2012-08-31

体当


思ったのだが、
故意の体当たりは暴力どころか、正当とされる社会なんだなあ。
とくに、腕力の逆ピラミッド構成である現代社会は、
非力とされる女性、老人、子供による強引な体当たりが多いこと、多いこと。

「自分はこうしたい」
「なぜ自分の進路の邪魔をするのか」
「私のどこが間違っているの!?」

その体当たりに注意やクレームをつけることが
逆に責められるこの社会。

自動車などの交通安全が規制、技術進化で進んでいるが、
人間自身が暴走機関と化しているんだから、
ある意味、人間自身が一番の交通事故のもとだね。

2012-08-30

苦心


物事を成し遂げようといろいろ試みたり考えたりして苦労することをいうが、
苦心は実は他人と共感できない感覚だ。

得意、不得意、好き嫌いが人にあることは
苦労するという感覚も違う。

交渉が難航することを
面倒と感じる人もいれば
相手もなかなかいい意見を言ってきておもしろいと思う人もいる。

順調すぎることに
つまらないと思う人もいれば
何事もなくてよかったと思う人もいる。

上記において、何が苦労か特定することは無理といえる。

自分はこんなに苦労ししているから、、
という表現は他人からすれば、
何をいっているの!?ということになるということを
強く持ったほうがいい。
実はこれも他人との意思疎通の齟齬の大きな一つで
ストレスの根源の代表といえるのだから。

2012-08-29

透過


透き通り、見渡せる状態。
形而上、形而下において透過について重きを持つことが多い。
・公明正大
・オープン
であることが評価される。

しかし、僕は透過の時代はもう終わっていると終わったと認識している。
透過できないこと
これがこの先10年以上の価値だと思う。

透過であることは、見渡せる、公明であるということが
現代人に錯覚を起させた。
見渡せるから、清い
オープンだから、誰でも
という思いを持ってしまうが、実際は個人の能力ではそんな簡単ではない。
見渡せても、見えていないことのほうが多い
オープンとはいえ、その事実は簡単なものではない
それを錯覚したうえ、
しまいには、できない自分を正当化して
もっと、見やすく
もっと、わかりやすいオープン
を求め始めて、結果、その透過させているものの価値を無効化してしまう。
経済の源泉である付加価値否定をしてしまうことが多々起きてきた。

付加価値なくして、経済なし。
わからない、できないからこそ、
人は他人と対価を支払いその価値をえる。
相手にはわからないけど価値があるということが評価軸へと変わる。

透過する=クリーンでもいいことでもない
という事実に気づいたもの勝ちの時期と言える。

2012-08-28

防衛


防衛って聞くと守りと思っている人が多いが
基本的に攻撃活動そのものという認識はあるだろうか?

近代において、攻撃という概念は存在しない。
それを認めることができないからだ。
でも、実質攻撃という防衛活動がなる。

例えば、ある土地について、
それぞれが自分の土地といいだすと

「自国の領土を守るために防衛活動をする」
「自分の領土、人民を取り返すために、国土防衛活動をする」

となり、両国とも防衛の名のもとに侵略行為を行っている。

実は上記論理が人間の有史の戦争条件であり、
相手の国を攻め落とすというより、
自国防衛、領民解放の名のもとに侵略行為をしているだけである。

人間は何度、、
「戦争撲滅のための最後の防衛戦」
を繰り返すのだろうか?

2012-08-27

新田


農耕民族である日本人は田んぼを基準にしていることが多い。
地点を示す表現に田を入れることが多いことにその表れをを観ることができる。

新田、、今までの田んぼより新しく開墾された田んぼという意味で地点を指すことがある。
しかし新しいという表現は刹那的概念ゆえに、すぐに過去になるのだが、、
そして、、

新田町

をどう読みますか?

しんでんちょう
あらたまち
しんたまち

とその新田をいう地点を地域住民がどう読んで住んでいたかにより
同じ漢字でも読み方が違うことがおきる。

まっ
そもそもその地域の新田はその地域の新田であって、
他の地域からすれば、
そんな古い田んぼを新田と呼ぶの。
そこを新田というなら、自分たちの田んぼは
という思いも同時におきるだろう。

人間の思い込み、認識で思っている新田は
相手の思っている新田とはかなり異なる。

それだけ、人間は通じあえないと感じるべきかな?

2012-08-24

逆離


メディアで踊っている  ~~離れ という表現は実は逆ではないかと思う。

若者の車離れ
若者の新聞離れ
壮年の老化離れ

ではなく、

若者の所得と生活スタイルに合わない車しか販売されていないから
車の若者生活離れ

携帯端末と比べて知りたくない情報を一方的に押し付けている新聞というメディアの
新聞の若者感覚離れ

年齢=老化という概念を否定して、元気でいること=若さと勝手に言い切る
老化への壮年の別離意識

と理解できる。

つまり、意図的に自分の主張を反映した~~離れという言葉が見いだせる。

自動車業界の人の思い込みの
若者の車離れ

新聞を売る側書く側の一方的な
若者の新聞離れ

年よりに購買を勧めたい企業の
壮年の老化離れ

である。

言葉は何も正しく描写するものではなく、
自分の思いを都合よく相手に押し付ける手段であると
再認識できる。

言葉があるから、事実が相手の思考を乖離させることになるともいえる。

2012-08-23

家製


社会が進むにつれてなくなるだろう。
自家製というものは、、

変遷として

「人に任せるなんてありえない」
「安くなったんだから、物は試しで」
「結構味がいいんじゃない」
「わざわざ作るより買ったほうがいい」
「え、、まだ自家製にこだわっているの?」
「自分で作るなんてありえない!」

となるといえる。

お茶やおにぎりを例に挙げる輩が多いが、
これは今に始まったものではない。

外国で言うならば、小麦粉菓子
日本ならば、味噌がその典型例だ。

クッキーはママの味
手前味噌

という言葉があるように、
基本その家の味、、つまりは自家製だったが、
今では、趣味や嗜好でなかればほとんど買う前提になっている。
買ったほうが、時間や労力が安いからだ。
また、それでビジネスが成り立ち経済が回るのだから、、、といえる。

しかし、ものづくりの神髄って
その家々で幼き頃から磨き上げてきた技能の結果だといえる。
ものづくり国家とかいいながら、
すでに身も心も工場製品前提な社会なのに
ものづくりの感性が芽生えるかという思ってならない。

時代は変わってきていて、
ものづくり国家というのはいささか、
過去の栄光にすがっている負け惜しみに聞こえてならない。

2012-08-22

追加


僕は規定範囲から追加された分に手を出すのはやめるようにしている。

規定範囲はある前提で範囲をきめているのだから、
それを無理して、追加された分に何か弊害がおきると思うからだ。

実際問題、
昔、友人がコンサートに追加席をとってくれて
そのコンサートにいったら、その席に会場スタッフが荷物を広げてすわっていた。
チケット販売会社と会場設置会社の疎通ができていず、
空いているスペースを売りさばいて、後はしらねーのチケット会社
設置会社は作業できないと騒ぎ、
結局荷物の横から体をよじってみる羽目になった。

現代社会の追加は実に安易な発想であることが多い。
追加されたという言葉に言葉通り飛びつくには危険だ多いと言えるなあ。

2012-08-21

限定


外国の資格に肩書にちょっと文化の違いを感じた

外国では
gradeを

B class limited
B class unlimited
A class limited
A class unlimited

となっている。日本語で言えば

2種 限定
2種 非限定
1種 限定
1種 非限定

と言えようか。

日本だと非という字がつくと、
否定的になるが、限定という否定的な言葉に非をつけて
否定の否定で意味を強くする表現が見受けられる。

あたかも、限定limited は非限定 unlimited を際立てるための表現といえる。

その価値観ゆえ、
日本のスキルアップは裁量の拡充になるが
外国のスキルアップは制限、限定の解禁といえる。

だから思う。
日本で騒がれている規制緩和という表現は外国からの輸入概念だけど
規制、制限論理が外国と違うから、限定の解禁というより
違法性の奨励につながるのではないかっという考えに、、

2012-08-20

閾値


境目の値というべきだろう。

機械的な限界値という一般的な見解、
一定以上の負荷で想定通りの行動ができなくなるということもあるが、
人の思いの閾値、
閾値の価値観の違いが、
人間の個性、好き嫌いにつながると僕は思っている。

例えば、衣類について、
一度着てしまったものは洗濯する人もいれば
汚れが目立たなければ、わざわざ洗濯するまでもないと思う人がいる。

着るという閾値 vs 汚れているという閾値

すぐに洗濯する人からすれば
「一度着たんですよ!洗わないなんて信じられない」
わざわざ洗濯なんてと思う人は
「なんで洗うの?洗濯する行為、水がもったいないじゃないか」
という。
つまり、論点、論争、争いのタネになりうる。

みんな仲良くというけど、
こういう閾値の違いがあるのだから
なかなか難しいといえる。

だって、
あなたの思う、親しさの閾値は相手と共有、共感できるものかい?

2012-08-17

専行


独断専行といわれるように、
個人で決めることを、専行という。

悲しいもので
専行というものを批判することが僕は専行だと思っている。

「独断専行で行動するな!」

この発言こそ、自分の独断専行を相手に強要する証だと思う。

「お前が独断専行ってみんな言っているぞ、なーなー、、おい!」

自分の専行をみんなの意見にすり替えていることがよーーくわかる。

個人、能力主義であることは専行そのものの結果を評価するものだから、
専行を批判することは能力批判につながる。

専行が専行を抑止する、
なんか能力主義の崩壊かなって思うなあ。

2012-08-16

後出


権力を握ると人は後出ルールをし始める。
それが権力と誤認するからだ。

後出ルール
「今までがどうであれ、これがルールだ!」
というものを僕はさしているつもりで、
後出ルールに僕は効果はないといいたい。

後出ルールではなく、

既存ルールの撤回
並行運用期間
新規ルールの徹底

の3ステップでなくてはならない。

・既存ルールをなぜ撤回するのか
・仕掛、新ルールの伝播期間をどう留意するのか
・新規ルールを徹底させる規制は

というものがなくてはルールなんてありえない。

後出で上書きするような行為は愚者の統治に過ぎない。
破壊と創造という言葉があるように
一度破壊、無くして
新しいものを新設することでないと
自然的、秩序的に成り立たないと思うべきである。

多くの組織の規約改訂、、不満が多いのは
改訂内容ではなく、改訂する工程であると思うべきだ。

2012-08-15

固辞


かたくなに断ること、、
素直なことと反対と言わざる負えない。

現代社会において、
素直なことより、固辞するほうがいい結果に結びつくことが多い気がする。
素直なことを尊重する文化のくせにだ。

例えば、義務や法令でその行為を強制させるようにする。
素直な人材はそれに遵守するが、自己主張の強いものがそれを固辞しつづける。
本来であれば、強制執行になるはずと思うが、多くの場合は
固辞した側を特例、場合によっては今までの強制を撤回することが実に多い。
固辞した側は、自分が正しいと正当化させるが、
世間で評価される素直な人材たちはその強制、撤回に翻弄させられる。
素直が故であまりにもひどい。

固辞する輩に強制執行することを躊躇わない強さが公権力にあるべきだと思う。
公権力はその素直な人たちを守るためにという名目を忘れないようにしてほしいものだ。

2012-08-14

海峡


陸地によって狭められている水域のうち、
定期的な船舶の航行があるものこと。

って、言われても、
その地形を見た人が
「ここは海峡だね」
と言い出せることはないだろう。

瀬戸
大きな水道

というものとの違いは誰でもわからない。

そう、海峡かどうかは
そこの地名を考えた人にゆだねられているし、
その地名を翻訳する人にも委ねられている。

誰かが決めたものに追随することでしか識別できない。

みんなが目にして共通認識を持っていても
誰かが決めた名称が正になるということが
~~海峡とかいう言葉から汲み取れる。

決めたもの勝ち、、
言い張ったものの勝ち、、
なんか、定義とか論理的って意味ないような気がする事象だ。

2012-08-13

大蒜

大蒜と書いて、にんにく、、、
なぜこう呼ぶのんだろう、、
音だけ聞くと、人肉となっておぞましい食材に感じてしまうが、、

語源は
忍辱と、僧侶が強烈なにおいに耐えた、食べることを禁じられていた
と諸説あるが、それがなぜ、にんにく という音になったかは、
説が多すぎる。

まーー、者の名称の意味を考え始めると
きりがないどころが、一番意味不明な漢字熟語は
人の名前であり、その由来は聞けば聞くほど
他人であればある程、なーんだ、変なの?っていいかねないから
あまり、名称にこだわるとろくなことがないと読者に換言するにとどめたい。

2012-08-10

雑記


メモ帳、、
雑記帳をどう使うか?

文字だけ、論理的とかいうけど、なんかよくわからない
絵が多い、イメージは伝わるが、細かいところはおおざっぱ
記号で、自分の世界で他人の意見は論外

実は雑記の書き方が頭の中だったりすると僕は思う。
それゆえ、最近メモを取らない人が多いといわれことは、、
あまり考えていないのかなあって思ったりする。

紙と鉛筆、人間が人間たるゆえんだと思うけど、
それが薄い時代になっているなあ。

2012-08-09

秀麗

他のものより一段とりっぱで美しいこと、
秀麗
立派
美しさ
とは、時代とともに変わっている。

平安時代は
面長な顔が男前
髪の長さが女の美しさ
とあるように、美的感覚は時代を移している。

過去の秀麗が次の時代に当たり前に地位が下がるならまだましなほうで、
秀麗とされたものほど、次の時代では
時代遅れ
ダサい
と揶揄されることが多いのが、人の性。
ファッションに優れた秀麗な人ほど、
次の時代に醜態の代名詞になることは多くの人が見聞きしてきたことだろう。


花の色は うつりにけりな いたづらに
   わが身世にふる ながめせしまに


当代一の美貌といわれた小野小町にして
この歌だけに、、、

2012-08-08

苦汁


苦汁の選択という表現が使われるが、
選択という行為自身、
どんなときも苦汁の選択ではないだろうか?

どれかを選ぶという行為は
逆にいうと、それではないものを選ばない。
もっというと、選ばなかったものについては
後悔の念をもつ可能性をもつということだ。

選んだものについて、
どんなに検討してみても、
必ずしも正解ということはない。
その局面においては正解であっても
「あの時、その場しのぎで選んでしまったなあ」
「そのとき、もう一方にしておけば、一旦つらかったかもしれないが今は、、」
という発言を多く耳にしているだろう。

苦汁の選択、、考え方を変えれば
選ぶから苦汁を味わう、
選べるということは判断できるが必ず苦汁を味わうものという
人生観も、、悲観的という人もいるだろうけど
事実の一つと言い切れることだ。

2012-08-07

調理


調理と料理の違いがわかるだろうか?

料理は、食材を加工して人の口に受け入れやすい細工、味付けを行うこと
に対して、
調理は、ある物体を人が食べることのできるものにする工程
と言えよう。

だから、自然と日本人は

牛肉料理

牛を調理した

というだろう。

似ている言葉、ある意味同じような言葉でも
使い方用例でなんとなく分けて使っている言葉は
日本語、英語問わずあるものだ。

それこそ、言葉を調理しているのではないかな?

2012-08-06

寝具


睡眠の際に外気によって奪われる熱を断熱し、暖かく寝るための、
あるいは睡眠時にこれを妨げる害虫などの害を遮断するための物
である。

あれ?この意義において、快眠要素を言及されていない。
動物的に考えると、快眠という発想自体、
自然界ではありえないことなのである。

眠るということは、一番無防備になる状態で
快眠をしてしまうと、命を奪われかねないということである。

それだけ、人間という動物は自然界から隔離された生き方であり、
そして、あり得ないところに価値観を抱いているといえる。

だから、もし宇宙人や神の視点で人間をみたら、
この動物は生きることをバカにしているのか?
って感じられかねない存在と思う。

寝具の本来の意味を見失っている現代人は、
未来人、この先の地球を支配する知的生命体には
どう捉えられるのだろうかって思うのは
なんか達観してしまっているのかな、僕の発想は?

2012-08-03

汎化


汎用性があるということは
それだけで齟齬を生みやすい。

使う側の視点にたつと
「なんでもできるようになっているからこそ、汎用と言い張れるはず」

しかし、提供側は
「最低限のところであり、本当に実現したいのならば専用のものをつかうべきだ」
といいかねない。

ことわざの

鼠五技にして窮す (むささびの五用)

があるように
なんでもできるは、何もできない
と古来からずっと言われている。

しかし、人間は貪欲に求めたがるものだ。
それが技術進化につながるという、ある意味幻想を正論化ししてくるのは、
いかがなものか?

2012-08-02

活気


途上国の路上バザール
日本の休日のショッピングモール
どっちが活気づいていると思いますか?

取引金額だと日本のほうが圧倒的かもしれないが
僕は途上国のほうが、経済活性レベルでは桁違いに活気があるといえる。

金額レベルはそうかもしれないが
国富レベルでいえば、小額といえでも、どんどん取引が行われ
その取引額が次のビジネスを召機させている。
そして、その取引でその市場に生きる人々の命が長らえているといえる。

対して、日本を代表する経済先進国は
window shopping という言葉あるように
実際には買わない、、買えないのではなくて、買う意思がない。
物的飽和になっているので、なかなか売買、取引を発生させづらい。

活気の活という字から思うに
活気があるということは
その状況は、生死をかけている状況に近いからこそ
活気づくと思ってならない。

活気があるということは
ある意味、命のやり取りに近いリスクがあるからこそ、
活気があるという思いがしてならない。

今の日本のショッピングで
命のやり取りまで意識することはないだけに
途上国の活気との差は歴然というのもこの論理で説明できるのだね。

2012-08-01

特権


特別な権利、、
一握りの人しか許されない権利。

庶民的な感覚だと、
特権というものを一般の人が持っていない未知の権利と考えて
自分たちには使えないすごい権利という認識をするだろう。

しかし、これからの特権はずばり、
今まで一般の人が使っていた権利を取り上げて
一部の人間に解放する、既知の権利にかわると僕は思っている。

情報公開の普及、個人による容易な情報発信手段の発達で、
未知である状態を維持することは難しい。
どんな権利でも、一度人の目さらされると
欲しがる人が出てくる。
その権利に対して、明確な権利取得条件を付けることは結構難しい。
多くの社会、コンピュータシステムにおいて、
その条件の例外条件、包括条件で運営者が苦しめられている。

だから、誰でも知っている権利なのだが、
使わせないという縛りで、
特定条件を満たすと、縛り解除とするになることのほうがこれからの運営管理になるだろう。

特権というものを付加するのではなく、開放するという考え方は
既に織り込んでいる機能であるために、社会、コンピュータシステムとして
織り込み済みの機能ゆえに整合性がとりやすい。
特権はすでにあるという前提で考えておくほうが、齟齬がないのである。

使う側、、それをお客様とみなして
その享受者たちの利益を抑止しているという見解もあるが、
無理に整合性がとれているかどうかの権利、機能を渡して
論理機能矛盾で反感を買うよりは、
既知のものを解放したほうがその既知のものを享受できるといえる。

使用者、お客様本位の特権としても
その特権が特権として機能できる環境維持することが
本当の意味での特権付与といえると僕は思ってならない。