分が正しい

という何ともおかしい論理でだ。

僕の知っている父の知り合いはそれで命を断った。
自分は昔から創業している会社をやってきたのに
新興企業が名前が類似していたそうだ。
その企業と間違えて発注した企業が
なんくせつけて、終いには損害賠償で訴えられたそうだ。

勘違いした側の過失だといえるのに、結局強引な示談なうえ、
与信、資金繰りで、、これ以上は書くまい。

勘違い、それは勝手に間違いを起こして
そして、他人を不幸にする思考。
それにより、他人から不利益をもたらせられることもあるし、
そして、自分もそうしかねないことを肝に命じることをしておかないならない。

2013-10-04

硝子

日本人は面白い。

窓ガラス
グラス
サングラス

は別のものと思っているが
すべて、硝子そのものでしかない。

ガラスをグラスと言っているが、
グラスはガラスコップそのものでしかない。

使っている日本人の多くが
同じものという認識はないだろう。
それで、日常生活に支障が出るわけでもないからである。
しかし、それは日本人という枠であればの前提であり、
その日常生活を普通と思って海外に行くと
ウェイターに
「グラスをちょうだい」
って言ったつもりが、サングラスを持ってこられて
怒り出すバカな日本人を作り出す結果になる。

海外に行く時にそこに注意して行動するようにいったところで
日頃から気をつけていない人間にそんないろいろなことが出来るわけがない。
これからは
今の日常をかけていくか
それとも、海外に行かないようにするか
を考える時代と割り切ること段階ではないだろうか?

2013-10-03

謎解

洋書のミステリーを読んでいる。
時間があり、見識を広める意味で、、
そして思った。
日本で、洋書のミステリーが流行らないわけだということが。

多くの書に触れたが、
結構、著者の思い込み、常識で書かれていて
日本人には受け入れがたい。

・日曜日に教会にいかないことがヒント
・兵役中にそんなことをするわけがない

という記述をされると、
日本人としては、それが当たり前と言われても
はぁ~
となるし、それが謎解きといわれても納得性がない。

これは日本の鉄道ミステリーが
ダイヤの概念が無いに等しい
外国人に理解できないのと同じなのかもしれない。

謎解きというものが
かなり、地域性、価値観に依存することがよくわかった。
もっとも、和書、洋書ともにいろいろと読んだ結果だがね。

2013-10-02

美醜

哲学書の中では、
美しいものは不変であると記述されている。

が、僕はそれは違うと思っている。
美の定義は時代というか、その人々の集まりでいろいろと違うし、変わるものといえる。
例えば、
首長族の美は首の長さが女性の美であるが、
今の日本では受け入れられるものだろうか?
そんな今の日本も、平安時代の美の定義は黒髪の長髪の女性が基準だったことを
受け入れていない。

遠隔地、古い時代との比較だと
なんか的を得ていないと思わるかもしれない。
しかし、そんなことでなくても身近なところでもそれは感じる。
テレビで数十年前のドラマを再放送すれば
その当時の最高の美で作られているが、
・仕草
・衣装
・持ち物
・技術
・身だしなみ
どれも、今時代どれかを用いれば、ださい、醜いという誹りを受けるだろう。

ほんの数年前の美でさえ、直ぐに否定どころか醜い方に認識されるのである。
まーそれも逆で、もし過去の存在が今の時代のファッションなどを見たら
最低、、って言うかもしれない。

つまり、哲学でいう美の不変は間違いである。
バカな哲学者は、
そんなの美ではないと美はもっと根本的な、、、
っていうが、過去の人の思い込みに固執し、しかも世間と違うことをいうことほど
哲学の精神の美と真っ向から逆らう愚行で、全然美しくない。

2013-10-01

素人

その事に経験が浅く、未熟な人
その道で必要な技能や知識をもっていない人
だそうだが、、
結局は、個々人の思いあがりでしかない。

全然ダメな人でも、
俺が基準と言い出す人もいれば、
すごく完成されている人でも
所詮自分は素人ですからと言い出す始末。

情報が多く、事前調査である程度わかる状態の昨今で
どの段階を素人と言うのだろうか?
強いては、玄人と言い張っている人も基礎がなっていないなら
素人扱いしても問題ないのではないのか?

世の中の基準が多様化で見えなくなっている一つとして
この素人の認識がいい例として挙げられるといえる。

2013-09-30

真筆

当人の手によって書かれたというもの。

ある有名画家の作品、真筆であることがわかると
その作品の値段が上がる。
ということは、その作品そのものには価値がなく
その有名画家の手によるということだけが価値であるということになる。

でも、その有名画家が有名になるためには
その作品が認められたからであって、
有名画家前提で始まってはいないはずなのだが、、

価値に矛盾を感じる。

真筆という概念より
作成者ではなく、
その作品そのものを自分の価値でいいものと言えるようにならないとならない。
っていうか、自分の価値をマーケットに反映させている存在が入るわけで
その存在に迎合している以上、真筆どころか、
自分の価値感する確立できないのが現代であることを強く意識すべきだ。

2013-09-27

執念

執念と信念はどう違う。
現代人の今の受け取り方だと
執念はマイナス要素
信念はプラス要素
で捉えているようである。

僕としては
自分の気持ちの揺るぎなさであり、
執念は自分の考え
信念は他人から押し込まれた価値観
で成り立っていると理解している。

どっちもどっちで
第三者からすると、
<思い込みでひとりよがり>
と映るかもしれない状態である。
それで、他人が引くということもあるだろう。

しかしだ、
執念を燃やすという表現があるように
自分の考えに基づいた思い込みがあるからこそ、
いろいろな革新が生まれている。
現に
「他人の言葉を気にするな、自分を信じろ」
ってプラス的よく使われる上記表現こそ
執念を燃やせって言っているに過ぎない。

どうも、ひと目を気にする日本人の感覚と
実際の結果はひと目ではない事実認識が
言葉の意味理解を複雑にしているようだ。

2013-09-26

機種

昔からある言葉のようだが、
機械の種類
の略語であり、飛行機に使われだしたという
航空機登場の時期という最近の言葉である。

今では、身の回りに機械が増え、
機械自身の性能差、バリエーションが個人の思惑で選べるようになったので
機種という概念が一般に知れ渡っているといえる。

機種という概念があるということは
その機械の機能ができて当然で
それ以上の付加価値を選ぶことができる
技術進化の現れと解釈できるということだといえる。

2013-09-25

異才

異才をはなつ、、という言葉がある。
異才とはなんだろう?
考えてみれば、
才能があるということは、一般人と異なることと言われていることである。
つまりは才能があるということが異なるということであり、
異才とは才能があるとは違う意味なのだろうか?
辞書的にも曖昧に記述されているので、明確に異才を定義できていない。
もっとも、才能があるという言葉自体も
あるなしの判断基準が曖昧なだけに才能自体の定義もできていない。

ある意味、
異才とは、定義できていない才能よりも定義できない才能があるという状態であり、
理解できないという意味ではないだろうか?

2013-09-24

強靭

強くて粘りがあること。
強くてしなやかなこと。
ってどういうこと?
具体的に言える。
はっきり言えば、マッチョの肉体は強靭という定義に入らないはずが
強靭と言われたりしている。

もっとも適しているのは
弓そのもの形状、性質であるだろう。
しかし、言葉は進化するという理由で
それっぽいから、いろいろなものに強靭という言葉当てはめている。

言葉は進化するのではなく、
バカが発想力、理解力ないままに使い出して
それが流行病みたいに感染したのではないかと思ってならない。

強靭の本来の意味を理解することなく、
強靭な精神とかいう発想は、、
現代人のちょっとでも優れていることに、超~ を付けたがる発想と何ら変わりない。

日本語は進化しているというより
表現力の退化が甚だしいと言わざる負えないな。

モノの有り様を的確に理解すること、それを表現する力を
現代日本人は一からやり直すべきな所まで来ているんだろうな。


2013-09-20

分配

分けて配ること。
実はこれが売買の本質。

日本人は物々交換から売買が始まったがそれは
農耕民族の果実が個でとれる発想になっている。
しかし、現在世界を実質支配している欧米思想は
狩猟民族であり、とった獲物から肉を切り削いで渡していた。
まさに、分けて配っていた。

それゆえ、
日本の物々交換は
自ら持ち寄った
個と個とで、売買が行われるので
物流という概念がない。

対して、
欧米では
狩りを行った役務に応じた取り分を
族長などが管理する獲物の保管所に
自ら切り削きに向かわないとならない。

ゆえに、
・労務益  → サービス
・ほしいものを得るために自らが行動負担  → 物流
という概念がはじめからあったといえる。

一つの物を切り削いでわけるという概念は
後に在庫の山をも、一つと捉えることになるから
lot stock という概念がうまれたのであり、
日本人が物流、、ロジスティクスの概念理解が遅れた要因でもある。
日本の物流市場が過去停滞していたのはこの理由だった。

しかし、今ではその分配の概念がなかったらこらこそ
個で物をとらえる、個人配達、宅配ビジネスが一番進化したといえる。

確かに分配の概念でビジネスを起こしたのは
欧米かも知れないが、
その先に行くため、今までにないブレイクスルー、
概念が弱かったからこそ、宅配というビジネスを進化させられたといえる。

分配の概念を知っていた。
それが良くもあり、悪くもあったと思ってならない。

2013-09-19

通訳

異なる音声言語を話す人たちの間に入り、
双方の言語を相手方の言語へと変換し伝えること。

最近思うのだが
異なる音声言語とはいえない、
むしろ、日本語同士でも通訳を介さない通じないことが
やたら多くなっている。

若者と年寄り
専門家と利用者
当事者と陪審員

など、立場が異なるだけ、生きてきた環境だけ、
というところで、全く言葉が通じなくなっている。
それだけ、自己中心的、個人的になっている証拠であり
同じ日本語を使っているつもりで
他人には通じていないことは、日常的に多々見られる。

それをどうにか伝わるようにする活動、技術は
ある意味、通訳と同義だと思ってならない。

2013-09-18

歩留

原料(素材)の投入量から期待される生産量に対して、
実際に得られた製品生産数(量)比率のことである。

加工上ロスなく作ることなのだが、
この歩留まりという表現はおかしくないか?

歩みが留まるということがこの意味とは?

いろいろと語源を調べることが多いが
この意味は明確なものが見当たらない。

日本語が使えないという発想もあるが
そもそも言語というもので他人と意思疎通をしている以上、
個々人が真意を理解するできなくても
意思が伝わればいいというレベルなのかって感じてしまう。

2013-09-17

極端

日本人は意見がはっきりしていることをバカのように
極端だという。

はっきり言えば、グローバルというより、選択というものは
○☓でしかない。
曖昧ということは判断していないということで、
選択権という権利放棄に等しい。

止揚、アウフヘーベンを日本的に都合のいい解釈をして
今にいたるが、それは未定義でも許された、
何もないから問題を先送りにできた時の話であり
今ではすべてがかつかつ、限界が見えているからこそ
極端、、極めて端的な判断しか許されなくなっている。

はっきり言うことが、日本の美徳と反するという時代は
もはや、いやそもそも愚かな美学だったという考え方でいないと、
外国はおろか、日本国内においても
ただグズグズ足を引っ張る存在とみなされることは明白なってきている。

2013-09-13

独言

携帯でしゃべっている女が
近くで一人ごとを言っている老人に
「うるせー、迷惑だ」
って言い放った。

それを見ている僕の視点からすれば
どっちも同じレベルうるさい存在でしないかが、
携帯でしゃべっている女は自分は当然間違っていないと言い出すだろう。

人間って他人から見れば同じに見えることを
ぜんぜん違うと騒ぐ傾向、、いや本能がある。
それにより、自己を意識している、自覚がある証拠でもあるのだが、

でもそれって、今では無駄な能力のような気がする。
自己が強すぎるから社会適性が著しく低下しているのだから、、

そう考えると、
なんか人間の会話と思っている話していることって
結構、他人は聞いていない、、独り言ばっかりなんだろうなと悟ってしまう。

2013-09-12

見聞

見たり、聞いたりすること。

実体験することとも言われる。
現在、高度情報通信社会。

ディスプレイの前で特定操作をするれば
見たり
聞いたりすることは容易にできる。

人によっては
「それは見聞ではない」
と否定する。
実体験こそという発想であるが、
実体験するコスト、危険性、、そしてその行動が起こす環境への影響と
総合的に勘案すれば、
実体験することこそ、無駄な独りよがりと変わらない判断することもできる。

これもまたエゴのレベルでしかない。
しかし、ただのエゴほど、
人間はさぞ当然かのごとく主張するから困ったものだ。

2013-09-11

交配

どうも気になる。
遺伝子組み換えは☓だが
交配したものは○という論理。
僕としては全く理解できない。

交配とて、人間の意思で
他の生物が自然界ではまず成り立たない生殖をさせられて
誕生させている。

その工程を科学的、研究に基づいて
遺伝子の組み換えで実現させている。

交配によって産まれた、、産まれさせられた失敗の命を起こさないためにも
遺伝子での対応していると考えるべきだ。

遺伝子組み換え食物を口にして何が起こるかわからないというが
交配で産まれた生物を口にして、その結果が出るまで
どのくらい犠牲が出たか、、、そういう視点で物を見れば
遺伝子組み換えと交配の差異どころか、
人間のひとりよがりのエゴ同士の馬鹿げた言い争いにしか感じない。

2013-09-10

銀杏

ギンナンとも読むし
イチョウとも読める。

日本語は難しい。
その文字ではなく、
「茶碗蒸しの銀杏」
「神社のご神木であるあの銀杏」
と文脈で読みを変える必要がある。

でも冷静に論理の視点で捉えると、、
どうでもいいレベル。
概念、対象物がわかっているものを
わざわざ読み方の違いで間違いにすること自体
物事を理解するということで、間違いであるといえる。

これもまた日本人、日本語が物事の捉え方、そして説明力のなさを
示しているいい例といえる。

2013-09-09

慣行

そんなに朝早くもないのに
「おはようございます」
疲れてもいるわけでもないのに
「お疲れ様」
という挨拶。
これを慣行として扱うことを容認してきたのが人間である。
しかし、この慣行ももはや破綻してきている。

ある地域で
年寄りが朝、子供に挨拶したら
「話しかけるなババア」
と答え、その子供を叱責したら
その親が出てきて、
「気安く関係を持つな」
と言い出し、それが当たり前になってきているとのこと。

今までの慣行的なことが通じなくなってきている。
そもそも、効率、真実の探求することは
慣習、伝承の否定になりやすい。

今まで正しいと思うから行ってきた慣行を真っ向から否定しても
咎にならない現代社会において、
何を持って正しさの立証になるだろうか?

職場や地域社会においても
挨拶という慣行が減っているどころ
その挨拶をすることに嫌悪を示していることが正当になっていることから、、

慣行という行為そのものが意味を成さない。
前例否定社会になってきているといえる。

僕はこれを嘆くことはしない。
それについて、嘆いたところで
変わりゆく社会では意味が無い。
その分、
挨拶をしないで僕を敬わない輩に制裁することも
もはや非暴力の慣行のシガラミから外れていると僕は判断行動する前提だから。

2013-09-06

静寂

簡単にいえば、無音状態のことである。
問題はこの熟語の読みである。
「せいじゃく」 と読むこともできるが
「しじま」 と読むこともできる。

多くの人は 「せいじゃく」 と読んで意味は通じるのだが、
これを 「しじま」 と読んだ人に対して、現代人は
・間違っている
・そんな読み方は通じない
って平気で言う。

そう現代人は本来正しいことであっても
自分たちが理解できない難しいことは
間違っていると認識するようになっている。
これって、かなり危なくない?
絶滅危惧種で古来伝統なものであっても
認識していないものは間違いとして消滅させてしまうことがあるということ。
大した知識のない者どもに
積み上げてきた歴史が潰されるのは
そういう風潮を容認した社会の問題と割り切るか?
それともその者どもを草の根的に改善、粛清すべきか?
それによって、過去に誇れる遺産が残せるかどうかという深刻な問題になっているのでは?
って感じている。

2013-09-05

猊下

閣下、陛下、なんて言葉は未だに通じるかも知れないが
猊下
というこの言葉は誰に対する敬語かはあまり知らないだろう。

辞書的には
宗教上のトップに対して使う敬称とされる。
だから、教祖、法王、座主、と呼ばれる方に使うことが正しい。
また、碩学な存在にも使える。
学長、名誉教授、とかにも使える。

本来の意味について、まとめていない辞書が多すぎるので
意味の本質は
組織、体制という実社会ではなく
知的、観念的、と呼ばれる精神の世界において
確固たる地位にいるお方への敬称である。

まー、見えない世界への否定、現実主義になった現代社会において、
猊下と呼ばれる存在への敬意は
現代社会の台頭ともに失われてしまったといえるけどね。

2013-09-04

放伐

人は暴力反対って口にする。
しかし、暴力が地球上から消えたことはない。
また、暴力で勝ち取った革命なのに
各国がそれを承認、容認することが多い。

その事実を嘆くことよりも
その前提で考えるべきでと思った。

放伐、
ある意味、革命権である。
武力で現政府を倒すという論理は
東洋の知の源流である、中国の思想では易姓革命
西洋では、ジョン・ロックから、マグナカルタ
に明文化されている。

つまり、
古今東西
人は暴力でもって、悪政を討伐することができる。
その悪政の定義はできないといえる現在
自分勝手な判断で悪政とみなせるのだから、、
対象を、国家、地方、集団、企業、組織、、そして他人と解釈できるだけに
ある意味、人は自分にとって都合の悪い存在と戦うことは根本的に許されているとも言える、

今は未だ治安のいい方の日本だけど
社会情勢を見ていると
この間まで安全だった国が一瞬で暴徒の国に変わるのだから
他国どころか日本とてと僕は感じてならない。

2013-09-03

中興

一度衰えていたり途絶えた物を復興させることである。
事業継承をした上での偉人を中興の祖といったりする。

創業することと
中興させることと
では、どちらが難しいだろうか?
何も無いところところからスタートという創業に対して
何かあるからと言う理由で中興のほうがましと思うかもしれない。
しかし、何かあるものが必ずしもプラスとは限らない。
プラスとすれば、
資産、ネームバリュー、ステークホルダーが挙げられるが
マイナスとしては
負債、慣習、腐れ縁、が上記の対義として存在する。

何もないということは絶対0だが、
何かあるからこその中興もプラスマイナス・ゼロということで
一概に、比較できないと感じてならない。

2013-09-02

諸刃

諸刃の刃、
西洋の剣のことで、
腹も背もなく、両方に刃があるもの。
色々な状況で相手を斬ることができるが
自分も怪我してしまう。

は??
外国の映画で
sword
blade
saver
がでてきて、諸刃の刃になっているが
自分の刃で怪我することなんか見たこと無いぞ。
っていうか、そもそも諸刃であっても、剣は板状だから
面のことが存在するからその面を自分に向ければいいのでは?

諺と言いながら
実際にありえないことを
都合に合わせて言い切っている。
、、、これはいつの時代の人間も同じか、、って思う。

2013-08-30

臣下

君主に仕えるもの、家来、
今では、まず使わない。
しかし、今から400年前以前は
誰の臣下であるかどうかがその人の存在意義であった。
臣下であることが誇りであった。

そして、今、部下という言葉も使わなくなった。
平等やフラットという言葉で
上司、部下という関係を持たないことを是とする傾向が強い。

社会構造が高等化しているからだという人は言う。
しかし、僕は臣下から部下そして、その関係がなくなることは
秩序の崩壊、混沌化、つまり退化だと考える。

上司としての責任性という秩序がないから
今までありえなかったことが犯罪にまで昇華しているこの現代社会は
紛れも無く秩序崩壊である。

僕は主従関係を肯定している。
それは哲学者ヘーゲルの弁証法にもあるように
互いが互いを認識して初めて成り立つ関係であり、
現代社会のフラット、能力主義は
他人より自分という認識が強すぎて、社会性が失われているからだ。

臣下制度のある社会が復活されることは今のところは無いだろう。
されど、臣下あっての君主の責任感、君主のための忠誠心は
現代社会が目指している絆の過去事例だと思い、
それをもっと学ぶべきだと思ってならない。

2013-08-29

青物

野菜を青物という。
しかし、青いものはなく、緑だ。
また、緑も青信号という。
これは、色に対しての識別が厳密になっていない時期からの名残だ。

現在、技術の進化でいろいろな色を表現することができる。
同じような色に見えても、何十、何百の亜種の色が存在する。
それだけ、技術が進化しているからだ。

しかし、考えてみれば、色が違うことにどういう理由があるのか?
一昔前、緑も青も一緒に考えていた日本人がなぜ、色を識別する必要があるのか?

それは、個性、自己主張の現れである。
色違いを求める大きなポイントは
他人と同じものではない、
自分だけという発想である。
ちょっとでも違う色で自分をアピールする。

これは自然界とは異なる。
まわりに溶け込む肌の色を求める。
集団生活をするため、個性をださずにまわりと同じ形状に近づく。
という安全性をえている。

今の日本人の考えは
ある意味、
毒をもった存在ですという独特の生物と同じ発想で
色違いで溢れている。
文字通り、<いろいろ>な人間で溢れている。
そして、上記の通り、個性という毒で周りと溶け込めない状況になっていることも
また事実だ。

2013-08-28

思考

予備校の先生の言った発言が僕を開眼させた。

「現代人というものは、思考を行うときに
 必ず言語を用いて行う、言語を使わないで考えるということは
 もはや人間には不可能だ、
 だから、言語、とりわけ母国語について出来るだけの理解をすことが
 考えるという行為の礎になる」

この言葉で、英語より国語の理解、、小論文などの学習を多くした。
そのため、、現代教育では開花できなかったと言い訳になってしまうが、、

考えることが出来るということは
言語理解が深まっているということになる。
人によっては、
言葉なんかよりも自然科学に基づいたという発想と言い出すが、
その自然科学についていくら理解しても
それを他人や文章で説明できる表現ができないということは
認められないというか、理解していないということになる。

考えるということは
ある意味、自分自身に向かって説明するということであり、
その考えたことを自分から他人に説明するということが
考えたことが初めて、考えているとみなされる。

だから思う。
現代人は詰込みし過ぎた教育ゆえ
考えていないとしかみなせない。
多くの人と話してみて
考えていないなあって思うことが多い。

概念の言語化があって初めて考えているわけで
知っている、そうなっているということはどうでもいいはずなのだが、、
そこがなんかおかしく感じる。

2013-08-27

界隈

そのあたりとか
付近、一辺。

本当に曖昧な表現で、他国の方々にはなかなか伝わらない。
日本人でも
銀座界隈
銀座エリア
銀座周辺
という言葉の違いを理解できるかどうか?
とはいえ、同等なことは
area
space
field
という英語の意味も辞書的にかかれていても
母国語圏の人々はかなり曖昧といえる。

場所の定義も
言語の定義も
そんなもの、
結局は他人に正しく伝えるということは無理であり、
どうやっても伝わらないって思うべきだといえる。

ある意味、
真意の界隈レベルでしか伝わらないってことだなあ。

2013-08-26

販促

販売促進、、
プロモーションのほうが耳障りはいいかな?

ネットやテレビのニュースで

「○○の番組効果で☓☓が大ヒット」

なんてことをあげる。

バカなんじゃないかと思う。
根本的に現代の日本の番組、、もっと言えば、メディアそのものは
販促そのものであり、ニュースで取り上げる事自体も販促であり、
それをわざわざくだらないことで盛り上がるなって思う。

海外と違い、日本の民放地上波は基本無料だ。
それは、企業がスポンサードしているからであり、
その目的は販促である。
その流れはネットにも普及していることが多い。

だから、日本の販促費の多くがメディア戦略にあてられていることも
ここから伺える。

だから、テレビ番組、、古い有名な例は
とんま天狗の名前がスポンサーの商品名だったことなどが挙げられる。

製作サイドのメッセージ性の個性、風営法やイメージ戦略で
あえて企業の販促を番組内でしなくなっていることが多いが
根本的に、誰がその番組を作らせてくれているのか、
それは見てくれる視聴者という考え方が僕からすれば愚かしい。
その番組の制作費を出してくれるスポンサー企業であり、
観ている人がそのスポンサーの商品を買わないのであれば
結果的に製作費は賄えなくなるということが現代人はあまりにも疎い。

無料慣れしているからこそ、
販促費用に意識が及ばないが
そこが国際社会で戦う上での必要最低限の知識レベルということをもっと自覚すべきと感じる。

誰が何のために、支払うのか、
その市場論理がかけているから、
支払、未払いで日本人はトラブルを起こしやすいのだから。

2013-08-23

対談

冷静に考えよう、
ただ単に話し合いで解決する、、
そんなことは絶対ないということを。
無血革命
平和解決
と言われるものも、舞台裏にはひどい惨劇がある。

日本における
下関条約も
春帆楼の窓から見える軍艦の行き来を清の高官に見せつけ
脅してなりたった条約であり、
話し合いそのもので成り立っていない。

現代社会においても
個々人、組織、国家での
話し合い解決といいながら、
武、財力をちらつかせての交渉ばかりである。

現在の日本人の発想を逆転させる時期だと思う。
話し合いでの解決をいう以上
それに見合う武、財力はあるべきある。
相手をつぶす力がなくては、
文字通り、話にならない。

胸に手を当てて素直になってほしい。
ものすごく弱い輩が
「暴力反対、暴力なんて俺の足元に及ばない」
って偉そうに言いつづけてうるさいのであれば、その口、行動を押えることをするだろう。
それが人間の本性なのだから。
戦争反対、、いうのは簡単だが
今の日本が言えばいうほど、上記になる。
なら、いっそ言わないで強いのに恭順するか、、それとも武装を高めるか、
話し合いでの決着なんて、バカな発想は相手を怒らせるだけという事実に気づこう。

2013-08-22

保障

ある状態がそこなわれることのないように、保護し守ること

根本的に考えよう。
保障っていう概念があってはならないということを。

あるべき状態。
世界は流転する。
今ある価値は直ぐに移ろう。
さっきまで高い価値だった権利書が一瞬で紙になる。
そんな時代だからこそ、あるべき状態というものは、、認めてはならない。
自分でその価値を守るべきである。
そして、守れないことも自己責任である。

また、あるべき状態という概念も人それぞれ。
自分の思っている状態が他人のそれと一致することなんてなりえない。
だから、保障されることなんてことはいつもトラブルのタネだ。

保険、私産の個人的な保障から始まり、、
僕は
安全保障
社会保障
という概念は、20世紀、、、社会主義の破綻で終わったと思っている。
社会主義を打倒するために
国家や市場経済が無理、、いや嘘の保障概念を打ち出した。
それゆえ、目的を失った今
保障はこの先、、新たな抗争の火種になると思っている。
民族問題、格差問題、、
それ以上に、社会、、地球規模で保障問題が今後の戦争の火種になると確信している。
保障という概念を信じていればいるほど、
当事者、、いや加害者当人になりかねないと考えるべきだといえる。

2013-08-21

押付

日本の
おもてなし
ものづくり
を海外に展開させる。

今の日本のグルーバル戦略といわれる。
うーーん、それって押し付けの転嫁ではないか?
現在の日本の成長の多くは
欧米企業が日本市場を狙ってきてそこでブランディングをしてきて
付加価値を生み出してきた経緯がある。

欧米企業の論理も
自分たちのビジネスモデルを日本に根付かせようとして来ていた。
現在、その気持ちに対して、
自国のアイデンティティをむき出しに
おもてなし
ものづくり
を打ち出し、欧米ではなく、途上国にその思いをぶつける。

なんか、いじめの構造のようだ。
強い奴にやられたことをより弱い奴にする。
日本のグローバルってそんないじめの押し付けレベルでしかない。
出て行くなら、欧米人を(攻)責める発想がない以上は
真のグローバルとはいえないな。
押し付け先を見誤りすぎだ。

2013-08-20

気圧

天気予報の番組で気圧について説明される。
中学生の理科の時間に気圧の説明はされているので
国民的に常識レベルの知識なのだが、
実際問題、多くの国民は
「そんなことより、明日晴れるの、雨なの、気温は?」
という思いだと思われる。

天気予報で説明される気圧は
気象条件であり、明日の天気、気温の根拠である。
中学校で習ったレベルを前提に
天気予報士たちのもつ、知識と過去データから
気圧の状態から天気予報を行う。

結果ではなく、根拠のために
気圧の説明をするだが、
ゲリラ豪雨のように、過去事例が当たらないケース
どうせ、根拠を聞いていないで、結果を責める国民性
から考えて、気圧についてはもういいんじゃない?!
わざわざ説明するほうが無駄な社会なんだから。

2013-08-19

無力

力がないこと、、
これってなんだろうか?

力とは
知力
財力
学力
筋力
権力
と挙げればいろいろとある。

それだけ、力のカテゴリがある社会なのだが、、
だからこそ、無力を感じるのだろう。
カテゴリごとに力の序列が形成されて
その中で何もできない、蔑まされることから
無力感を味わう。

社会はそうやって成り立っている。
いろいろな経験をしてきた悟りきった僕からすると
力を持っている存在は
そのカテゴリにおいて、意固地というか独占的になりやすい。
自分のカテゴリを守るために
他のカテゴリへの干渉を避けて
自分のカテゴリ内の統制を自分で執ることに執着する。

多くの人間がそうであり、
昔からこれは変わらず、
この論理がギルド、少国家、縄張りの形成根拠でもあるのから、
無力感を味わうことは
ゼロサム的に、
そのカテゴリの有力者の自尊心を高める糧となり、
より強固なカテゴリを序列を固めることになるのだから。

2013-08-16

新品

新しい商品のこと。
新しい定義が現物を誰も使っていないものという認識だとした場合、
現在の市場は新品について二極化しているといえる。

本当に誰も使っていないことに徹底した商品の取り扱い

今まで多くの人がその同種品を使ってきたからこそ信頼できるもの
となる。

精密機械のようなものでは
納品時にあたかも真空状態で精製したような梱包で届けられ
あなたが初めて開封するということにこだわる。
対して、
リサイクル、廉価耐久財、そしてサービスは
誰かの使用実績がその商品保証につながるので
使われていることへの説明が必要になる。

市場は矛盾している。
誰にも使われていないことを求めながら
誰かが使ってみた情報がないと不安になる。
モノを慎重に売買するということが実に難しい時代なのだが、、
言うが易し、やるが難し。
自分がやらされる側になると出来ないと言い出す輩で
支えられている市場もまた矛盾していると感じてしまう。

2013-08-15

先達

先達とは
先輩
先人
とどう違うのか?

いろいろと違いをあげようと挙げられる。
そもそもは、熊野参拝をするときに先に修行をしている修験者のことを指していた。
が、、、
はっきり言えば、先達、先輩、先人は同じで構わないといえる。
逆にそこにこだわる人間がいたら、
その人が違う、、人とのコミュニケーションが取りづらい面倒な存在ではないだろうか?

最近、若者の言葉が乱れていると指摘する先達が多い。
しかし、そういう人に限って
「超うざい」って言葉を使っていることが多い。
そんな輩だから、先輩、先人、先達、どれを使っても構わないとも言えるだろうね。

2013-08-14

真相

噂・エピソードなどある物事に対する真実の姿、実状。
しかし、それが真実の姿といえるだろうか?
つまりは、今までと視点を変えてみた、新たな一面ということではないだろうか?

情報は送り手の思いでいろいろと脚色できる。
時の人の過去を悪く言うことを真相と表現したりする。
人生なのだから、いろいろとあるだろう。
だから、真相ということを局面でとらえることは
真相とは言えないのでは?

人間の真相、、、あるようでないものだといえる。

2013-08-13

有識

学問があり、見識が高い人。
つまり、、バカである。

情報化社会、
つまり、情報はあふれている。
知っていることは間接的に実現できる。
知識を持っている、それでは何もならない。
その知識をどう活用している、
それでどう食べているかが、人の価値になっている。

有識者といわれる存在、
そのカテゴリでは無能である。
その知識で、どう成果を上げたことで
その成果からの肩書き呼称にかわる。
有識者というカテゴリから脱却されることになる。

有識者のコメント、、
なんてクダリ、、
信じるほうが足をすくわれるから、読むに値しないと思ってならない。

2013-08-12

駐在

この言葉の意味が辞書などが曖昧になっている。

一定の場所に相当の期間とどまっていること。
官吏・商社員などが任務のために派遣された地にとどまること。

なんか、意味が伝わらない。
赴任、異動、転居、でもその意味がかぶるのではと思う。

駐在とは、駐車の`駐`、存在の’在’での熟語である。
駐車と停車との違いは運転免許の試験であるように、
駐車は運転手が席にいて、いつでも動けることである。
存在とは、そのものがその定点に置かれていることが
他人が認識できることである。

つまり、駐在とは

事があれば直ぐに動ける人が
動きやすい場所に配置されていること

である。

漢字の意味を考えず、
ただ単にそう使っているというレベルで
辞書や人の知識に蔓延している言葉が多い気がする。

正しい日本語というが、
辞書レベルでも正しさを感じとれないので
そもそも現代人の正しさってどうんだろう。

2013-08-09

渾身

案外、本来の意味をわかっていない言葉だといえる。
渾身の力
渾身の一手
なんて使われるが、渾身って、、、
答えは、体全体という意味。
それが転じて、自分の限界値というような使い方になっている。

僕はこの渾身という表現に違和感、、いや馬鹿らしさを感じる。
自分の体全体、限界までという表現を使うとき
だいたい、そんなものか、、それが限界、
という思いが強い。
また、渾身を使ったから、他ができないという言い訳の前置きのようでもあり、
人間の怠惰の現れとしか受け取れない。

そもそも、渾身という概念を出す事自体
自分が追い詰められているということであり、
そんな状況にする自己管理、責任がないのではと感じるほうが強い。

2013-08-08

琥珀

英語で言えば、amber であり
一種の宝石といえる。

樹脂が地下で長い年月で固まったものである。
なぜ、琥珀という文字になのか
上記のような科学的立証がされてない中国では色合いから
虎が死んで石になった姿、、ゆえに、琥珀だそうだ。
本当の意味ではないが、漢字故に間違っているが、それが名称といういい例である。

、、、
間違っているから、、という論点から考えると、
樹脂が地下で固まって琥珀、、
では、石油って古代生物の脂って説明してよな。現代教育。
琥珀と石油の成分全然違うぞ。
いい加減に、間違った説を広めてすみませんって言えないか?

2013-08-07

習熟

そのことに十分に慣れ、じょうずになること。
が、その認識は世代において異なる。
On The Job Training (OJT)で生きて人間は
「習うより慣れろ」
と言い出す。それが正しいと思っているのも事実。

しかし、現代社会はマニュアルが存在する。
何気なく、マニュアルと思っているかもしれないが
マニュアルが存在する=OJT否定
であることを理解しなくてはならない。

マニュアルがあるときに習熟度は
マニュアルに書いていることをいかに忠実に効率よく行うかであり、
慣れろ、、には価値はない。
「マニュアルに書いてないことはどうするんだ!」
って職人気質の人が自分の習熟度を誇るためか発言するが
「マニュアルを読んでいないのではないか、それとも読み方が間違っているのでは?」
と言われるのが本当の現実である。

OJTの習熟度は
属人的なスキル依存を生み、労働者に支配される職場になりかねない。
それで、ボイコット、サボタージュをやられたら、、
という思いで、マニュアル化を進めてきた背景がある。
誰でもできるようになり、そしてそれをこなすことが経営者が求めている。

我流、自己流でできている、、それで現場が回っている。
それを見て、昔の人はその人のもとでOJTで習熟を高めたいという発想だろうが、
その我流、自己流の人が現場に居続けるかどうかわからない以上、
現場としての習熟度は、転職すること、定年することのないマニュアルになっていくことは
時代の流れ、生き残りのための判断に他ならないといえる。

2013-08-06

署名

現代の署名活動に対して
すごく懐疑的かつ悪意を感じてならない。

署名活動はいろいろな社会問題に異議、改善を求めるものとされ、
民主’的’な動きに扱われるが、、あくまでも’的’であり、
法治、民主主義の遵法活動ではない。

そして、現在の多くの署名活動は
民主主義の手続ききまったことへの反対論であり、
社会を後退させる活動が多い。

民主主義、
多数決で決まったものに対して
自分は納得出来ないから、同じ思いの人と反対運動をしよう。
という論理は、ある意味民主主義ではない。
もっといえば、ある意味、署名活動という名のワガママでしかない。

署名した人の数の多さを武器に民意というが、
その数で選挙運動などをしないのは
なんかある意味、自分の都合を押し付ける活動でしかなく、
やはり、僕の持論のすでに民主主義は破綻しているを確信付けるものといえる。

2013-08-05

糖質

昨今、糖質、、つまり炭水化物ダイエットというものが横行している。
その成功者といわれる人が
炭水化物などの糖質を全面否定している発言があった。

、、それって人間としてどうかな?
ダイエットによって、人の尊厳を失ったと感じる。

人間の歴史は糖質、穀物の歴史。
古今東西、
穀物があって人は反映してきた。



トウモロコシ
に代表される穀物をどう生産して、そしてそれを通貨代わりにしてきた。
逆に穀物を使わない文明は
あったとしても、歴史上消されているに等しい。
穀物の糖質ありきで人は存在してきた。
逆に穀物だけで摂取してきても今に至っている。
もしかしたら、糖質が命に近い食糧なのかもって感じた。

僕はふと思った。
炭水化物ダイエット、
確かにそれで理想の体型になったかもしれない。
でも、その理想の体型って
長寿、健康体型ではないよね。
日本人の思う理想の体型って
短命な外国人体型だもんね。

理想の体型を得るために、命を削っているかもしれない。
なんか、からだを絞ったけど
人生はある意味’太く’’短く’なったんじゃないの?

2013-08-02

敬語

よってたかって、人はいつの時代も
敬語ができていないって口にする。
日本語の
尊敬語
謙譲語
丁寧語
は実に面倒である。

そしてこの論理矛盾を指摘しよう。

「あなたは敬語を正しく使えるか?」

これに対して、
○、☓、どっちで回答しても敬語ができていないことになる。

☓つまり、「いいえ」であれば
自らはまだ敬語がが使いこなせていないと自証したことになり
○つまり、「もちろん」と答えれば
その人は敬語、、謙譲の意味を正しく理解できていないことになる。

僕からすれば
日本人が自己表現が下手なのは
この敬語の存在が大きいといえる。
相手を敬い
自分は謙る
ここに自己主張が良くないという社会構造が成り立っているからだ。

また、時代とともに
正しい敬語についても変わる。
以前、このブログでも書いたが
「ありがとう」
はそもそも、敬語ではなく、、ある意味現代語の「超~」「すげ^ー」と変わらない言葉である。
それを正しい敬語と盲信している事自体
日本の敬語表現の底の薄さ、表面的な取り繕い文化が
滲み出ていることがよく分かる。

敬語で騒ぐときは
得てして、自分の脳力が他人に蔑まれている時であるのだから
自分を磨くか、他人と接しないことに注力するほうがあるべき姿といえるがね。

2013-08-01

組合

何らかの目的で設立された団体。
民法上は、複数の当事者が出資をして
共同事業を営む契約をいい、また、その共同事業体。
現在において、
<組合>という言葉、存在、役割が
意味を成してい、、いや逆に虚無感を抱かせることになっている。

一歩引いて考えればそうなる。
個々の意見が多様化した結果、
共有する目的意識が希薄化する。
また、コミュニケーションとしての大義として組織活動が
IT,SNSで仮想空間で好きな時にできるようになっている。

ここまではよく言われる話であるが
もっと重要な現代人の特性が
所属意識、帰属意識の倦厭する傾向がこと強くなっているということだ。

今までの日本人は
どこかに所属したいという恐怖観念が強かった。
そのために、就職、地域組織ということが常識だった。
しかし、現在はその意識どころか
「自分は染まりたくない、縛られたくない」
と言いだし、他人には
「あんなところにお前は言えるのか?!」
なんて言い出す。

組合の低迷はある意味
氷山の一角であり、
基本的に集団行動、そのものがなくなる過程のさなかかもしれない。
「そんなわけはない、だって人間は、、」
そういう思い込みが大きな事故になることは今の社会では一番危険リスクなことを忘れずに、、

2013-07-31

難問

世の中には難しい問題が多い。
その問題に対して、多くの回答は、、、

昭和の時までは
「すみません、自分にはできませんでした」
現代は
「そんな問題を自分にさせるほうが悪い」
となっている。

この傾向は結構やばいと思っている。
何がやばいか、、
それは向上心と周囲への影響認識が非常に希薄であり、
社会全体の発展が停滞すると確信できる。

「できないことが悪いこと」
この認識はある意味、効果的だ。
だからこそ、できるようになる努力とできることへの憧れを触発する。

「出来なくて当然、そんな問題をだすほうが悪い」
というなると、今が正しい、改善していこうというしない姿勢は
全体的、相対的に低下を招く。

基本、世の中、、自然界は難問ばかりだ。
それに挑むことこそ、生きるということではないかといえる。
だから、
「そんな問題を自分にさせるほうが悪い」
って発言は、、自然淘汰してください、と等しいと思うのだが、
そういう発想を道徳的におかしいと指摘されることが多いが
そもそもその考え方のほうが、自然界的におかしいのでは?と感じてならない。

2013-07-30

電化

日本では原発問題でかなりイメージが悪くなっているが
冷静に考えれば、電化に進むことが人間の進化、経済成長になっているといえる。

電化の主なところは
発動機を電力にて賄うことであり、
電力にすることで、
・稼働の単純化
・燃料の運搬コスト
・扱いの安全化
を実現させている。

今の日本は論点がおかしくなっているが
電化を進めることは、悪どころか
日本の大好きなものづくりの根幹に関わる必須であり、
そこを否定するような各種意見ははっきり言えば
自分で自分の首を占めている愚行と思ってならない。

考えてほしい。
現在身の回りにあるどんなことでも
必ず電化の力に頼っているのが事実である。
電気を使わない生活って言っている人間がいて
水道水を飲み、道路の信号待ちをしていることは
電気とは関係ないって言い出している論理がまかり通っていた。
それだけ気づかないレベルまで来ている電化が進んでいる昨今を考えて
電化の重要性をもっと理解すべきだと言い続けたい。

2013-07-29

空転

何の成果もないまま、物事がむだに進行すること
空回りしている状態。

僕からすれば、
多くの議論が空転状態で無視すればいいと思うことも
・民意
・個人の尊重
という話で聞かなくてはならないのが現代社会と言われる。

多くの意見を聞きすぎて
何もできない、、
社会そのものが空転していることへの自覚はあるのかねえ。

意見を言うくらいなら、行動を起こせと思うことばかりだ。

2013-07-26

炭素

漢字の先入観でイメージを悪くしているものといえる。
逆に言うと、こういう漢字があるから
日本にカタカナが横行しているといえると悟っている。

炭素繊維、、
超高度磁器、

と言われると
炭でしょ、
磁器は磁器でしょ。
となるが

カーボンファイバー
セラミックス

といわれると、なんか凄そうに感じる。

漢字が象形文字のように
目に見えるものから連想してなりたっている。
しかし、科学技術が進歩すると
その目で見えていたものは実は違う、
もしくは別の効能があったときに
すでに名称が漢字与えられているものイメージがあるために、、、
あたかも違うものにしてしまうこと、、
それがオリジナル外来語のカタカナ表記であろう。

カタカナばかりの日本語になって
わかりづらいという声もある。
しかし、漢字の特性上
その漢字の成り立ちが今の科学技術の証明と異なることが多いための
ギャップとも言える。

まさか漢字を採用する際に
科学技術を意識、、そもそも化学の概念がなかったのだから
無理はない。

漢字に限らず、多くの言語が抱えている問題である。
既存の単語では表せない意味を科学が生み出している。
その乖離が大きくなりすぎて、、意思疎通が取れなくなっている。
もしかしたら、言語体系そのものを変革し無くてはならない時期になっているかもしれない。

2013-07-25

余韻

自己主張が蔓延する現代、
余韻にひたるという概念が薄れてきているなあって思う。

それに対して、2つの意見がある。
一つは
他人の言動に重みがない、全然記憶に残らない
もう一つは
自分のことで精一杯で他人の言動を理解する隙がない

どっちもどっちで、人間としてゆとりがなくなっていると感じる。
情報が多すぎて、、、個々人の処理能力が追いついていない
つまりは、考えていないレベルのことが多い。
考えているつもりでも、、それは処理をしているということに他ならない。

余韻にひたるということは
ひたるのは自分であり、そのきっかけが他人の言動である。
相手のせいに、、もっと言えば、古人、むかしの作品に目を向け
それから受ける思いを素直に思い、考えることが
余韻にひたるという思いではないだろうか。

少しでも余韻にひたる時間をもつことは
きっと心のリフレッシュ、次のアイデアの源泉になるのでは
常に思い、古書などに手を伸ばす今日このごろだなあ。

2013-07-24

新興

日本近隣の国が
新興勢力として、国際市場で羽振りをきかせている。
日本人としては、それを揶揄する人も多いが、
考えてみれば、日本がバブルの時に
・有名な美術品を多く落札
・海外の不動産を買い漁り
を行なっていた。
その際に、欧米諸国のメスメディアはちょうど今の日本のような感じで
・ジャパンバッシング
をしていた。
・敗戦国のくせに
・今までの経済援助を仇で返すのか
という論調でまさに今の日本のような感じだった。

ある意味、
盛者必衰、
新しい息吹がおきると
今までの息吹は、、新興勢力を批判することでしか自らの存在維持できないのか、、
歴史は繰り返されるという良い教訓かも
だからこそ、日本にやられ、そして今の新興勢力にもとなっている
欧米諸国の振る舞いを、真似る、反面教師にする気持ちがとても重要といえる。

2013-07-23

定義

突然だが
メンチカツというものをどうカテゴリしているだろうか?
メンチカツはメンチカツと言い張る人は、
知的考察力をもっと鍛えたほうがいいという前提で記そう。

幼少期、当時の肉屋でコロッケとメンチカツを買っている時に
母に尋ねた
「コロッケとメンチカツは見た目が同じだな」
母は
「中身にじゃがいもを多く使っているか、お肉を使っているかの違いなの」
って説明された。
自分では、コロッケとメンチカツは具材の違いで製法は同じって理解した。

ところが、
小学校の友人の家で食事をごちそうになった時
市販のハンバーグに衣をつけて揚げていた。
それをメンチカツとして出された。
自分の中ではショッキングだった。

自分のコロッケとメンチカツの定義ではなく
ハンバーグとメンチカツというものが出てきて
具材はほぼ同じで、製法が異なるという点だったからである。

VS コロッケ
VS ハンバーグ

でメンチカツの定義は異なるということを強く理解した。

同年代の小学生では
「お前の家の料理、間違っている」と言い出すことが多い社会だが
僕はその事実を自分の中で、定義の違い、それが各家庭、個性になることを悟っていた。

たかがメンチカツであり、多くの人は物事を一義に考えるが
比較対象の存在があればあるほど、
いろいろな定義に変わるし、、しいて言えば、
自分の定義なんて氷山の一角のようなものでしかないと思うべきだろうな。

2013-07-22

面白

面白いことってなーーんだ?
言葉で説明出来る人は少ないだろう。
楽しいこと、
ワクワクすること
、、、なんかちょっと違うので?

ある人が最適なことを口にしていた。

面白いとは
未だやっていないことをやってみること

だそうだ。

これって正解だといいたい。

面白いことを期待するということは
曖昧なイメージ、、、つまりは未だわからないことを思っているといえるからだ。

面白いことをする
それってチャレンジ、冒険だと思う。
現在の効率化、リスク回避、経験重視主義の現代社会。
だから、面白くない、つまらないって言い切れる。

面白いことをする、させるような環境づくりが
今の僕の使命と思ってきた!!

2013-07-19

名誉

価値があると自他共に認め、それを自らの尊厳、誇りと見なすこと。

だった。
僕から言わせれば、
名誉 という言葉はすでにその意味ではない。
今は

現役ではない

という意味と言い切れる。

名誉会長
名誉教授
名誉市民

と今まではそうであったが
今はその威光の残りで生きている。

僕としては
名誉~
になるくらいなら、死んで評される方がいいと思う。
それが本当の人の価値だと思うからだ。

2013-07-18

神話

英語で言うと、mtyh
そのmyth の意味は
・神話
・作り話
つまり、神話とは人間の創りだした作り話にすぎない。

有名なギリシャ神話は
ほとんどといっていいほど、
ギリシャでは作られていない、
後付けでギリシャ神話になり、今日に至っているそうだ。

そんなのギリシャ神話ではないという人がいたというが、
そもそも、作り話に真偽があるだろうか?
そこに論点を当てる愚行はあほらしい。

問題は、なぜギリシャ神話が作られ
そして、なぜギリシャ神話のカテゴリに後付けまでしてきたかということ。

要は
統治論、
正当性の立証、
神という存在を認識させて、
自分たちが王権神授の名のもとに行なっているといいたいがため、
日本の古事記もまた然り、、

神話、、
一番人間臭い自己満足の書にほかならない。

2013-07-17

桉樹

何て読むか?
答えはユーカリ。
日本では、コアラの食事で有名な植物と言える。

とても生命力が強い植物で
葉っぱには本来、毒素があり、
通常の動物では食用できない。

コアラはその葉っぱでも特定の新芽のみを口にして、
コアラ特有の腸内細菌で毒素も含めて分解して、栄養を取っている。

もともと、コアラの先祖は他の食料を取っていたが
生存競争の結果、ユーカリの木の上に追い詰められたとされる。
それゆえ、ユーカリの新芽しか食べない生活になっている。

しかし、考え方を変えれば
生命力がつよく、オセアニアの4分の3を占める植物
その葉は毒素があり、他の動物では口にできない。
その新芽をうまく食べて生活しつづけるコアラは
ある意味、食料問題をオセアニアで一番克服した種といえるかもしれない。

人間側の視点に立てば
追いやれて、ユーカリの木の上ととらえているが
視点を変えれば
安全な天国で自分しか食べられない食料を好きなだけ食べられる生活を
謳歌しているということもできるのでは?

要は、受け取り方、考え方、それだけの違いにすぎない。

2013-07-16

換気

夏冬問わず、
室内の空気と外界の空気を入れ替えることを
社会は推奨している。

外界の新鮮な空気、、、
はーーー?
考えてほしい。
室外機にて部屋の空気を外に出している。
ある意味、使用済み空気だ、
それが各家庭、それも密集している日本において
外の空気とは、自分も含めて
室外機にて出されて使用済み空気に満ちている。
待機全体で考えると微々たるものというが
近所の室外機から出ている空気の密度は近いほど高いと言うことは
小学校の理科の撹拌の実験でも明らかなことだ。
また、微々たるというが、
フロンガスなんて本当に微々たるものと言えるのに
オゾン層を壊してたと言われている社会において微々たるものといえるのだろうか?

日本人の多くは
こんなに世界で誇れる浄水されている水道水であっても
飲料水を買っている。
では、それ以上に浄化されていない空気を
換気をすることに抵抗がないのか?

換気に比べたら
水道水は本当に浄化されているとつくづく感じる。

2013-07-12

蜻蛉

何て読むか?

とんぼ
かげろう

どっちも正解である。
しかし、トンボとカゲロウは全く別の昆虫である。
違うのに同じ。
日本語がおかしい、、、、とは言えない。

たとえば
蝶と蛾という表現。
英語では butterfly and moth だが
フランス語では papillon と一つになる。
蝶と蛾を明確に分けることに意味を感じていないからだ。

また、
鷲と鷹と大きさで日本では区別するか
英語では
eagle
hawk
vulture
condor
falcon
と5分割していた。

言葉とその科学的解析が必ずしも伴っていないゆえ、
見た目やそのありようで、同義、区別は人間の主観でされる。
もっとも、科学的解析もある視点での人間側の勝手な判断でしかすぎない。

正しい言葉を使うとして
それが科学によって覆されることもあり、
いろいろな意味で正しさというものは今一瞬のことでしかないのかも?

2013-07-11

表現

「お前は記憶違いをしている」
と発言されることが多い。
が、自信を持っている僕が正しいといえる。
そのくらい常人ではない洞察、記憶をしているからだ。

その分思う。
当時、その人の思っている認識と僕の思っている認識とが
少しでも齟齬があるとそうなるだろう。
つまりは、相手が僕である受手の理解への遊びがないからだろう。

例えば
「よかったよ」
と表現をその雰囲気で理解したつもりで
自分は素直にその言葉通り理解しても
相手は皮肉で言っているが、それが僕に伝わらない表現力だったとき、
その言葉通りの記憶でも
相手は後日
「よかったなんていっていない、記憶が違うぞ」
と平気でいいだす。

人間は表現と思いが必ず一致しないという前提が必要。
そして、思いが表現を凌駕するので
周りの認識と自分が合わないと、自分の言っていることが通じないというストレスを受ける。
日本の教育では
国語や現代文の授業をあれだけやってきて
結局は心情の読み取りなんてできない無駄な時間だったと思うと同時に
自分の心情と表現の齟齬を前提に考え
相手の表現をそのまま理解しながらも
また、自分の表現も理解して
相手がどう受け取ったかの反応を経験として蓄積してその人の傾向を掴むしかないと思う。

だから、記憶違いなんてことはまず無いだろう。
それは、相手の表現が心情と連れているというであり、
その人の表現力のなさか、心情が僕の理解できないところにあるということで
僕はその経験を蓄積して、他人との接し方の考察を深めるしか無いとおもうだけである。

2013-07-10

稽古

多くの人は練習すると同義に感じているだろう。
しかし、この熟語を紐解くと、、、

稽:考えるの旧字
古:歴史あるあらまし

つまり、稽古ということは
歴史的に積み重ねてきた行為を自らで考えて行う
という意味である。

だから、稽古をする条件として
・歴史ある行為を今に伝える存在
・それを自分なりに解釈しようとする存在
という2人格が必要である。

伝達媒体の多様化で
伝える存在が必ずしも生の人である必要はないとされるが
その媒体に映す元は必ず生きた存在であることは変わりない。

稽古とは練習というより
継承であり、それをどう今の時代に合わせていくかということを
考えることが必要である。

稽古をつけるということは
伝承させること
自分なりに解釈すること
のふたつが成り立っていないとならない。

ふと思う。
現代社会って稽古をつけるという行為そのものが
なくなっているといえるなあ。
これって、
効率化、
それともコミュニケーションの希薄化
いや、両方ともであり
なるべくしてなった結果そのものだといえる。

2013-07-09

敬虔

やまいつつしむ気持ちの深いさま。特に、神仏を深くうやまい仕えるさま。
日本人の多くには馴染みがないが、
世界中では、敬虔ではないことのほうが異常とみなされる方が多い。
これが日本人の大きな世界観の過ちであり
英語を勉強する以前にこういうことを知るべきだと言える。

日本人が思う以上に
世界では神の存在は絶対かつ身近である。
それゆえ、発想が逆であり
敬虔ではないことのほうが理解できないとみなされる。

例えば
休日に仕事をすること、
僕個人としては許すことにしているし
日本においては問題意識すらない。

しかし、神からもらっている祝日に働くのは背徳であるし
拝礼にもいかないのはどうかしているとみなされることが多い。

だから、日本基準で納期優先とかの名目で
フル稼働を要請するのは、国際的に間違っている認識とされることも
考慮するべき事案である。

国際化といい、いろいろと語学、世界情勢などの知識、技能を身につけても
他国の<常識>、日本で言う敬虔が当たり前ということを理解できないからこそ
国際的な成功が難しいといえる。

そもそも、こういうことを考えれば、無駄な国際化が
それぞれの国民の信仰の自由への弊害となぜ世界社会が気づかないか
不思議に思うレベルである。

2013-07-08

身長

人は大きなってきている。
統計的な情報でそう言っている。

本当だろうか?
もし本当なら、、歴史家の今までやってきた研究は無駄になるだろう。

戦国時代、
身の丈八尺の大男

鎌倉初頭の弁慶やそれ挑んだ猛者

三国志時代の英傑

どう考えて、現代人より大きい人が多く存在し活躍した。

ただ大きいだけの人間は存在しても
彼らが活躍したという歴史家の古文書の解釈を信じれば
現代人は小さくなっているのではないだろうか?

現代の医学を信じるが
過去の事実を研究している歴史家を信じるか
ある意味、学問の進化がいろいろと矛盾をどんどん増やしているようで
人の研究って信じられないレベルになっているなあ。

2013-07-05

鍛錬

金属を打ってきたえること、、、、
転じて金属のような固いものを鍛えるようなきつい苦行で己を磨くこと。

鍛錬行為を美徳としながらも
実際のところ、その行為を非効率とみなすことが多い現代社会。
鍛錬を行っている時間、労力、不確実な結果の可能性を鑑みたら
鍛錬は極めて非効率と言い切れてしまう。
ある人からすれば、
鍛錬はある意味自己満足、ただの趣味、性癖に近いとまで言い切る。

それは言い過ぎと思う一方で
真っ向からその論理を否定出来ないことから
ある意味、現代では鍛錬はそういうものとなるのだろうと悟ってしまう。

2013-07-04

本格

本来の格式に則っているという意味。
嘘である。

だいたい、市場で「本格」という表現を使うときは
・値上げ
・既存との差別化
であり、本来の格式という概念とは全く逆の発想になっている。

本格という言葉で
今までの積み上げてきた、そうなってきた既成事実を否定し、
自分の論理を正当化させるのは
かなりおかしく感じる。

正しさを求めると結局、嘘になるような人間の性の現れか?

2013-07-03

包括

勘違いの源泉になる条件である。
一方は、包括されていると思っていても
他方は、それは包括されていないということが多い。

文字上、多くのことを包み込むという感じが受けるが
全てではないときに使われる。
全てだった場合はわざわざ、包括条件を定める意義がないからだ。

どこまでが
どういう理由で
包括されるのか、
そこを自分としてだけでなく、
その関係者に共通認識をもつことが極めて重要なのが現代の
契約社会だと思う。

それなのに、現代社会は権利ばかりの主張が多く
自分の思いの包括条件が押し通すことが多く感じてならない。

それって、契約社会の中に<包括>される対象にならない、、なれないのでは?

2013-07-02

外来

日本固有の種を守る。
そのために、外来種を入れないようにする。
当然のように言われる。

また、日本古来の文化や食生活を守るために
入ってくるものに関税をかける。
これも然り。

としながら、
日本の企業は
グローバル
海外進出
が至上命題のように活動している。
自分たち守るとしていることを
他国に仕掛けるというのは
なんて身勝手なことだろう。

どの国も同じ論理で国際社会を生きているというが
それは勝ち組に論理であって
国際的な通貨経済概念のない国
軍事力や政治制度が現在の欧米論理にあわない国
のほうが実は多いし、それの多くが途上国とみなされている。

発展途上という論理で他国に押し付ける発想は
なんか、危なくないかなあ?

全く理解できない概念で宇宙人が攻めてきて
占領されることが許せないと日本人は言う。
しかし、それと全く同様なことを
今まさに途上国に強いていることは理解できているのだろうか?

いつ今の日本人と同じ思いに
途上国が思い始めるかわからないだけに、、

2013-07-01

文献

文書と文献の違いは?

文献は研究上の参考資料となる文書で
献は賢い人という意味だそうだ。

うーーん、
じゃあ、僕の認識では
すべてのものが、文書だと言える。
賢い人っていう定義がすでに賢くないし
参考にしたからと言って、説得力が増すのは
鵜呑みにする無知な輩に対してだけであるから。

文字の発達で
他人に時間、場所を超えて伝えられるようになったが
その分、他人の言動が文献のように影響力を持ち続けるのは
社会発展を考えるうえで、どうだろうという時期だと思うだけに、、

2013-06-28

接続

21世紀は接続の時代だといえる。
確かに20世紀も接続の概念は強かった。
接続という接点を持つということが多く
接続の続、、続くという概念は
社会的
技術的
習慣的
に厳しい状況だったといえる。

21世紀になり、常時つながっていることが当たり前になっている。
電気信号的
人的
組織的
契約的
につながっていること、、ネットワークこそ価値になっている。

個々人の能力を評価する社会構造のようでいて、
実際は集合知を求める。
本来評価すべきはその集合知の源泉のはずが
それを使っている末端への評価しかできない。
そりゃー、社会構造的にいろいろと破綻しているといえるわな。

2013-06-27

良物

「自分たちの良い物を残しておこう!」
実に耳障りな発言といえる。

良い物であるかどうか、
時の権力者が決めるもので
過去、負け組の人間の発想ではない。
逆に、それをいいものというから、負け組になるわけであり、
良い物ではないということだ。

今の日本の古美術、
あたかも日本は昔から良い物を作っていた、、と勘違いしている。
日本の古美術はどんどん安く売り
外国産のものを買い漁った。
先進国産=良い物としていた。

その中、先進国側のフェノロサにより、
日本の古美術が評価されてきているわけであり、
自分たちの判断ではないところがある。

買収された側の企業の社員が
「自分たちのいいところを新しい会社に」
なんていうが、そういう発想だから買収されたということを忘れている。

どうも日本人は部分最適、自己判断を従うが
良い物なんてものは、それを持つもの依存である自覚を高めるべきだ。

2013-06-26

改心

切り口を変えれば、裏切りそのものである。
今まで、自分の信じていたことを覆すことは
覆す側にいた側の意見としては改心だが
覆された側のの意見としては、今までの関係への裏切りに他ならない。

世界で多く逸話とされる
改心する人の話。
改心する側からの視点すぎるが
実際のところ、人間の裏切りの歴史を物語っている。

信用信頼を重視することが社会のように言われるが
自分勝手に信用信頼を覆すことが
改心ではないかと思うのは、ある意味、悟りの境地か?!

2013-06-25

官報

国が出す機関紙である。
法政令のことなどが、記載されているが
官報を国民が読むことは少ない。
出しても読まれないのが事実である。
その内容を
・事前
・簡略
・図示
した民間報道のほうが多く伝播される。

対して、白書の存在意義は大きい。
その白書の内容で
経済、株価が動くことが多い。

しかし、官報と白書とでは
重みが違うと出す側は思っている。

その認識が国民と乖離していることこそ、
国政がうまく回らない理由の一つではないだろうか?

2013-06-24

財布

僕のように自己管理している輩からすると
どうなっているんだろうと思うことの一つに
財布、そのお小遣いがある。
家計のやりくりでお小遣いという制度を使っている人がいると思うが
現代社会において、現金支払だけが決済手段ではなくなり、
僕の場合、現金を使わないで一週間過ごすことが多くなった。
・電子マネー
・クレジットカード
・ポイント使用
など、小口現金決算ではなくても買い物できるようになってきている。

それどころか、
欲しいものをリアル店舗、、、こういう表現が当たり前になりつつあるように
ネットで購入すると、受け取り払いもあるが、決済代行での取引になり
財布から支払うこということは少なくなってきている。

家計のお小遣い制度、、ある意味、、浪費対策などいと言われるが
現実問題、、浪費しないから、今の不況がある
という考え方が僕は正論と思うだけに
お財布のお金、どこまでがお小遣いのレベルなのかなあ、、
また時代とともに変わってきているのかな?

2013-06-21

野菜

「食のバランスを考えて、野菜を摂るように」
と当たり前のように言われる。

それって疑うべき話ではないか?と感じる。
食の種類が増えて、いろいろな食材を口にできる。
そして、サプリメントや代替食品でそれを補いえる。

食材として、おいしい、味わいがあるのであれば
その野菜も食材として、価値があるだろう。
しかし、この飽食かつ栄養ブームの昨今、
無理してまで嫌いになっていまった人が
野菜を食べるべきだろうか?

無理を嫌い
野菜を食べていない人のほうが健康的な生活をしている事例も多い。
逆に野菜中心の生活で短命な人も多い。

食物繊維やビタミンなどの言葉で
野菜の重要性が当たり前に言われるが、
それ同じくらい、魚肉に効用はあるような気がするが
そこに言及しない世論。

なんか、国策、業界的に
プロパガンダ的に踊らされているのではと思う。

だって、とても栄養価高く、
肉よりうまい野菜を市場に出せれば
わざわざ効能とか言わなくても市場価値はあるのに、
そうできない農業研究、農政の問題に全然言及しないのは
裸の王様レベルでしか見えないだけに、、

2013-06-20

不服

納得がいかず、不満に思うとき、
不服申し立てを起こすという話を聞く。
それって、無駄な努力であると結論づけていている。

制度として、不服申立ては存在する。
しかし、不服申立てというものは機能できるだろうか?
制度通りに従って、その処理がされるが
その処理の過程で、他の人の不服申立てを誘引させることも多いし
その人の個人の不服で、多くの人が不利益を被るのは
民主主義、公共の福祉の観点で許されない。

不服申立ての多くは
当人がより不服に思うが
違う誰かを不服にさせるだけであり、
負の連鎖になるだけだと言いたい。

では、不服に思う場合どうすればいいか?
根本的にその発想がも違っていると考えるべきではないか?
不服に思うのであれば、
その組織にいる事自体が間違っているので
その組織から離れる努力をすべきであり、
チーム、会社、団体、そして、国民というレベルで離れるべきである。
それができないのであれば、
不服ではなく、服従するしかないという割り切りをしないとならない。
不服な思いは組織的なワガママで許されないという判断である。
個々の思いを実現させたいなら、
それ相当の捨てる覚悟が必要であり
不服なんてものは甘えにすぎない自覚があまりにも現代人は足りないと言える。

2013-06-19

株主

携帯電話会社の株主総会で
株主が「スマートフォンの性能が、、」
って株主質問をした。

経済記者は
「目標達成できなかったこと」
「来期の目標や責任のとり方」
などを気にするが、、、

株主のその株主質問からすれば、
記者の気にする質問ってどうでもいい、
あげ足取りのバカ問答に感じてならない。

株主って、
企業の所有者であり、ある意味ファンである。
そのファンが企業に期待する質問こそ
本当の株主質問であるべきで、
今回の株主質問は実に正しい心からの質問だと思った。

経済、株価、引責、で数字に振舞わされる昨今。
考えてみれば、株主=支援者=顧客であり
その人への貢献こそ、
企業の存在意義だということ。
を、たったひとつの質問で、経営者として我に返った感じがした。

2013-06-18

図解

文字は詳細を伝えられるが、読みこなすまで全体が捉えられない。
絵は一瞬で概略を伝えられるが、詳細はそこに表せない。

説明をするときに、絵と文字のバランスが重要と教えられて、
そして教えてきた。

言葉では伝わらないこと、
絵だけでは足りないこと、
その事実は実際に説明や講演してみて
反省しないとわからないという事実もある。

なぜなら、わかったかどうかは
自分ではなく相手の理解、反応によるものであり、
自分の感覚ではない世界なのだから。

しかし、現代人の説明は
「わからないほうが悪い」
「聞いていなくても構わない、自分はやったという事実あればいい」
という傾向が高い。
個々の能力を尊重する能力主義の成れの果ては
ここまで来ているという思いにも繋がる。

図解をして、相手に理解して一緒に行動するということは
ある意味、手柄を相手に分配し無くてはならないということ。
その事実を認めることができない、、いや意味がわからなくなってきている
能力評価において、図解はある意味、、もういらない過去の遺物になるかもしれない。

ただ僕は思う。
紙芝居、アニメーション、漫画を楽しむ気持ちがあるなら
まだ人は図解を楽しみにながら表す喜びを残るはず、
その気持ちを自らの活動に示してほしいなと。

義務教育の授業で書いたパラパラ漫画や落書き、
実はその描くすきるこそ、図解の入り口であり、
社会では義務教育よりも重要ということを世の中に伝播させたいと思ってならない。

2013-06-17

万全

すべての条件を満たした状態であること。
それを是とすること自体、否であると言い切れる。

万全な状態を求めることが
何も始まることもできない状態に等しい。
また、万全な状態であること、それ自体があると言い切れること
それは、ある意味すでに不完全な状態であるといえる。

万全をめざし、万全ではないからこそ、
アクション、付加価値を挟み込めるといえる。
万全なものを目指すその行為が社会活動といえる。

「万全ではければ、活動するわけにはいかない」
「万全な状態でない中での活動はやり直すべきだ」

という発言を当然のように口にすることがあるが、
その万全が確実になることがあるだろうか?
もっと言えば、万全と思っていたことが万全ではなかった場合は?
そういうことが起きうることのほうが日常茶飯事である。

万全ではないからこそ、
人はいろいろと思考や技能を磨く、
それが進化であり、成長、、人が求めるものそのものな気がする。

2013-06-14

制度

人間行動の定型化されたパターン。
社会関係を円滑に営むためのもの。
社会を構成する集団の構成者や
その社会の統治者によって定められた決まりごととして定められたもの。

と言われるが、その認識ももう古いといえる。
制度が未整備であれば、
制度を作ることで円滑になる。
しかし、制度作った時点、それは古い認識になり、
後の足かせになることが多い。

つまり、制度があるために円滑になっていないことが起きうる。
というより、制度そのものが阻害要因になっている。
規制緩和や新しい制度の改訂ということの繰り返しが求められるが
その繰り返しが円滑をもたらすのか
そもそも、制度という発想自体が問題なのか
制度を企画する側としていつも悩む。

2013-06-13

抄訳

原文のところどころを抜き出して翻訳すること。
これがコミュニケーション力のあるなしにつながる。

人は聞いたものをすべて他人に伝えることはできない。
伝えるときの状況は、毎回異なる。
そのときに、どう抄訳して伝えるかこそ、
人とのコミュニケーションの力となる。

話し手の一番言いたいことや理解する
聞き手のほしい情報を即座に伝える

その抄訳力がその人の価値そのものと言ってもいいのではないかと感じている。

何が重要で
何を伝えなくていいのか

を、判断できることある意味
一人前の社会人になっているといえる。

不思議なもので
よく理解するということは
どれだけ抄訳の上で、切り捨てることができるかということである。
すべてを求める人はこの考え方にたてないから
ある意味、仕事ができないといわれるのだろう。

2013-06-12

条件

条件というものを説明できるだろうか?
結構難しい言葉である、

なになにならば、、、、英語でいうと、if という使い方もあるが
法律だと附款、、権利の不確定未来にむけての意思表示というものある。

現代人は色々なことに条件をつけている。
前提条件、開始条件、条件付き、、とかで、
しかし、その条件という概念をうまく説明できている人は少ない。
条件を使っているようで、条件に合っていないこともある。

高度化されている現代、論理性、納得性の意味で
条件とか使うけど、ある意味一人よがりの
自分が一番という<条件>を互いに強要させている、、
理ではなくただの力関係でしか無いような気がする。

2013-06-11

叩上

現代社会、
新入社員で就職した会社のトップ、、いや今では管理職に着くことは
かなり稀になってきている。
それは、日本だけではなく、
グローバル的にその傾向はある。

表向きは、
実作業と経営管理は異なるから
その専門家に任せるとされる。
しかしだ、
欧米と異なり、
ホワイトカラー、ブルカラーで分けて壁が大きいわけでもなく
労働組合が企業ごとになっている
日本において、
実作業を知らないで経営管理の専門って成り立つのだろうか??
そんな思いがしてしまう。
自分は現場を知る企業の創業者に位置するからだろう。

この先に企業のトップって2極化するのでは
創業家と天下りに、、
、、、いや?待て、、
これって、幕末、明治維新以来その流れだった。
ある意味、原点回帰なのか?

叩上、その人達の目指すところは
企業トップ、、
技術の高み、
高価な報酬、
価値の多様化でどれでもありえるが、
現場を効率よく回すことができるのは、、やはり叩き上げであり、
彼らの真の価値、そして思いはそこにあるのではと思うんだけどね。


2013-06-10

若者

現代日本人の矛盾を感じる。

老いていくと、若さを求めるが
若者をどんどん軽視、馬鹿にする。
若者でありたいくせに、若者と一緒にされたくない。

若さをどう捉えるか、
元気で健康であることばかりにフォーカスするが
それは必ず、未熟で無知でもあると側面をもつ。
現代人はなんでもいいところばかりに目を向け
悪いことを認めないが、必ず長短は存在するのが、自然の摂理である。

何かを得れば、何かを失うということを認めない思想は
幼稚で稚拙な発想なのだが、、
その思いこそ、現代人が今までの蓄積を持ちながら若者でいたいという
<若さ>だと思う。

年取っても、夢見る若者でありたい、、、
外国人からすればキモいそのものなのにね。

2013-06-07

不文

「わざわざ言わなくても、、」

今までの日本人の思想であり、
それでは、グローバルではないとされる不文の思考。
人間には不文律でわかることがある。
、、、それは特定の人の思い込み。

契約書に書かれているかどうかそれが基準になる考え
儒教の意識が皆無な世界

わざわざ言わなくても、、の前提に
それは今までの人生でわかりきっていることのはずという認識がある。

それはもう通じない。
人生の認識が地球規模で個人の思っているレベルではない。
むしろ逆に
書き残っているものこそ、根拠でありそれ以外はどうでもいいという考えも
ある意味、国際社会のあるべき、、、
それこそ、、不文律といえるだろう。

言わなくても、
当たり前
という発言はタダの負け犬になるので控えることを心がけよう。

2013-06-06

過去

昔という発想ではなく
今ではないというべきだろう。

入試問題で、よく「~だった。」という表現の選択肢は怪しいというように
現在からみた過去認識は現在の事象と異なることが多い。

というよりも
現在もそうではないからこそ、
過去形ということになる。そうでなければ
現在形
現在進行形
現在完了形
と、現在という今に関わるからだ。

だから、過去とは今では決別していることであり、
今と過去はつながっていないと認識すべきであり、
「過去からずっと」
という表現や認識は間違っていると僕は強く言いたい。

2013-06-05

正解

問題に正しくこたえること。
当たり前のようだが、
実は逆なのが、現代社会。

100人がいる。
99人がみんな同じ答えで間違えて、1人だけ正解だった。
99人は言うだろう。
「99人がいいっているんだから、それが正解だろうが」
「そもそもそんな問題が悪い、合っている奴もなんか怪しい」
それが現代社会。

正解の根拠は正しさではない。
民意になることが実に多い。
法律がそう定義していても
自然の法則どおりであって、
多くの人が賛同すれば、それが正解であり、
正しいとされているものに賛同されなければそれは間違いとみなされる。

悲しいもので
入試問題では少数派の回答が正解で合格して
その成績のまま卒業、就職した新人
その思いで挫折する。
今まで正解だった回答が受け入れられない。

人間の多くのストレスの原因はまさにここにある。
自分は合っていると確信していても
それが賛同されず、間違いとみなされる。

正しさが民意、権力に握られていることが民主主義と定義もできよう。
そして、民主主義である以上、
定型的な正解を導くことは純粋ではない制約があるともいえる。

2013-06-04

論理

論理学の本を読んで納得した一節がある。


論理の反対は、非論理的、、ではない、事実であることである。
事実が出てくると、論理である必要がなくなる


そりゃそーだ。
そして、そう考えると、論理的ってあまりにもアタマのデッカチなことだなあって思う。
予測、計画、予定調和を求めて、現代社会は成り立っている。
それは、今までの過去の予測の積み重ねで
現在の予測がいかにも論理的だからだとされる。

、、、視点を変えると
嘘にもっともらしいことでもっと嘘にして塗り固めたものが
論理ではないかという見方もできる。

論理的であること、、それいかにも胡散臭い、詐欺めいているといえる。

まーー、今起きている多くの詐欺事件、
根本的には被害者としされる人が
論理的理解した結果なのかもしれない。

いろいろと考えれば
どこまでが論理的立証か、そして詐欺発言か
わかっていると思っている人ほど
騙されているのではと思う。

2013-06-03

前夜

いろいろなイベントにおいて、
その直前に催されるプレイベントが前夜に前夜祭として行われる。
ある意味、そこが気持ちのmaximumではないかと思うのと、、
その前夜祭に迷惑を感じる人も多いというのも人間の性と思う。

イベント開催期間は事前告知があり、
その情報に基づき、いろいろと地域準備されるが
その前夜祭には、ある意味非公認ゆえに無法化される。

イベントを楽しむ者からすれば地域住民に対して
「なぜ盛り上がらないか、わからない」
とクレームを挙げるが、当事者によっては
「何が楽しいのか、、ある意味、気色悪い」
とまでなるという。
~早く始まらないかなという思い
~早く終わってくれないかなあ

前夜祭
いろいろな角度で
人の感情をmaximum にしてしまうものなだろうな。

2013-05-31

人文

人文学、、自然科学と対義語とされるが、、
何これ?

人間というものを
・哺乳類
・有機体
・生物
とか違うという思いあがりで、その内面という考え方で言うが
基本的に、人間の存在も自然の一部、生命体の一種だといえる。

自己、、いやエゴで特別視してきたことに
格差やいらぬイデオロギーというものを生み出したとも言えないだろうか?

人間の内面を重要視する発想、、
今の道徳、そして人道主義、、
見た目、聞こえはいいが、
そのエゴが結果的に自分の首を締める結果になっていることへの
因果の研究がその人文にないのは、論理矛盾にも等しい気がしてならない。

2013-05-30

決断

日本人が言葉の真意を忘れてしまった言葉といえよう。

決断とは
 意志をはっきりと決定すること。
という意味ではない。

決して断る。

文字通り、きっぱりと切ることであり、
一つを選ぶというより、
その他を切り捨てるという意味である。

今の日本人、、欲深く、そして優柔不断が多い、
なぜなら、何でも手は入り、相手に嫌われたくないという
温室育ちにだからであろう。

もう、それは許されない社会情勢になってきているといえる。

何を捨てて、
その捨てることで自分が他人からどう思われても
という気持ちがないとこの先へと進めないだろう。

そもそも、
あなたが思っているほど、
相手はあなたを好いていないし、
嫌っていることが多いのだから、
勘違いで決断を鈍らせるだけと思うべきだろう。

2013-05-29

解像

レンズを通して像を細部まで写し出すことであり、
レンズは別に物理的なレンズでなくても
眼球というレンズもあてはまるだろう。

現時点、
歴史上の多くの肖像画が当人とされているが
実際は違うという話は多い。
当時の絵師が当人として描いたものであり、
その時の流行りや権勢により描かれているものである。
だから、描かれた当時はそっくりという評価を受けたことは
間違いないだろう。もしそうでなかったら、
絵とともに絵師はこの世から消えていたからだ。

現代は写真があるから
そういうことはなく、正しく伝えられると思っているかもしれない。

しかし、それも成り立たないだろう。
過去の写真は、白黒で実際の色がわからない。
この間の写真は、解像度が低くて鮮明ではない。
そして、今までの写真は3Dになっていないから、立体的に、
なんてことが起きるだろう。
写真といえども人間の求める細部をすべて満たすことはできないのである。

また、絵師の施主への気遣いの誇張、改竄は
現代では、デジタルデータの加工が行えるので
やっている技術が成功になっているだけで
結果、本質は変わらないことは否めない。

解像度をいくら高めても
当人を投射する以上、当人ではないという事実は否定できないし、
その肖像が当時の技術としてあるべき結果であることもみとめるべきだということも。

2013-05-28

万一

万が一、、
国会は、参議院の議員の半分の数を改編している。
それは、衆参同時選挙を想定して、
解散、選挙時に国政において、万が一が起きた場合に備えて
参議院を半分残しているとしたそうだ。

、、、万が一が起きたときに、残りの半分の参議院で何ができる?
そもそも、問題があるから、衆参同時選挙をしているのだから
万が一をその残りの参議院が万が一に対応するということは望まない、
今となっては、あってはならないということだと思う。

万が一、、、万が一というのだから想定できないことであり、
万が一に備えてということ自体がすでに万が一という論理破綻である。

言葉の真意、
そして、現代社会を考えると
万が一ということを考えること自体、
ある意味ナンセンスだと思う。

もし万が一が起きたら、
それはある意味、変革すべき大きな暗示という認識であるべだと僕は思う。

2013-05-27

不死

過去、不死への探求と同時に
不死になることがとても悲しい良くないという立証がされてきた。

医療技術の発達で長生きが実現できてきているが、

限りある人生だからその人生を
元気に生きられるときを大切に
もしに不死になると、知り合いはどんどん死んでいき、自分だけ取り残され寂しい

など言われてきている。
多くの人はそれを当然だと思う。

本当だろうか?
未だ不死の人間は存在しないし、この発言は不死になれなかった人の
心理学の「すっぱいぶどう」ではないだろうか?

死なないからこそ、相続を意識しなくていい
死なないが不治の病となっても、長く生きていれば医療技術の発達でなおるかも
周りが死んでいって、新たな若い世代と付き合えばいい
長く生きているからこそ、間違えない歴史伝承ができる

といいばかりのような気がする。
人間の考える道徳、、みなすべきだと強く思う。
当たり前、人道的、、それって本当なのというところから考えなおすべきだ。

2013-05-24

長文

学生時代、
語学系の試験の設問にある
長文読解。

確かにこの技能、それで培われる論理力は
色々と役に立つことは認める。

しかしだ、
ビジネスでみなさんが崇める’お客様’
そのお客様が長文読解で得られる回答通りの思考かと問われれば
きっぱり、、ノーといえる。

感性、思い込み、その時の空気で
言っていること、やっていることが変わる。

長文の内容通りに理解した上で
それに合うように答えをだした
それは、ある意味模範解答ともいえる。
しかしだ、そんな長文読解の能力などどうでもよく
’お客様’はなんと
「あなた、何言っているの?私の言っていることわかっているの?」
と言い出すことは多い。

ペンは剣より強い、、でも
金はペンよりも強い、、この事実のほうが、重要ではないかと常に思う。

2013-05-23

夢裡


むり、、夢の中という意味。

裡について考えたい。
裡、、、裏と同じ意味といわれるが、実際は大きく違う。
裡という文字が示すのは
見ている方向からでは伺えないことをさし、
その中といういみ、状態中といもいえる。
決して、裏側という単一的な意味ではなく、
他人からそれを見たときに、
表面に見えない、、ゆえに裏側にいるという意味で
裡という表現を使う。

夢裡    他人から見れば、こっちから覗けない裏側、、夢の世界
成功裡   他人から見れば、成功させている表面から見えないところで 

という意味である。

英語のニュアンスについて論じられるが
そもそも日本人はこの手の日本語すらできていないのに
他国の言語どうこう言える立場だろうか?!

2013-05-22

変遷


時の流れとともに移り変わること、、
時間の性ということだが、
この変遷には必ず人のマイナス面が伴う。

個々のレベルだと
「最近の若いものは、、、」
という発言だったり、

変わりゆく町に対して
「こんなの自分の知っている街ではない!」
と言い出したり、

昔を惜しむことの多くは現実否定だといえる。

でも思う。
過去を知っているということは
その変遷の時期に生きていた。
その変遷に対して、当人の作為、不作為があったわけで
惜しむというより、加害者がわではないだろうか?
若手を教育できない当人の能力
その街に対して、活気づかせることを何もしなかった事実
その自分の無力さを棚に上げて
変遷に対して文句をいうのはいかがなものか??!!

2013-05-21

程々


「お客様に最高の成果物を提供すべきだ」

建前的にはそうだろう。
しかし、それは無理であってはならない。と言い切れよう。

お客さま視点での最高の成果とは
無償で思い通りというところが極値である。
対して、
市場経済には
価値
原価
需給
というものが存在する。

無償で思い通りだった場合、
それを無償にさせるために犠牲になっている人は
無償どころか、犠牲になるし、
いいものはそれなりに価値があり、高いということが前提でないと
市場というものが機能しなくなる。

20世紀的な発想だと
市場原理は
いいものを市場競争をさらして
どんどん安くしていくことがなりたった。
その結果、地球規模での寡占独占が起きて
市場原理の破綻を招いた。

21世紀的にはそうではなく、
それ相当の価値を維持するために
市場を使う時代と思う。

ある意味、価値相応の程々に調整できるかどうかが
求められる。

今までの価値観、とりわけ日本のものづくりの発想では
難しいことといえるので、ある程度の自然淘汰が今以上に起きるだろうし
これまで最上だった価値が最低になることも
この程々の理解の上では当然となるだろう。

2013-05-20

紅皿


べんざらとぬかぶく 
という昔話がある。
ちょっと変わったシンデレラお日本版のような話だ。

それにしても
べんざらとぬかぶく
ってどういう意味を込めて
つけた名前かと思っていた。
まして、
主人公たるかわいそうな姉がぬかぶく
いじめる継母の娘がべんざら
ってどういうこと?って。

最近書籍を読んでわかった。

柳田国男の遠野物語では、同内容のことを
紅皿欠皿

他の地方では同様の内容の民話を
糠福米福

と呼ぶらしい

紅皿という名前が 音便化して  べんざら
糠福が    ぬかぶく

なるほど、
それぞれの地方民話伝承が、統合されて今に至るのか。

当時としては、
モノの名を人の呼称に使うことは多かった。
まして
綺麗な紅をあてた名前
幸運の福の字を入れた名前
はよくある話。
今となっては珍しいが名前になっているが、、

こういうことがわかると
日本の民俗学の面白さと自分では思ってしまう。

2013-05-17

打突


剣道の技の名称であるが、
打つ
突く
を正しく説明表現できるだろうか?

互いに物体をぶつける衝動である。
実は切るもそれと同じ属性で

突く は点
切る は線
打つ は面

と次元性の違いのようなものである。
その行為の結果で

貫通  特定の部位が損傷
分断  対象物が2つ以上に別れる
粉砕  対象物が復元不可能な単位に分散
歪曲  対象物が歪む、へっこむ

という事象が導かれる。

ダイヤモンドを突くと粉砕する
切ったつもりが、への字に曲った

行為と結果は1:1ではない。

やっていることは同じ
対象物に物をぶつけるという行為で
その瞬間が、突く、切る、打つ
その結果が、貫通、分断、粉砕、歪曲
の組み合わせである。

だから、剣道の技の名称の打突というのは意味として合っているが、
そもそも、剣って切るものではないのか?
なのに、切る以外で技を磨くって、、、
って根本の問題があがるんだけどね。

2013-05-16

俎上

批評・議論・考察の対象として取り上げる。批判することである。

あまり、使い慣れない言葉だけど、
その意味は最近では日常的になっている。

現代人は目に入る多くの情報を俎上に挙げている。
素直に受け入れることはない。
なんか、ギスギスした考え方のように思われるかもしれないが
現代教育の多くは、受けた情報を自分なりに考えさせるという
疑い前提である。

疑い、、それが批判の始まりになることなど自明の理。
手に入れた情報が俎上に挙がるような社会になっているのに
その社会に対して
心ない
ギスギスした
と有識者が’俎上’に挙げることってなんかおかしくない?

2013-05-15

気温


暖かい気温
寒い気温
って何℃なんだろう?

真夏日、猛暑日
という切り口30℃、35℃とある。
それは暑いという基準であって、
暖かいは、29度のことだろうか?

実はこれは人によって違うというしかない。
もっと言えば、真夏日、猛暑日が暑いという
日本列島における判断基準であり、
赤道、極点地帯からすれば、まったく異なる認識になる。

人間とって、暑いかどうか、
それは方言と同じで、生まれ育った環境によって変わる。
それも、ほんの少しの地域差でもあらわれることである。
だから、他人に気温について同意を求めることは
結構、難しいことであり、その問いかけが
相手への不快感につながっているかもしれないのである。

2013-05-14

付合


「人生の豊かさは、多くの人とどれだけ付き合えたかである」

という偉人の言葉がある。
過去の言葉で、今は逆も真実になってきている。
つまりは、人とどれだけ付き合わないかが人生を豊かにするということだ。

人付き合いは必ずしも、プラスになるとは限らない。
その人と出会ったために
・自分の時間が拘束される
・その人と知り合いというだけで他人からの評価が下がる
・その人から不利益な扱いを受ける
ということもあり得る。。。というより、現代社会そのことのほうが多いからこそ
公私をわけた付き合いが正当化されてきているとまでいえよう。

人との付き合いで
新しい価値観、見識が広がるというのは
情報取得の方法が未発達だったからであり、
今では、その人とわざわざ接しなくても必要な情報や見識を持ているようになっている。

人によっては
この事実を人間としてどうかな?と道徳観を言い出すが、
多くの人はそんなことを言っている人付き合うのは時間の無駄と思うのが実状とまでいえる。

個人、、、それは自分自身というより
他人を排除し続ける自己の確立という表現が正しいといえよう。

2013-05-13

三大


世界三大料理
世界三大美女

、、、たぶん、日本人が騙されている大きなことだろう。
三大美女という中、日本人しか、、、日本人でも知らない小野小町がいることから
どっかの商業的キャッチコピーの一人歩きだろうなって思いつく。

世界三大料理というが、
これもなんとなく言われているだけで
実際に、本物のフランス料理、、、しいてはトルコ料理を
食べずしてそう言われていることを信じているだけであるし、
世界三大料理をイタリア人に言ったら起こるだろうし、
入っている中国とて、怒る、中国が世界一の民族なんだから。

何事にもランキングトップ3を付けたがり、
それをいいようにビジネス的に使われ
踊らされてしまうのは
日本人の消費を扇動する構成要素って思うべきなのか??

2013-05-10

母数


情報処理、高度情報分析において
とても重要なものが母数といえる。
、、、というより、この母数こそ社会の正当性の根拠といえよう。

自分の都合のいい母数を作り出すことこそ、人間の主張の強さでもある。
子供がいう
「みんなが持っているから、僕も」
というみんなの母数は自分の知りうる範囲限定
から始まり、
CMで流れている
「シェアNo.1の製品」
のシェアって都合のいい母数を根拠にしているので
本当にそうなのか?って言う指摘は
その人と思う母数とは乖離しているからだこそである。

数字は嘘をつかない。
経営学やいろいろなセオリーで使われるが
嘘はつかないが、いくらでも解釈できるのもまた数字であり、
要は、自分の判断基準に基いてどれだけの自分にとっての真実の数字を
読み取れるか、、、
結局、自分しか信じられないことになるという帰着は変えようがないのだろうな。

2013-05-09

保安


治安と同義だが
公共の安寧のことで、一般的な警邏や取り締まり活動といえる。
多くの人が
「治安が悪い」
「物騒になった」
と騒ぐ。

しかし、それは公共レベルではなく、主観レベルである。
自分は守られる側と思い込んでの発言である。
対して、公安、つまり公共と考えると
その人を含めてすべて対象になる。

「治安が悪い」と騒いだ人が頻繁に職質されるようになる
「物騒になった」と言い出す人に、軽犯罪の観点で取り締まわれる。

ということも往々にしてあることだ。
そうなると一転して、
「善良な市民に向かって、、」
「なんて馬鹿げた取締だ」
と反対めいた発言にかわる。

自分以外をワルモノに感じる心根が
公安の観点で敵視されるという概念がない以上
これ以上の治安の向上はないだろう。
今まで、日本の治安が良かったのは
公共の福祉というか、
それぞれが社会を重じて自己主張せず、
控えめだったからでもある。
自己主張、意見が言えるということはある意味、
他人の自己を脅かす物騒な社会になったともいえるだろう。

2013-05-08

呼捨


小学校の担任が
「他人を呼捨てにしたら、体罰だ」
という方針で
~さん
~くん
を付けないで呼称したら、尻を棒で叩くということをされた。

その教えのまま、中学校に入ったら
「ばかじゃねー、さん、くんなんてつけるなんて」
って別の小学校から輩にからかわれた。

僕は担任の先生の教えを強く感謝している。
そして、そのことを追求して今の境地にある。

日本人は呼びつけするときに、
名字で行うが、それってありえないくらい失礼だといえる。
呼ぶのは個人なのに、名字は一族全体だ。
当人だけでなく、その一族に対して失礼だといえる。
名字で呼ぶ際には、敬称がないとだめだろうと思う。

呼びつけできるくらいであれば、
そして個人能力主義というなら、
個人を特定する名前で呼捨て呼称すべきである・、
そして、せっかく個人に名前があるのに
その名前をつかわないのは、
なんのために考えてつけたか、、効率的なことでもないともいえる。

名前、個人を特定するものである以上、
とりわけ親しみがあるなら、せっかくが親が付けてくれた
名前を呼ぶべきだろうといいたい。

人は個人と個人の付き合いであるのだから
名字というものを重視するのはおかしいし、
そもそも名字だって、明治以降の歴史のない文化でもあるのだから
そう重視する伝統でもないのだから。

2013-05-07

自炊


僕は自炊する。
そのことを、年寄りどもに言ったら
「独身だからしょうがない」
って言われた。

しかし、その認識は間違っている。
既婚の男性ほど自炊し
独身はまず自炊しないのが現状だ。

独身者は可処分所得が多いから
わざわざ自炊する必要はない、
買ったほうが安いし、時間もかからない時代だ。
対して、既婚者は
お小遣い制のうえ、
仕事の関係上、遅く帰ってくることや
共働きという自体から
必然的に自炊をせざる負えないと言われている。

時代は変わっている。
今までは当たり前と思われたことは
これからはレアになる。
いろんな意味で僕自身、
過去の常識をこなせる、貴重な存在になっていると思う。

2013-05-02

御幣


神具で、白紙を折ったひらひらしたもの、お祓い棒の先という表現がいいだろうか?

起源は神に捧げるものであったが、
今では、神の依代、ご神体、参拝者への祓具と多岐に使われる。
神道ではない自分には関係ないと思う人もいるかもしれないが
通貨、、紙状のお金を、紙幣という。
その幣はこの御幣が語源である。

神様からの賜りし紙という概念からの紙幣。
お客さまは神様ですも
ここに通じる。

身の回りのものはいろいろとつながっているんだなって
感じる事象のひとつといえよう。

2013-05-01

寄贈


相手に物を送ることがこんなにむなしい時代はないだろう。
大昔は
中国が日本の倭の国に金印を与えたり、
ローマが属州に、、市民に、、
近年だって
お歳暮
お中元
というものが普通だったが
今では、
何か意図がある
贈収賄の疑いを持たれることはやめましょう。
といいだす始末。

企業が寄贈をする際にも
株主が、そんな寄贈する前に還元や改革しろ
と、寄贈行為を否定することをざらになっている。

うーーん、
現代人、、いろいろなところで貧乏くさいなあ。
もらうあげるにがたがた言うなんて
器が小さい輩ばっかりだよ。
もらった分を倍返しする気概なくして、景気回復なんて、、、

2013-04-30

報告


報告、報復、
同じ報の字を使っているが
相手に行うアクションは全くことなる。

また今頃、新人のみなさんは
報連相で悩んでいるはず、
相談はわかるが、
連絡と報告の違いは??

報の字とは?
基本 re-action という意味。
何かを受けて、それに応じるということ、

報復であれば、
相手に受けたマイナス行為を仇としてかえる意味である。

なので、報告は
上司から、明確な命令をうけて、そのアクション顛末の言伝になる。
ある意味
報告は return messeage
連絡は imformation
という意味である。

、、、、気づいていると思うが
若手の上司たち、、
何も命令していないのに
「報告がないぞ!」
って言っていること、、それ自体恥ずかしいことということだからね。

若手のふりみて、我が振り直せ。
新人がくるときは、初心に戻って
報連相をまた追求してみてはどうだろうか?!

2013-04-26

空調


人間にとって快適であったり、
作業や工業に適当なように、
温度・湿度・気流・空気清浄度・室内物品の放射、伝導などの室内環境を調整する事。
エアコンなど機械、設備があげられるが、
本当の意味での空調って、、
雰囲気、、そう人と人との空気をどうにかすることではないのかなあって思ってしまう。

空調技術が進化しても
人と人との空気、雰囲気への調整って
いつの時代も同じレベルで扱われているなあって思う。
物質的な進化があったとしても
精神的な進化って人は難しい、、、
退化という進化を繰り返すような気がする。

2013-04-25

忠義


主君や国家に対し真心を尽くして仕えること
日本では美徳とされるが、
現代としては、、結構悪徳である。
世の中の善悪は相対的である。
今までOKだったことが、時代とともに悪になることもある。
そのことに対して、忠義を貫き尽くすことは
見方によっては、悪への幇助になりかねない。
自分としては信念を貫くとしても
相手にはそうは映らない。
日本人の美徳って、、本当になんだろうね。

2013-04-24

真髄

そのものの本質。
とはいえ、真髄というものが理解できるものだろうか?

その言葉通りに真髄の髄というものを骨髄、
つまり骨の中ということになる。
それを理解するということは、痛み、、いや死を伴うであろう。
自分の骨髄を見ることなど、死と隣り合わせの状況であり、
他の骨髄であれば、それは基本、死んでいる状態であろう。

死んだもので本質?
生きていてこそ、その存在があるのではないかと思う。
という論理であれば、真髄というものを理解するということは
ある意味無理なことと割り切って考えること、
その上での他と接することが最善ではないだろうかと、、

2013-04-23

網羅


すべてのことを網羅するということは難しい。
網羅できるということは
その限界値を把握しているということであり、
この効率化社会において、限界値を把握している、する段階では
違うステップ、次の職についていることが多く、
そうなっていないと効率的ではないというレッテルを
組織として貼られることが多いからだ。

またその時点での網羅性は
次の時点では穴が多いということなりやすい。

網羅の定義をどこに置き
その網羅をどう伝え
そしてどう担保するかを決めるてあげるのが
年長者、責任者の務めと僕は常に思う。

逆に言えば、
網羅かどうか
その人の匙加減でしかないということでもあるのだから。

2013-04-22

折衝


利害関係が一致しない相手と問題を解決するために、
かけひきをすること。

現代社会って本当におかしい。
なんだかんで、折衝、つまり非暴力での交渉で解決しようとする。
多くのことはあまり解決していない。
結局は強いものが勝つというのに、、、

それだけではない、
今までの担当者が何人も交渉に失敗していることを
ある担当者が折衝に成功した場合。
褒められるどころか
なぜ成功したか、その折衝に不正はないかという
足の引っ張り合いが平気で起きている。
これが非暴力だから正しいといえるのか??

成功することへの妬み、そねみ、
そして、非暴力ゆえのおかしい判断や足の引っ張り合いは
健全と言えるのか、、、

折衝と非暴力、、
少し現代人の感覚が治らないと
折衝、非暴力の反動からの大きな混沌が見えてならない。

2013-04-19

危惧

あやぶまれること、
現代社会、実際は簡単なことほど、
この危惧の概念で難しくなっている。

簡単なことを簡単に行おうとすると
いろいろなことを危惧していないとされて批判される。
簡単なことほど、簡単であることの立証が難しい。

もっとも、その危惧をビジネスにしていることが多いからこそ
その発想が成り立つ。リスク回避、安全ビジネスの基本は
危惧の精神からである。

でも面白いのは
その危惧の精神で、いろいろと対処を講じると
その分の対応策のコストが積まれる。
ビジネス側は付加価値というが、
支払側はコストという新しい危惧でそれを責める。

危惧って、
必要悪か、それとも、詭弁か、、
現代社会が現代社会である永遠の課題かも??

2013-04-18

交友


過去の文献、女性週刊誌を紐解くと面白い。

「電話なんかではダメ、丁寧にお手紙を認めて、気持ちを伝えるの!」
「ポケベルでの会話は会話ではない、ちゃんと言葉で伝えて、電話で」
「メールでは読み飛ばされることが多い、電話で相手と直接声をかわして」
「今この瞬間を、、それには、メールや電話ではだめ、SNSこそ」

となっている。
時代とともに、交友をつながる技術は進化し、それ以前の技術の否定は始まる。
それと相まって、既存技術を擁護して、新技術での交友は真の交友とみなさない流れも生まれる。

根本的な交友の要件は過去からずっと
<他人と繋がりたい>
という思いであることは変わらない。

直接会えないから、媒体技術を介してその要件を満たそうとする。
その要求にいろいろと応えるために
技術はいろいろと進化してきた。

その反面から考えると、
その技術がなくなった場合、
交友は成り立たなくなるのではないだろうか?

現在の交友でどの技術上で成り立っているか
その技術前提でしか、交友は発生しないのではないかと思う。

現に、今現在ペンパルという存在はかなり薄れている。
もっと手頃に繋がるようになったから、
では、ペンパルのときの交友がそのまま、次の媒体技術上で、、
必ずしもそうではないということがある。

人間は気づかずにうちに
要件より条件で交友するようになっている。
あたかも、昭和初期のSF物語で出てくる
機械に支配された社会かのようにね。

2013-04-17

羞恥


恥の概念は人それぞれのようだ、、
だが、多くの人は自分の恥の概念が正しいと思っている。

愚伯父が
「もっと稼いで、俺を養え!」
と僕に言った。

「よくそんな恥ずかしいことを言えるなあ」
って言い返したら、
「その不孝の発言こそ、恥ずかしいのがわからないのか!」
と憤慨してきた。

僕からすれば
自分より若いものに縋る(すがる)発言こそ
尊厳を失った恥と思うが
伯父からすれば
年長者をいたわらないほうが恥だそうだ。

このような身近なことからもわかるように
この価値の多様化の時代、
恥のレベルはある意味ボーダーレス。
地べたに座り込むことは、ある人は普通、ある人は恥
奇抜なファッション、ある人はかっこいい、ある人は恥
思うのは人それぞれである。

今の社会で重要なのは
恥ずかしいと思うことではなく
他人に対して恥ずかしくない?と責めることが危く、抗争を導く。
他人に対して無関心こそ、一番の社会安全なんだろうな。

2013-04-16

割譲


実質的な意味で
割譲とは当事者意識の薄い生贄論理で成り立っている。

歴史的に見ての国の割譲をしかり、
個々人レベルでの所有権の割譲しかり、
だいたい割譲するのは、その当事者、現場に関係の薄い存在が
第三者、、他人事のように行うから
割譲した事後処理は紛争しか招かない。
・領土問題
・民族紛争
・親族間の骨肉の争い
・境界線認識の祖語
は本当によく、、というかその手の事件ばかりだ。

はっきりいえば、
割譲は当事者のためではなく
そこに入ってきた権力者のエゴかつ責任回避でしかなく
その後の紛争に権力者は関係ないといわせるだけの口実作り以外何物でもない。

僕は本当に思う。
現場を知らないで下す平和的な解決とされる割譲より
現場の人たちが命、血と汗で勝ち取る結果が本来あるべき姿だと。
下手な上辺だけの判断がいろいろなものをゆがめているであれば
それが今の価値でよくないものでも、
将来からすればそれが最善とみなされる行動にでるべきだ。

2013-04-15

経理


中国の経理責任者の評価は
いかに期日を守らないか
いかに金額を額面通り払わないで済むか
要は、どれだけ金を払わずに済ませられるか?
だそうだ。

日本の経理担当者は
・コンプライアンス
・社会的責任
・経済的信頼
などから、期日を守り、指定額通り、きちっと振り込むことが
当たり前になっている。

ある視点から真逆であり、
日本からすれば、中国の価値観を批判するだろう。

でもそれは中国の立場からすれば、
日本はバカではないかと当たり前に思うかもしれない。

日本の認識のほうがグローバルと思っているかもしれないが
これからの市場における人口、
そして、払わないで済むならその分蓄えられるロジックからすると
パワーゲーム的に、中国の考え方のほうがこれからのグローバルかもしれない。

歴史的、地球規模、、いわゆる神の視点で見れば
今の国際経済はたまたま、欧米的な論理が支配している時期に過ぎないかもしれない。
過去の帝国主義、重商主義、ブロック経済の起きた時代のひとつに過ぎず、
もしかしたら、この先、中国的、あるいは全く違う経済、経理の仕方が
地球規模のグローバルスタンダードになるのかもしれないといえる。

今の自分達の経済、経理の価値観は
法的に正しいのではなく、たまたま今の時代、それが最善と思い込んでいるだけ
ということを忘れてはいけない。

2013-04-12

塩基


酸に対応して働く物質のこと。
高校時代に習った概念かもしれないが、
多くの大人はこの言葉の意味、言葉自体も忘却の彼方かも知れない。

塩=食塩=しょっぱい

という定義であり、塩化ナトリウムが、、とか概念はまず出てこないが

ポリフェノール
抗酸化
コエンザイム

という、商業化された専門用語は
意味が分からないが、知っているということが多い。

要は化学の知識って、
健康食品のCMに劣るレベルということで、
その理解が全くなくても許され、保護されるようだ。
だって
酸、塩基の概念で化学反応を起こす成分の化粧水を気づかずに使っても
皮膚障害が起こした場合、使った側ではなく売った側が責任を問われるこの時代。
下手に勉強していたら、保護されないことということだもの。

無知が最強の権利になっている今の社会ってどうも、疑問を感じる。

2013-04-11

取戻


以前のカタチに取り戻す。

僕は、取り戻すという見解、思想は危険思想だと断言する。
時や潮流は鴨長明の方丈記で示されている通り
止まっていないし、戻らない。
そう戻るという発想はないのである。

凋落した流れには
必ず凋落した原因というより
新しい価値の到来が存在する。
その価値が反映している結果であり、
その価値を今享受している存在がいる。

取り戻すという考え方は
以前の自分たちの反映に戻すという思想で
自分たちの今までの存在を正当だと主張して
現在を無視していると捉えられるし、
他人のそこに戻りたくないとの思いは軽視される。

取り戻す、再挑戦という感じの表現は
結果的に、今までの自分たちの正当化、現在の否定が
根幹に見受けられる。

ある意味、前向きでもなければ、
現在の価値との対立を招く危険が高い。

取り戻すという事より、
新しく、ゼロからという考え方が
本来推奨される考え方ではないだろうか?

2013-04-10

後援


現在社会では、芸術は育たない。
効率化という言葉で
利益につながらないものを排除するからだ。

はっきり言えば、
現在、美術館にある多くの美術品は
王侯貴族、公家武家、資産家の後援という
ある意味、拡大再生産とは真逆の活動の賜物である。
今、彼らのような芸術家に後援するときは
株主だけでなく、ステークホルダーに成り上がった社会の庶民にも
お伺いをしなくてはならない状況になっている。

芸術ももはやビジネスという考えかたもあるだろう。
ならそれを社会投資とみなして活動させる
後援活動をもっと認めるべきではないだろうか?

効率化といっている割りには
大した結果に結びついていない社会構造になっているからそこ
価値観の変容が求められるのではないだろうか?

2013-04-09

三食


朝食
昼食
夕食

三食を規則正しく食べることが健康的だと言われる。
それは人間の培ってきた経験知恵のようなことまで言われるが、
政治的、ビジネス的なこじつけにほかならない。

日本人が三食を意識したのは
江戸幕府を開く直前、関が原の時である。
それまでは、二食だ。

関が原で勝ちたい東軍は
今まで主食だった玄米を美味しい白米を支給
白米は玄米より腹持ちが悪いから三食
と触れ込んで、兵を集めたことに由来している。

外国も三食と思い込んでいるが
それは欧米など食料的に豊かな国だから日に三食もとれるし、
場合によっては2食を何時間もかけて食べている国もあるが、
途上国は食べられるときに食べるというのが本当の姿だ。

そして、この三食前提で
ビジネスタイムテーブル
食糧ビジネス
が成り立っているので、これを否定出来ないのも事実。

健康のためとはとても言えない。

最近、健康な有名人は
一日一食という人が多く見受けられる。

規則正しく三食ねえ、、
その発想が縛られた社会ストレスにも感じて
健康阻害要因にも感じられる。