2009-05-29

影響

影が形に従い、響きが声に応ずる意から、
関係が密接で、他の物事に力を及ぼして、変化や反応を起こさせることを言う。
僕の考えでは、影響と因果は同義の意味をなす。

だから、
「影響を受けてしまって、、、自分には、、、」
という言い訳は許しがたい。
影響を受けているのではなく、
・どこが接点であり
・どんな作用で
・自分はどうなっているのか
という因果関係を掴まないと説明にならないし、
その因果関係がわかった上で、それからの対応もまた因果に組み込まれる。

社会生活は、影響そのもの人間関係活動と言い切れる。
誰かが動いたから、自分もある目的に向かい動きはじめる。
他人の影響という論理で考えたら、結局は輪廻して、自分が起点になる。
それが人間社会だ。

だったら、自分自身を常にどんな因果にあるかを意識して
影響を受けるという受身から、能動的な対応を心がけるべきだと思う。

2009-05-28

持論

あることに関して前から主張し続けている、その人独自の意見。
思うに、持論と’論’の字を掲げている以上、
論理性、論拠が必要になると思う。

「論拠なんてあるか、ただそう思うからだ!」
って口にする人も多いが、そう思うということの裏には
そう思うようになった、生い立ち、経験、があるはず。
そして、その自分の傾向を探ることこそ、自分自身を見つめることだと言える。

相手の思いに対峙して持論を掲げている人ほど、
自分自身を見ることに対して、怠惰だと思う。
相手自身も自分の意見を相手にぶつけるという行為に出るのだから
その意見の思い、論理性を示さなくてはならないために
いろいろと考えてくる。
その思いを怠惰な発想の持論という壁でふさいでいる。
結局は、当の本人の思いを他人に対して依頼するときに
同じ経験を繰り返してしまう。

自分自身の見つめなおすことにより、相手の論理もまたわかるようになる。
強いては、持論自身も相手の持論とシンクロする可能性が高まる止揚が起きるかも??

2009-05-27

流行

一時期に多くの人々に愛好され、世に広く行われることをいうのだが、
これは背理として、今までになく、これからも定着しないと思われる事象として
扱われていることと言える。

「流行に左右されない経営を目指す」
という言葉を聴くことがあるが、僕はそれはおかしいと思う。
趣旨として、安定しリスクのない運営のことをを指していると思うが、
資本主義経済において、恒久安定と言うものはないといえる。
景気変動や技術革新により、価値が相対的に変わるからだ。
その変動の予兆を示すものが、社会の流行であり、
その流行が
・なぜ流行ってきたのか
・そこに費やす費用はどこから出てきているのか
・その流行と自分らの関係は
を常に考え、対応策を講じることが求められると思う。

、、、っと言っても、これは経営だけでなく
私生活においても、流行、、社会の動きに合わせた
Life style を持つことが結果、ポリシーをもったその人の価値観になると思うけど、、

2009-05-26

映画

活動写真。
人類の代表する娯楽のひとつ。
個人的はとても好きな娯楽だ。

なぜ娯楽として人気があるか、
それは、得てして擬似経験を享受できるからだ。
人間の好きなことは、
他人のうらやましい行為を
自らは実際に行わないが経験、陶酔できることが多い。
自分のキャラをもつTVゲームなんてその典型例だろう。

実際に経験するほうがいいに決まっていると思うこともあるが、
人間はいざ自分に降りかかり日常生活を揺るがすものには
手を出さない。リスクが怖いからだ。
だから娯楽で擬似経験をしたがる。

僕のそうなのだが、
実際にはそこで使っている機略、せりふ、思考は
すぐに今の生活に応用してしまうことが出来ることが
他の人とちょっと違うところかもしれないけどね。

2009-05-25

比重

ある事柄が全体の中で占める割合のことだが、
人において使われる場合は、生活行動の比率を言うことが多い。
しかし、人における比重の計算という把握は難しい。

実際にその活動をしているように見えても
頭の中、、思考は別のことをしていることもあるし、
その場合の占有状況は体なのか、思考なのかは判断できない。

仕事を一生懸命していないという言葉で捉えてしまえば
そういえるかもしれないし、でも十分の成果を出していれば
それは否定、批判できたものどころか
効率よく自分の活動を分配しているということもできる。

ひとついえることは
人は常に一つのことばかり、
ずっと行ってはいられないということだ。
あることを行っていても、思考は
別のこと
先のこと
過去のこと
をずっと思い巡らせている。
これは否定できない。

だからこそ、
ほかの事を忘れるくらいにその作業に注力する、集中力。
他のことを、現在の作業に反映させる、応用力。
他のことと、今のことをスパッと切り分けられる、適応力。
これらの能力が、人の価値につながるといえる。

2009-05-22

清書

下書きなどをきれいに書き直すことを示す。
しかし、清書によって本当の意味で’きれい’になったかどうかは
疑問である。
きれいにするとはいえ、書き直すことには変わりはなく
今まで記してきたものとは別のものである。
だから、表現方法、文字の大きさ、見栄えから
受け手に汲み取って欲しい内容が変わってしまう可能性はあるわけだ。

清書する行為は否定しないが
清書を行う際の気持ちは
書き写すのではなく、
今まで以上のものを作り出すという心構えがなくてはならない。

清書は過去の自分の模倣ではなく、
今までの自分の経験を糧にした新たな創造でなくてはならない。

2009-05-21

裁判

裁判員制度が今日から始まるが、、、

殺人犯が無期懲役の判決を受けて際に
被害者遺族が死刑の求刑を求めて
上告するのは、殺人ではないのか?

お金を騙し取られたとして訴えて
だました相手から当該金額だけでなく損害賠償を請求するのはいいが
そのだました相手に支払い能力がない場合、
国への請求の矛先をかえるのは、詐欺ではないだろうか?

裁判という行為の前提、
「人は人を裁けない」
っていうことが、平気でまかり通っているが
ならば、裁判そのものが意味がないと感じてしまう。

そもそも、生物は弱肉強食だ。
自分は自分で護れ、
近代国家の社会契約の前提、
自分自身を自分の得意分野で護れる仕組みであって
護ってくれる仕組みではない。

それを多くの愚民が勘違いしているのが、解せない。

2009-05-20

通信

本来の意味は
通い合って(通じて)信頼を深める(信(よしみ)を通わす)
という意味だが、現在は電気通信と言い切れるものだろう。
その意味では、IT=通信と言い切っても過言ではないだろう。

しかし、これが面白いことに
通信技術が発達すれば、
本来の意味の通信が疎遠になってしまうことを
再認識しなくてはならない。

音声~画像~動画と通信技術は進化してきたために、
実際に会わなくても、会った感覚をITが補完するために
実際に通い合って(通じて)信頼を深めるということが
希薄になるということがおきる。

ある意味、移動における時間、労力、経済コスト削減ということにはなるが、
それも使い分けができると思う。

IT等の技術革新は、
今出来ることがそれに変わったのではなく、
新しく出来ることが増えたという認識をしたほうが都合がいい。

電話ならば、聴覚での通信
メールならば、視覚の通信
でも、対面ならば、、、握手等の触覚の通信も発生するので
大きい印象を与えられるといえるのだから。

2009-05-19

専門

専らあることに従事しているという意味。
これも不思議な言葉で、門ってどういう意味だろう。
ここにおける門とは、道場や研究所の中国の意味に通じている。
つまり、その生業で生きているという意味である。

でもこの専門という意味は現在社会ではあまり意味はないって感じる。
その専門の門という意味が強い社会。
つまり学者さまには、寄付や国家支援があるような時代であれば
庶民がわからないことをずっと行っていればよかった。
しかし、現代はディスクロージャーの時代。
自分が何をやっていて、それがどう有益なのかを示す必要がある。

だから、専門家だからそれだけをやっていれば言いという時代ではないのだが
多岐多様な技術があふれていて、それを行っているから
専門家きどりの輩が多すぎる。
別に直近で役に立たないのであれば、それは無価値に過ぎないだが、、

2009-05-18

奥義

学問・技芸の最も奥深いところとされる。
実はこの認識が大陸系たる中国、日本とでは異なる。
奥義に至るのは、
大乗ととらえるのは、大陸系
小乗ととらえるのは、日本
である

大乗とは、みんなでその境地に行こうとすることであり、
人民に無償で教える少林寺や国外に伝播する行動にでるのが、
対して、小乗では、その境地に至らないものには伝えないとしている
一子相伝、秘伝という行為によくあらわれている。

簡単に耳にすると、大乗のほうがみんなのため、
社会的だと思うかもしれないが、そうとは限らない。
その技術が危険性を伴ったり、
その技術がまだ未完成、これから自ら深めていかなと間違ってしまう。
ようなものある。

とはいえ、小乗でも、
閉鎖的、多くの意見を聞かないので
社会的、相対技術的には劣化していくだろう。

奥義というものをどこまでのものを奥義として
大乗、小乗で世に訴えていくかが、匙加減、
まさにその講義がその技術の奥義自身だったりする。

2009-05-15

道具

道具は道具だ!っていいたくなるだろうけど
この熟語をよく見てほしい。
道の具であることに。

辞書的な意味は
物を作り出すため
あるいは仕事をはかどらせるため、
また生活の便のために用いる器具の総称

となっている。
あまり「道」という意味は持っていないように感じる。
実は道という漢字自体が我々の認識と違うのである。
道の真意は
「目的に達するための何か」
という極めて抽象的な意味であり、
多くの人の認識している「道」は「道路」の短縮と思うべきである。

そうなれば、
剣道
書道
その道を極める
という言葉の意味も納得できると思う。

そして、今回の道具というものも
目的を達せさせるための具象物
という意味になると思う。

道具という、
さぞ簡単になっている言葉でも
いや簡単になっている言葉こそ
本来の意味、真意が眠っていると思うし
その原点回帰、初心に立ち戻る思考が
温故知新になると思う。

2009-05-14

戸惑

予想外の事に、どう対処していいかわからずにまごつくことをいう。
人生の多くは、戸惑いの連続だといえる。
すべてのことが予想通りではないからだ。

逆に予想通りになることの多くは、日常行為と同じといえる。
つまり、ほとんど無意識のレベルでこなされる
生理活動と同じであり、生物に刺激を与えることが極めて少ない。

戸惑いは、生物において思考するタイミングといえる。
とりわけ人間においては、人生の選択肢であり、
この先にむけて人生を決めることになる判断、決定の時である。

僕としては、戸惑いを否定する気はないだが、
戸惑っている時間が長ければ、長いほど
判断する材料、リスクが変化、悪化することも
念頭にいれることを心がけている。

いつも考えている、
これから考えなくてはならない
という発言は戸惑いというよりは
言い訳になることが多いと感じ、
活動ながらも常に戸惑うことが
生きる上では重要かつ必須ではないかと思う。

2009-05-13

邪魔

言葉はとても禍々しい2字の漢字の熟語だが、
実際には簡単に使われる面白い言葉である。
そして、思うにこの邪魔という表現を使う側のほうが
禍々しい感情をもっているといえる。

概ね邪魔という言葉を使われるときは
対象者はえてしてその邪魔と思われている事実に
気付いていないことが多い。
気付いていたら、それは邪魔という表現ではなく
抗争になるからだ。

無神経というか、気にしていない事実に
人は邪魔という感情を芽生えてしまうのが実情だ。
とりわけ日本語の多くの魔表現は
見えていないもの、理解できないものが多い。

自分がわからないもの
それが、人間の一番嫌うものっていることだと言える。
邪魔って言葉はそんな意味の現れといえる。

2009-05-12

選挙

民主主義らしく、組織、団体に所属する選挙権有権者が
権能をもつべき人材を投票によって選定すること。

現代社会秩序において
この規範を受け入れなくてはならないが、
この行為は決して正しい結果を導かないことは歴史も証明している。
ヒットラー、
ムッソリーリ、
サダムフセイン
彼らは圧倒的多数決で国家最高責任者になったが、
その国家が歩んだ道は有権者の思いとは異なる結果だったといえる。

近代歴史においても教科書に登場する人材は
選挙とは別の次元で時代の寵児になった人材が多い。

企業においても最高責任者を社員投票で行った企業が
今まで存在してきたが、それの多くは会社の解散か制度の廃止に進んでいる。

選挙という行為は意味がない。
なぜなら、投票権を持っているだけに愚民に選ばれる基準しかない
人材に革新的な行動が執れるわけがないからだ。

2009-05-11

有難

日本語の変革を示す代表的な言葉といえる。
ありがとう!
は感謝の意味です使われているが
この言葉はそもそも、
有難い=有ることが難しい=めったにないこと
という意味である。

めったにないことが自分に施されていることへの
八百万(やおよろず)の神への感謝の思いが俗事化されて
人に使われるようになったのである。

相手への敬意を示すという意味では
ありがとうという言葉、しゃれていると思うが、
本来の有るごとが難しいという意味に
有難いというと、現代社会では間違った用例のように扱われる。

本来の意味なのに、
それを時流で、否定するのが日本語かもしれない。
本質、核心を隠したがる民族の典型例とも言葉から読み取れる。
だからこそ、本質、核心にメスをいれることこそ
これからの社会において対峙すべきとではないかと感じている。

2009-05-08

興味

人の嗜好は人それぞれ。
その嗜好を生み出す引き金が興味という衝動といえる。
現代において、興味は自発的に発生することはない。
他人が起こすなんらかのプロモーション(促進)活動によって
その事象に衝動を覚えることが、現代の興味だといえる。

「なんだ、結局自己がないんだ!」
って、悪いほうに考えるべきではなく、
むしろ、その事実を把握して行動をとるべきだ。

興味ということは、
×興味をもつ
○興味をもたせる
という受身表現であること。

相手に興味を持ってもらうのではなく、
相手の衝動をいかに誘発させるかを意識した行動が
現在の社会行動として効率的といえる。
興味を持ってもらうのを待つプロモーションより
興味を持たせるためのプロモーションが正しい。

むやみやたらに行動せず、
・この事象に興味を抱く傾向があるのはどんなタイプに人間か
・逆にこういうことには興味を示さない
なんて考えて行動することになるだろう。

おや、、これは釣りの歴史と同じだ。
かかってくれることを待つ針に餌から
その魚の主食に似たもの、餌らしい動きをさせるルアーフィッシングに、、、
、、、人も魚も根本は変わらないということだ!

2009-05-07

矜持

プライドのこと。
ではプライドとは、
自信や誇りを持って、堂々と振る舞うことといえる。

その矜持を持つためには
自分の確固たる’何か’を掴まなくてはならない。
その’何か’をどう掴むか、わからない人間が多すぎる。
しかし、矜持やプライドを口にする。

矜持を持つために、
自分の自信となる’何か’、、、
技術
信念
思想
を他人に胸を張れるくらいの立証力、実証実績を
身につけて、常に維持し続ける意思と活動をしてこそと思う。

矜持を持つために、いろいろな行動を伴おう!

2009-05-01

回避

防御と同じように位置づけられる行動といえる。
しかし、僕が思うにはこちらのほうが高度かつ目的に忠実といえる。

防御とともに同じ目的であるならば
核心の現状維持が主是になる。
防御はそれに触れないようにしているが
回避はそもそも、その核心に当てないことである。

低次元的な回避は、
外的要因を認識してからの逃避行動であるだろうが、
それは防御よりたちが悪い。
なぜなら、当たってしまったら、防御行為をしていないので
すべて吹き飛んでしまう。
そんな回避は僕の思う回避ではない。

真の回避は
外的要因をすべて把握して因果の先を読み、
あたることがないようにして振舞うことである。
また、それ以上の回避は
外的要因そのもの自体に作用をかけて
こちらの核心への干渉をそもそもさせないという手法も挙げられる。

回避という、
一見、後手のような行動発想も考え方を変えれば
回避を円滑にさせるために、
先に行動するという先手の意味と捉えるべきである。

自らの核心を護るために
僕は、あえて先手で動くことが重要と認識している。