小形のはしごのようなものを両方から合わせて、上に台をつけたもの。
踏台と脚立の違いはなんですか?
踏台とは、天板の高さが80cm未満で安全に乗れる天板広さがあるもの。
それ以外が脚立。
いろいろと定義があるみたいだ。
とはいえ、脚立も踏み台も常に使うものではないので
どこにしまうか、こういう専門利用品ってあれば便利だけど
それを手元に持つ続けることが大変だから便利にかんじるのかな?
よく人間が安易に使ってしまう '熟語'をタイトルを挙げて、 その熟語に対して、 辞書的に意味、 現社会において意味が改悪されつつある事実、 について CEOとして、 自分の経験則として、 の見解を論じようと思う。
その役目に従事しているために特別の便宜があって得られる利益
現代社会は役得を既得権益や横領、不正と批判する。
確かにそうだといえるが、
それがないから、上昇志向が薄れ、役職に就きたがらない
むしろ、ならないほうが残業代がもらえるという発想になっていないか?
それが仕方ないになっていないか!
社会組織の発展は個人の欲求への対応であり
目指すべき目標と報酬がないと進まない。
昔は、あの人、部長に昇格したらしい
今は、部長のくせに
と偉くなることがリスクでしかない。
平等を口にするが、個人能力評価も口にする現代
矛盾していないか?
役得の大きさ、徹底した差別と昇格基準の平等化で
社会は変わるのでは?
今のみんなが等しく儲かる、、
それってただのインフレで、何も景気良くないよ。
述語が1つの文のことです。最もシンプルな文の形。
今のSNSでは短文での会話が求められる。
複文、重文な長文は求められない。
しかし、それでは文章を書けない。
「いいじゃん、文章なんてできなくて受験でも必要ないじゃん。」
そういう考えだから、プレゼン、説明もままならない輩が多いこと。
そして、できない輩は自己正当性から
「わかんないほうが悪い」
と言い出すんだから、、
そうやって、コミュニケーションが取れなくなる。
文章をできるだけ相手に理解させる努力、、
それこそ、社会たる根源では?
短文であってもそれを積み重ねて文章にさせることが
人を人間にさせるものでは?
適当な量。
~あれが体にいい
~あれは体に悪い
~それをやっちゃだめ
などなどあるが
時代とともに
~実は体にいい
~あれをやめていたなんてもったいない
~目からうろこ、効果が逆ふぁった
なんてことばかりだ。
基本、マスメディアの集客に踊らされているだけ、
考えてほしいが
そこまでして長生きしたいか、、、
いや、他人に長生きれたいか、
どうせ、人間なんて何かで死ぬ。
好きに生きれば、
ほどほどにではなく
自分にとって、適する量を享受することが
自己責任ではないか、
マスコミに踊らせ、マスコミに訴える
そんなバカな人生で長生きすることが
どれだけ恥ずかしく惨めかを考えられないようになっているなら
いっそ、殺したほうが社会秩序ってなるのでは?
言われたことに言い返す。
これは抗弁権ではないのか?
最近現代は、言い返すことが名誉棄損や被害者になるようだ。
「表現の自由を侵害された」
「バカにされた」
となる。
言われた以上、それに対して言うのは当然のはずだ。
しかし、個人尊重なのか知らんが、
言うことを受け取らないほうが悪いという論調が席捲している。
言われた側の気持ちはどうなるのか?
コミュニケーション問題というが
すべて一方的で自分の見解が正しい前提で
それに抗弁することを問題にしている。
どうだろう、もう仲良しこよしでいる輩を
抗弁の嵐でつぶしてしまえ。
だって、これが日本人が求めている
ディベートスキルではないのか?
言い返しなくして討論などできるわけないのに。
出るべき席に出ないこと
自己都合で欠席しているのに、
「その打ち合わせに自分は出ていないので、
打ち合わせ内容を説明するように」
と言われると腹立つ。
欠席すること
そして、説明させようとしていること
そもそも、自分が後になって説明が必要になる打ち合わせなら
その打ち合わせを欠席しないようなスケジュール調整や最悪は頭を下げて
打ち合わせを延期させるべきだ。
そして、出ていないことでも説明を求めるのではなく、
出ていなかったことのペナルティーとして結果を受け入れるべきではないか。
忙しいとか、人手が足りないのであれば
それにより、ビジネスが破綻している報いを受けることが
必須であり、そこにステークホルダーが責めを被るからおかしくなるといえる。
請負者を決める方法のこと。
競争入札に対して応募すること。
公共機関の仕事へ応札で発注を請ける。
これが今までの公共事業への民間のかかわりだ。
しかし、公務員の質、量の相対低下から
応札の準備、実施ができなく
随意契約が溢れたりして、いろいろと問題になった。
また、民間でも応札で募ったりしている。
しかし、
発注側の応札の内容(RFP)が曖昧なのに
なんでもやらしたり、
受注側も応札の内容に対応できず
逃げるどころか、発注側の問題だと争議になったりする。
社会情勢の変化のスピードが速く
応札をまとめた時点
応札をに応えた時点
納品するとき
でもはや時代遅れ、そのものを必要としないことになった場合
応札を出す側の責任、支払い義務を勘違いすることが
案外大企業のコストカットのロジックを口にしていることを
まーよくあること。
それより応札制度、請負がリスクなって応えたくない対応も
よくわかる。
人、または事柄の性質が順応性に富んでいてやわらかであること。
、、、、柔軟を求める輩は結局はルール違反、規律を守れない違法者である。
~もっと柔軟な対応を
~なぜ柔軟に行えないものか
は、自分だけ特例にしてほしいという我儘なことである。
他の皆さんはそれを守って今にいたるのに
なぜ、その人だけ特別にするのか!
~自分たちは○○だから
ってどうでもいいことを口にするな。
○○の使い方が市民的ではない!
かのリンカーンの言う
社会、国家 が 何をしてれるのではなく
社会、国家 に 何をすべきか
をもっと意識すべき。
柔軟にしてもらうのではなく
柔軟にしてあげる
ほうに、気持ちをむけるべきでは?
どうも、個人主義は自分へ自分へになっている。
自分から自分からに思想をかえないとならないのでは?
道義にかなったよい行い。
日本では徳というが
日本における徳は儒教的なもので一義でしかない。
世の中はグローバル、信条、宗教、そして倫理観が異なるために
徳という一義な思い込みがいいのだろうか?
みんなのためという信条も、自分の見えている人のためであって
その他の人からすれば悪行極まりないことだったり
個人主義VS公共の福祉の認識違いでいつも争う社会になりつつある。
自分は何やってもいいの!
という発想は昭和では通じない、徳のない行動も
アメリカの前大統領はその思いで、大統領まで行くと
徳のある人が為政者という儒教的な発想では成り立たないだろう。
日本的な徳の概念ではもう自分を守れなくなっている今
やはり、チカラこそ正義をもっと実感すべきな時代と思うべきと思う。