2010-11-30

講義

上場企業の勉強会に数度、
若手に対しては頻度よく、講義を行ってきた。
それによってわかってきたことは
大学の講義の大半は全く講義の意味になっていないということを。

講義において
受講される人たちの最大多数の目的は何か?
講義を行う人の意見を聞くことという発想なのは
愚の骨頂であり、大体の大学の講義が
学会という閉鎖環境の歪んだ価値観で行われている。

受講目的はずばり、
この機に自分の生き方への変化、変革の契機にしたい。
と言い切れる。
貴重な時間を受講するのだから
その時間では推し量れない成果を出したいものである。

講義を行う側は少なからず、
その意識をもって講壇に立つべきであり、
自分の自慢話、研究結果などはどうでもいいというくらいの気概が求められる。

無数の受講者の全員の目的なんてという言い訳も意味がない。
そんなことは、講義を行うと決めた際に
その講義の趣旨やターゲットを宣言することから
講義活動は始まっていると思うべきなのだから。
募るべき対象を特定しない講義になぜ参加するのかわからないくらいだ。

また講義中に受講生に問い、その回答レベルで話し内容を変えたり
十分な質疑応答時間を見積もっての時間配分も準備計画に必要だ。

その覚悟のない講義は行う必要も受講する価値もないのだが
この事実は大衆にはなかなかわからないようだ。

2010-11-29

保身

身を保つ。
現代社会、多くの人間は他人から攻撃を受けているとされる。
しかし、それは本当に攻撃だろうか?

というよりも、
自分の保身という防衛行為そのものが
他人への攻撃行為である。

相手に攻撃しようという意思を持って行動していることは
近代国家の刑法で故意とみなされて罰せられる。
しかし、現在多くの人間は他人から権利、精神、肉体の観点で
攻撃を受けていると思っているが、その他人が罰せられない。
それは他人も自分の保身という防衛しているがためである。

戦っている2人の言い分は

相手を攻撃しているのではない。
自分の精神の保身のために排斥を行っているのだ。

自分は言われもなく攻撃を受けている。
自分には反撃する権利があって当然。

ということが現代社会だ。

大きな武力闘争だけならず、訴訟活動、議論、強いては
道でのすれ違いにおいても人は保身のために行動する。

保身について僕は否定しないし、
自分も保身をしている自覚はある。
だからこそ、
自分の保身が相手にどんな攻撃になっているかをも
自覚することを現代人に求めたい。
そして、そのことで自分の保身の攻撃の威力を自覚してほしい。

無自覚、自分の保身の正当性
そんなことはもう聞き飽きた。
保身でおきた事実をどう考え、そしてどう新しい価値創造につなげるか
考えることに注力すべきと強く思う。

2010-11-26

手柄

ある意味、
手柄そのものは奪い合い。

自分がやった。
自分が追い詰めた。
自分のサポートがあってのこと
自分の管理能力のおかげ
自分の計画が正しかっただけのこと

本当にいくらでも手柄については自己主張できる。
そしてまったく同じプロセスで行われるのは責任転嫁である。

自分はやらされただけ
自分は最後までやっていないし、やるつもりはなかった
自分は言われたから支援しただけ
自分の管理を変えて勝手にやった
自分の計画にありえない話だ

基本人間は都合のいい動物であり、
上記の主張だけで、多くの時間を使って何も生み出さないことを容認できる。

手柄とか責任とは僕にとってはどうでもいい。
というより、統制していれば
そんな主張をする必要がない。
役割を明確にしてその役割どおりの行いの結果が
実績であり、手柄という概念は
観念的なものでしかなく、評価対象にすべきではないと考えている。

手柄に群がるものは
功名心、実力主義というものは
部分最適であり、決して次につながるものではない。

魚が取れたと騒ぐより
魚を多く取る漁法、道具を発明し、それを実践したことを
役割の実績とみなすほうが長期的、そして恒久的なモチベーションの維持につながるはずである。

2010-11-25

温情

現代社会においては、スキをみせることと言い切れる。
相手のことを思い、
もし自分がされたらうれしいと思い、
温情をかけるのだが、その行為に対して、多くの庶民は
されて当然と思いになっている。

これは老若男女関係なくそう感じている節がみえる。
そんなぎすぎすした社会ではない!
っとと思っていればいるほど多くの人は傷つくし、
思っている人ほど、当然と思っていることが多い。

考えてみれば、温情行為自身、
立場の強い方から、弱い方への譲歩であり、
平等認識の強い社会では成り立たない。

温情をかけるという行為は
かけられたと認めたくない認識を触発していたり、
そもそもそれは温情ではないと立場を下と認めない憤りを誘発している
ことにもなる。

そこまで、論理だてて考えていることは稀だろうが、
温情を温情と受け取れていない社会になっているのは事実だ。

僕は不平等、差別がある社会でも構わないと思う。
それゆえに、身分の責任、敬意、温情という
人としての社会構成の思いやりが有意義になると確信しているからだ。

2010-11-24

仇討

仇討は日本の法律では禁止になっている。
互いに殺しあうのはよくないとされる。
基本的には、、、、

でも、この仇討行為はビジネス界ではあからさまなものである。
人間の自発的なモチベーションイベントの大きな割合を閉めるのは
復讐心ではないかと思う。

「あいつにやられたので、いつか見返してやる。」
「先輩の無念は僕の手で」

でビジネス界で上記仇討が成り立つと賞賛される。
人殺しは禁止だが、
法人同士の存亡の殺し合いは市場活性化で認められている。
でも、法人も法的に人格を持っているし
法人の消滅は、場合によっては人命に関わる行為である。
場合によっては従業員を路頭に迷わせる
間接的に大量虐殺になりかねないのである。

仇討という言葉に惑わされているかもしれないが
刃物を使わない仇討は賞賛されるのが近代国家のようだ。

2010-11-22

味方

味方、、漢字で表すと面白い字の構成のひとつだと思う。
「あじのほう」
そして、この言葉、とんでもなく都合のいい言葉。

ある娯楽映画で
「たとえ世界を敵にしても、君の味方であり続ける!」
と主人公である正義の味方が言った。

それって、悪の権化だろうが!
世界から共通の敵にされることが、悪の定義だろうと感じてならない。

また最近のある経営者も
「1国民の意見の代弁者、国民の味方として」
それって、自分も国民だから何やってもいいと聞こえるじゃないか。

基本、味方という表現を使うときは危ない。
独善的な見解の自己主張でしかないと僕は感じる。
日本的に自分の正当性を他の他人のためという理由付けとして
この味方という言葉を使っているだけだ。

本当に漢字どおり、
自分にとって味をしめた方に向けられたと
解釈できよう。

お前の味方だ

なんていわれたら、
その人間の利己的な意思を感じてならない。

2010-11-19

礼儀

あってない物、
現代社会においては空想の産物かもしれないというレベル。

礼儀はあるようでなく、
個々人の考え方そのものが礼儀となりつつある。

例えば
相手の不安感を無くすためにあえて、フランクに話すことこそ礼儀と考えれば
初対面の人には敬語で話すのが礼儀という考え方もある。
その2人が会えば、互いを礼儀知らずと思うことになる。

そもそも、礼儀というものは士道、、
鎖国、
階層社会の武家、
藩制度、関所
という日本の独特な社会観念から
万国共通という思いだが、
それぞれの藩を拠点とした地域ルールで成り立っている。

それゆえ、
知れた仲での暗黙のルールが礼儀であったが、
それが
開国
階級の撤廃
交通発達
で暗黙が通じなくなってきているのだから無理はない。

もっと言ってしまえば、礼儀の語源である

仁義礼智忠信孝悌

をそれぞれの意義は正しく理解して
その実践を心がけている人間は現代に何人いるだろうか?
その状態で礼の表れである礼儀を語ること自体なんか
生兵法であり、社会的怪我の元と思う。

2010-11-18

課題

課題とは何だろうか?

・立ちふさがる障害
・予定を狂わせる邪魔
・自分へのいじめ

と感じていないだろうか?

では、学生時代の授業にあった。
「今日の課題」はそんなマイナス視点のものを
わざわざ教育の場に提供していたのだろうか?

課題とは、
スキルアップの踏み台である。

僕はそう考える。
課題をこなした数こそ、
経験の蓄積、実績そのものである。

計画通り物事を遂行することは
計画立案者の手柄であり、
実行者は、ロボット、マシーンと同等の生産ツールに過ぎないとみなされる。

実行者が自らの存在価値、得られる評価は
課題の有用克服に限る。

課題を挙げること
課題に対して、思索を講じること
課題対応を実践すること
課題を克服してそれを横展開すること

これこそ、実践者の評価につながる。

計画者にとっては課題は自分の評価を下げるものであるといえる。
計画どおり遂行できないことにつながるから、
日本人の多くは計画者きどりであるから、課題管理がきわめておかしくなっている。

実践者の立場で、
課題を挙げて、それを克服する気概を示して
自らの解決力を高めることに価値観を見出さないと
この先の国際的労働環境では太刀打ちできなくなるのではないだろうか?

2010-11-17

統計

アンケート等で不特定多数の意見を集約した指標として扱われる。
数字ゆえに説得力があるが、
僕が思うに、近年の統計は不特定多数が
特定操作された母数になっている気がしてならない。

それは集め方と質問の仕方でいくらでもなるということである。

例えば、
インターネットアンケートで
「一日のPC使用時間は?」
という質問をして、
アンケート回答者の全員が0時間と答えることがないことをもとに
「不作為抽出した全員の回答から国民全員PCをもっていると考えるべき」
という発表

食物の試供品をわたす代わりにアンケートに答える場合で
嫌いな食べ物に、試供品をあげることはないのに
「多くの人たちはこの食品に好感を持っています」
という結論

一見すると、アンケートの統計情報は正しく感じる。
数字の魔力とも言おうか。

でも、僕からすればそれは情報操作の傑物に他ならないと思う。
そもそも、統計をとって出てきた答えがアンケート集計者の思惑と違えば
その統計情報は多くの人たちに伝えられることはなく、
なかったことになるだけである。
統計を取られた人の多くはその統計情報を待ち遠しく思えっていることがないので
あまり、意識しないことをいいことにである。

そう考えると、多くのメディアで挙げている
統計結果をみるのであれば、
その大多数意見を見るのではなく
どんな母集団から吸い上げた偏見かをみるほうが
情報操作、思惑が見えて
かえって面白いかもしれない。

2010-11-16

人為

弱者とされるものたちを助けるために強権力が規制をした結果、
弱者がさらに悪化することは、歴史的に考えて既定事実のことである。

基本的に強権力が弱者を擁護すること自体問題である。
弱者は自らで弱者を脱却しない限り、弱者でありつづけるのだから。

大きな歴史的観点で見ても
武士の借金苦を解消するために幕府が出した徳政令。
そのために、以降豪商は武士に貸し出すことをためらい
余計、武士は貧窮した。
飢饉に備えての上米。
その上米を納付する名目で年貢がかさんでしまい、
農民は飢饉でなくても餓死しかねない状況に。

現代社会では、
貸金法の改正で
消費者金融を使えずに
闇金に手を出して、破産どころか、闇に葬られることもありうる自体に。

為政者は目に見えている事実への対応するのでは暗愚の君でしかない。
起きてしまっている事実を切り捨てて
新しい価値やこれから起きる被害を食い止めることに注力すべきである。
冷たいと思われるこの思想も
人間の出来ることは限られていて、今起きていることに対応するのは
自転車操業でいつまでたっても、改善されていないと思われるのであれば
自然淘汰の発想で、今の弱者を切り捨てて
別次元での規制を試みるのべきである。

織田信長が
腹をすかした兵に槍を
貧困した兵には馬を
という恩賞を与えていた。

それは、
腹を減らしている兵は自ら食事を求めて行動するが
次の戦の準備ができていない。
貧困していた兵は、武器を与えると換金してしまうので
あえて売れない馬を与え、馬を使って金策に走り回すことで、
馬術の訓練をという次の行動への布石にした。

この思想は一般庶民には理解できないし
もらってうれしいと思わないレベルもあるだろう。
しかし、僕からすればこのくらいの考えなくて
人を統率できようかって思う節を感じてならない。

2010-11-15

凄腕

凄腕とされる高い技術力を持っていれば
いい仕事と高いサラリーを得られる。
これは幻想であると僕は言い切れると思う。

世の中には、凄腕の人材はごまんといる。
でもそれが’正当’な評価をされているとは限らない。
いや、凄腕の人たちはそう思っている人が多いようだ。

僕からすれば答えは簡単である。
正当と思う基準が凄腕ゆえに市場と離れているからである。

隣町に行くのに、F1カーが必要か?
ねじ回しの仕事に、大型重機免許は必要か?

凄腕であっても
それを生かす環境を持ち合わせなければ
その腕はコストアップの足枷になるだけである。

凄腕という技術なんかより
技術を高い金額で裁ける市場を作り出すことが
本当の凄腕だと僕は確信している。

もし、凄腕であるならば
自分を高く売ってくれる市場を作るなり
売り込む能力も必要である。
それが出来て初めて、市場で通じる凄腕として
正当に評価されるのである。

2010-11-12

警察

読者のみなさんはどう思うか?

ある人が
財布からふと1万円札を落としてしまった。
あわてて拾おうとしたら
ある主婦と思われる女性が取り去っていった。
「返してください」
呼びとめて触れた瞬間に
奇声を発し、「強盗!」って騒いで
そこでお金を落とした人が警察に捕まった。

何とも理不尽と思うが
この結末は、この人は強盗未遂だそうだ。

これは身内の警察幹部から聞いた事実だ。

・お金には名前がないから、彼のものとはいえない
・自助回復行為は民間に認められていない
・他に証言してくれる人がいない

という論理である。

身内の幹部は酔った勢いで語る。

「拾ったお金を交番になんて言うが、持ってこられても捜査するわけねーよ。
 みんな自分の物って言う時代だし、ちょっとでも手続きを間違えば、マスコミが騒ぐし、
 この事件だって、おばちゃんが警察は庶民の味方って騒ぐから、、、ぜったい奪ったくせに
 町中で騒ぐから、治安のためか知らないが、落した方を悪人にしやがった。
 俺たちには、ありのまま、言われるままの事実しか調書に書けないからなあ。
 捕まえた警官は現行犯逮捕の査定アップであり、誤認逮捕の汚名もつかないからな。

 だいたい、警察官なんて感謝も儲かりもしない仕事だ、
 そしてこの不況で、上級公務員になれなかった偏屈な警察官希望者が採用された。
 犯罪を取り締まるっていうことより、昇進試験、有給休暇、権利主張が主務なんで。
 自分を守りたかったら、警察より警備会社とマスコミしかねーぞ。」

酔った勢いとは言え、
こう思っているという事実は隠しようがなく、
自己防衛はすでに公安ではなく
自分自身であり、強いては公安も自分を責める障害でしかない
そんな時代と感じた。

法治混沌期

その象徴的な内容と感じた。

自分のことは自分で守ろう。

2010-11-11

計画

未来の行動予定、
もっといえば、未来日記であれば
それはそれで、優秀な計画だったといえる。

未来日記のような計画は逆に怪しまれることが多いご時勢(不安、癒着)で、
ある程度の不測の事態への対応バッファを入れておくことが
最良の計画といえる。

僕は計画立案には自信がある。
それは未来予測に長けているということだけではない。
そういいきれる
そう実現させる
意図や作為を盛り込んで計画を立てることができるからである。

人によっては計画を立てることができない人間がいる。
計画の必要性を感じながらも
不測の事態
政治的圧力
未確認事項の不確実さ
を理由に、
「未来なんてわからない」
って言い張る。

それは敗者の論理。
計画を立てて実行する。
それは、他人の犠牲も厭わずにでも
結果を出そうとする人の意志の強さ、
勝者の論理である。

計画どおりにできた場合、
たとえ、揶揄されようがどしようか
誇り、敗者を蔑む意気込みでいないと
計画を立てた意味がまったく評価されないことになるだけである。

2010-11-10

意気

意気込みや意気揚々、そして生意気の意気である。

現代語でいえば、、やる気まんまん といえる。

現代は意気のレベルに熱が感じられなくなってきた。
熱い思いは
「なに興奮しているの?」
「べつにいいじゃん、どうでも」
と軽視される。

そして、生意気のレベルも
元来は

「僕にやらせてください!」
「小僧、そんな大きな仕事をやりたいなんて、生意気だぞ!」

という背伸びをして無理なことをやろうとして言われるものであったが

「あなた方が偉いんだから、やるんでしょ!」
「あいつの態度、生意気だ!」

目下なものが、目上に対して、見下すような振る舞いに対して
専ら使われるようになっている。

熱い意気はすでに消滅したと思う。

だから僕は思う。
熱く思う’意気’がある社会に戻したい。
そうすれば、
失敗だって、意気ゆえのことで、支援、反省、後始末を
それぞれの思いで実践することになる。
意気があるから、達成感だってある。
意気、、それは自らの意志の表れ。

社会をそうするために、
まずは会社、身の回りの組織でそれを求めていこうと決意している。

2010-11-09

肉桂

なんだと思うかもしれない。

ではある例を

祖母:漢方の調合で、胃腸にいい’桂皮’を多めにしてもらう。

母 :昔懐かし、’ニッキ’飴 を買ってきた

娘 :ケーキを作るために、’シナモン’を選んできた。

そう、これ全部同じ、肉桂のことである。

肉桂の端っこだから、、、肉桂の皮、、、桂皮
肉桂、、ニッケイ、、、、ニッキ
肉桂がスリランカから欧州へ、、、シナモン

同一品目でも
・用途
・世代
によって、呼び方が変わる。
しかし、根本的、、いや物自体は全く同じである。

万物は流転する。
それは否定できないが、
必ずしも、物自体が変わるだけが流転ではない。
本質は同じでも
そのTPOで扱われ方がかわることで
あたかも違うものと思われることがある。

これは経済活動においても言える。
ものづくりで新しいものを作ることだけではなく、
今あるものを視点、作用を変えてみることでいろいろと
商圏や売り方もかわる。

上記のように
母子3世代が同じものを別々の目的で買っている事実を知らないような
そんな発想があるべきと思い考えを巡らせている。

2010-11-08

大人

あえて言いたい。

子供を持つ世代、
新入社員を受け入れる階級、
になったのなら、
あえて、
対象となる年齢層の
子供向けメディアをじっくり見るべきである。

そしてそこに出てくる、主人公のまわりの大人の行動や仕草を
つかみ、自分の行動に反映させるべきである。

子供向けメディアを
主人公、もしくは成長した姿を子供自身にみたて
子供に夢と希望を与え、将来への可能性、方向性を教えることをも
含み制作されるし、興奮させる要素のインプリンティングでもある。

対して、大人になっても自分を主人公に考えて
その手の作品をおとな目線でみたて批判的になったり、
自分の年齢を主人公したメディアばかりを選んでいないだろうか?

大人なんだから、いつまでも主人公を夢見ることは辞めるべきだ。
夢見てきた子供たちに対して、環境づくりを考えるべきであり、
彼らが見聞きしてきたもの大人を理解してあげれば、
彼らのモチベーションも変わるとのではないだろうか?

僕自身で挙げれば、
社長を主人公にした話などなんの足しにもならない。
主人公に優しい、厳しい、冷たい
王様、諸侯、隊長の仕草、行動、そして思想を理解してみようと
子供向けのメディアに触れてみる。
そして、思った。

子供の思う大人像はこう言う存在であり、
もしかしたら、この仕草がダンディズムではないかと。

2010-11-05

虚偽

事実ではないこと。
しかし、事実とはなんだろうか?と思うことが多い。
歴史というものは過去に起きた事実とされるが
それ自体も本当かどうか怪しい。

・鎌倉幕府の成立年は近年 1192 1185 に訂正
・足利尊氏、武田信玄の教科書の肖像が、高師直、小田山信茂だった

など、どんどん覆っているのが、現状であり、
覆ることこそ、歴史学と開き直る歴史学者もいるくらいだ。

歴史に関わらず、
今もそうであるのは、噂である。
噂や伝聞はあくまでも、不実の領域なはずなのだが
高度情報化社会ゆえに噂=事実となってきている。

いや考え方がそもそも逆の時代かもしれない。

高い精度、多くの情報があればそれが事実であり、
実際に見たり、話したりをしたところで
当人の情報力では、
「見ている観点がおかしい」
「その話ではだまされている」
と事実を虚偽にしてしまう感がある。

事実とは
・目に見えるもの
・五感に伝わるもの
ではなく、
・精度の高い情報
が事実といえる。

実際に僕が僕である証明を
僕自身がしようとして、
行動をとったり、
話しかけたりすればするほど
現代社会では多くの人たちは虚偽に感じ、怪しまれるだろう。

IDカード、名刺、メール送受信
といった情報を示すことで
僕という存在が事実とみなされることが多い。

存在していても事実ではなく虚偽とみなされ、
情報こそが事実であるそんな時代なのだろう。

2010-11-04

鰹節

今までの論調からすれば、
いきなりの言葉になって感じるかもしれない。

注目をしたいのは
うまみ成分と異型な調味料であることだ。

外国の調味料の多くは
液体か粉末になっていることが多いが
この日本古来の調味料は
魚そのものを削ると言う発想かつ
そのままでうまみ成分をだすという代物だ。

日本古来から製法と技術らしいのだが、
温故知新、こういうもの、日本人的と言うか
発想とエッセンスがあるのではないかって思ってしまう。
とりわけ、巷で騒がれているエコだが、
日本古来である鰹節の製法にヒントがあると思ってならない。

つまりは
現物そのものに加味させずに加工して
現物を余すことなく使い切る
まさに0エミッション、、
この発想をうまく自分の事業に応用できないか?
って考えてしまう。

2010-11-02

査定

人間、他人を正当に査定できるだろうか?
これは永遠の命題かもしれないが
結局は市場においては無理という結論しか言いようがない。

高い評価を与えれば、
その査定関係外の人から
「あいつに甘い、癒着を感じる」
「そんな優秀な奴を評価する立場なのか?自身が足枷ではないか」
と査定行為そのものの妥当性を否定される。

反対に、低い評価を与えれば
当人から
「自分のことをわかっていない」
「えらそうに」
という査定行為をもとに、相手の反感を買う。

納得のいく査定というものは
正当な評価というより、
当人が取れる選択肢をすべて取り去った評価ということになる。
・評価を覆す抗弁の無力さ
・他人に相談しても意味がないという事実
・評価を甘んじて受けなければ得られるものが全くない
という状況に追い込んで、、結果的にそうなることしかないだろう。

だから思う、
中間管理職の一次査定
感情
による評価は
ありえない希望や望みを芽生えさせるので
ないほうがいい。

あるのは、
結果
数字
と、覆る要素が全くないものでなくてはならない。

下手な査定は相手の気持ちを無駄に高揚させ、
結果的に失望感を与えてしまう。
良かれと思っても結果、反感を呼ぶのなら
行わないに越したことはない。

絶対的な決定を下せる存在が絶対的な値を示す、
それであるべきだ。

2010-11-01

脱力

人間はみんな優秀というか
自分の思う基準の優秀ではないと思う。
逆に言えば、
自分が出来ると思っていても相手はできていないことや
自分が相手を「使えない」って思っている以上、
相手は自分に「どうして馬鹿なことばかりいうんだ」
って思っているかもしれない。

理想とはエゴでしかないし、
自分の思ったとおりになることは
相手のストレスになるに等しい。
そう考えたほうが合点がいくと思うべきだろう。

肩の力を抜くではないが
仮にとてもいいアイデアがあったとしても
それを実装、運用する人間たちがそのアイデアを理解できないのであれば
それはいいアイデアでは全くなく
ただの悩ませる頭痛の種でしかないと悟ることも必要である。

逆に自分からすれば、
そのレベルかって思うことでも
相手からすれば、そのレベルでも十分価値があることもある。

そう肩に力を要れずに
相手の思うレベルにあわしてあげることをありと思う。