2012-09-28

持分

共有や持分の認識が日本人は弱い。
というか、概念認識がちょっと異常。

共有するものに対して、
自分の持ち分の割合の権利というが
欧州的には、割合分の義務と負担が発生する。
多ければ多いほど、その責務があるという認識である。

割合分の権利という概念から少量でも
自分に発言、権利行使を認められていると言い出すが、
その割合分の責務を果たしているかというところには目を向けないのが
実情である。

この認識、日本古来からの認識ではなく
近代化するにあたり、長屋と集合住宅との認識を分けて
農地解放を進めた歪みであるだろう。
井戸には所有権はなかったし、
土地は世襲的に、お上から借りている認識だった。

個々の所有権ではなく、集団で維持するということを忘れている今の日本。

今の生活、社会概念が日本人古来の思いから
根本的に歪んでいるから、なんか住みづらいのでは
いっそ、温故知新の境地になるべきと思うことが多々ある。

2012-09-27

恩典

恩典?
恩典とは、めぐみとなるようなとりはからいのことである。

今となっては、特典という言葉が普通であるが、
成り立ちは、
売り手から買い手への施し、、恩典があり、
その恩典活動が当たり前になったので
恩典よりも特別な待遇、、特典を行うとした。
そして、その特典ということが今では当たり前になっているというところだ。

この言葉には2つの特徴がある。

価値のインフレと売り手の本音だ。

価値のインフレは
今でも、”超”、”極””メガ”のように
ある基準越えをする行動するときの修飾表現を多用する。
そして、一定期間経つと修飾表現すら一般化されるということで、
”特”という文字が強調修飾であったということである。

売り手の本音は
日本古来の「お客様は神様です」というが、
恩典の”恩”の文字は
上から下に見下す施しであるという意味、
結局
「仕方ないから、施してやる」
という意味をもつ。

特典の真意は
「しょうがないから、とりわけ気を使って施してやる」
という意味が内在するのだが、、
現代人のほとんどはそんな意味を考えてはいないという事実のほうが
日本語理解の難しさと思ってならない。

2012-09-26

文楽

もともとは、人形浄瑠璃専門の劇場のことであったが、
今では、人形浄瑠璃の自体をさす意味になっている。

さて、皆さんは人形劇と人形浄瑠璃の区別ができるだろうか?
その前提に浄瑠璃という意義をしているだろうか?

詳細な説明はwiki にでも任せるが
人形浄瑠璃は
国内では、重要無形文化財
国外では、ユネスコからお墨付きの 世界無形遺産
となっている。

ある意味、日本人が外国に誇れる芸能なのだが、
いざ日本人の多くはその内容を理解していないどころか
観たこともない人が9割をしめるのではないだろうか?

この事実を踏まえて思うのは、
この庶民が理解していない芸能を、
重要無形文化財、世界無形遺産に推したのは誰か?
逆に、これを庶民に理解させていないのは誰なのか?
という、国民、民意と関係なく
特定の意向で、日本を代表する文化とされる国体に何か違和感を感じる。

2012-09-25

所見

ある事についての意見、考えを述べることである。
意見とどう違うのか?と疑問がわく。

所見というと、客観的、専門的、信憑性が伴うが、
意見というと、主観的、個人的、感情的とニュアンスが取られる。

所見のほうが、納得性が高いときに使われる。

しかし、この表現自体、他の言語では理解できないところがある。
なぜなら、所見か意見かどうかは、
使い手の主観に委ねられているからであり、
決まったルールがないと言える。

~医師の所見では
~医師の意見では

一般には上記だが、それは職業への信頼、医師=信憑性という先入観であり、
医師の名前が○○だったとすると

~○○の所見では
~○○の意見では

だと、同じ人格でも、後者を選ぶことになる。

日本語の難しさ、、、いや日本人の肩書主義の表れを垣間見れる。

2012-09-24

気軽

気軽とは現代社会において、どういうことだろう。
遠慮なく
コモディティ
とか、いろいろと言うが、
対人マナーを守っている側を平気で愚弄できてしまうこの社会に
気軽でないところってあるのか?とまで感じてしまう。

社会が気軽すぎて、ありがたみが感じられなくなっている。
これは便利、心理的に安定というのは錯覚で
物事を順序立てて、序列をつけらなくなっている退化と思うべきではないか?

これからの社会を考えると
気軽であることがかえって危ういという認識を強めないと
判断ができない社会になってしまう、、っていうかもうなっているのか、、
自社は少なくても気軽を悪しきものとして緊張感をもつようにしよう。

2012-09-21

精進

一心不乱に努力する事ことである。
ではなぜ、肉を使わない料理が、精進料理なのか?
答えは
仏門の修行の一環として、菜食主義を貫く努力をしている表れだからである。

となった場合、日本古来の仏教観は現代の欧米の思想とは相いれないことが多々ある。

仏門の努力の活動の多くは、非効率、無駄が多く、
その非効率、無駄から自分磨きをしているのだが、
欧米的にはその行動自体を否定することになる。

また、外国に行ってわかると思うが、
肉が主食であり、菜物、穀物系は副食扱いになるだから
菜食主義の考え方自体理解できないことになる。

だから、欧米人の観光において
精進料理は、大豆を肉に見立ているトリックアートの
奇異の視点で、見ていることになっている。

精進するという行為は
ある意味、自分を高める行為であるが、
必ずしも他人から賞賛されるものではないし、
無駄な行動、奇行であるみなされることでもある。

まーー、そういう風に見られることにも耐えることが
本当の意味での精進かもしれないが、

2012-09-20

尽力

力を尽くすこと、、尽くすとは、、尽きるまでの意味で
今持っている力を使い切るという意味をもつ。

尽力する基準は人それぞれと思う。

ある目標に向かい、
当日に無理なレベルで活動して、翌日以降休んだり、体調不良を起こすことも尽力した
と言えるし、
毎日毎日、同じペースで活動し続けることを維持するということも
尽力するということになる。

日本は玉砕精神の賜物か、前者である瞬間的な無理をすることに価値を感じているが
外国では同じペースを維持するということに勤めていることに価値をもつ。

外国、とりわけ狩猟民族において、
大きな獲物をあげることは英雄視されるが、
毎回獲物をあげていることへは指導者、管理者への道が開く。

人生の最後であれば
尽力するという表現において、力を出し切ればいいが
拡大再生産のような循環型経済社会においては
日々のペースを維持できる自己管理こそ尽力と僕は思う。

2012-09-19

舳先

船の最先端の部位のことを示す。
舳 という字は訓読みで おもて と読むが、、
多くの人はこの字を舳先以外で使用することはないだろうし、
そもそも舳先と言わず、船首と言ってしまえば、事足りる。

舳先という言葉はもともとは
造船、、といっても手作りの時からの
船をいかにスムーズに前に進めるように作るかというポイント論で
舳先の存在、その重要性を語る際に充てられた言葉である。

今では、時代の舳先というように
渦巻く時代の最先端を進む比喩に使うことことになったりする。

あまり使わない熟語、
でも熟語として存在している以上
ある特定条件においてその概念が必要だから
生まれたわけであり、その意義を知ることが
人の営みの歴史探訪ともいえるような気がする。

2012-09-18

空想

その時点では実現されていないことに対し、の中で実現している場面を想像すること
で、、現代社会では、それを、妄想と言ってバカにしたりする。

それだから、今の日本は発展しないと言い切れる。
高度成長期の日本は空想の塊だった。
子供は、空想科学
大人は、アメリカンな生活を空想していた
政治家は、空想じみた政策を熱心に弁じた。

それでよかったし、そのいくつかが、現実になっている。
それを妄想と否定しないからこそ、いくつか現実になったいえる。

空想という発想の過程は
頭を活性化させて、新しい技術ややり方を導く。
だから
空想することを妄想と揶揄する輩のチープな能力を罰するくらいして
もっと空想を熱心に弁じられる社会にしたいものだ。

2012-09-14

研究


物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすることである。

研究も勉強も、それ自体では実は無駄なこと。
その研究や勉強でもって、生きているだけの価値を得られるかどうかだ、
別に実業の世界とまでは言わないが、
その活動、研究をすることで自分の生命活動を維持する対価を得ることができるか、
それが結構重要といえる。

その研究が他人が求めるものであれば、
他人は研究をある意味代行してくれているとみなして
自分の取り分を対価として研究している人に捧げることもいとまないだろうが
その研究が他人に役に立つかどうかわからないものであれば
それに報いることはしないだろう。

最近、独りよがりの研究が台頭しているし、
それを偉そうにする輩も多くみられる。
研究開発は、それをお行う活動を支援してくれている人への報いの気持で行うことをしないとならない。
その思いをある意味、今までの愛社精神や仕事における思いやりだったと思うのに
その気持ちは一体どこに行ったのか?

2012-09-13

波瀾

波のことというより、
激しい変化や曲折のあること。また、そうした事態。騒ぎ・もめごとなど
の意味で強いだろう。
波瀾に満ちた人生とかいうことになるように、

僕が感じていることで
誰でも人生は波瀾に満ちていると思う。
それは、月の満ち欠け、経済の周期などから、
取り巻く環境は常に一定ではないし、
身体的偏重から、精神的な感情昂りなどが起きるからである。

逆に僕視点でみて、平凡で波瀾のない人生を過ごしている人は
とてつもない先見性をもとに実現する戦略家か
類まれな天然ボケか
どちらかだと思う。

他人の人生を客観的に見て波瀾に満ちていると思うとき、
別の側面では、あなた自身の人生もまた波瀾に満ちていていると思われている
可能性が高い。
人間は自分視点でものを見るので
自分としては当たり前、そんなもんだということも相手にはなんて大きなウネリだろうと
映るものである。

2012-09-12

閉口

意味は
手に負えなくて困ること。また、そのさま。
言い負かされたり圧倒されたりして、言葉に詰まること
である。

閉口するとは現代人はあまり口にしなくなったし、
使ったとしても、黙っているという意味で使うことが多い。

手に負えなくて困ることは現代では閉口を使わず
トラブル中
火がふいた
超やばい
なんて、言葉で表現する多く、逆に
閉口だよ
って表現すると、相手に伝わらないことになるだろう。

実はこの言葉
閉口≒あいた口がふさがらない
となり、意味は類似しているのに、表現が逆となっている。
そのため、なかなか使いづらいという経緯をもつ。

現代人を含めて、日本人の一貫性の無さが導いた
廃れている熟語の一つと思ってならない。

2012-09-11

交雑


この字を英語にすると、、、
hybrid
となる。

悲しいもので、
日本人なのに日本語の漢字ではなく、
外国語のほうが理解がよくわかる国になっている。

異質のものを組み合わせ一つの目的を成すものなのだが、
今では、自動車の駆動技術が主の意味で
それにあやかった行為に、hybrid と使ったりする。

今では、hybrid という技術においては
日本が語源たる欧州に技術輸出しているようなものであり、

語源とそれを今の意義にする存在は
時代とともに変わるんだなあって感じる言葉といえる。

2012-09-10

手続

物事を行うに必要な手順
それがある意味昇華、異化されて、
あることをするのに必要な、一定の順序・形式に従った処置となる。

本来、手続きとは
物事を効率よく、もれなく行うものであり、
その行為は人の営みを助けるものであったが、
目的が異化されはじめ、
その行為そのものが制約条件になってきている。

つまり、
「この手続き通りに行えば、あなたの求める結果が導けますよ」
であったはずが
「この手続き通りに行ってください、そうじゃないと一切受け付けません」
が今の意味になっている。

人間、、とりわけ日本人の傾向として
効率化、有用化を実現させると
その実現方法が正になる。
そして、その実現方法以外のやり方を一切否定しはじめる。
別に、違うやり方があってもいいのだが、
効率、有用性を盲信してしまう結果がこれである。

確かに手続きから導き出せるものは効果がある。
しかし、その効果の意義を理解しないで盲信するからこそ、
新しい発想、異なる技術を導き出せずにいると思ってならない。

手続きで重要なのは、
その手続きの効果であり、手続き行為そのものには意味がない。
このことを強く自覚しないと、
その人の存在価値は手続きを行う
手段以外何者でもないといえよう。

2012-09-07

散文


定型的ではない文章
現代人の文章そのものといえる
東西関わらず
古来より文章表現に趣きがなくなってきている。
文章にせずとも、感情表現がいろいろな形でできる、
自分の意図することをうまく伝えられているから、
文章表現がなくても、、、
しかし、そうだろうか?
現代社会がいつも問題視しているコミュニケーションの問題。
それは文章表現力、、それに伴う感情表現力の問題ではないだろうか?
以前いた仕事場では
「あなたのお願いの仕方では伝わらないよ」
といわれたが、
言っている彼の表現は
「やらないなら、契約、法的手段にでますから、覚悟してください」
と笑って出していた、これいう文章での依頼ばかりで
相手の感情をりかいできるだろうか?
ギリシャ由来のポエム
中国の漢詩
日本の和歌、俳句
決められた定型のルールがあるからこそ、
相手に言葉以上のものを伝えられるという思いがあると同時に
この時代の言葉、文章は陳腐なものだなあって、書き手である自分自身悲しくなる。

2012-09-06

素体


数学的には、最も基本的な体
造形学的には、大元となる人型

そこから派生して、いろいろなところの基準となる概念に使われる。
しかし、本当にそれが素体なのだろうか?
ということが多い。

素体と思っているものも、ある切り口からでは成果物であり、
その素体を構成する原料がまた素体とみなされる。

素体、、=前提条件にあたり、
その素体の認識をどこに持つかで
自分がなし得たいものへのこだわりそして、責任感の深さがわかる。
こだわることはいいことと言いたいが、
その素体を信用できていないから
ビジネス的な利益を生みだせないという反面もあるので
ある程度、素体を信用できるうえでのビジネスを進めたいものと思う。

成果物が次のバリューチェーンの素体になる経済だけに、、、

2012-09-05

寓話

比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭す事を意図した物語のことで、
多くは、昔話、童話と同義に捉えられる。

子供への読み聞かせ、、とりわけこの手の寓話を親から子に伝えなくなっていることが
社会的犯罪の増加、DVの台頭が増えていると言われている。

学説や実証データもあるだろうが、
人間の営みを俯瞰的にみれば、
親が子供に教育することで躾、体罰の前に
この手の寓話を聴かせることで
子供の潜在意識にその手の認識ができるはずではないかって思ってしまう。

現存する、僕が知っている中でも結構な寓話がある。
その寓話ひとつひとつが
子供、、強いては人間にある規範を諭すために
創作された傑作といえる。

ある意味、寓話こそ人の道徳教育そのものと言えるので
もう一度、大人になってもう一度寓話を読みなおし、
子供にそれを伝えていくことができたら、日本人の道徳観は復活できるのでは?
と思う。

2012-09-04

山吹

山吹の意味は
・花の名前
・濃い黄色
・小判
という意味がある。

漢字だけでは想像がつかない意味になっている。

山が吹く、、、なのに、
全く関係がない黄色を思い出させる意味ばかりだ。
基本、
花の名前に当てた、山吹から始まり、
山吹の花の色から、山吹色、
その濃い黄色から、黄金、、小判への変わったといえる。

日本語の難しさをしますとともに、
英語と逐語訳できない悲しさもある。

上記はそれぞれ
Japanese kerria
・Sunlight yellow
・Gold coin(s)
と全く日本語とかけ離れた言葉になる。
語族的な違いは認識も大きく異なることがよくわかるものだ。



2012-09-03

正論

正論だけど、、
と言われた時点で、それは採用されない提案である。
正論は論、、つまり机上のものであり、現実に実行されるまで至っていない。

いろいろな切り口で
その論は正しいのだが、論である以上、過去の経験則を前提にしたものであり、
今の現状、これからの脅威に対しては未知である。

僕が思うに、正論だけど、と言われた以上、
それはすでに、正論ではなく、亜流になった。
ある意味、自然科学に裏付けされれば
正論から法則、原理に昇華するものであるから、

正しさは常に変わるし、人の価値観だって変わる。

正論はあくまで自己満足のレベルであり、
必ずしも正しくないという自戒を持たないと危ういことになる
自覚をもつべきと思う。