ある報道の御大の言葉がある。
「取材っていうのは、方法が三つあるの。盗むか、だますか、買収するかなんですよ」
すごく感銘を受けた。
取材という情報収集の本質は、こういうことだなあって。
一般的な庶民感覚だと、ひどいことって思うかもしれないが
そうやって仕入れた取材情報を平気な顔で享受している庶民は共犯の自覚がないのではないか?
例えば、
悪い噂のある政治家の家に盗聴器を仕掛けて
その悪事の会話を仕入れて報道すれば、
悪いのは政治家であり、その盗聴器を仕掛けた取材行為は問責外になりやすい。
その問責外にするのは、報道を観ている側が民意誘導されるからだ。
盗聴という悪しき行為を幇助しているのは聴衆ということになる。
その奥にあるより大きい悪意があればこそである。
知りたい悪意とは、、、創世記の禁断の果実といえる。
取材行為自身の多くは社会で言うところの悪意ばかりである。
しかし、それで得られる果実を欲するのが社会、民衆であり、
自分以外の悪がそれをすれば自分はその人のから受けただけであると言いたがる。
より悪い果実を手にしている存在がいるからこそ許されると勘違いする。
取材で得られる情報とは禁断の果実であり、
それをもらったからかじっているイブそのものが社会、民衆であり、
人は悪意からは昔も今も逃げられないと思ってやまない。
0 件のコメント:
コメントを投稿