2013-05-31

人文

人文学、、自然科学と対義語とされるが、、
何これ?

人間というものを
・哺乳類
・有機体
・生物
とか違うという思いあがりで、その内面という考え方で言うが
基本的に、人間の存在も自然の一部、生命体の一種だといえる。

自己、、いやエゴで特別視してきたことに
格差やいらぬイデオロギーというものを生み出したとも言えないだろうか?

人間の内面を重要視する発想、、
今の道徳、そして人道主義、、
見た目、聞こえはいいが、
そのエゴが結果的に自分の首を締める結果になっていることへの
因果の研究がその人文にないのは、論理矛盾にも等しい気がしてならない。

2013-05-30

決断

日本人が言葉の真意を忘れてしまった言葉といえよう。

決断とは
 意志をはっきりと決定すること。
という意味ではない。

決して断る。

文字通り、きっぱりと切ることであり、
一つを選ぶというより、
その他を切り捨てるという意味である。

今の日本人、、欲深く、そして優柔不断が多い、
なぜなら、何でも手は入り、相手に嫌われたくないという
温室育ちにだからであろう。

もう、それは許されない社会情勢になってきているといえる。

何を捨てて、
その捨てることで自分が他人からどう思われても
という気持ちがないとこの先へと進めないだろう。

そもそも、
あなたが思っているほど、
相手はあなたを好いていないし、
嫌っていることが多いのだから、
勘違いで決断を鈍らせるだけと思うべきだろう。

2013-05-29

解像

レンズを通して像を細部まで写し出すことであり、
レンズは別に物理的なレンズでなくても
眼球というレンズもあてはまるだろう。

現時点、
歴史上の多くの肖像画が当人とされているが
実際は違うという話は多い。
当時の絵師が当人として描いたものであり、
その時の流行りや権勢により描かれているものである。
だから、描かれた当時はそっくりという評価を受けたことは
間違いないだろう。もしそうでなかったら、
絵とともに絵師はこの世から消えていたからだ。

現代は写真があるから
そういうことはなく、正しく伝えられると思っているかもしれない。

しかし、それも成り立たないだろう。
過去の写真は、白黒で実際の色がわからない。
この間の写真は、解像度が低くて鮮明ではない。
そして、今までの写真は3Dになっていないから、立体的に、
なんてことが起きるだろう。
写真といえども人間の求める細部をすべて満たすことはできないのである。

また、絵師の施主への気遣いの誇張、改竄は
現代では、デジタルデータの加工が行えるので
やっている技術が成功になっているだけで
結果、本質は変わらないことは否めない。

解像度をいくら高めても
当人を投射する以上、当人ではないという事実は否定できないし、
その肖像が当時の技術としてあるべき結果であることもみとめるべきだということも。

2013-05-28

万一

万が一、、
国会は、参議院の議員の半分の数を改編している。
それは、衆参同時選挙を想定して、
解散、選挙時に国政において、万が一が起きた場合に備えて
参議院を半分残しているとしたそうだ。

、、、万が一が起きたときに、残りの半分の参議院で何ができる?
そもそも、問題があるから、衆参同時選挙をしているのだから
万が一をその残りの参議院が万が一に対応するということは望まない、
今となっては、あってはならないということだと思う。

万が一、、、万が一というのだから想定できないことであり、
万が一に備えてということ自体がすでに万が一という論理破綻である。

言葉の真意、
そして、現代社会を考えると
万が一ということを考えること自体、
ある意味ナンセンスだと思う。

もし万が一が起きたら、
それはある意味、変革すべき大きな暗示という認識であるべだと僕は思う。

2013-05-27

不死

過去、不死への探求と同時に
不死になることがとても悲しい良くないという立証がされてきた。

医療技術の発達で長生きが実現できてきているが、

限りある人生だからその人生を
元気に生きられるときを大切に
もしに不死になると、知り合いはどんどん死んでいき、自分だけ取り残され寂しい

など言われてきている。
多くの人はそれを当然だと思う。

本当だろうか?
未だ不死の人間は存在しないし、この発言は不死になれなかった人の
心理学の「すっぱいぶどう」ではないだろうか?

死なないからこそ、相続を意識しなくていい
死なないが不治の病となっても、長く生きていれば医療技術の発達でなおるかも
周りが死んでいって、新たな若い世代と付き合えばいい
長く生きているからこそ、間違えない歴史伝承ができる

といいばかりのような気がする。
人間の考える道徳、、みなすべきだと強く思う。
当たり前、人道的、、それって本当なのというところから考えなおすべきだ。

2013-05-24

長文

学生時代、
語学系の試験の設問にある
長文読解。

確かにこの技能、それで培われる論理力は
色々と役に立つことは認める。

しかしだ、
ビジネスでみなさんが崇める’お客様’
そのお客様が長文読解で得られる回答通りの思考かと問われれば
きっぱり、、ノーといえる。

感性、思い込み、その時の空気で
言っていること、やっていることが変わる。

長文の内容通りに理解した上で
それに合うように答えをだした
それは、ある意味模範解答ともいえる。
しかしだ、そんな長文読解の能力などどうでもよく
’お客様’はなんと
「あなた、何言っているの?私の言っていることわかっているの?」
と言い出すことは多い。

ペンは剣より強い、、でも
金はペンよりも強い、、この事実のほうが、重要ではないかと常に思う。

2013-05-23

夢裡


むり、、夢の中という意味。

裡について考えたい。
裡、、、裏と同じ意味といわれるが、実際は大きく違う。
裡という文字が示すのは
見ている方向からでは伺えないことをさし、
その中といういみ、状態中といもいえる。
決して、裏側という単一的な意味ではなく、
他人からそれを見たときに、
表面に見えない、、ゆえに裏側にいるという意味で
裡という表現を使う。

夢裡    他人から見れば、こっちから覗けない裏側、、夢の世界
成功裡   他人から見れば、成功させている表面から見えないところで 

という意味である。

英語のニュアンスについて論じられるが
そもそも日本人はこの手の日本語すらできていないのに
他国の言語どうこう言える立場だろうか?!

2013-05-22

変遷


時の流れとともに移り変わること、、
時間の性ということだが、
この変遷には必ず人のマイナス面が伴う。

個々のレベルだと
「最近の若いものは、、、」
という発言だったり、

変わりゆく町に対して
「こんなの自分の知っている街ではない!」
と言い出したり、

昔を惜しむことの多くは現実否定だといえる。

でも思う。
過去を知っているということは
その変遷の時期に生きていた。
その変遷に対して、当人の作為、不作為があったわけで
惜しむというより、加害者がわではないだろうか?
若手を教育できない当人の能力
その街に対して、活気づかせることを何もしなかった事実
その自分の無力さを棚に上げて
変遷に対して文句をいうのはいかがなものか??!!

2013-05-21

程々


「お客様に最高の成果物を提供すべきだ」

建前的にはそうだろう。
しかし、それは無理であってはならない。と言い切れよう。

お客さま視点での最高の成果とは
無償で思い通りというところが極値である。
対して、
市場経済には
価値
原価
需給
というものが存在する。

無償で思い通りだった場合、
それを無償にさせるために犠牲になっている人は
無償どころか、犠牲になるし、
いいものはそれなりに価値があり、高いということが前提でないと
市場というものが機能しなくなる。

20世紀的な発想だと
市場原理は
いいものを市場競争をさらして
どんどん安くしていくことがなりたった。
その結果、地球規模での寡占独占が起きて
市場原理の破綻を招いた。

21世紀的にはそうではなく、
それ相当の価値を維持するために
市場を使う時代と思う。

ある意味、価値相応の程々に調整できるかどうかが
求められる。

今までの価値観、とりわけ日本のものづくりの発想では
難しいことといえるので、ある程度の自然淘汰が今以上に起きるだろうし
これまで最上だった価値が最低になることも
この程々の理解の上では当然となるだろう。

2013-05-20

紅皿


べんざらとぬかぶく 
という昔話がある。
ちょっと変わったシンデレラお日本版のような話だ。

それにしても
べんざらとぬかぶく
ってどういう意味を込めて
つけた名前かと思っていた。
まして、
主人公たるかわいそうな姉がぬかぶく
いじめる継母の娘がべんざら
ってどういうこと?って。

最近書籍を読んでわかった。

柳田国男の遠野物語では、同内容のことを
紅皿欠皿

他の地方では同様の内容の民話を
糠福米福

と呼ぶらしい

紅皿という名前が 音便化して  べんざら
糠福が    ぬかぶく

なるほど、
それぞれの地方民話伝承が、統合されて今に至るのか。

当時としては、
モノの名を人の呼称に使うことは多かった。
まして
綺麗な紅をあてた名前
幸運の福の字を入れた名前
はよくある話。
今となっては珍しいが名前になっているが、、

こういうことがわかると
日本の民俗学の面白さと自分では思ってしまう。

2013-05-17

打突


剣道の技の名称であるが、
打つ
突く
を正しく説明表現できるだろうか?

互いに物体をぶつける衝動である。
実は切るもそれと同じ属性で

突く は点
切る は線
打つ は面

と次元性の違いのようなものである。
その行為の結果で

貫通  特定の部位が損傷
分断  対象物が2つ以上に別れる
粉砕  対象物が復元不可能な単位に分散
歪曲  対象物が歪む、へっこむ

という事象が導かれる。

ダイヤモンドを突くと粉砕する
切ったつもりが、への字に曲った

行為と結果は1:1ではない。

やっていることは同じ
対象物に物をぶつけるという行為で
その瞬間が、突く、切る、打つ
その結果が、貫通、分断、粉砕、歪曲
の組み合わせである。

だから、剣道の技の名称の打突というのは意味として合っているが、
そもそも、剣って切るものではないのか?
なのに、切る以外で技を磨くって、、、
って根本の問題があがるんだけどね。

2013-05-16

俎上

批評・議論・考察の対象として取り上げる。批判することである。

あまり、使い慣れない言葉だけど、
その意味は最近では日常的になっている。

現代人は目に入る多くの情報を俎上に挙げている。
素直に受け入れることはない。
なんか、ギスギスした考え方のように思われるかもしれないが
現代教育の多くは、受けた情報を自分なりに考えさせるという
疑い前提である。

疑い、、それが批判の始まりになることなど自明の理。
手に入れた情報が俎上に挙がるような社会になっているのに
その社会に対して
心ない
ギスギスした
と有識者が’俎上’に挙げることってなんかおかしくない?

2013-05-15

気温


暖かい気温
寒い気温
って何℃なんだろう?

真夏日、猛暑日
という切り口30℃、35℃とある。
それは暑いという基準であって、
暖かいは、29度のことだろうか?

実はこれは人によって違うというしかない。
もっと言えば、真夏日、猛暑日が暑いという
日本列島における判断基準であり、
赤道、極点地帯からすれば、まったく異なる認識になる。

人間とって、暑いかどうか、
それは方言と同じで、生まれ育った環境によって変わる。
それも、ほんの少しの地域差でもあらわれることである。
だから、他人に気温について同意を求めることは
結構、難しいことであり、その問いかけが
相手への不快感につながっているかもしれないのである。

2013-05-14

付合


「人生の豊かさは、多くの人とどれだけ付き合えたかである」

という偉人の言葉がある。
過去の言葉で、今は逆も真実になってきている。
つまりは、人とどれだけ付き合わないかが人生を豊かにするということだ。

人付き合いは必ずしも、プラスになるとは限らない。
その人と出会ったために
・自分の時間が拘束される
・その人と知り合いというだけで他人からの評価が下がる
・その人から不利益な扱いを受ける
ということもあり得る。。。というより、現代社会そのことのほうが多いからこそ
公私をわけた付き合いが正当化されてきているとまでいえよう。

人との付き合いで
新しい価値観、見識が広がるというのは
情報取得の方法が未発達だったからであり、
今では、その人とわざわざ接しなくても必要な情報や見識を持ているようになっている。

人によっては
この事実を人間としてどうかな?と道徳観を言い出すが、
多くの人はそんなことを言っている人付き合うのは時間の無駄と思うのが実状とまでいえる。

個人、、、それは自分自身というより
他人を排除し続ける自己の確立という表現が正しいといえよう。

2013-05-13

三大


世界三大料理
世界三大美女

、、、たぶん、日本人が騙されている大きなことだろう。
三大美女という中、日本人しか、、、日本人でも知らない小野小町がいることから
どっかの商業的キャッチコピーの一人歩きだろうなって思いつく。

世界三大料理というが、
これもなんとなく言われているだけで
実際に、本物のフランス料理、、、しいてはトルコ料理を
食べずしてそう言われていることを信じているだけであるし、
世界三大料理をイタリア人に言ったら起こるだろうし、
入っている中国とて、怒る、中国が世界一の民族なんだから。

何事にもランキングトップ3を付けたがり、
それをいいようにビジネス的に使われ
踊らされてしまうのは
日本人の消費を扇動する構成要素って思うべきなのか??

2013-05-10

母数


情報処理、高度情報分析において
とても重要なものが母数といえる。
、、、というより、この母数こそ社会の正当性の根拠といえよう。

自分の都合のいい母数を作り出すことこそ、人間の主張の強さでもある。
子供がいう
「みんなが持っているから、僕も」
というみんなの母数は自分の知りうる範囲限定
から始まり、
CMで流れている
「シェアNo.1の製品」
のシェアって都合のいい母数を根拠にしているので
本当にそうなのか?って言う指摘は
その人と思う母数とは乖離しているからだこそである。

数字は嘘をつかない。
経営学やいろいろなセオリーで使われるが
嘘はつかないが、いくらでも解釈できるのもまた数字であり、
要は、自分の判断基準に基いてどれだけの自分にとっての真実の数字を
読み取れるか、、、
結局、自分しか信じられないことになるという帰着は変えようがないのだろうな。

2013-05-09

保安


治安と同義だが
公共の安寧のことで、一般的な警邏や取り締まり活動といえる。
多くの人が
「治安が悪い」
「物騒になった」
と騒ぐ。

しかし、それは公共レベルではなく、主観レベルである。
自分は守られる側と思い込んでの発言である。
対して、公安、つまり公共と考えると
その人を含めてすべて対象になる。

「治安が悪い」と騒いだ人が頻繁に職質されるようになる
「物騒になった」と言い出す人に、軽犯罪の観点で取り締まわれる。

ということも往々にしてあることだ。
そうなると一転して、
「善良な市民に向かって、、」
「なんて馬鹿げた取締だ」
と反対めいた発言にかわる。

自分以外をワルモノに感じる心根が
公安の観点で敵視されるという概念がない以上
これ以上の治安の向上はないだろう。
今まで、日本の治安が良かったのは
公共の福祉というか、
それぞれが社会を重じて自己主張せず、
控えめだったからでもある。
自己主張、意見が言えるということはある意味、
他人の自己を脅かす物騒な社会になったともいえるだろう。

2013-05-08

呼捨


小学校の担任が
「他人を呼捨てにしたら、体罰だ」
という方針で
~さん
~くん
を付けないで呼称したら、尻を棒で叩くということをされた。

その教えのまま、中学校に入ったら
「ばかじゃねー、さん、くんなんてつけるなんて」
って別の小学校から輩にからかわれた。

僕は担任の先生の教えを強く感謝している。
そして、そのことを追求して今の境地にある。

日本人は呼びつけするときに、
名字で行うが、それってありえないくらい失礼だといえる。
呼ぶのは個人なのに、名字は一族全体だ。
当人だけでなく、その一族に対して失礼だといえる。
名字で呼ぶ際には、敬称がないとだめだろうと思う。

呼びつけできるくらいであれば、
そして個人能力主義というなら、
個人を特定する名前で呼捨て呼称すべきである・、
そして、せっかく個人に名前があるのに
その名前をつかわないのは、
なんのために考えてつけたか、、効率的なことでもないともいえる。

名前、個人を特定するものである以上、
とりわけ親しみがあるなら、せっかくが親が付けてくれた
名前を呼ぶべきだろうといいたい。

人は個人と個人の付き合いであるのだから
名字というものを重視するのはおかしいし、
そもそも名字だって、明治以降の歴史のない文化でもあるのだから
そう重視する伝統でもないのだから。

2013-05-07

自炊


僕は自炊する。
そのことを、年寄りどもに言ったら
「独身だからしょうがない」
って言われた。

しかし、その認識は間違っている。
既婚の男性ほど自炊し
独身はまず自炊しないのが現状だ。

独身者は可処分所得が多いから
わざわざ自炊する必要はない、
買ったほうが安いし、時間もかからない時代だ。
対して、既婚者は
お小遣い制のうえ、
仕事の関係上、遅く帰ってくることや
共働きという自体から
必然的に自炊をせざる負えないと言われている。

時代は変わっている。
今までは当たり前と思われたことは
これからはレアになる。
いろんな意味で僕自身、
過去の常識をこなせる、貴重な存在になっていると思う。

2013-05-02

御幣


神具で、白紙を折ったひらひらしたもの、お祓い棒の先という表現がいいだろうか?

起源は神に捧げるものであったが、
今では、神の依代、ご神体、参拝者への祓具と多岐に使われる。
神道ではない自分には関係ないと思う人もいるかもしれないが
通貨、、紙状のお金を、紙幣という。
その幣はこの御幣が語源である。

神様からの賜りし紙という概念からの紙幣。
お客さまは神様ですも
ここに通じる。

身の回りのものはいろいろとつながっているんだなって
感じる事象のひとつといえよう。

2013-05-01

寄贈


相手に物を送ることがこんなにむなしい時代はないだろう。
大昔は
中国が日本の倭の国に金印を与えたり、
ローマが属州に、、市民に、、
近年だって
お歳暮
お中元
というものが普通だったが
今では、
何か意図がある
贈収賄の疑いを持たれることはやめましょう。
といいだす始末。

企業が寄贈をする際にも
株主が、そんな寄贈する前に還元や改革しろ
と、寄贈行為を否定することをざらになっている。

うーーん、
現代人、、いろいろなところで貧乏くさいなあ。
もらうあげるにがたがた言うなんて
器が小さい輩ばっかりだよ。
もらった分を倍返しする気概なくして、景気回復なんて、、、