2013-12-27

辺境

中央から遠く離れた地帯、国境。

ゲームのRPGは辺境から中央のボスを倒しに向かう。
中央に近づくほど、敵が強くなる。
セオリーに感じるが、現実社会では逆だろう。

辺境ほど、屈強な存在がいて、
平和な中央に、のほほんとした輩ばかりだろう。

逆に中央に屈強な存在がいる組織、体制って
ろくでもない組織だと思う。

あっろくでもないから
テロリストみたいなRPGの主人公に負けるのか!

2013-12-26

先延

するべき行動を遅らせることで事態が悪くなると予想される場合ですら、
合理的理由無く意図して遅らせる態度
英語圏では
怠惰と同じ意味になるそうだ。

先延ばしを怠惰とみなすことは
日本人、アジア圏の人にはなかなか理解できないだろう。
言葉でわかったとしても、
それにより、行動を起こすことはなかなかできない。
アジア圏では輪廻転生、因果応報の観念から
先延ばしを、未来への期待、
今できないことを未来ではできるかもしれないという思いが強い。

論理的に説明がつかないことをどんどん
先延ばしにしてきたことにより、いい結果、悪い結果を導いたことが多くあり、
すぐに決めたこととあまり変わりないことも多いともいえる。

「後悔先に立たず」
という言葉の裏の意味として
後悔するのなら、ずっとやらずにいようという考え方もあるのだから。

問題の先延ばし
それ自体が問題なのか、それとも最善策への布石は
結果でしかわからないとしか言いようがない。

2013-12-25

資料

研究・調査の基礎となる材料。

学生時代だと教科書に対する副教材も資料。
社会人になると、会議中に使われるドキュメントも資料。

何から何まで資料と言われる日本語。
英語だと、TPOに合わせて
document
source
material
と目的に応じて使い分けることになる。

僕はここもまた日本人が会議に弱い証拠と感じている。
人との会議で使われる書類の目的を理解して持参するかどうか
その意気込み、理解レベルですでに会議のハンドリングができていないといえることだから。

2013-12-24

簿価

資産または負債について
適正な会計処理の結果として帳簿に記入されている数値の純額
市場価格とは異なる、理論上の価値といえる。

書面上、税理上はこの簿価の概念は重要だが、
市場経済、そして価値の相対化は現代社会の必須概念でもある。
簿価と時価の乖離について、
いつまで容認するだろうと思う。

価値があるときとは、一瞬でしかない。
その瞬間に簿価を決められたもの
旬を見失ったときに簿価が決まったもの
これから旬が来る前提で簿価が決められたもの
これらの不平等は簿価を続けている以上付きまとい、
それが物の判断を鈍らせるこの事実を容認することが果たして
自由市場といえるのかまで言及されるということをだ。

2013-12-20

生涯

生きている期間。
涯の字は、水際など境目という意味である。
生きている期間という意味の生涯
でも意味としては、
生きていない間との間を際立たせる表現になっていて、
生きていない期間、、つまり死と隣あわせの表現に
漢字を使う日本人の死生観を強く感じる。

2013-12-19

時流

日進月歩の日常、
最近、時流に乗るから待つように考えるようにした。

日進月歩の流れに常に乗るということは
ある意味、流されているだけと変わらない。
流されているだけならいいが、飲まれている状態だったら、
それは乗っているということではない。

対して、いろいろとあるし、
その波に乗らないなんて言われても
あえて、その波に乗らないでいることがその先につながることも
強く意識してきた。

乗らないからこそ、
今でできること
時期、様子により自体がこちらが有利に動き出すこと、
そして、、失わないことが実に多いともいえる。

時流は本当に、流れ、、液体的流動、、つまりは水物といえる。
そんなつかみようもないものを必死につかもうとすることが
かなり無駄なことっていえるようになったのは
年をとった証拠かもしれないが。

2013-12-18

心酔

ある人を心から慕い、尊敬することであるが、
この表現に大きな盲点があるということ。

心酔するのであって、
される側が必ずしもされている側に好意的とは限らない、、いや
結構、嫌っていることが多い。

それが大きな問題と僕は思う。
心酔している人がその心酔の気持ちで他の人に接すると
結構、いい迷惑であり、そして、ではその心酔されている人がこの事実に対して
責任を取るわけではないことがある。

勝手に心酔して、それを他人に強要する姿勢。
その強要に心酔されている側は結構無関心で責任なんか感じない。

本当に他人からするといい迷惑だ。
盲目的な感情、それが大きな停滞を導くのだから。

2013-12-17

示唆

「できるのになぜやっていない」
「やったなら、お前の責任だ」

僕は現代社会のこの
犯行示唆への無責任、無罪に対して、
社会破綻を感じている。

できる奴がやらないことへの責め
それでやったことによる責め

をなぜ、無責任にいえるのだろうか?

責めを発言しただけで
その時点で示唆、共謀の責めを負うべきではないだろうか?

この事実を放任している以上、
この社会に前向きなことが自発的に発生することは無理だといえる。

言いたいことを自由に言っていい’だけ’で責任をとらない社会に
建設的な発展があるだろうか?

2013-12-16

現金

現にその場にある通貨のこと。
僕らの思う現金の認識はつい最近なものである。
会話の中で使われる
「現金な奴」
目先の利益で態度が変わる輩をそう表現するが、
その現金の意味のほうが、今日使われている通貨への現金より古いのである。

現代人にとってみれば
現金という概念は当たり前であるが
必ずしもの通貨である現金が当たり前とは言えない。
過去をみれば、通貨そのもの、商取引というものすらなかった時代が
そう大昔とは言えない。

そして、現在、通貨紙幣でなくても
電子マネー、バンキング、クレジット、ポイントと
現金をみずに取引が成り立っている。

この先、数年で現金の認識が変わっても不思議ではないかもしれない。

2013-12-13

偉人

高い志をもって社会のためという言葉を
口にして、行動する人が偉人扱いされるが、
その志を持っていた人は社会のためにならず、
利己的な人が結果的にそう賞賛されることのほうが多い。

志を持っている人は
案外、自分の思い込みであり
他人のためと思っていても
他人はそのことに対して、どうでもよく、、強いては逆に困ることだったりする。
それを押しつけがましく行うことは社会のためと言えるだろうか?

対して、今あがめられている偉人の多くは
人間として本能むき出しに生きている人ばかりで
同時期に生きていた人は結構迷惑をうけた人だということは
賢い人間なら読み取れる。
しかし、だからこそ、後世の人からすれば
その人の時代に従わない行動が今の社会の礎になっているといえるから
偉人扱いになっているわけである。

子供のころから
偉人の本を読ませることが
偉人を生み出さないことになる事実になぜ社会は未だ気づかないのは
どういうことだろうね。

2013-12-12

閉鎖

出入りを閉ざすこと。
閉鎖的というと、マイナスなイメージを感じるが
現代社会は閉鎖を求めている。

閉鎖とは外と内を分けるという意味がある。

例えば、
組織
サークル
会員
というものは、そのメンバーか否かで閉鎖的になっていることが多い。
・「うちの組織に馴染まない」
・「そういうサークルなんだから、」
・「会員さま限定」
という発言は、閉鎖的である現れである。

市場経済においても
顧客の囲い込みという表現は
閉鎖そのものである。

自分たちが思うマイナスイメージ。
考えてみるとそれこそ、今の社会を動かしている。
現実って悪徳こそ実益と感じてしまう。

2013-12-11

戦禍

戦争による被害。
しかし、戦禍は本当に被害だろうか?

戦争でダメージを受けたものを戦禍というが
その戦争に結果的に参加したのが当人であれば
それは自業自得ではないだろうか?

自分の責任を
権力者のせいにする発想が
戦禍という言葉に代表されている。

必ずしも被害者ではない者を
被害者とみなす考え方は人道というより、
愚行だと僕は悟る。

戦争を起こした、、小さな所で言えばイザコザを起こすのは
当人たちの問題であり、そこでそのイザコザをせしきれない者も罪あると僕は思う。
要は、自らを自らの武力で守れない発想こそが
現代人の生存競争という戦争結果の戦禍だといえよう。

2013-12-10

進言

目上の者に対して意見を申し述べること。

現代社会では尊ぶ行為とされる。
それをどんどんすることが組織が活気づくといわれる。

が、僕はどんどんするということは、愚行であり
する側
される側
それを推奨している組織
はおちぶれると断言までできる。

考えてほしい。
進言をどんどんしているとしたら
そのする側、つまり部下からすれば、
上司の存在はなんだろう。
それを採用してならば、手柄を横取りするだけの存在
それを拒否するならば、自分にとって理解のない邪魔な存在
と上司としての存在意義がなくなる。

上司としてもその認識なら
部下がついてくるわけがないという自覚もできていないだろう。

部下はそんな組織に在籍し続けるくらいなら
ステップアップのために離れたくなるだろう。

離れるということは
組織性を失うということであり、
進言をする意味がなくなるというになる。


進言をどんどんすることが組織が活気づくと口走ったバカ
それを推奨するバカ
が現代社会を悪くしているといえる。

昔は命がけで進言したからこそ
重い責任とその決断が尊ばれたわけであり、
今の進言の言う発言、、実に愚かで軽く感じてならない。

2013-12-09

予感

何か事が起こりそうだと前もって感じることであり、
現代社会では
・非論理的
・非化学的
とされている。。。が、

実際問題、
特定の権力者の予感発言で決まることが実に多い。
というより、先が見えない現代において、
いくら論理的、科学的であっても
正しい結果を導くとは限らない。
もっと言えば、予感、直感で決めたものほど、
結果がでたりすることが多い。

企画なんてものはそういうことが多い。
ビジネススキルで
論理的科学的なことを求めているが
ビジネスの根幹である儲かることは
予感、直感による決断で
今のビジネススキルと対極にある事実に
この世の愚かさを感じてしまう。

2013-12-06

質問

どこでも見られる。

「わからないときは聞いてください」

と言っているのに実際に質問すると

「そんなことも知らないのですか!」

って現代社会の’お約束’に感じてならない。

質問される側の許容範囲内に
質問する側のレベル、発想がいないと質問の回答が出てこない。
これが現代社会の知的格差と僕は定義している。

質問をするために自分を高める輩もいれば
質問することを辞めて、抵抗勢力として対峙する輩も多い。

貧富の差の大きさに格差という概念は一義的になっているが、
実際問題、知るもの、知らざるもの、という知的格差が
些細な質問から読み取れ、
それで精神的なストレスや派閥、大きな対立につながっている事実を
直視できないのかなあ、この社会は。


2013-12-05

判定

判断基準にしたがい、
ある事象がどのようなフェイズにあるか、
どのような作業を行わなければならないか、どのような定義づけをおこなうかなどを、
フローチャートや試験を含むあらかじめ定めた基準に基づいて行うこと

と言われるが
そこまできちっと定義して判定しているだろうか?
判定基準を明確化
厳格な社会地位のある人
で判定するとしても、
基準には例外が
地位のある人ほど人間性、性格上、問題視される人間である
ので、判定が万人に向けて納得性があるか甚だ怪しいといえる。

公正が求められるスポーツの判定も
審判、判定員の裁量に委ねられているので
電子機器による科学的立証がなされても
その判定が覆ることはないことが実に多い。
つまり、判定とは権力者の権力を示す格好の場であるような気がしている。

だから言える。
判定要素の強いスポーツって
そのスポーツ自身結構、発言力と社会的権力を握っているのが事実ではないかと。

2013-12-04

感情

相手のちょっとした行いで自分が先に進めるときに
あなたはどう表現するか?
僕からすれば、そこがうまく出来る奴が部下や他人から協力を得られると感じる。

僕の場合、
それが相手にとっては些細な事でも
僕にとって、気付きであれば
相手に対して、
「君のおかげで、先が見えてきたよ、本当に感謝している」
と平気いえる。

対して、最近良く見るのは自分本位な発言だ。
「たまたま、君の発言、自分は気づくことができた。」
「今の自分の気付きの気持ちは、君に理解できないだろうな」
うーーーん、それってなんだ?

嬉しいことをちゃんと伝えられないでどうして相手に気持ちが伝わるものか?
最近では怒りの感情を抑える、アンガーマネージメントとか
言い出しているが、喜怒哀楽をちゃんと表現できずに相手と対峙できようか!

本当に、自分の感情を正しく表せずに
コントロール、マネージメントとか

2013-12-03

原点

物事のはじまりや基(もと)、基準、根拠となるところ。

よく不況や失敗をすると
原点に立ち戻る。
原点回帰
と口にする。

それって本当に原点回帰だろうか?

社会は大きく変動している。
自分たちが原点と思っているポイントはすでに戻れないものではないだろうか?
対して、人間は過去の栄光、記憶は感覚的に覚えている。
それは自分だけではなく、周りもそう思う。
自他共に認めていること。

原点回帰ということは
基準、根拠ではなく、
期待されている自分になるという新しい自己発見ということではないかと
僕は感じた。

2013-12-02

護身

ストーカー被害
警察に相談していたのに、、、
という事件、事例が多い。
これを警察の不手際というべきだろうか?

僕は根本的に思う。
もう警察機構に護ってもらわず、自分で自分を護身する方向にすべきだと思う。
社会も安全保障の警備会社の乱立、
護身グッズの多様化でそれが伺える。

非暴力、治安維持である公安機構。
しかし、それは限界にきている。
当人は対象から護ってもらいたいと思っている。
しかし、対象そのものも自分は護られるべき存在と思っているのだから、
どっちも護ることを求められる公安、警察機構で動けない。
それが今の日本である。

ストーカーに殺されたという事件にフォーカスされるが
たまたま近所に住んでいて、通勤で同じ電車に乗る人を
ストーカーとして訴えることが実に多いとも聞いている。

自分を守るために
他人の自由の犠牲を正当化させる護身。
もはや他人を敵視している無法化に等しいといえる。